[94] Untitled 2001-03-18 (Sun)

目が覚める。雨が降っている。雨の音で目が覚めたんだろうか。
時計を見るとまだ8時前。目を閉じて横になる。
10時頃起きる。ミカンをむいて食べていると電話が鳴る。
母親からだった。最近母親からしか電話がかかってこない。でなきゃ間違い電話。
会社から帰ってきて留守電が入ってるとまず間違いなく母親。
それだって月に1度あるかないか。
いつものように元気でやってるかと聞かれる。元気でやってると答える。
忙しいのかと聞かれる。これから会社に行かなきゃならないと答える。
電話の趣旨はこういうことだった。
この前近くのスーパーで僕の小学校時代の担任の先生に会った。
僕のことを覚えている、今度帰ってきたときには是非とも会いたい。・・・
先生は僕が中学校に入ったときに別な小学校に移っていった。
それがまた最近になって戻ってきたようだった。
あとは定年になるまでそこにいるのだという。
僕は夏のある日自転車に乗って友達と先生の家に遊びに行った。
冷やし中華を御馳走してもらった。
先生の息子は僕より1コ下で、木切れでゴルフクラブのようなものをつくり
僕らはそれでパターとグリーンの真似事をした。
その後その息子とは高校で一緒になり、なぜか彼もまた演劇部に入ってきた。
そんなことを1秒の間に全て思い出し、そして3秒後にはあっさりと忘れてしまう。
僕の目の前には食べかけのミカンが4分の1残っていて
でたらめに剥いた皮の底にはすることもなく神経質そうに取り除いた白い筋が溜まっている。
母親の声が遠い向こうの方から聞こえる。しばらくして会話が終わる。
話し終えた途端、また先生のことを思い出す。
普段接することのない、僕が過去に置き去りにしてしまった人たちの中にも
僕のことを思い出してくれる人のいることを考える。
そんな人がまだこの世には何人かいるのだということを考える。
そういう考えは僕に取りついて離れなくなって、僕の心に小さな穴を開ける。
それは時間的に空間的に精神的に身体的にどこかに繋がっている。
僕はその繋がった先を一瞬、ほんの一瞬だけ垣間見ることができる。
ぼんやりとした何かの姿を、感じとることができる。
だけど意識を集中しようとするとそれはふっと消えてしまう。
僕はただ穴の空いた感覚だけを持て余しながら、1日の残りを過ごすことになる。
着替えて靴を履いて地下鉄に乗っていつものルートを会社に向かう。
エレベーターに乗って10階で降りてドアを開けて自分の席のPCを立ち上げる。
メールを読んで自販機でコーヒーを買って周りの人と言葉を交わす。
そんな時にも穴は大きくも小さくもならず、ただそこにある。
いつか消えてしまう傷口のように、ただそこにある。
僕はいつものように仕事をして夜、会社を出た。
その後誰とも口をきくこともなく、シャワーを浴びていつも通り眠りについた。


[93] カレーミュージアム/K−1/ラーメン博物館 2001-03-17 (Sat)

小島さん・飯田君・澤田さんと横浜アリーナにK−1を見に行くことになった。
終わったらメシでも食おう、だったらアリーナからはラーメン博物館が近いからそこに行こう、
昼過ぎに横浜で集まるのなら、どうせなら昼も食べよう、カレーミュージアムに行ってみよう、
1日の予定としてはかなり盛りだくさんなものとなった。

昼たくさん食べるかもしれないから、朝は軽くと思って何かないか探してみると
木原君がイタリアに行ったときに御土産にもらったリゾットがあった。
クノールの粉末状になったやつ。あーこれでいいんじゃないと鍋にかけて
出来上がったものを食べる。芯が残っていてまだ時間が足りなかったなーなんて考えながら
何気なく袋を見ると表側の右下隅に「2 PORZIONI」と書かれてある。
その上には「CUOCE IN 15 MINUTI」とある。
これはたぶん15分火にかけてくれってことなんだろうな、だとしたらその下にあるのは「2人分」?
10分は煮詰めたものだから、味は非常に濃くなっている。
食べ終わって水をゴクゴクと飲んだら、腹に入れたばかりの米が
胃の中でみるみる広がっていくのが感じられた。2人分の米。やばい。
結局この日は1日中腹いっぱいだった。

横濱カレーミュージアムは関内にある。
新宿−渋谷で東横線に乗った方が早そうなのだが、乗り換え多いのがやだなあと
遠回りでも東京駅まで出てそこから京浜東北線というルートをとることにした。
進行方向に対して右側の扉の脇に立ってずっと景色を見てる。
古びた団地、みすぼらしい住宅の群、わずかばかりの土地に押し込められるように作られた児童公園、
ベンチ、ブランコ、水飲み場、積み上げられたタイヤ、そんなのが目に入る。

多摩川を渡ると川崎に入る。
それがどこであろうと僕は多摩川とその周りの広い公園を見るとなぜかほっとする。
野球のグラウンドがあって野球をしている大人たちを見かけるとそれだけで嬉しくなる。
日野と立川の境目、稲城インターチェンジ、二子玉川、これまでにいろんな多摩川を見てきた。

---
関内の駅で待ち合わせ。中華街の反対側の出口。程なく4人揃ってミュージアムへ。
パチンコ屋とゲーセンの集まったビルの7階と8階。7つの店が入っている。
昼時だから当然のように混雑している。各店から伸びた行列がうねうねと狭い通路を繋がる。
どこが先頭でどこが終端なのか、とんでもないことになっていて
人気のある店だと1時間待ちはザラ、僕らは比較的行列になっていない店に並んだ。
「トプカ」インドカレー&欧風カレー。インドカレーの店が他に3軒あって
あとはタイカレー、和風カレー、「よこすか海軍カレー」
ミュージアムの中の案内員はインドっぽい衣装を着ていて、
「トプカ」のウエイトレスはセーラー服だった(ちっとも若くはなかったが)。
並んでいる間、周りを見渡すとストーブにかけられた鍋のフタがコトコトと動く
展示物があったり(日本のお化け屋敷の技術はこんなところに活かされている)
天井では花火の映像と音が打ち上げられたりしている。

「トプカ」ではビーフと野菜の欧風カレーを頼んだ。
最初に運ばれてきたのは澤田さんが注文したビーフカレーだった。
澤田さんはスプーンを口に運んで食べてみるなり「おいしい!」と小声でそっと叫んだ。
もしこれが「おいしい!」でなかったらこれから先1日のイベントが全て
「今一つ」に終わってしまいそうな、そんな重要な一言だった。
家のカレーしか認めない、家のカレーが1番うまい、他のはいらない
普段からそう言い放ってる彼女(日本人なら程度の差こそあれ誰だってそう思ってるはず)
ですらおいしいと感じたのだから、よほどうまいカレーなのだろう。

僕のが来た。確かにうまかった。でも1000円という値段相応の普通のうまさだった。
感激するほどでもない。おそらく元の店のは絶品なのだろう、
だけどこういうところに出店して大勢の人が押し寄せてくるのをさばかなくてはならない、
回転をよくしなくてはならない、そんな状況がアダになってか出てくるものが雑になっている。
僕にはそう思われた。何にせよ小島さん・飯田君のペプシコーラもそうだったが
僕のレモンスカッシュは炭酸がほとんど抜けていた。あれはいただけない。
それでも、機会があったらまたここに来て他の店のカレーも食べてみたいものだ。

ククレカレーやボンカレーの昔のCMが上映されているコーナーがあった。
あれは見てて面白かった。

---
横浜市営地下鉄に乗って新横浜へ。僕は感想を述べる。
「イベントが1つ終わった。それだけでもう1日が終わったような気がする」
最近何をするにも1日1イベント。
社会人になると3つも4つもイベントをこなす日ってあんまりない。
昼の2時だというのに、夜の9時のような感覚。若くないなあ。

横浜アリーナへ。去年の夏国技館に見に行った新日本プロレスとは客層が違う。
ガタイのいいいかにもな人も多く見受けられるが、普通のOLのような人も割といる。
K−1はエンターテイメント、クリーンなイメージがある。
飯田君曰く「それは汗くささがないから、つまり寝技がないから」あーそういうことかと思う。

3時にアリーナに入って、始まるのは4時。パンフレットを買いに行く。
サポーターTシャツでかっこいいのがあったら買ってもいいなと心に決めていたのだが、
特にいいのはない。階段を上った2階の吹き抜けの側に吊り下げられ並べられたTシャツの群。
表しか見えない。表だけで判断したくない。
1階に下りて階段の下から裏側のデザインを見るということまでする。
色とデザインでいえば武蔵のが1番良かったのだが、いくらなんでも武蔵じゃなあとやめておく。

僕が初めてK−1をテレビで見たのは正月に親戚の家であって、
いとこたちがフジにチャンネルを合わせて食い入るようにその年の総集編を見つめていた。
あれは確か97年でアーネスト・ホーストが初優勝した年だった。
そんな熱狂的に見てたわけではないけど、アンディ・フグが死んだときはちょっと寂しくなった。

4時になって、特別リングサイドに芸能人が集まりだす。
当然、藤原紀香は来るだろうと思っていたら本当に現れ、
リングの下でカメラの前に立ってインタビューに応えていた。
僕らの席は選手や芸能人が控室から入場するための通路のすぐ近くだったので
(といっても真上から見下ろすことになるのだが)
藤原紀香をかなりの至近距離から見ることができた。背中の大きく空いた紫色のドレスを着ていた。
あーこれだけでも今日7000円払って見に来たかいがあったなあとシミジミした気持ちになった。

リングの真上には巨大なモニターが4面吊り下げられていて、
テレビで中継を見るような映像が映し出されている。
試合の合間合間、そこに時折リングを見つめている芸能人の顔が挟み込まれる。
今日は内田友紀が来ているようだ。ラモスもいる。
K−1の中継では必ずラモスの顔を見るような気がしてならないのは
恐らくあの風貌がテレビ局のカメラマンにとって見つけやすいということなのだろう。
後は誰がいたのか忘れた。

正道会館の石井館長の挨拶があった後で第1試合が始まった。
あ、その前にラウンドの変わり目にスポンサーの名前のついた
2Rだの3Rだのと書かれた看板のようなものを持って
リングの上をニコニコと歩くことが仕事の水着を着た女の人が6人紹介された。
1000人の応募の中から選ばれたのだそうだ。
これが1人アメリカ人ッぽい人をのぞけば
5人みなどれも同じ背丈同じ体型(凹凸の無い、スリムな)同じ髪形だった。
これは、誰かの趣味なのだろうか。

《シリル・アビディ vs グレート草津》
シリル・アビディは若手ながら人気のある選手のようで、
試合の始まる前にロビーを歩いてるとアビディがどうのこうのと言ってる声をいくつも聞いた。
10代はケンカに明け暮れて少年院にも入っていたことがある、という経歴。
そしてそれを彷彿とさせるストレートで勢い重視なファイトが受けているのだろう。
無軌道・無鉄砲で相手が誰であろうと行けるところまで行くというのは見てて気持ちがいい。

グレート草津は父親が有名なレスラーだという以外に良く知らなかったんだけど、
入場の時の音楽がブルーハーツの「英雄にあこがれて」だった。アハハハハハハハハ。
もうこれだけで僕は笑いが止まらなくなる。今どきこんなので入ってくるやつがいるかよ。
一方アビディはボーカルどころかメロディすらない、簡素な、だけど重量感のある
無機的なリズムトラックに伴って入場。
こういう入場の音楽はヒップホップなりヘヴィロックの方が強そうに感じさせるし
それが王道なのだが、アビディも草津もまだキャリアが浅いことから
その辺自由にいろいろ試せるのだろう。

試合はアビディが一方的に草津をボコボコにして1Rで終わるのだと思っていたら
全然そんなことはなく、草津はガードが固く5Rまで持ちこたえた。(判定で負け)
本来ならば「やーがんばったな日本人」ってことになるんだろうけど
全部で7試合あるうちの1試合目でいきなりこんなダラダラとしたものを見せつけられるのは
非常に不本意だった。暴れん坊アビディには「K−1のKはKOのK」っていうところのものを
きっちりと示してほしかった。1試合目で相手が格下の日本人ってことで
やる気が起きなかったのかもしれない。それに今日の大会はエキジビジョンマッチで
トーナメントじゃなかったからタイトルも賞金もなし、
というのが緊張感を持たせにくかったのかもしれない。
本当にこいつ強いのか?ピーター・アーツを2回も破ったのか?と疑いたくなった。

それにしてもブルーハーツじゃ負けるよなあ。
勝てない男の美学、負け犬の美学だもんな、歌ってる内容は常に。

《グラウベ・フェイトーザ vs 中迫剛》
中迫は端正な顔立ちで婦女子の人気が高いらしく、澤田さんも中迫目当てだった。
確かにかっこいい。僕もああいう金髪にしてみたい。
中迫は日本人らしく、華々しく2RでKO負けした。日本人はやっぱこうでなくっちゃ。

2試合目・4試合目・6試合目、タキシードのようなものを着てリングに上がって
「・・・対します青コーナーは、」と司会(?)をしたのは関根勤だった。
僕としては藤原紀香よりも関根勤を見れたことの方が嬉しかった。
誰かの書いた紹介原稿を、紙を見ながらまじめに一本調子で読み上げていった。
ああ、こういう時は役に徹して、長嶋茂雄の真似なんかやらないんだなあと感心した。

フェイトーザはブラジル出身で極真空手をやっている。
入場の時「後ろにいるのフィリオじゃねえか?」って僕の背後の席にいた人が騒いでいたが
どうなのだろう。そんなわけないか。
極真空手出身の選手を紹介するとき必ず、胴着を着てもくもくと何人かで雪山を走る姿の映像が
伴うのだが、あれはなんなのだろう。あれが極真空手に対して人々がもつイメージなのか。

《<ステファン・レコ vs ユルゲン・クルト》
クロアチア出身のユルゲン・クルトの勝ち。
大学でロシア語をやっていた僕はどうしても元共産主義国の人を応援してしまう。

《レイ・セフォー vs マイケル・マクドナルド》
個人的に今回最も興味を持ったのがレイ・セフォー。スキャットマン・ジョン系の
半分おマヌケが入った音楽に合わせて入場、時折そのリズムに合わせて体を動かす。
サービス精神旺盛、おちゃめなお調子者ってところか。
ファッションショーのモデルもやってたりするらしい。
とにかく佇まいがファンキーで、なおかつ強かった。
「褐色のスナイパー」と紹介されていたマイケル・マクドナルドをあっさりと料理。
今後も目が離せない。この人の出るときにはまた見に行きたいと思った。

《ニコラス・ペタス vs ピーター・ヴァルガ》
ペタスも極真空手出身で、大山倍達の最後の内弟子らしい。
紹介のビデオがモニターに映し出されたとき、流暢な日本語でインタビューに応えていた。
青い目のサムライという扱われ方。僕よりキレイな日本語を喋っていた。
本当は日本人なんじゃねえか?顔が濃いだけの。
入場の時は右翼の街宣車が喜んで大音量で流しそうな音楽がかかってた。

《ピーター・アーツ vs ミルコ・クロコップ》
本日のメインイベントの1つ。ピーター・アーツはアンディ・フグと並んで
90年代半ばから後半にかけてのK−1人気を形作ってきた人であり、
僕も「あー今日やっとピーター・アーツを生で見れるねえ」と内心喜んでいた。
・・・のであるが、見終わった後の感想としては
「ああ、この人はもう過去の人なのだなあ」ただそれだけ。
これも5Rまで続いたのだが、見どころらしい見どころは一切無し。(判定でアーツの負け)
何かっちゃあ両者歩み寄って抱きあって、ブレイクが入っての繰り返し。
面白くもなんともなかった。がっかりした。
でもアーツはかっこいいといえばかっこいいんだよなあ。

最初のうち、場内の多くの人が至る所からフラッシュ撮影をしていて
何の盛り上がりの無い淡々とした試合なのに熱気だけは妙にあるという変な雰囲気だった。

《ジェロム・レ・バンナ vs マイク・ベルナルド》
今最も強い2人のカード。もうこれだけが今日唯一K−1の醍醐味を味わわせてくれた。
始めからハードパンチの応酬。2Rでベルナルドがバンナをリングに沈める。
この時初めて場内の人が立ち上がって心からの歓声を送った。
・・・のであるが、ベルナルドが決定打を放ったのは2R終了時のゴングが鳴ったあと
であることが判明。試合を続行することになってこのときまた場内が盛り上がったのだが、
「選手も体力を消耗しているのでここで3分の休憩を挟みます」というアナウンスが入って
その3分を皆固唾を飲んで見待っている間、バンナのセコンドはバンナと口論した末に
強引にグローブを外してしまう、そしてタオルを投げてしまった。
「あー」(なんだよそれー)というブーイングの声があちこちから沸き起こる。
何だか思いっきり水を差されたような釈然としない結末を迎えた。
これはこれでがっかりした。ベルナルドがバンナをKOでそのまま終わってたら
意気揚々とアリーナを後にすることができたのに。
(この日記を書いてるのは20日(火)であるが、ゴングが鳴ってもパンチを繰り出していた
ベルナルドの反則負けになるのではないかという説がスポーツ紙に出ているようだ。
もっとはっきりしない。嫌だなあ。ルールが厳密なものとしてあるのはいいことなんだけど)

---
アーツの試合の前にアリーナの付近に車を止めている方は至急どかしてくださいとの
アナウンスがあり、その7台の車とはベンツ・プレジデント・・・とそうそうたるものだった。
ベルナルドの試合が終わってアリーナの外に出ると、その7台の高級車がズラッと並んでいた。
そしてその車の前にはもうどう見ても「組」関係者と思われる人たちが直立不動の姿勢で立っていた。
それらの車と車のわずかな隙間をぬって進まないことにはさらにその外には出られない。
手が触れてしまっただけでも大変なことになりそうだし、
万が一転んで傷でも付けた日にはどこかに連れ去られてとんでもない目に遭わされそうだった。
小心者の僕はびくびくしたままそーっと通り過ぎた。

ラーメン博物館へ。アリーナからは歩いて10分もかからない。
同じようなことを考える人はきっと大勢いることだろう、と急いで行く。
僕らが入って1軒目の店で食べ終えたころには各店の行列も増え、
「入場制限始めました!」との声も。

ここは昭和33年の雰囲気を残すというコンセプトがあるようで、
9軒のラーメン屋が入っていることになっている
架空の商店街のディテールへのこだわりが半端じゃない。
安いバーの並んでいる一角は「青森にもまだこんな店いくらでもあるよ!」と
思わず言いいたくなるぐらいそれらしかった。ホステス急募という貼紙が破れかけてたり、
見上げるとそれらの店の2階の物干しには黒いシュミーズが干されていたりする。
映画館には「地球防衛軍」と裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の看板が。
あれはたぶん保存されていた本物を買うか借りるかしたのだろう。
ここはカレーミュージアムよりもテーマパークとしてはしっかり作られていて、
たぶんラーメンを食べることはなくてもしばらく飽きないのではないかと思う。

2軒は最低行こうよということになり、1軒目は澤田さんの強い主張で
旭川ラーメンの店「蜂屋」へ。どの店もハシゴできるようにミニラーメンを用意していて、
1軒目ということもあって、4人ともミニラーメンに。
醤油系のいたってオーソドックスの味だったが、
毎週食べていても飽きないようなしっかりとした味だった。合格。

2軒目は僕が「味噌ラーメン食いたい」と言いだしたため、札幌の「すみれ」に。
ここがどうも1番行列ができるようで、30分以上待たされた。
問題はここ。食べ終わった後の率直な感想としては「これってうまいのだろうか?」
店を出て恐る恐るみんなどうだったか言いあう。
脂ぎっててちっともおいしくないよね、というところに落ち着く。
澤田さんだなんて「バリ島で飲まされたハーブティーのような後味」とまで言いだす。

98年の夏に札幌に行ったとき、泊めてくれた友人とこの近くのラーメン屋に
何気なく入ってみたら白味噌のスープがとんでもなくおいしく、別な店を試す気にならず
次の日もその店に行って同じラーメンを食べた。すげえなあ札幌は、とその当時の僕は唸った。
そうでもないんだな、ということがやっとわかった。

混んでるしもう1軒は無理だろうと、ラーメン屋巡りはそこで終了。
おでんやモツ煮、串揚げの屋台があったので仕上げにビールを飲んだ。
ビフカツと赤ウインナーの串揚げをオーダーする。
御丁寧なことに「ソースの2度付け禁止」との注意書きが貼ってある。

その後さらにアイスも食べた。ボンボンアイスという風船の中に入っているアイスを
歯で押し出して吸い上げるやつ。正直なところを言うとこれが最もおいしかった。
小島さんはミルメークという牛乳にその粉末を入れるとコーヒー牛乳になるやつを
懐かしい懐かしいと言って買っていた。給食に付いてきたのだそうだ。
僕も飯田君も澤田さんも見たことが無い。これは世代の差なのか、それとも育った土地のせいか。

---
小島さんはこの前来たとき「一風堂」のラーメンを食べたのだが、
それはものすごくうまかったそうだ。とんこつ。
腹にはもう入らないが、うーん食べたい。

K−1はイマイチな試合ばかりだったが、今日1日あれこれ非常に満喫できた。
普段の僕の2カ月分ぐらいのイベントがあった。
満足満足。ニコニコ笑う瞬間も多く、
「岡村君の無邪気な笑顔見るの久々だ」とまで言われる。
「普段会社で絶対笑わないからなー」

たぶん2カ月分の笑顔を使い果たした。


[92] 時々無性にたわいのない嘘ばっかりつきたくなることってないですか 2001-03-16 (Fri)

5時半の定時が来るのを待って、会社を出て渋谷へ。
地下鉄の階段を出たところで待ち合わせ。3人揃ったところで歩き始める。
Parco へと向かう坂を上っていく。アジア風の雰囲気を持った店に入った。
あと3人来ることになっている。席についてしばらくぎこちない会話を交わす。
「遅れる」という電話が入って、「とりあえず始めちゃいましょう」誰ともなくそう言いだす。
ピッチャーを軽く2杯空けたところで彼女たちは現れた。

合コンの常として自己紹介から始まった。
どうせ2度と会うことないしな、と僕は最初から全部嘘で通すことにした。
「どうもはじめまして中本と言います。今年7年目で29歳です。
趣味ですか?そうですね、趣味といっていいのかどうかわからないんですが
日曜日に小学校のグラウンドで子供たち相手に野球を教えています。
え?ああ、高校時代はショートで。夏は県大会ベスト16。それが限界ですね。
いやー、その後はやってないです。大学でも最初は続けようかなって思ったんですけどね、
あのー変な話なんですけど、うちは父も兄も野球やってて、
で、もういいかなってふと思っちゃって。野球の強い大学じゃないし。
え、大学で?会計学です。・・・簿記ですか?持ってますよ3級ですけど。
必須なんですよ単位取るための。そう、うちの大学学部ごとに寮を持ってて。
キャンパスは一緒なのに。珍しいでしょ?珍しくない?
でね、資格試験の前になるとみんな電卓叩いて。カチャカチャカチャって。
2人部屋だったんですけど僕も同室だったやつも無言で、ひたすら。
寮全体がカチャカチャカチャって。ま、人によってはゴムで音の出ないやつですけど。もちろん」

そんなところから始まって、最近事故って車をなくしただの
忙しい時期には200時間残業しただの
バミューダ沖でスキューバをしたことがあるだの
学生時代にドームでバイトしてた関係で中畑のホームランボールを持ってるだの
そんな嘘をつきまくって、出身地はそれでも青森であるとところどころ真実を交えて
だけど母親の実家は漁師で、僕もイカを釣る船に乗せてもらったことがあってという話をでっちあげて
その後ずっと青森の夏の海だの船酔いだのランプだの無線だの針が太いだのイカが透明だの
持ってる知識をフル動員して僕は半径1mの間にちょっとした虚構の世界を築き上げた。
僕は僕の横にいて話を聞いてくれた人とあんまり目を合わせようとせず、
ずっとうつむき加減で喋ったから楽だった、いくらでも嘘をつくことができた。

ああ、あの人は僕の話をどこまで信じてくれただろう?
僕のことは印象に残っただろうか?
帰りの電車に1人揺られながら、僕はそんなことを考えた。

・・・というのは嘘です。ほとんど。でも一部本当のことが混ざっています。

帰りの電車の中で、方向が一緒の人がいて、
その人が石神井公園の近くに住んでるというから僕は
荻窪から近いんで自転車でよくその辺まで行くと前置きをした上で
「知ってますか?石神井公園ってワニがいたらしいじゃないですか」という話をしてみる。
「ワニ!?」とその人は驚く。
「そう、ペットショップで最近なんでも売ってるから、イグアナとか売ってますよね、
そんで小さな10cmにもならないワニを買った人が
家で育てているうちに大きくなってしまってどうにもならなくなって春、
真夜中にこっそり捨てにいった。そしてまた大きくなってしまった。
で、池の異変に気付いた市の職員たちがある秋の日に
やはり真夜中にワニ狩りをした。有名な話ですよ」
「へー。そうかあ、そうなんだあ」
「すいません。嘘です」
「・・・」
「・・・じゃあ、そういうことで。さよなら」
「・・・さようなら」

・・・というのも嘘でした。

でも石神井公園にワニがいたという噂はどうもホントのことらしいです。


[91] 僕が日中部屋にいないことを知っている近所の人が 2001-03-15 (Thu)

夜、家に帰ってきて着替えているとき
CDラックから1枚CDが飛び出ているのを見つけた。
キャロル・キングの「つづれおり」
最近この辺り(ラックで言えばアメリカンロックのB−D)のCDは聞いてないのに
どういうことなのだろう?と不思議に思った。
触ってもいないCDがしまいかけの状態でほっとかれてることは普段の僕からすればありえない。
きちんとケースの背が揃って並んでいること。それはそんな手のかかることではない。
これまで、なぜか1枚だけ今回のように抜き取られる途中で止められていたような
そんな状態に気付いたことはなかった。

最初、泥棒に入られたのかと考えた。ピッキングの被害が急増しているのを思い出す。
でも調べてみると銀行の通帳が無くなってたりはしない。
地震で揺れてそれにピョコンと1枚だけ反応した。
この部屋に住みだしてから何度か小さな地震に遭ったがラックの中のCDはビクともしなかった。

僕がサラリーマンで日中は部屋にいないことを知っている近所の人が
こっそり忍び込んでいるのではないか、そんなことを考えてみた。まさかね。
オートロックでも何でもないし、可能性として考えられなくもないが、
実際にそんなこと起こりえるのだろうか。
(こういうのを真剣に疑いだすのが分裂病の始まりなんだろうな)

今日はたまたま何かの加減でこうなった、というだけのことなんだろうけど
今のままではこの部屋はいつか本当に泥棒に入られてもおかしくはないなーと思った。
だけどこの部屋では何をどうすることもできない。防ぎようがない。

---
自分の家が火事になるとは思えない、だけど火災保険には一応入っておく、みたいな
そんな心積もりがそろそろ必要なのだろうか。20代も後半に差し掛かって。
生命保険・傷害保険も全て断わってきたが入ったほうがいいのか。
考えてみるとかなり面倒くさい。


[90] 数学の日 2001-03-14 (Wed)

今日は「数学の日」なのだそうだ。円周率「3.14」にちなんで。
それでその円周率は小学校では「3」として教えられるのだそうだ。

いいのかなあ、そんなんで。バッサリ切捨て過ぎではないだろうか。
「2πrの2乗」とかいっていたものが
「6rの2乗」って言ったりするようになるのだろうか。
だとしたらなんだか味気ないなあ。それ以前に数値的に正しくない。
小学校レベルだったらそんな細かいこと言わなくていいということか。
でもかなり違和感を感じるなあ。

僕は高校時代数学ができなくて苦労した。追試を受けることもあった。
計算問題ぐらいならパパッとできるのだが、
話が抽象的になっていけばいくほど理解できなくなっていった。
微分積分も最初は「面白いね」と感じていたものの後半さっぱり分からなくなった。
数学ができてたらなあ、と今でも思う。進路が変わってたな。
僕はそもそもは理系に行きたかったのだが(ロボットとか人工知能の研究がしたかった)、
あまりの数学のできなさ加減にあっさりとあきらめてしまった。
頭の構造というかものの考え方が超文系型なので
それはそれで正しい選択だったのだが。

受験数学はお手上げだったが、数学自体は好きだ。
無限小数や虚数、微分・積分について初めの1時間イントロダクションを受けたとき
世界の構造を解き明かされたような、
この世界を数学的に解き明かすことは可能なのではないかというような、
そんな知的興奮を多少なりとも感じることができた。
2の平方根であったりπであったり、数としては非常に意味のあるものであっても
絶対に割り切れない、どこまでいってもキリがない数となってしまう
そしてそれでいてでたらめに数字が並んでいるのではない、
といったことに対して僕はある種神秘的なものすら感じた。
きれいに整数や、少数となっても割り切れてしまうものの方が少ないのだということに
僕はこの世界を成り立たせているものの性質を感じとった。

πはπであって決して「3」というような単純な数ではない。
そのことを中学や高校になってきちんと教えてくれるのだろうか。

結構いろんな人が言っていることではあるが、
数学というものは自然科学の中では最も美しい学問である。僕もそう思う。
僕自身絵が描ける人間ではないし、有名とされる絵画でも
これって何がいいんだろうと悩むこともある。
それでも全体的に見て、離れたところから見ている限りにおいて
どちらとも美しいものであるという印象を抱いている。

数学界で天才とされている人たちの伝記はどれも面白いっていうのもある。
アインシュタインやゲーデルなんかその典型ですね。

---
僕はこの会社で何人かの人から「えっ岡村君って理系じゃなかったの?」
と言われることが何度かあった。学生時代何を専攻していたのかよくわからないが
院卒らしいから理系なのだろう、ってところか。
人によっては「理論的にものを話すから」とまで言われた。
え!この僕のどこが?と不思議に思った。
その瞬間瞬間の感性のみで考える人間だし。
「理論的だ」と感じたとしたらその人は騙されてますね。
僕自身には騙してるつもりはないですが。

数学の時間で最も苦痛だったのは証明問題で
きちんと手順を踏んでやっとのことで「A=A」というのがまどろっこしくて仕方なかった。
「だってさあ、この図どう見たって90度じゃん」とか
「この問題は1度きちんと解いたことがあります。そのとき僕の中では「証明」されました。
それを暗記してもう1度書かなくてはならないのですか?」とかそんな態度。
数学には向いてないですね。

---
2次方程式の解の公式をまだ覚えていますか?
とっくの昔に僕は忘れてしまいました。


[89] 竹芝の新社屋に行く/東友会 2001-03-13 (Tue)

2年目ともなると会社の何らかの委員会に部署の代表として送りこまれるようになる。
僕は東友会と呼ばれる社内イベント係を担当することになって
今日はその初めての分科会があった。

東友会は3つに分かれていて、5月の新人向け運動会と12月のクリスマスパーティー、
そしてもう1つがその2つのイベントの間に開催する「新イベント」となっている。
僕がアメリカ出張に行ってる間に全体会があったようで
そこでパート決めが行なわれて、僕は「新イベント」に割り振られていた。
運動会は5月にやってしまえばそれで1年の仕事が終わってしまうし、
クリスマスパーティーは比較的(あくまで比較的)華やかな雰囲気がある。
それにこの2つは毎年同じようなことをやっているので
以前のノウハウを踏襲していけばそれなりの形になる。
しかし「新イベント」は自分たちで企画を立ててそれに合う業者を探してと
手間暇かかるから尻込みする人が多かったのではないか、ということなのかなーと思った。
まあ前年通りのことを繰り返すのもモティベーションが上がらんだろうしなあ
イベントを企画する経験というのも1度ぐらいやってみると面白かろう、
そんなふうに前向きに考えることにした。

今日の会合は竹芝ビルにて行なわれますというメールが来た。
僕は地下鉄を乗り継いで浜松町まで行って、完成以来初めて新社屋に足を踏み入れた。
「へーきれいなもんじゃん」と思った。地味は地味であるがきれいではあった。
何がきれいかといえば受付のお姉さん2人がきれいだった。
うちの部署が入っている茅場町のビルの1階受付には
うちの会社とは全く関係のない○○Tデ○○の受付の女の人が座っていて、
その人たちよりきれいだと思った。どっかからか派遣されてきてるんだろうけど
いいなあこれだと嘘でもモティベーション上がるなあと思った。
1階はミーティングルームがいくつかと小さなコンビニのようなもの、
奥の方には健康相談室まであった。

自販機を見たら噂通りデビットカードしか使えないようになっていた。コンビニも同じ。
新しい社員証はセキュリティチェックに用いられるだけでなく
キャッシュカード・クレジットカード・デビットカードと多機能なもの。
これはこれで最近の風潮なんで取り残されるよりはいいんだろうけど、
忘れて来たり無くしてしまったら、社内でジュース1本すら買えないのはどうかと思った。

4−1の会議室で、とメールにあったのでエレベーターに乗って4階で下りたのだが
どこにその会議室があるのかわからないで困った。廊下には部署の名前しか掲示されていない。
各扉もそう。普通どこに何の部屋があるか書いてあるよなー。
手当たり次第に扉を開けてフロアを探し回るのも嫌だから
1階に下りて受付のお姉さんに社員証を見せて
「すいません4−1の会議室ってどこですか」と尋ねてみた。
こういう質問はあんまり例を見ないものらしく、フロアの地図を探し出したりで大変そうだった。
とりあえず話しかけてみたくてでたらめな質問を思いついた、
そんな下手なナンパのようで恥ずかしかった。

「新イベント」を考えなくてはならない。
今日は引継ぎということもあって去年出てきた企画の例を教えてもらった。
そこには「ビアホール貸し切り」というのがあって
「いいじゃんこれ。名を捨て実を取る。これで十分じゃん」と最初は思った。
でもよく考えてみるとこのイベントをやっている間、僕はあちこち忙しく動き回ってて
ビールを飲んでいるどころじゃない。他の人たちが飲んでいるのを横目にしながら。
いかんねこれは。しゃくだ。却下。
ちなみに貸し切ろうとしたビアホールは新橋のバドガールの店だったそうだ。

イベントって言ったとき僕が最初に思いついたのは
葛西臨海公園の水族館を貸し切る事だった。
都内の水族館では1番居心地のいい小奇麗な水族館だと思う(イルカのショーは無いけど)。
何百人以上ならば貸し切ることが出来ますと書かれているのを
施設のどこかかパンフレットの中で見た。
僕的にはそれをやりたいんだけど、そんなのあんまり興味を持たれないだろうし
会社から遠い、人が集まらない。

「2001年宇宙の旅」というキーワードを思い付くものの内容のイメージが沸かない。

一昨年の花やしき貸し切りみたいな遊園地系が無難かねえ。

ということで企画を広く募集します。
なんかないでしょうか。実現不可のものでも全然構いません。
どうせボツになるのなら笑えるものがいいですね。
まともなものもOKです。
採用された方には、・・・何かあるかも。


[88] コンピューター占いの結果に縛られて 2001-03-12 (Mon)

学生時代のある秋の日、近くの女子大の学園祭に出掛けた。
こじんまりとした大学のこじんまりとした学園祭。
入り口付近ではフリーマーケットが開かれ、
中庭ではテニスサークルの女の子たちがおでんを売っている。

教室をブラブラと回っていると、知り合いの女の子に呼び止められ
「占いやってるんだけど、やってってよ」と言われた。
貼紙を見ると「電子計算機研究会」と書いている。
確か彼女の所属しているゼミがそういう名前だった。数学科。
何も考えず条件反射的に僕は「いいよ」と答えている。
受付に座ってた子にお金を払って、
紙切れに名前と血液型と生年月日、生まれた時間帯とを書いた。
知り合いの子に「はい」と差し出すとそれをコンピューターに向かってる
また別な子に手渡す。カチャカチャと打ち始める。
僕は焼き鳥を食いながら結果がプリントアウトされるのを待った。

白い紙が出てきた。機械的な文字(当たり前か)でそこにはこう書かれていた。
・・・といけばいいのだが、そこにあったほとんどのことを僕はもう忘れてしまった。
それでもその中には忘れようにも忘れられないものもあった。2つある。
「あなたの人生は20代30代と不遇ですが、40代になって持ち直します」
「あなたの向いている職業は水商売です」

ショックだった。人間の占い師に告げられるのではなく、
NECの古びたパソコンに乗っかった簡単なプログラムが弾き出したものだっただけに
なおさらショックだった。
他の段落と全く同じ何の変哲もない調子でその2つの文が混ぎれこんでいた。
だけど僕にはそれがくっきりと太い文字で浮き上がっているようにさえ見えた。
「そうかーそうなんだー」と僕はその事実を冷静に受け止め、
ふらっと立ち上がり「ありがと」と呟いてその部屋を出た。

僕は40代になって水商売をしてやっとそこそこの幸福を掴まえるのだろうか。
40代になってやってる水商売というと僕にはスナックの経営者ぐらいしか思い浮かばなかった。
社会というものに対して想像力の貧困な僕は今でもそれしか思い浮かばない。
東京から都落ちして青森に逃げ帰った僕は職業をいくつか変わってその果てに
幼稚園までを過ごした港の近い飲み屋街でひっそりと過ごしている。そんな40代。
そしてそうすることでやっとささやかな安静を保っているのだ。
あるいは僕は、その職業によってちょっとした金持ちになってるのかもしれない。
髭なんか生やしてちゃって僕はパンチパーマかもしれない。もちろん首にはゴールドの。
せめて品のいい店で品のいいお酒を出しているようであってほしい。こざっぱりとした格好で。

---
どうでもいいことだが、今他に思いついた職業はホストであって
いくらなんでもこれはないなと思った。
容姿以前に言動というか物腰というか、端的に言って性格が。
たぶん周りの人みんなも同意してくれるだろう。
職業として必要とされていると余計サービス精神を発揮しない人。

不機嫌か無表情で、決して笑わない。
客の女性が何を言っても「へーあーそう、そりゃよかったね」と何の抑揚もなく返してそうだ。
向いてねえなあ。自分の分だけ水割りを作って自分1人で飲んでそうだ。
「飲みたきゃ勝手に作れよ。あんたもう子供じゃないんだろ?」
そんで10時には家に帰って11時には寝てる。

無愛想で無関心さを装えば装うほど女性にキャーキャー言われる、
あるいは女性がほっとかない、そんな職業ってないものかね?
冷たくとか残酷とかではなく、あくまで無気力な感じで。
たまに照れ笑いするぐらいの。そんな、逆ホストみたいな。


[87] 暇な日曜日にツラツラと考えたこと 2001-03-11 (Sun)

僕を取り囲むもの、包み込むもの。その全てが現実なのだろうか。

僕がその瞬間において「現実」として知覚していたものは
次の瞬間には一切が「過去」のものとなってしまう。引き離されていく。
記憶や記録の中にしか残らない。いや、99%以上のものが取りこぼされて消えていく。
取り戻すことはできない。
それらは現実と呼ぶに値するものだろうか?

具体的な形を持つものはその次の瞬間にも同じ場所にとどまり続けるだろう。
しかし感覚的なものはどうだろうか。物質的な形を取らないものの全て。
僕という物的・心的存在の外部にあるもののに対して行われた認識の全て。
それは意識的なものもあれば、無意識的なものもありえる。
我々はどの瞬間においても「停止」してはいない。
それと同時に、個々人の外部にあるものも停止してはいない。
我々は外部にあるものを知覚する。しかしその全てを知覚することはできない。
人間の視覚的装置はカメラのような正確さを持っているだろうか?
我々が外界の事物をあるがままに受け入れているとは、少なくとも僕には考えられない。
恐らく、自らのうちに蓄えている記憶で補いながら心的風景としての外界を再構成している。
我々はその風景を視界に捉える。そしてそれだけでなく音を、匂いを、感触を。
それは不安定なものであるはずだ。刻一刻と変容を続ける。
しかし我々は物心ついたときからそれらを同一の事物であるとして
「受け入れる」よう訓練づけられている。
だから、多くの人間は、その瞬間において身の回りに起こることの全てを「現実」として認識する。
静止したものとして、ところどころ動きのあるものとして。
外界に動きがなければ我々は現実というものをその瞬間において停止したものとして捉えるだろう。

僕は現実と呼ばれるものがそのようなものであるのか、
そのようなものであるべきなのか、自信が持てない。
全てが不安定である、と思う。そしてそれ以上に全ては幻なのではないかと思う。
それは幻想や幻影や妄想という意味ではなくて、なんだろう、実体のないもの、
いや実体はある、そうだ、外界の事物に対して我々が知覚し、認識という作業を経て
再構成されたもの、
そこではふとしたタイミングでそれまで確かだと思えていたものがいとも簡単に崩れ去ってしまう。

例えば今あなたの目の前に消しゴムがあって、あなたはそれを見て
難しいことは何も考えず、「これは消しゴム」だと思う。
当たり前すぎて「思う」ということすらしないだろう。
しかしその消しゴムに対して「意味」が付与されることがある。
その状況によっては存在することを許される特別な意味合い、あるいはある種の思い出など。
目の前にある事物をそれ自体として直接に捉えることは恐らく少ないのではないだろうか。
我々の生活はそれら付与された「意味」の群れが互いに錯綜し、
意味同士が新たな意味を生み出すことによって1つの大きな観念的集合体が成立する。
そしてその観念的集合体こそが現実というものなのではないだろうか。
事物そのものではなく、事物に対して結びつけられた観念の集まり。

それゆえに現実というものはそのときの気分や体調や状況によって
同じ1つの風景であっても、全く異なるものとして見えることがある。
その時々において単純にも複雑にもなりえる。
それは作りだされ、失われる。

(本来ならば、「現実」というものに対して定義することから始めなくてはならないのだが、
僕はそれを怠ってしまった。僕が育った学問的環境ではそれは最もしてはならないことだった。
でも僕はもう大学に属する人間ではないから、そんなことどうでもいいと思ってしまう。
・・・だからここまで書いてきたものも曖昧な堂々めぐりとなってしまう。
僕はこの文章がいったいどこへ向かおうとしているのか自分でもわかっていない)

---
「この世界は僕が作り出した幻影なのではないか。
僕が死んでしまったらこの世界は消えてなくなるのではないか」
そんなふうに考えてみたことのある人はけっこういるのではないだろうか。
一時期僕もそうだった。
だけどそれはいくらなんでもありえないだろうと、そのような考えはやめることにした。
そんな都合のいいこと、あるわけがない。
世界というものを知覚できるようになると
自分が世界の中心にいるのではないかと錯覚するということか。
「僕」という事象は僕の身体と精神を中心に動いていく。「僕」対「外界」
そこから来る錯覚。

それがもう1歩進んで
「この世界が凡庸なものに思えるのは、僕自身が凡庸だからだろうか」
そのように考えることもあった。
世の中は決してそんな簡単なものではなく、
僕の知らないところでこの世界は、ちっとも凡庸なものではない。
僕が凡庸なものとして切り取ろうとした、ただそれだけのことなのだろう。

逆に、「僕は誰かの作り出した幻影の中だけに存在しているのではないか」
むしろこっちの方こそありえそうだ。
その誰かとは?それを神様というのか?それとも無名の一個人?
僕は僕やあなたのようなとりたてて特徴のない誰かの見ている夢の中の
登場人物の1人に過ぎないのかもしれない。
短いわずかばかりの夢のために生み出された完璧な世界。それが無限に続いていく。
僕らが死んで、僕らの子供たちの子供たちの子供たちが死んで、それでもそれは続いていく。
案外、そういうものなのかもしれない。

僕は「あなた」の見ている夢の中の・・・、とか、そんなことも考えてみる。

---
永遠というものに想いを馳せるとその途方もなさに恐怖心を感じる。
かといってあるときそれが突然に(あるいはゆっくりと?)
終わりを迎えて全てが無になってしまう、ということも怖い。
そんなこと考えないですか?

人間の生命には限りがあって、変な話だけど
前世の記憶をもって生まれ変わるケースが普通ありえないのはその恐怖心ゆえにだと思う。
永遠に生きたいって、僕は思わないね。
あなたはどうです?永遠を願う?


[86] 「ハンニバル」の試写会に行った/中野「クラシック」 2001-03-10 (Sat)

昨日、会社で飯田君から「ハンニバル」の試写会の招待状をもらった。
行けないからあげる、と。飯田君は保険の勧誘のお姉さんからもらったのだそうだ。
1枚の件で2人まで入れる、とある。せっかくだから誰かと一緒に行こうと思う。
でも明日のことで急だし、会場は中野だから近くに住んでる人の方が誘いやすいだろうなと考える。

大学の先輩に今は基本的にフリーターなんだけど、とある雑誌で映画の評も書いているという人がいて
(西能さん。良くも悪くも僕が現在ここでこうしてるのはこの人に負うところが大きい)
電話して「どうすか、明日?」って聞いてみると
「わるい。それもう2回観てんだよ、試写で」とのことだった。
「2回も!?そんな良かったんですか?」
「うーん。たまたま時間があっただけ。俺としては、・・・それほど面白くなかったな。
とにかくジュリアン・ムーアがいかんよ。あの役はジョディ・フォスターの方が映えるね」
「そうすか」
「それにアンソニー・ホプキンス、彼うまいんだけどケレン味が強すぎて俺は好きじゃないね」
その後いろいろと聞いたのだが、
総じて「羊たちの沈黙」を期待して見に行くと肩透かしくらうよ、というところに落ちついた。
そして最後に「でもこれさ、かなり金かけて宣伝して、ヒットすることになってるみたいよ」
「ふーむ」と思って僕は受話器を置いた。

次の日、というか今日、これまた先輩である奈賀さんと駅で待ち合わせをして
中野サンプラザに向かった。奈賀さんは奈賀さんで映画に詳しく、一家言持っている。
開場するまでの間、監督がリドリー・スコットに変わったんすよねえ、という話をする。
「グラディエーターだのハンニバルだの最近どうしたんだろうな。迷走してるね、あれは」
「そうですよね。リドリー・スコットって「エイリアン」と「ブレードランナー」だけでも
充分映画史に名を残せるのに」(あとは「テルマ&ルイーズ」か)
奈賀さん曰く、「トップガン」や「ビバリーヒルズ・コップ2」を撮った
トニー・スコットっていうのはどうも、リドリー・スコットの弟らしいんだよ。
「最近こっそり入れ替わったんじゃないのかと思うね」
今から20年も前にエイリアンやブレードランナーを撮ってた彼が
2001年になってアカデミー賞で12部門ノミネートだなんて・・・。
80年代前半に「セックスと嘘とビデオテープ」で26歳という異例の若さにして
カンヌを征したものの、その後パッとしなかったスティーブン・ソダーバーグが
やはり今年になって「トラフィック」「エリン・ブロコビッチ」で監督賞にダブルノミネート。
時代は変わるんだなあ。「タイタニック」のジェームズ・キャメロンの例もあるしねえ。

スポンサーが大手生命保険会社ということもあって、
入場するときに保険のパンフレットがずっしり入った袋を手渡された。
映画が始まるまでの間、コマーシャルの音声だけのやつが場内をときたま大音量で流れた。
(映像を伴わず、音楽と声だけのCMはひどく間抜けだ)
開演の時間になって、スクリーンの前に司会とアシスタントが現れて
保険の説明を10分ほどしていった。そうしてやっとのことで本編が始まった。

本編が終わって僕は奈賀さんに、まずは恐る恐る「よくわかんなかったですねえ」と切りだした。
奈賀さんも困ってしまった。2人の間で、これはやばいんじゃないかという結論に達した。
ここでいう「やばい」とは一頃若者たちで肯定的に使われたのとはもちろん逆の意味である。
全般的に地味でわかりやすいクライマックスがないし、そもそも話としてたいしたことない。
ヒットすることになっているとはいえ、口コミが広まってということはなさそうだ。
なんだか、ハンニバル・レクター博士紹介ビデオのような内容だった。
つまるところそれは、相手役のジュリアン・ムーアには
アンソニー・ホプキンスに対抗できるだけの魅力がなかったということだ。
その時点で既に物語が破綻していた。

3作目ができたとしても僕はもう見る気がしない。
映画サークルに入ったとき、好きな監督は?と聞かれて
「リドリー・スコット」と答えていた時期がある僕としては
「なんでこんなつまらんものつくっちゃったんだろう」と悲しくなってきた。

この映画はものすごく気持ち悪い場面もあるので、女性の方には特にお勧めできません。

---
奈賀さんと中野ブロードウェーのお好み焼き屋に入って、生ビールを飲んだ。
(真っ昼間から気心の知れた人と飲むビールはどうしてこうもうまいのだろう?)

その後、「クラシック」という喫茶店に入った。
名前そのものでここは音楽喫茶ということになっているのだが、
どこからどう見ても廃屋であって強い地震が来たらその瞬間にも倒れてしまいそうだった。
木造。階段から壁から手すりからあらゆるものが歪んでしまっている。
張り紙には「昭和5年に建てられ・・・」とある。
古びた壁掛け時計、ランプ、送風機が無造作に置かれている。
薄暗い。デッサンの狂ったシャガールのような素人?の描いた絵が壁一面に飾られている。
暖房がついていなくて、寒い。
テーブルには客が勝手に彫ったと思われる名前が。
そして店内には「G線上のアリア」であるとかそんな曲が
レコードのプチプチいう音に伴われて流れていた。
・・・ここまで雰囲気のある喫茶店は初めてだ。

メニューはコーヒー・紅茶・ジュースこの3つだけ。どれも一律400円。
下北沢の古着屋で働いてるような店員が運んでくる。
周りをそれとなく見回してみると、どのテーブルでも
古着屋によくいるような若者たち・男女がぼそぼそと話している。
僕にはこの店がこれまで70年かかって自然とこういうふうになっただけではなく、
ある種のコンセプトがきちんとあってそれに基づいて
このような状態で保存されているのではないかと思えてきた。
店内が雑然としているのは、例えば下北沢の古着屋では雑然としていればいるほど
格がある(と僕は感じている)のと一緒なのではないか。
どこもかしこも薄汚れて真っ黒だが、ゴミが落ちているわけでもないし
手の届く範囲では埃が溜まっていることもない。
ただずぼらなだけの経営者が荒れるに任したのではなく、
「わかって」いる人が意志を持ってやっていることのようだった。

コーヒーもおいしかったし、居心地が良かった。
曲目については客のリクエストを受けつけるようで、有名な曲ばかりが聞こえてくる。
昔どこかで聞いたことのあるメロディーにノスタルジーを感じる。
古いレコード特有の、全ての楽器の音が1つの白い塊になったような感触にも懐かしさを覚える。
時間が止まっていこうとする。ゆっくりと流れていく。
このままここにいると夕方になりそうだからと出ることにした。
外に出ると本当に夕方になっていた。

また来てみたいな。


[85] 最近の日本ロック 2001-03-09 (Fri)

3月になってやっと暇ができて、買ったけど聞いてるどころじゃなかったCDの山を
どうにかこうにか掘り崩せるようになってきた。
下の方に眠ってるのは去年の11月に買ったものだったりする。

1枚をじっくり何度も聴くことはできないので、大概のものは記憶に残ってない。
最近の海外のものは特にそう。
聴いた(「聴く」じゃないな。「聞く」だな)後でまた別の山に移されてそれっきり。
ロックに限らず、ジャズやレゲエもパッとしない。
そんな状態でも例外というものは常にあるのであって、今の僕にとってそれは日本のロック。

おととし辺りからロックは断然日本の方がいい。
試しにちょっと聞いただけでも「いい、いい、いい、いい」と思わず唸ってしまうものが多い。
記憶に残る。
今年はもしかしたら去年以上の当たり年かもしれなくて、
「名盤」クラスの作品がひょいひょい普通に発売されている。
今日は書くこともないし、このところ気になったCDについて書いておくことにする。


自分たちの出したい音を出す、自分の言いたいことを言う、
そんな当たり前のようでいてなかなか普通できないことを迷うことなくスパッとやってのける。
「潔い」という形容詞がよく似合う。ダイレクトに伝わる。
この新作はライブアルバムであって、最初から
「No Star」「No Telephone」「No Luck」と「No」で始まる曲を3連打。
これだけでなんだかえらくかっこいい。
彼女たちがそのステージでできることの全てを出しきって
最後アカペラで歌われる「17」はもっとかっこいい。
最近のロックにおいて重要なモノサシの1つは「誠実さ」なのではないかと思うようになった。
彼女たちの痛いほどの誠実さは、女性ロックシンガーばっかりのシーンの中で
はっきりとしたオリジナルなラインを引くことのできる「強さ」となっている。
等身大の、だけど孤高の存在。このままどこまで行けるのだろう?

<くるり「TEAM ROCK」>
「いい曲を書くね」から「いい音を出すね」そんな飛躍的な進歩を遂げた革命的 3rd 。
先行シングル「ワンダーフォーゲル」「ばらの花」だけでなく、アルバムのその他の曲もよかった。
メロディーが、詞が、というレベルではなくもっと高いところで勝負してる。
これからもっと進化してくれるのだろうと思う。
このバンドにとって1stの頃の名曲「東京」は今後
Radiohead にとっての「Creep」のような扱いを受けるのではないだろうか。

<54-71 「untitled」>
良くも悪くもアルバム全体が Gang of Four の「Paralysed」のさらにそのデモテープみたいな音。
ギターとベースとドラムの鳴らし方とその配置の仕方が。
「Paralysed」は80年代 UK NewWave の1つの到達点であると僕は考えている。
この曲だけが持つ空間の捉え方の凄さにその後多くのバンドが挑戦しては砕けていった。
54-71 は時代も国籍も違うけど、もしかしたらこの曲を乗り越えて
新しい価値観を生み出すことができるのではないか、
そんな希有な可能性を持ったバンドであるように思う。次のアルバムに期待する。


DGの渡辺さんに「去年のCDでいいのありましたか?」って聞いたら出てきたバンドがこれだった。
名前はどこかで見かけて知ってたけど、僕はスカコアあるいはエモのバンドだと勘違いしてた。
小島麻由美のバックトラックから子供っぽい華やかさを抜き去ったような乾いた音に
生きていく中でブルースというもののなんたるかを多少なりとも身に付けることのできた声。
「色彩のブルース」というタイトルから僕が想像するものがそのまま鳴ってた。
まあ、なんにしても日付が変わってから夜明けになるまでの間に聞くべき音だなあ。

<ゆらゆら帝国「ゆらゆら帝国III」>
去年のゴールデンウィークに青森に帰ったとき、妹の運転する車のカーステには 2nd である
「ミーのカー」のCDが入っていた。「いいじゃねえか、これ」「ね、いいでしょ」
そんな言葉を交わした。東京に戻ってすぐ買いに行って、繰り返し繰り返し聞いた。
投げやりに吐き出される言葉、だるい感じのギター。頭の奥にこびりついて離れないメロディー。
聞き流しているだけで確実に人間が駄目になっていきそうな、素晴らしい音楽だった。
そして 3rd 。音がポジティブなものになっていて驚いた。
彼らは、彼らの出す音は、大きくなって現れた。音量の問題ではない。
それは僕の身長よりもほんの少しだけ大きいのかもしれないし
この空の全てを覆うだけ大きいのかもしれない。
人間を駄目にすることはない。そんな1つの方向では収まらない。
変えてくれる、扉を開けてくれる、これまでに想像もしなかった方向へ。
普遍的な「ロック」になった。「清々しい」という言葉が意外にもよく似合う。


今年他に何が出たところでこれが今年のNo1であることは間違いないでしょう。
越えることのできるのは同じく浅井健一の Sherbets であるような。


帯には
「ウンモレコーズが大阪アンダーグラウンドから満を持して放った奇跡のオムニバスアルバム完成! 山本精一/渚にて/ATR/HELICOID 0222MB/THE FOX/中屋浩市&宇宙人(以下略)」
とある。これが全てを物語っている。
Boredoms のコーナーにあったのでどれもノイズ・サイケデリック系なのかと思いきや
案外ポップなものが多かった。後半のフォークっぽいのはよくわからんが、
最初の3つ、吉田ヤスシ(ナスカ・カー)&宮原ヒデカズ(サーファーズ・オブ・ロマンチカ)・
Golden Syrup Lovers ・スパナは自由な曲作りに好感が持てた。
たぶんこれから当分この3曲ばかり繰り返し聞くことになりそうだ。
「渚にて」この非常に優れた名前を持つバンドのことは前から知ってはいたが
関西のアンダーグラウンド系という以外によくわからず手を出しかねていた。
やっと音を聞くことができた。これが一番の収穫。

---
この他、 Hitomi「Love Life」も Soul Bossa Trio のベストもどちらも同じぐらい気持ちいい。
日本人でよかった、いい時代に生きていてよかった、ほんとそう思う。


[84] 築地に寿司を 2001-03-08 (Thu)

先週のリリースが終わってからずっとぐったりしている。
疲れてる。毎日最低7時間は寝ているのに朝も昼もすごく眠たい。
だるい。やる気がしない。考える気力がわかない。
このままだらだらと形だけ出社していても意味無いだろうと
今日は「体調不良」で休むことにした。昼まで寝ていた。

3時頃までぼんやりと雑誌を読みながら過ごし、服を着替えて外に出た。
×××チームで今夜築地で寿司を食うことになってるので、
わざわざそのためだけに出社する。

地下鉄の築地駅のホームに降り立つと「Fish Market」と書かれた
直訳そのものな出口案内用の掲示板があった。
駅を出て店まで歩いていたら、マグロを乗せて運ぶような
小さなリヤカーのようなものが無造作に道端に転がっていた。
もしかしたら観光客用のオブジェだったりして、そんなふうに思った。

「すし好」という店の総本店。
寿司屋としてどのようなステータスなのか僕にはわからないが、
築地にいくつか店を持っているようだから、たぶん有名なのだろう。

---
僕の一家が青森市の本町と呼ばれる、港が近い飲み屋街の一角のアパートに住んでいた頃
そのアパートの隣には小さな寿司屋があって、よくそこに行った。
別な地域に引っ越した後も何度か家族で足を運んだ。
今でこそ大概のものは食えるが、
好き嫌いの激しい子供だった僕は海産物のほとんどが食べられなかった。
そんな僕専用にご主人はトロとタマゴが半分ずつのちらし寿司を作ってくれた。
大人になった今、あの組み合わせでまた食べてみたいなあと思うものの
そんな融通のきく寿司屋に東京で心当たりがあるわけで無いし、
その本町の店も僕が上京してしばらくした辺りに無くなってしまったようだ。

夏のある日ふと思い立って、自転車に乗って昔住んでいた界隈を巡ってみた。
寿司屋が無くなっていた。きらびやかな飲み屋が増えていた。
それと同じ数だけ、さびれた飲み屋も増えていた。
アパートはこんな小さかったのかと驚いてしまった。
僕が毎日歩いて通っていた幼稚園が無くなっているのを見たとき、
それがなんだかものすごく悲しいことに思えて、泣きそうになった。
別に楽しい思い出があったわけじゃなくて
なぜなのかよく未だに分からないんだけど、僕は涙が出そうになった。

だから、僕にとって寿司を食べるということは
青森市本町の雰囲気とその幼稚園のことを思い出すということでもあって
「あーこの穴子うまいねー」と無邪気に喜べたりはしない。
買ってきたのを食べるときはそうでもないんだけど、
店で食べるときには自然と、「あー」って気持ちがどこかで生まれる。
悲しくてどういうということではなくて、どこかに連れてかれるような感じ。
もちろんそれでわざわざ動揺するようなことはないし、
僕の中の半分は「やー、このネギトロいいねー」なんてニコニコしながら言っている。

---
座敷に通されてコースということで刺身から始まって
最後はバニラアイスを食べたことになっているのだが、
余りにも窮屈な場所に押し込まれてあぐらはかけないし
正座はつらいしで、寿司の味はよく覚えていないです。
お金を払っていただいた上の方々には申し訳ないが
寿司はやっぱ青森で食う方がうまいな。以上。


[83] 立食い蕎麦と私 2001-03-07 (Wed)

茅場町駅近くの立食い蕎麦がうまいらしいというので夜、食べに行った。
狭い店内にはあちこちの雑誌で紹介された記事が飾られている。
こういう記事をこれみよがしに貼ってあるところは往々にして
おいしくもなんともないことが多いのだが、
ここの蕎麦はまあ立食いにしてはまともなものだった。
食券を買ってカウンターに持っていくと
ゆでるのに蕎麦なら1分、うどんなら5分かかると言われる。
本当はうどんを食べたい気分だったのだが、
立食いで5分も待たされるのもなんだなと思った。
いたって普通の、何の変哲もない蕎麦が出てきた。
ダシはカツオか。東京風の、醤油で真っ黒な。これにはあまり特徴を感じなかった。
かき揚げはサクサクしていておいしかった。
蕎麦そのものは手打ちなのか機械なのか素人の僕にはわからないが
1000円もしながらここのよりたいしたことのないのを東京では何度か食べたことがある。
モリ・カケ300円でこれぐらいの蕎麦が食べられるのなら、かなりリーズナブルではないだろうか。
適度な歯応え、歯切れのよさ。ああ、自分が食べているのは「麺類の一種」とでも呼ぶべき
曖昧なものではなく、「蕎麦!」と言えるものだ。それを実感できる。

でも立食い蕎麦としてなら日本橋から茅場町にオフィスが移っても
変わらず週に2日は食っているチェーン店の「小諸そば」の方がうまいし、
(平日の残りの3日はコンビニ弁当だ。あああああ ・・・)
「蕎麦」ではなくあくまで「立食い蕎麦」にこだわるなら
最もうまいのは新宿駅の構内にある「五平そば」だ。
(こんなことを力強く断言したところで何がどうなるというのだろう ・・・)

青森に住んでいたころは食べたことがなかったし、
東京に来てからもそんなに食べる機会はなかった。
就職活動の時期、バイトはできなくなるのに交通費だけはやたらかさむ、
そんな中少しでも生活費を抑えるために都心に出た日の昼は
必ず駅前で立食いソバを食べていた。
リクルートスーツを着て普通の会社員とはどことなく雰囲気の違う若者たちが、
同じ駅でも1回1000円はする店で食事をとっているのをガラス越しにふと見かけると
スパゲティーを食べた後にアイスコーヒーを飲みながら就職情報誌を
めくっているのを見かけると、それがひどくうらやましかった。
あー僕は負けている、そんな感じがした。

今の環境では周りに夜食べるような場所がないし、
1人食べる食事にお金をかけたって仕方がない。
それに食費を削ってでもCDを買いたい。

僕はいったいいつになったら立食いソバを食べなくてもすむような生活を送れるようになるのだろう?


[82] さらば「サイバービジネス」 2001-03-06 (Tue)

前々から噂されていたことなのだが、僕の所属する「サイバービジネス部」は
4月の組織改正で「マルチメディアビジネス第4部」へと名前が変わることになった。
「第4部」ということは他には少なくとも1部から3部までがあるわけで、
それだけでなく今回5部と6部も設立されるので、
なんだかワンオブゼムになっちゃうんだなあ、
(それはうちの部署だけでなく、この事業部のどこの部署も)
そう考えると僕のような性格の人間だと「いいのかなあそれで」って思ってしまう。

インフラ部分を担当していたチームがごそっと他の部署に移ってしまう。
東CBではそれ以外にはもとのまま。他の部署ではもっとドラスティックな
くっついたり離れたりが行なわれるようだ。
僕の立場からすれば名前が変わるだけ。
そうは言ってもね、名前ってむちゃくちゃ大事なんですよね。
でなきゃ誰も自分の子供の名前に「荻窪52609号」なんて付けませんよね。
事業部全体を均等に等分して無味乾燥な名前をつけておくと、
事業部全体が無味乾燥した雰囲気を纏ってしまうのではないかと僕は危惧する。
その方が上の方からすれば制御しやすいのだろうけれど、
他の事業部の人や社外の人にとっては「3と4とどう違うの?」ってことになるし
直観的に分かりやすい名前のついている方が「便利」ではないだろうか。
番号だけで隣の部署と区別されるのならば、
自分たちの現在の立ち位置と将来の方向性が見えにくくなるのではないだろうか?

誰だってこれまでに出会ってきた人たちから思い当たることだが、
名前が性格を決定する。
ある程度のところまでは、その名前を付けられたということと
その名前で呼ばれていくということで性格が形作られていく。
1から6までの不定形な集団。ロボットのようだ。

確かにM4はこういう部署です、という説明は与えられてはいるが
誰も名前を呼ぶときにいちいちその説明をくっつけたりはしない。
頭の片隅にはあるが、思い出されないものとなってしまうだろう。

---
入社以来2年間「サイバービジネス部」というところにいると、
それなりにこの名前に愛着を持つようになる。
知ってる人たちになんてとこにいるの?と聞かれて名刺を見せると
たいがい「なんだよ?サイバーって」と笑われることばかりだったが
(実際配属当初の僕も「なんだよそれ。さえねえなあ」と軽蔑していた)
でも、それでも、ねえ。
名前が変わってしまうというのは寂しいことですね。自分を育ててくれた場所の。
僕って人間が甘いのかなあ。

そもそもなんで僕はこのインターネットの部署に配属されたのだろう?
会社に入る前までブラウザの使い方は分からなかったし、
電子メールのやりとりもしたことがなかった。
だから就職活動の面接ではインターネットの「イ」の字も口に出さないようにしていた。
内定式のアンケートでは「サイバービジネス部」は第4希望ぐらいに書いて出した。
その説明会では「私たちは地図のシステムをつくってまして」という部署を第1志望にした。
金融・カード系は固そうで自分には絶対向いてなさそうだし、マルチメディア系で志望を揃えておけば
なんとか行かずにすむのではないか、それぐらいの気持ちだった。
4月の集合研修が終わって配属発表のときまで、
「サイバービジネス事業部・サイバービジネス部」というものがあるのだということを
僕は忘れてしまっていた。
それが今や僕はもう新人ではないし、中堅クラスに足を踏み入れている。

さらば「サイバービジネス」


[81] 「回路」を見に行った 2001-03-05 (Mon)

黒沢清監督の最新作「回路」を見に行った。
今週の金曜で打ち切りのようで、平日のうちに見ておかなくてはならなかった。
5時半に会社を出て、銀座に向かった。
映画館はがら空きだった。広い客席に1割も埋まっていなかった。

インターネットで勝手に霊界へと繋がってしまう、というか
現世に現れた幽霊たちの姿だけを望みもしないのに映し続けるサイトの話と
生きている人々がいつのまにか消えてしまっていく話とが表裏一体となって描かれる。
主人公たちが溢れ出した幽霊たちの存在を認識しだした頃には
既に町では人々が消えてしまっていて、取り残された彼ら・彼女たちは
混乱して状況がよくわからないまま、否応無しにクライマックスへと放り込まれる。
面白かった。映画として決して「すごく」はないけど、非常に面白かった。

黒沢清は「独特な世界観を独特な手法で描く」ことに関しては
日本で最も秀でている監督であるように思う。
たいがいの若手監督は日本映画界でいち早くオリジナリティーを確立するために
「独特な」視点でもって作品を撮ろうとする。当たり前の話だ。
その中でも黒沢監督の抱えているものはある種美学的な領域に達していて
ちょっとやそっとのことでは崩れないし、他の人にも真似できない。
映画史にも詳しく、技術的な探求も常に続けている。
破綻を描くことはあっても、映画そのものが破綻することは決してない。
どの映画にも確固たる「黒沢清」が刻印される。

その分、どこを切っても金太郎飴的な映画になってしまう。
「またこういう雰囲気で押しちゃうのかあ」と思うこともある。
それでも時としてキネマ旬報でその年の1位となった「Cure」のように
「他とは違う異様な世界」が不安定は不安定なままむしろバランスよく揺るぎ無いものとなり、
そのまま付き抜けていってしまえるものもある。

それにしてもこの人の映画は得体が知れない。
面白いんだけど、僕の心をあんまり動かさない。
「この人のように映画を作れたらなあ」という憧れの気持ちを起こさせることがない。

セリフや言葉、風景やそれを切り取った空間、
小道具や衣装、表情と動作、音楽と音そのもの、光と陰、
それら全てが首尾一貫して形骸化してしまっているように思う。
そしてその中にのっぺりとした、しかし何かが複雑に絡み合うことで出来あがった
ぼんやりとした「心情」が、寄る辺なく佇んでいる。
それがどういう心情なのかスクリーン越しに見ている人にはわからないし
時として演じる側でもわかっていない。
スクリーンの向こう側にいる人たちはその状況下でその瞬間を過ごすことのみが許されている。
カメラはそれを捕らえただけ、そして誰かがそのフィルムをつないだだけ。
そんな奇妙な存在感。

見てていつも何か大きなものが足りないように思う。
別な次元から来た人が3次元に慣れないまま作っている映画のようだ。
それはスクリーンという2次元から直接導かれてきたものかもしれないし、
4次元という僕らには結局それがどういうものなのか知覚し得ない
場所から来たものなのかもしれない。よくわからない。
だけどその奇妙な感覚を味わいたくて、また見てしまう。


[80] 部屋の掃除は結局しなかった 2001-03-04 (Sun)

昨日は買い物に出掛けた。
今日は映画を見に行くつもりだったんだけど、雨が強く降っていてあきらめた。
雨の音を聞きながら本を読んだ。することのない、外に出る必要のない日に降りだした雨の音、
屋根を打ち付ける単調な音に、いつもなぜかささやかな嬉しさを感じる。
住む部屋のあることをありがたく思うこと。
こんな日に外に出る用事がなくてよかったと思うこと。
そういう気持ちもあることはあるが、もっと僕の中の根本的な部分が、喜んでいるようだ。

しばらく土日も無視して出社する生活が続いて、やっとそこから解放された。
休みがあるというのはいいことだ。いいことだ。いいことだ。
だけど貧乏性な性格のためか、あるいは律義なのか、黙って休んでいればいいものを
「次の新しい仕事」に関する本を読んでしまう。その業界について書かれたものを借りている。

Windows 2000 Server の分厚いテキストを読み終える。
上下合わせて900ページあって、読むのに2カ月かかった。
こんなのを会社の行き帰りに読んでるから、気分が行き詰まるんだよな。
土日に出社してるときも地下鉄の中で読んでいるわけで。
忙しい時期になったらせめて通勤時間は仕事と全然関係ない小説を読もうと決めた。

---
アメリカに行ったときのお土産を青森に送るために荷造りをした。
もう着ることはないだろうという衣類を一緒に詰めた。
段ボール一箱分、部屋からモノが消えたはずなのに何も変わらない。
来年の今頃引っ越しを考えているから、今のうちからどんどん持ち物を減らしていきたい。

「そうだ!僕は今すぐにでも会社を辞めてバックパッカーとなり世界を放浪しよう!」
と思い立ったとき、それを1番に思いとどまらせるのは
あと×百万ある奨学金の返済であるとか、青森の母親であるとか、
帰ってきたときに社会復帰できるか(どこか職につけるか)とかそういう物事の前に
「その間このCDと本の山をどこで預かってくれるのか?」であって、
1箇所にモノをためて暮らすことにささやかなりとも喜びを見いだしてる人間は
結局1つところにとどまって人生を終えるのではないか?最近そんなことを考える。
そしてそんな人間は会社を辞めることができず、ダラダラと続けていく。
僕が小さなころによく口にされていたらしい「スキゾ」「パラノ」という言葉を思い出す。
僕は「スキゾ」型なんだろうな。

いかん。このままでは旅に出られない。


[79] 夜、中央線 2001-03-03 (Sat)

昨日の夜新宿から中央線に乗ったとき、隣にフリーターっぽい女の子たちの集団が立っていて
その中の1人が「最近の中央線ってさー、夜止まりやすくなーい?この前もさー」って話してた。
「ここんとこ多いの?」「多い多いすごい多い」「今日も来るかもねー」「やだねーそおなったら」
彼女たちは酔ってるのか大声で、嫌でも耳に入ってきた。ふーん最近また増えてるのか、と思った。
そこへ高円寺駅を発車してすぐ、ピピピピピピピピピピピピピピピピと警報が鳴りだした。
車内がざわめきだす。女の子たちは「ほらね。来たよ」と言ってため息をついた。
スピーカーから乗務員の声。「只今、高円寺の駅におきまして・・・」
・・・誰かがホームに落ちたのだそうだ。酔っ払いか?この前の「事件」のように。
「安全の確認が取れ次第発車します。お急ぎのところ大変恐縮ですが、今しばらくお待ちください」
その後、次のように続く。
「なお、乗客の皆様は線路に降りられることのないよう、お願い申し上げます」
線路に降りるな?っていうとあれか、転落した酔っ払いを助けようと今は猫も杓子も
我先にホームから飛び降りる時代になったのか?
この前新聞であの事件から1週間後、同じシチュエーションで5人だか6人の人が線路に、
というのを読んだ。流行ってるのかもしれない。
それまで酔っ払いが落ちようとなんだろうと無関心を決め込んでいたのに、あの1件以来
にわか正義心を発揮したがる人も中にはいるのではないか、そう考えると嫌な気分になった。

阿佐ケ谷まで歩いてすぐなんだから、閉じこめられて待ってるよりは歩いて帰りたい
ということなのかもしれない。終電近い中央線は阿佐ケ谷でごそっと乗客が降りていく。
あと1駅なのになんでこんなことに巻き込まれなきゃならないんだ?
そんなふうに考える人は多いと思う。

ついでに言うと、そんな落ちたヤツなんてどうでもいいじゃねえかと思ってる人も多いはず。
人身事故だなんて死体を片付けたらさっさと走らせたらいいじゃねえかと
年配の会社員が苛立たしげに言ってるのを僕は聞いたことがある。
これから「検証」に最低でも20分はかかるのかと考えると、その時僕もそう思った。
あれだけ待たされて、マニュアルに書いてるような謝りの言葉を何度も何度も
繰り返されるのを聞かされるのか、そう考えるとうんざりした気持ちになる。
何がどうなったから、あとどれくらいで走れるようになるのかという目安は絶対に言わないし。
(あれはたぶん「あと10分走れるようになります」と言っといてそうならなかったとき、
くってかかる人が出てくるからだろう。どっちもどっちもだ)

今回も乗務員は「只今、高円寺の駅におきまして 〜 今しばらくお待ちください」と
全く同じ文句を何度も繰り返すだけ。それ以上の状況の説明はなし。
同じことを言うだけなら、そう頻繁にアナウンスを繰り返す必要なんてないのに。
駅と駅の間に止まっててドアも閉まってるんだから、
この5分の間に新しく車両に入り込んできた人がいる可能性は理論上ないわけでしょ?
ピピピピピと相変わらず警報はけたたましく背後で鳴り響いていて、
それもまたイライラを増幅させる。
「せめてこの音だけでも止めてくんないかな」と女の子たちは言う。

10分は待たされただろうか、唐突に警報が鳴り止んで
「安全が確認されました。発車します」との声とともに電車がゆっくりと動き始めた。
ちょっと走ってすぐ阿佐ケ谷駅に到着した。たくさんの人が降りていった。
フリーターらしき女の子たちもにぎやかに降りていった。
次の荻窪駅で僕も降りた。
彼ら/彼女たちはどんな気持ちでそのドアから外に出ていったのか?

まあ、どうでもいいやと僕は思った。
これぐらいのことで腹を立てても仕方がないし、
僕が腹を立てたところで何がどうなるわけでもない。
こんなこともあるさとノホホンとしてないとやってけない。
こんなことぐらいでは、腹を立ててはいけないのだ・・・。


[78] 英会話教室が始まった。仕事が1つ片付いた。 2001-03-02 (Fri)

今日から会社が主催の英会話教室が始まった。
中級で申し込んでおいた。読解力では上級ぐらいあるはずなのだが
聞くのも話すのも初級レベルだから、間をとって中級。
朝の8時半から10時まで。会議室に生徒が5人と先生が1人。
先生はカナダから来た30代ぐらいの女性。

会社がお金を出すだけあって、渡されたテキストには「Business English」とある。
中をめくってみると、20回に分けられた各レッスンは幾つかのパートで構成されていて
Reading のコーナーにはアメリカの企業の最近のトピックが載っている。
先生は開口一番、「私はこれをテキストとして使うつもりはありません」と言った。
「宿題として来週までに最初の章に目を通しておいてください。
「読む」ではありません。「目を通す」です。(Not read , just look at)」
テキストをやらないのならばじゃあ何をやるのかといったら、
今日は自己紹介から始まって、名詞・動詞・形容詞・副詞の区別みたいなことをやって終わった。
今日の生徒は僕を含めて3人。「では、a で始まる名詞をあげてください」と言われて
1人づつ持ち回りで答えていく。「a, ・・・ apple」とか答えて、
なーんだ、楽勝じゃんと最初のうちは内心笑っていたのだが、d, e と続いていくうちに
案外そうでもないことがわかりだす。3人いて3人ともスラスラと単語が出てこない。
すぐつまってしまう。こんなにも英語が頭の中から出てこないものなのか!ショックですね。
紙と鉛筆を渡されてテストされたのならすぐできたんだろうけど
英会話のレッスンの初日というんで緊張してたってのもあるし、
3人でグルグル答えていく「山手線ゲーム」的な状況が無駄に焦らせるっていうのもある。

z まで名詞をあげたところで次は形容詞、これは3人でアトランダムに思いついた順に
a - z まであげていって、その後それらの形容詞を使って簡単なセンテンスを作りましょう、
さらにそれら26コを副詞にしてみましょう、ということをやっていく。
名詞を1つあげてそれを動詞にする、形容詞にする、副詞にする。
中級とはいえ、小学校程度の内容か。でも僕にはこれぐらいがちょうどよかった。
今後はどんどん高度になっていって、ゆくゆくは英語で流暢にディスカッションが
できるようになるところまで持っていくらしい。後は電話の応対とか。
これから半年近くやることになるのか。長い道のりだなあ。

---
やっと今日、WebNation コマース管理画面のリリースにこぎつける。
これまで僕が担当してきたWeb の画面での注文フローの部分は
最近だとリリースの何日か前に全てでき上がっていて、
当日はすることがなくて困るというぐらいのものだったのに
今日は「夕方伺います」と言っておきながら全然準備ができてない。
ドキュメント(操作説明書)がどこまで書いてもちっとも終わりに近付かず、
モジュールに対しても「ボタンの名前これだと分かりにくいかなあ」と
修正してみたりで、「うわっもう3時かよ。やっべー」とテンパリだす。
なんとか5時には全てでき上がって、「今から行きます」と電話して地下鉄の駅へと急いだ。

僕は小学校の夏休みの宿題は、始まって1週間のうちに全部終わらせてしまうような子供だった。
終わりの1週間に慌ててやってる人を見ると、「どうしてそんなふうなのかなあ」と疑問を感じた。
それは高校、大学どころか会社に入ってもたびたび目にして思うことではあったが、
実際自分もそういう立場に置かれてみると
「ああこういうふうにしか進んでいかない物事もあるのだなあ」というのが多少はわかった。
今回の場合は夏休みの間毎日朝から晩まで宿題をやってるようなものではあったが。
それにしてもこのような作業はどこからラストスパートをかけようと
締め切りの時間きっかりにそれなりに辻褄が合うように出来上がるようになってるのは不思議だ。

到着して、リリースを行う。
「動かなかったらどうしよう・・・」と地下鉄の中で不安になっていた。
マシンに1台ずつ MS-ACCESS のモジュールをインストールしていく。
なんとか無事に動いてくれた。ほっとした。肩の荷が下りた。

---
今日はこれで仕事は終わり。直帰。
とある女性と食事をすることになっていたので、青山に向かった。
外苑前の駅で降りた。去年の夏に神宮に巨人−ヤクルト戦を見に行って以来だ。
約束の時間より少し早く着いたので、南青山を下っていった。
駅の北側と南側ではこんなにも違うのか。
僕は東京に8年も住んでいながら、この界隈には来たことがなかった。表参道もない。
このような小奇麗な洒落た街に縁のなかった自分って何なのだろう?と思った。

(店に着いたら「島崎和歌子パーティー会場」と書かれてあって、なんだこれは!?と驚いた。
店の半分が貸し切りになっていたようだ。さすが青山)

食事をして、その後店を変えて、終電頃までそこにいた。
いろんなことを話して楽しい時間を過ごすことができた。(ほんと楽しかった!)
将来のことについて、旅に出ることについて、音楽や映画について。
コンピューターや育った環境について。まじめなことから、くだらないことまで。

12時を過ぎていたので地下鉄がないかもしれない、だったら原宿まで歩いていきましょうか、
そこからJRに乗ればなんとか帰れるでしょう、そんなことになりかけた。
でもまだ地下鉄が走ってるようだからとそれに乗っていくことになった。

僕の腕時計は11時で電池が切れて止まってしまっていた。
時間そのものが止まってしまってもよかった。
楽しかった時間を後から取り戻すことは難しい。
原宿まで、歩いていけばよかった。


[77] 2月について 2001-03-01 (Thu)

早いもので今日から3月だ。1年の6分の1が過ぎ去ってしまったことになる。
ついこの間正月で青森に帰ったのに。
あと10カ月もすれば2002年となって、その時僕は27歳になる。
ああ、すぐにでも来てしまうんだろうな。

冬も終わりつつある。暖かい日が続くこともあって、春が近いんだなと思う。

それにしてもなぜ2月は28日までなのか?
なぜこの月だけ短いのか?
365日を12で割って30日の月が7回、
31日の月が5回とした方が合理的でよくはないだろうか。
たぶん天体観測上の問題として1年を12で割ることには意味があるはず。
なのになぜ、均等に分割しなかったのだろう。
古来から続いてるものを今も使ってる。

1月は50日だけど2月は10日だ、全部で20カ月ある
というような暦を作って使っていた民族の話は聞いたことがない。
(宗教上の理由で北米か南米でそのような暦を使っていたというのを
聞いたことがあるような気がしないでもないが、思い出せない)
そういうデタラメな暦にしたがって暮らすのも慣れると楽しいだろうなとは思う。
しかも毎年中身が変わるような。
去年は5カ月しかなかったのに今年は30カ月もある、というような。
行政機関や企業にとってはなんのいいこともないのだろうけど。

そもそもなぜ1年というような単位があるのか。
そりゃもちろんあると便利なのは確か。ある種の長い期間を区切る単位として。
でもそれをなぜ地球の公転周期と結びつけたのか。
太陽の軌道と星座の位置からしか時間を計ることができなくて
多くの人々にとって農作物を作ることがすなわち生活というものだったからか。
地球が太陽の周りを1000日かかって回ることになっていて
しかも1日の長さ(昼と夜のサイクル)が50時間だったら、
それでも彼らは「1年」というものを公転周期から導き出そうとしただろうか。

---
デパートに代表される小売業では「ニッパチ」ということで
2月8月はモノが売れにくいことになっている。
2月の場合はそれがなんとなくわかるような気がする。
正月のある1月と、卒業・進学・就職シーズンであり、決算期を控えた3月の間に挟まれた
エアポケットのように何もない時期。

それ以前に2月は日陰というか谷間というか、活気のない感じがする。
それが28日という短さに関係するのかどうかはわからない。
因果関係ではないにせよ、何かの関係はありそうな気がする。


[76] あいつは元気でやってるのだろうか 2001-02-28 (Wed)

高校の同級生がメジャーデビューを果たした、ということを昨日書いた。
それを教えてくれたメールには、もう1人の消息が書かれてあった。

要約すると、
「オーストラリアに旅行したとき、エアーズロックのホテルに○○さんがいた。
向こうで日本人向けのツアーデスクをやっていると聞いた」

CDを出した小澤君のことはよく知らないが、
この○○さんというのは嫌ってほど(でもないけど)よく知ってる。
演劇部で一緒だったからだ。

彼女は僕らの代の部長で、脚本・演出・主演自らこなすほどの力があった。
といってもワンマンではなく、「軸」となって動いたという言い方の方が近い。
僕を含めてみんな個性というか我が強く、それほど従順ではなかった。
演劇が好きだから集まってるのではけしてなく、授業をサボって隠れてる部屋として
ちょうどいいからなんとなく部室に居着いた、そんな人間たちの集まりである。
それを1つにまとめあげて、全国大会に出て賞を取ろう!
という勢いでやっていたのだから、今思うと彼女はすごかった。

大学受験の時期になって彼女は、やはり私は東京に出て演劇をやりたいと
いくつかの大学を受けて結果として、とある演劇が盛んな大学の2部に入った。
昼間はバイトをして、たぶん夜に授業を受けていたのだと思う。
その大学では有名かつ規模として大きな演劇研究会に入部して
最初のうちは腹筋300回とかいったメニューもこなしていたらしい。

僕は2年の終わり頃に別な同級生の誘いで、
新しい劇団の旗揚げ公演に参加することになった。
それがたまたま彼女の通ってた大学にあったことから
(その大学には大きな演劇研究会とその周りに無数の小さな劇団がある)
その時2年ぶりに会うことができた。劇研はすぐやめて他に移ったらしかった。
その後また別な劇団、それは学生のではなくフリーターが集まってやってるのだったが、
そこを当日だけ手伝いに行ったときにも、会うことができた。
バイトか演劇、それ以外は何もなしという暮らしをしていたせいか、
そういう機会でもなければ会うことがなかった。

会うといつも、「私はまだ当分演劇を続けていくつもりよ。岡ちゃんはどうするの?」
そんな話になった。最後に会ったのは3年の半ば頃で、
そこからは気が付くと既に5年の月日が過ぎている。

僕の見聞きしてきた限り、人生というものは
「私はもう演劇を続けていくことはできない。じゃあエアーズロックでツアーデスクをやろう」
というようにはできていない。
5年の間に様々な紆余曲折を経て去年か一昨年かあるいは今年か、やっとそこにたどり着いたのだろう。
日本ではなくオーストラリアでって辺りに「流れ流れて」という印象を勝手ながらも僕は強く感じた。
そういう日本人が世界の各地にたくさんいるのだと思う。

同級生からきたメールには偶然会ってびっくりしたとだけあったので
彼女がどういう雰囲気をまとっていたのかわからないのだが、
大学を出るときに普通に就職活動をしたら旅行・ホテル関係の仕事が見つかって、
今はたまたまエアーズロックにいるというものであってほしいなあと思った。
その方が多くの場合人生としてマシなもののはずだ。

20代の彼女にとってそこが終着地点となることは恐らくないだろうし、
ふとした瞬間にまた他の地域、あるいは他の国へと流れていくのだろう。
日本には戻ってこないことも考えられる。

このような他人の消息を聞くにつれて、人生というものは
「築き上げていく」ようなものではなく、
良くも悪くも「転がっていく」ものなのだなあと思う。


[75] 高校の同級生がCDを出しているらしい 2001-02-27 (Tue)

高校の同級生からメールが来た。
どうやら同じ学年だった人がCDを出しているらしい。

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小澤 倫
2000年2月から柏駅前で毎週ストリートライブを実施。
常時300から400人を集める。マンスリーでライブハウスでも活動しながら、
昨年8月『Jasmine〜愛を止めないで〜』によってメジャーデビュー。
有線放送などで注目を集める。
また2001年2月7日には2nd Shingle『Moon Glow』をリリース。

レギュラーラジオ Bay-FM 『Groove From K-West』毎週木曜日19:00〜19:50
ワンマンライブ決定! 4月20日 渋谷nest
RAB『出会いふれあい生テレビ』2月度エンディングテーマ決定。

HPもご覧下さい。
http//www.wideweb.co.jp
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hmv.co.jp と webnation.co.jp でCDを検索してみたら本当にあった。
2月22日付けの有線の週間チャートでは129位にランクイン。
128位はRIZEの「Why I'm Me」で130位は氷室恭介の「Girls Be Glamorous」
いやあ、なんかすごいねえ。

クラスが一緒だったこともないし、僕にとってはああそういう人もいたねー、ぐらいの感じ。
いわゆる「不良」系のグループでつるんでる人だったから、これといって接点はなかった。
でも、記憶をたどっていったら友達の友達ってことで
英語の教科書を貸したことがあったな、ということを思い出した。
「じゃあこれ」「ありがとう」ぐらいの言葉は交わしてるはず。

2年か3年のときの学園祭の軽音のステージ、それは青森市の文化会館で毎年やってて
そこで1曲、ガンズかエアロを歌ってそれがものすごくうまかったのを覚えてる。
ホームページに掲載されている写真を見たら、
昔の面影は残っていたもののかなり雰囲気は変わってた。

軽音に何人か友人がいて、その人たちはみんなハードロックばっかり聞いていた。
Mr.BIG や Metallica の全盛期。僕もYngwie Malmsteen なんかを貸してもらって聞いてた。
僕はその当時ただ1人、たぶん学年でもただ1人
パンク〜ニューウェーブ〜オルタナティブ系の全然別なものを聞いていて
ハードロックの良し悪しというものがわからなかったんだけど、
彼ら、軽音の質は高かったように思う。
僕が割と親しかった人たちのやっているバンドはこっそり仙台で開かれた大会に出て賞をとっていた。
誰か1人ぐらいはプロになるんじゃないかと思っていたのが本当にそうなった。

高校を卒業して8年、意外なところで意外なことをやっていて
それが世の中に評価される人も出てきた。
3年間同じ建物の中で同じように過ごして、それがその後全然違う方向に進んでいく。
そう考えるととても感慨深い。
いや、ほんと、僕もがんばらないとなーとマジで思った。

ちなみに、僕の高校は他に淡谷のり子とSingLikeTalking のギターかボーカルのどっちかを輩出している。


[74] アメリカ行きたいねえ 2001-02-26 (Mon)

アメリカに行きたい。旅行じゃなく、滞在。最低でも3ヶ月。
しかも仕事しにいくのではなく、自らの知的好奇心のために。

ホームステイかなんかで1ヶ所に定住するのでもいいし、あちこち移動するのでもいい。

月並みなことだが、荒野のどこまでも直線が続くハイウェイを思いっきりとばしてみたい。
これは3日もやってると「飽きる」どころではなく、
どんな人と一緒でも必ず喧嘩になるそうだが、それでもまあいいや。
オープンカーでロックミュージックをフルヴォリュームで。
氷のように冷えた甘ったるいコーラを飲みながら。

「イージーライダー」のようにハーレーにまたがって旅するというのもいいなあ。
でもこれは僕の外見にそぐわないし、そもそもバイクの免許がない。

アラスカでオーロラが見たい。グランドキャニオンとナイアガラの滝が見たい。
メキシコに渡りたい。そのまま中南米を下っていきたい。素人でも行けるとこまで。

学生時代、夏休みの1ヶ月に語学研修のためイギリスやカナダに行っちゃう子、
それだけでなく1年間留学する子、タイやインドにふらっと出かける奴、
会社を辞めて1年間放浪の旅へ出発する先輩、
いろんな人を見てきて、「ああそういうのが今のはやりなんだな」ぐらいに思っていた。
僕にはピンと来なかった。
日本にいるのが楽でいいじゃん、というようなズレた感想を抱いていた。
でも今なら分かるなあ。

(僕がこの日記によく書くことではあるが)
小説を読み、映画を見るために時間を費やすことが何よりも大事だった。
それはそれで今でも大事だと思うが、外に出ることはもっと大事だと思うようになった。
「書を捨てよ街へ出よう」と寺山修司の本にある。読んだことないけど、まあそんな気持ち。

去年の1週間のリフレッシュ休暇はドラクエZを借りることができず、
その代わりにレンタルビデオを1日に2・3本ずつ見ていた。
小説を書きたかったというのもあるし、オリンピックを見ていたりもしたが
とにかく「そのような過ごし方はいかん!」と反省した。
来年は1週間でも旅に出る。

それにしても「3ヶ月ないしは半年、海外に出てみたいんで休みます」
みたいな休暇の制度があれば会社にあればねえ。
勤続20年だか30年だかで1ヶ月休みが取れるというケチなものではなく。

---
半年から1年、小説を書くことに専念するための休みが欲しい。
やれるだけのことをやって、あきらめるなり次に進むなりするための。
このままだと僕は確実に後悔する。

この人生は失敗に終わってもいいから、若いうちに決断しておきたい。


[73] イメージトレーニング 2001-02-25 (Sun)

日曜だというのに、朝は7時に起こされた。下の子に耳を引っ張られて目が覚めた。
半分夢うつつの中「こら、やめなさい。・・・あああ、やめろったら!」と口をモゴモゴと動かす。
子供はその唇すら引っ張ろうとする。イテテテテ。爪が伸びている。
ちゃんと切ってやれよなあ全く、と思う。

ダイニングに行くと既に子供たちは「食べ」始めていた。
目玉焼きにフォークを突き刺してグチャグチャにかき混ぜて、つまらなそうにしている。
「もういらなーい」「わたしもー」
「あなた、この子たちに食べさせてあげてよ」とキッチンに立った妻が言う。
僕はその背中を見た。そしてテーブルに視線を戻した。
アニメのキャラクターがプリントされたフリカケの袋が辺り一面に投げ出されていた。
片付ける気にもなれず、ただ上の子に目玉焼きはもういらないのかと聞いた。
答えを待つまでもなく僕は皿を取り上げていた。「だったらこれはお父さんが食べるよ、いいね?」
「何してんのよ、食べさせてと言ったのよ私は。食べててとは言ってないわよ」
俺の分を今焼いてんだろ?新しいのを食わせてやんなよ、と僕は言う。
下の子がヨタヨタと走り出してリビングのテレビの前でペタリと座り込む。
僕は炊飯器からごはんをよそって、冷めてしまった白身と黄身をその上に乗せて食べた。
醤油とソースをかけた。それを見た僕の妻が「あなたの食べ方が一番汚い」と言った。

今日は上の子の運動会だ。後から家の近くの小学校に妻と下の子と3人で出掛けた。
グラウンドの脇には既にたくさんのビニールシートが並んでいて、外れの方しか空いていなかった。
そこにいるのは僕のような父親ばかり、僕はその中で若くも老けてもいなかった。
妻がクラス参観で知りあった、他の子の母親と挨拶をする。
僕も呼ばれて軽く会釈をする。僕は側に立っていた父親の方と話をする。
勤務地はどこですか?○○ですか、どれぐらいかかりますか。私は××の方で。お互い大変ですね。

開会式のようなものがあって、そこから僕はビールを飲み始めた。
3本空けたところでトイレに行きたくなった。
校舎の方にあるだろうと、僕は立ち上がりけたたましい喧騒の中をかき分けて進んだ。
パーンという音が聞こえて子供たちが走りだした後だった。
息子が走りだすのは今から30分後か、いい位置につけといてかっこよく撮ってやらないとな。
「あなたビデオ撮るときとつなぐときだけは楽しそうなんだから」
去年も確かそんなことを言われた。

本部のテントではジャージを着た校長らしきのがスーツを着た教頭らしきのと一緒に
パイプ椅子に並んで座っている。なぜか2人とも揃いの白い野球帽をかぶっている。
「俺はこんなやつらに息子の教育ってやつを任せてるのか」と考える。
いいも悪いも感じない。ただ、「ふーん」と思うだけ。
放送席みたいなのがあって、そこでは女の先生がアナウンサーのように実況中継をしている。
「1位は3組のサイトウタケシ君でした。2位は・・・」
無意味なほどに元気な、張り切った声。仕事というか「営業」っぽい。
年は俺と同じぐらいか?キレイな人だな。いや、ほんとキレイだよ。
あ、上の子の担任も女の先生なんだよな?そういえば。この人か?だったらいいなあ。
別に何がどうなるわけでもないんだけどさあ、その方が気分いいよなあ。

息子は僕と違ってそこそこ足が速く、1位は僅差で逃したものの2位でゴールに入ってくれた。
妻の機嫌もよくなった。僕の撮ったビデオを何度か繰り返して見てくれた。
今夜はファミレスに行くのだろうか。朝そんなこと言ってたな。
そのために僕が車を出さなければならないのだろうか。だったらもうビール飲むの止めとかないとな。
にぎやかに鳴り響いていた音楽もいつのまにか消えていた。
夕暮れだ。気がつくと周りは帰り支度。
拡声器を持った男の先生が後片づけの指示をしている。人々−父兄たちがゾロゾロと出口に向かう。
僕ら家族もその列の中に紛れる。ゆっくりと足を進める。
あーこんなふうにして休みの日が終わっていく。
僕はこれからあとどれくらいこんな日曜日を過ごさなくてはならないのだろう?
娘が僕の手を引っ張ってる。上の子はクラスの友人たちとどこかに消えてしまった。
妻が僕の先を歩く。僕は放送席にいた女の先生のことを考える。


[72] 僕らが「フロア」と呼ぶ空間の前後に関して 2001-02-24 (Sat)

土曜ということもあって、フロアには空調設備の業者の人たちが来て、
午後の間ずっと作業をしていた。
防塵マスクをして青いつなぎを着た年配の方たちがハシゴを持って右往左往している。
ハシゴを1点に据え付けると登って、正方形のタイルの並んだ天井のうち
空調用のダクトになっている部分を取り外し、さらに登って
天井に空いた真四角の穴の中に頭ないしは両手を突っ込む。
何人かの人たちが思い思いの場所でそれをやっている。
遠くから見ていて非常にシュールな光景だった。
角度によっては天井から、人間の首から下だけの胴体が
いくつもいくつもぶら下がっているように見える。
それが遠く離れたところにポツリポツリと。
僕は逆に、床からそれらの頭がニョキッとのぞいているサマを思い浮かべた。
そんなわけないんだけど。

あー僕もそこに首を突っ込んでみたいなあと思った。
頼めばそれぐらいやらせてくれるかなあと考えてみた。
(実際にそれをやったら他に休日出勤している人たちが
「岡村って変なことするの好きだよな」とか思うんだろうからやんない)
そこでは何が見えるのだろうか?ということが気になったわけですね。
「マルコビッチの穴」のようなめくるめく光景が広がってることは99%ないんだろうけど、
インテリジェントビルとかそういう名前で呼ばれてるモダンな高層建築物の
床下や天井の上っていったいどうなってるものなのだろうか?とは思う。
僕は前々から多少なりとも興味を持っていた。
LANケーブルが毛細血管のように張り巡らされ、
人1人やっと這いずり回ることができるような空調用のトンネルが迷路のように続いている
(そしてそこでは産業スパイが真夜中になるのを待っている)
そんなイメージ。他には何があるのだろう?

あ、でも本当に「めくるめく」世界が広がっていたらどうしよう。
人によって「めくるめく」といって出てくるものが違うんだろうけど、
僕の場合「×××の国が広がっているのではないか」なんて考えたりしますね。

---
今日は1日中雨が降っていた。ここ何日か暖かかったけど、また寒くなった。

・朝、部屋を出ようとしてドアを開けると小雨が降っていた
・アメリカで履いていたクリーム色のチノパンがクリーニングから上がってきて、
せっかくだから履きたいと思った

僕の中でこの2つが有機的に結びつくことはなく、
帰ってきてハッと気づいて裾を見てみると撥ね上がった泥でびしょ濡れになっていた。
「あちゃー。バカだなー、俺」としばらく嘆くことになった。
だからジーパンでなきゃ駄目なんだよ。


[71] この日何をしていたか覚えていない 2001-02-23 (Fri)

来週のリリースに向けて「佳境」とも言うべき状況に突入した。

この日記は2日後、25日(日)に書いているのだが、
一昨日のことなのに何をしていたのかよく覚えていない。
午前中部会があって午後はミーティングがあった。
その後はたぶんいつも通りスーパー管理画面の製造を行っていたのだろう。
それぐらいのことはわかる。だけど特にその「製造」の間での詳細な記憶がない。
金曜に作ったものに対して土曜に追加を行っていったのだから、
そして今それなりのものは出来上がっているのだから、ひたすら手と頭は動かしていたはずだ。
そのとき僕はロボットのように作業していたことになるのか。
何時に会社を出て家に着いて何時に寝たのか、思い出せない。
次の日も今日も身体的には普通に過ごしているので、問題となるようなことはなかったのだろう。

アメリカから戻ってきて2日休んだ他は毎日休みなし。
最近曜日の感覚が無くなってきた。
金曜から日曜まではジーパンで出社できるが、その他の日はスーツを着なくてはならない。
今日からジーパンで良かったんだっけ?えーといや、明日からだ。
そんな2分化の中で暮らしている。
日付の感覚もない。絶対的な日付の感覚。
「リリース予定日から逆算して今日は残り5日」
そんな相対的な時間軸にすがるようにして、日々の流れに身を任す。

今回僕は全部一人で作っているわけだし、そうなるとチームの中で進捗具合を確認して
負荷状況を割り振ってみたいなことも無くなるし、
そうだ、今は修士論文を書いていた頃の感覚に近くなってきた。
提出がこの日だから、この日までには製本所に持っていかなくてならなくて
明日は金曜で夜勤のバイトだから、土曜は昼まで寝て、・・・。

数えて見るとアメリカから帰ってきて半月になる。
本当に僕は1週間地球の裏側に行ってたのだろうか。
夢でも見てたんではないかという気がしてきてならない。
僕が会社の机の上に置いてあるこの空港の写真は本当に僕が撮ったものなのだろうか?
僕はこの光景を見たのだろうか?
僕はそこで何をしていたのか、ここ2週間の忙しさに引きずられてその記憶すら失いつつある。


[70] 荻窪にクリーニング屋が多いのはなぜか? 2001-02-22 (Thu)

荻窪駅から僕の部屋までの10分の道のりの間にクリーニング屋が5軒ある。
青梅街道と環八がぶつかる四面道から新宿方向に向かう
税務署通り・日大二校通りに至ると、もう何軒あるかわからない。
小さい個人経営の店が10軒以上あるはず。

それと同様に美容室も多い。美容室というよりは「パーマ屋」と言った方が良さそうな。
昔は、70年代頃は洒落てたんだけど、そのまま中の時間が止まってしまったような、
そんな佇まい。おばちゃんが1人で道具の手入れをしてるか、雑誌を読んでいる。
あるいは客なのか、2人で話しこんでいる。
髪を切ったり整えているのはあまり見たことがない。
やっていけているのだろうかと他人事ながら心配してしまう。
この辺りは昔からの住宅地だから、そして3世代同居という形も多いから、
長いこと住んでいた人たちはこのままここに住み続けることになるはず。
そのような人たちの何十年か前の若い頃、美容室はとても需要があったということか。
たぶんこれまで続いてきたのだから体のしっかりしているうちはもうしばらくは続くのだろうし、
長年の固定客というものをどこも抱えているのだろう。
だけどあと10年もしないうちにこれらのパーマ屋はゆっくりと消えていきそうだ。

ということで美容室はなんとなくわかる。でもクリーニング屋が多いのはなぜなんだろう。
古くからの店もあれば、新しい店もオープンする。これも結局「需要」なのだろうが、
それだけの人があの界隈に押し込められているのだろうか?
10階建ての団地が無数に立ってるわけでもなく、ほとんどが2階建ての住宅。たまにアパート。
学生はあんまり住んでなさそうで会社員が多そうだから、Yシャツを出す人が多いのでは。
そう考えてみたのだが、それは僕自身が会社員だから
そんなふうに感じられてしまうだけなのかもしれない。
まあとにかくどこもそれなりに忙しそうだ。

僕はこれまで小平市・国立市・国分寺市と移り住んできたが、
荻窪みたいにクリーニング屋と美容室で満ち溢れてるようなことはなかった。
これは荻窪だけのことなのだろうか?
多摩3市ともクリーニング屋は有名なチェーン店、美容室はできたばかりのような、
あるいはできて10年も経ってないようなそんな店が多かった。

---
そういえば僕が小平市で住んでいた大学の寮のすぐ裏に
去年 WebNation の運用で一緒に仕事をした牛込君の家があるらしい。
クリーニング屋をやってる。もしかしたら利用したことがあったかもしれない。

その頃、「大学のグラウンドで近所の高校生が早朝にゴルフをやっていて危険だ」
という噂を聞いた。もちろんクラブでボールを思いっきりひっぱたく、あのゴルフ。
あれはどうも牛込君とその友達だったらしい。
それを聞いたとき僕は「世界は狭いなあ」ということを実感し、
それと同時に「東京の高校生はやることが違うなあ」という変な感心もしてしまった。


[69] 例えばの話 2001-02-21 (Wed)

夜9時過ぎ、帰ろうとすると役職者から呼び止められ、「今後の話がしたい」と言われた。
今後の話。つまり、契約を更新するかどうか。この3月で2年間の期限が切れる。
周りの人にはこれまで一切言わないでおいたことなのだが、
僕は派遣社員のようなものであって、正式な社員ではない。

より正しくは「嘱託社員」という名称の方が感覚的に近い。
「嘱託社員」とはどんなものかというと、これはその会社で働いている人から聞いたのだが、
親がそれなりの企業の社長なり会長をやっていて、そのコネで入社した人のことを指すものであり、
「あなたは嘱託社員なので3年の期限が過ぎたら将来的にあなたが継ぐことになっている
会社の方にお戻りください」という扱い。
その会社とのつながりとかいろいろあるからとりあえず今はコネで入れてあげるけど
そんな人材をブラブラさせておくほどうちは甘くないよ、という考え方。
(ある大手商事会社の話です)

それで、僕は今の会社に親のコネがあって入社したのかというとまさかそんなことはなく
大学院時代に関わったとある研究機関(非営利)に卒業後もそのまま在籍し、
そこから出向に近い形で今の会社に派遣されてきてるんですね。
普通なら企業で何年か仕事をしてきた後に別の企業へというのを出向というのであろうが
僕は一応新入社員扱いで去年の4月に入れてもらってる。
で、その後他の同期たちと全く同じように給料をもらい、同じように人事評価を受けている。
これが僕が自分のことを「嘱託社員」と考えるユエンである。

2年間の期限が切れた後で僕はその研究機関に戻って、
その機関がこれまでにデータベースとして蓄えてきた情報を
インターネットで公開するためのシステムを構築することが決まっている。
これはその他の研究機関・大学などを広く横断するものとなるのでかなり大掛かりだ。
それが完成した後には、僕が本来研究していた冷戦時代のソ連のアンダーグラウンド文学の
文献・研究資料のデータベース化に取り掛かる。
3年後か4年後にはその資料の収集のためにモスクワに2年、
サンクトペテルブルクに1年、留学のために日本を離れる。
そういった作業が全てうまくいったら、僕は大学に戻って
たぶん30代半ばに地方の私立大学の講師から始まって、
その後の努力次第では国立大学の教授にもなれるかもしれない。

---
応接室で役職者と向かい合い、「期限を延長する意思はあるか」と質問される。
僕は少しためらってから、はっきりとした口調で答えた。「本来の契約通り、××へ戻ろうと考えています」
「そうか・・・。君が望むのなら、もっといてもいいんだぞ」
「・・・お心遣いはありがたいのですが、僕の考えは2年前と変わっていません」
役職者は上着の内ポケットからマイルドセブンの箱を取り出し、
1本引き抜いてテーブルの上をトントンと叩く。その叩いている一点をしばらく見つめる。
僕はその間、10階からの夜景を眺めた。
隣のビルではここと同じように、まだ多くの部屋で明かりがついていた。
白と黒の不規則なモザイク。それが意味のある模様のように感じられた。
モールス信号のように続く、トントンという音。
「この部屋で吸っちゃいけないんだよな」
「そうですね、禁煙のようですね」
「しょうがないな」役職者はタバコを元の場所にしまい、もそもそと立ち上がった。
僕も続けて立ちあがった。上着の裾を軽くはたいた。

応接室から自分の席まで、役職者の後ろを歩いた。それがやけに長く感じられた。
今夜はいくつもの瞬間が奇妙に間延びしている、だけど「時間」はしっかりと過ぎ去っている。
その緊張感に僕は疲れてしまった。
自席のPCのスクリーンセイバーがゆっくりと文字を吐き出している。
マウスをクリックしてデスクトップを表示させる。
メールをチェックした後でPCの電源を切った。
フロアにはまだ大勢の人たちが残って仕事をしている。
さよなら。
僕はそんな言葉を心の中で呟いてみた。


[68] アメリカに行ったときの写真を現像した 2001-02-20 (Tue)

アメリカに行ったときの写真を現像した。
出来上がったのを見ると、まともなのが少なかった。
屋内で撮るときにフラッシュをたかなかったことがまず1つ。
ホテルのロビーやダイナーで昼間に撮影したとき、
これぐらいの明るさなら映るだろうと思っていたのがそうでもなかった。

むやみやたらにフラッシュをたいたらアメリカ人に驚かれ
時には怒られるのではないかというのを常に心配していた。
自分のよくわからない言葉で強く言われることほど、外国にいて怖いことはない。
説明することも謝ることも反論することもできない。
それに「日本人はどこにいても写真撮ってんだなあ、すげえなあ」と
感心されるのもあほらしい。

外で撮ったのはきれいに映っているのだが、たいがいは構図が狂っていた。
その風景を撮るためのバランスのとれた配置というものがあるとしたら、
そこから必ず右や左、上や下に1・2cmずつずれてしまっている。
俺って才能ないなー、こんなもんなのかなーとげんなりした気持ちになる。
使い捨ての「写るんです」だったということもあるけど。

撮ろうとしたものから撮られた絵の中心が反れてしまっているのは
カメラに慣れていないからなのだろうか。
もっと日常的にたくさん撮ってればうまくなっていくのだろう。
だけど今の僕には写真を趣味にしたいという意欲がない。
ロバート・キャパやロバート・メイプルソープといった有名どころの写真展が
新宿のデパートの美術館でやってるようならば、1年に1度ぐらいは行くんだけど
自分から撮ってみたいという気になったことはこれまで1度もなかった。
なぜなんだろう?

---
学生時代映画サークルにいたとき、監督系の人間のほとんどは
写真か文章か、映画以外のオルタナティブを持っていた。
完全に映画だけという人は上にも下にもあんまりいなかった。

カメラを常に持ち歩いて、「いいね、この風景」となると
カシャッと撮って、もしかしたらのちのち自分の映画に使われる。
実際の8mmやビデオの現場でも、「撮影」とは別にどんどんスナップ写真を撮っていく。
役者やスタッフたちの、カメラが回る前の緊張感や回った後のほっとした様子など
何気ない瞬間を切り取ったものを後日、部室や喫茶店で見たりするのは楽しい一時だった。
実際に完成した作品以外にそのような記録が残されているのは、
学生映画サークルとしての正しい有り方だったように思う。

僕は写真を撮る人間ではなかったので、僕の現場の写真はほとんど残っていない。
役者かスタッフに写真が趣味の奴を入れるとたくさんある、全くいないとゼロ。
僕がどんな表情でその作品に向かっていたのか、今となっては分からないものが多い。
笑っていたのか、常にこわばっていたのか。
現場の雰囲気、あの時あの人はこんなことで笑っていたというのは覚えていても
自分自身のことは、・・・いったいどうなっていたんだろう?

---
今回現像した中で最も良かったのはホテルのベランダから撮ったもので、
直線道路の向こうに空港の施設、滑走路、さらにそのはるか向こうに
地平線のようにうっすらとダラスかフォートワースの街並みが広がっているもの。
ほんと何もない場所にいたんだね、ということが誰にでもよくわかるはず。


[67] トホホな日々 2001-02-19 (Mon)

(A) Select OrderID,RowID from aaaaa_TBL
where date_entered between #01/01/31 00:00:00# and #01/01/31 23:59:59#

という SQL文が MS-ACCESS から ODBC経由で MS-SQLServer7.0 へとどうしても通らず
(SQLServerのコンソールで直接入力するとそれは通る)、3時間かかった末に

(B) Select OrderID,RowID from aaaaa_TBL
where date_entered between #01/01/31 00:00: 01# and #01/01/31 23:59:59#

としなければならないということがわかった。こっちだとなぜか通る。
なぜかはもちろん僕にはわからない。
現時点で今年最大のトホホな出来事。脱力した。怒る気力もない。だけど、

なんでこんなわけわかんない製品作ってんだよマイクロソフトは!!
ふざけんなビルゲイツ!!


奴のせいで奴のせいで俺はもう・・・。ほんとやらっれっぱなし。

こんなことばかりで悩まされ続けた俺の最近の土日を返してくれ。

それにしてもこういうのって知ってる人には常識なのか?
日付の変換は基本中の基本か?
そういうのを教わることもないまま作らされてる俺って・・・。


[66] 今日会社に出てきて半日かけてやったことが徒労に終わった 2001-02-18 (Sun)

今日会社に出てきて半日かけてやったことが徒労に終わった。
徒労。徒(いたずら)に労すると書く。
前に進まず何も生み出さず。こんなことなら寝てりゃあよかった。

5時間6時間を費やしたわけなので何もないってことはないのだろうけど
具体的な成果はなし。「道はまだまだ遠いなあ」と実感しただけ。
今回体力的な無理はしていないので気が滅入ったりはしない。容易に落ち込まない。
でも先が見えないのがつらい。それが精神的にしんどい。
技術的にわかってないことだらけでスタートして未だに手探りの状態で進んでるので、
あとどれぐらい何をしたらいいのかがさっぱり見えない。
2時間で30行のコードを書けば完成、というような。

計画性のかけらもないのでとりあえず時間の許すかぎり取り組んではみるものの
「○○を実現するには××の方法ではNGだ」ということがわかるだけなのがほとんど。
毎日毎日クジを引いていく。アタリが1つ。ハズレが5つ。どっちでもないのが4つ。
そんな割合でどうにかこうにか進んでいっている。
仕事の進め方としてはかなり最悪。出来高払いのバイトのような感覚。
これでも僕は本当に「上級職」なのか、会社では?

15コの機能をリリースする中で小さな簡単なところから手を付けていって
そのうち10コはなんとかなった。
しかし、でかいヤツがまだ3つばかし残っている。
それがほんと何をどうしていいかがわからない。
ある程度のコードを書いてある程度の動作をするようになっても
どうすれば全ての条件を網羅できるのかわからず、ちょっとしたことですぐ動かなくなる。
ここんとこずっとそんな調子。
何をどうしたら完成なのかわからない状態でリリースしかねない。
ぱっと見動いてるんで大丈夫なんでしょう、という状態で。
怖い。とても怖い。その日が来るのが怖い。
リリースしてもバグがひっきりなしに出てきそうだ。
とてもじゃないけどこれからとんでもない量のテストをしなければリリースできない。
それを考えるとさらに気が遠くなる。
もう1度書くが今回の僕の仕事の進め方は間違っている。
だけど今さら引き返すことはできない。
僕が自分で終わらせるより他にない。

1からつくってるわけではないので、その多くを他からコピー&ペーストすることで間に合わせてる。
他の作り方を知らない。どうすれば技術的に正しいのかがわからない。
とりあえず動くようになったから次!そんな感じ。
だからここではこれで動いてるのになんでこっちでは動かないのだろう?そんなのばっかり。
特に今日は全部それで、イライラして何度かキレそうになった。
フロアに人がいなかったら僕は「何か」してたかもしれない。
自分の席のPCも調子悪くなる一方だし、いつかブチ切れて床に叩き付けてしまいそうだ。
これまでに何度かそんなことをしている自分を思い描いてみた。
今日は「もうやめだ!全て投げ出して失踪してやる」と思う瞬間もあった。
でもどこへ?何も思いつかない。青森?アメリカ?何か違う。
それよりも何よりもそんなことしたらその後の人生のリカバリーが大変そうだ。
僕も大人になった。切れるのを堪えたほうが残りの日々が少しはマシになる。
ここで簡単に切れてしまったらその後の自分は人間が小さくなってしまいそうだ。
それはみっともないな、つまらないな、ただその思いで最近耐えている。

僕はあとどれぐらいの時間をドブに捨てなくてはならないのだろうか?
1週間?それぐらいで済むのだろうか?

とりあえずこの仕事赤字だろうな。


[65] Are You JAVA ? 2001-02-17 (Sat)

朝起きて、最近曜日の感覚のない僕は「あ、会社行かなきゃ」と思う。
行ってカタカタと仕事をする。僕1人のためにフロアには電気がついている。
午後になって人が集まりだす。土日によく見かける人たちが今日もやって来る。
珍しく僕の直属の上司が来た。一部では「鬼」と称されている人だ。
「どうだ?調子は」と聞かれて、世間話を始める。

「例の仕事はオブジェクト指向で分析をして JAVA でコーディングということになっていますが、
そのコーディングは誰がやるのでしょうか?外注に任せるのだと僕は考えていましたが」
「岡村君も JAVA のコーディングを経験したまえ」
「いえ、結構です。僕はもう当分プログラミングをしたくはありません。
単体テスト報告書を100枚も書くのは疲れました。
WNの管理画面で今年はもうおなかいっぱいです」
「JAVAもVisualBasicも似たようなものだが」
「ちょっと待ってください。寝言は寝てから言ってください」

(中略)

「・・・確かに僕は今回の仕事で MS-ACCESS VBA に関しては
この部署の誰よりも詳しくなったはずです。しかしこの知識が
今後何かに役立てるということはあるのでしょうか。遅かれ早かれ廃れゆく知識です。
特にマイクロソフトは、大きくなりすぎた恐竜が身動き取れなくなったようにやがて・・・。
Windows が Linux に取って代わられるかどうかは別にして。
何にせよ、ACCESS 自体は切り捨てられるでしょう。
VBA という考え方自体無くなってしまうかもしれません」
「そのためにも JAVA をやろうじゃないか。JAVA は簡単だぞ」
「僕、自慢じゃないですがこれまで JAVA の本を20冊は読みました。
でも何が何だか意味不明でした。向いてないのだと思います。
そもそもCやC++はさっぱり理解できませんでした。
小さいころに MS-BASIC に触れ、入社して HTML から入った人間からすれば
CやC++は余計な手続きが多すぎてバカバカしいです。
なんですか、あのメモリの管理だというのは?
なんでそんなことコンピューターが自動でやってくれないんですか?
画面に文字を出すだけで一苦労じゃないですか。
HTML は偉大ですね。僕はそれだけ知ってればもういいです」
「君はなんてこと言うんだ。ボーナスの査定を下げるぞ」
「もー構わないです。JAVA は理系でコンピューターの好きな人ならいいのでしょうが
文系で「コンピューターについてどのように感じているか?好きか嫌いどちらかで即答せよ」
そんなふうに質問されたら「えーそうですね好きではないです」と答えそうな僕にはどうにも。
前から薄々気付いていたのですが、僕コンピューターが好きではないみたいです。
あんまり興味が沸かないです。
僕、次転職するならコンピューター以外のものがいいです」
「そうか、わかった。君の姿勢が。向上心のない人間は将来的に会社にとって不要な存在だ。
今すぐ荷物をまとめてどこにでも行ってしまえ。君の顔見るのは不愉快だ」
「ありがとうございます。その言葉を待っていました。
ではさようなら。今までお世話になりました」

・・・というような会話が実際に交わされるようなことはなく、どっちかといえば
「鬼」上司に「岡村君もさーそろそろジャバやろうよお、ジャバー」と言われて
「そうっすねー。そろそろやんないとやばいっすねー、ジャバー」と答える、そんな感じでした。
ああ今日もこんなふうにして日が暮れていく。夜になる。あーあ。


[64] 風景、あるいは光景(さらに続き) 2001-02-16 (Fri)

(一昨日、昨日からの続き)

結論から先に。
働き出してから「これを撮りたい!」と思うような風景に出会うことのない日々を
過ごしていた僕なのであるが(と2日かけて書いてきたのであるが)
全くなかったと言えば嘘になる。

気になってる風景が1つだけある。風景というよりは場所だ。
そこは多くの人間にとって日常的な生活から
非日常的な時間への入口としての役割を果たしていると思う。
あるいはその出口。
高度な科学技術が集約された部分と、物理的に何もない空間の広がり。
人々の声。響き渡るアナウンス。
周囲の機能的なデザイン。
一定のラインを超えるとそこでは静けさが辺りを制圧する。
その広い空間が制圧する。巨大な静けさの印象によって満たされる。
そしてそれはふとした瞬間に破られる。轟音が空の彼方へと遠ざかって行く。
壁一面のガラスの向こうでは白いジェット機が静止している。

僕は99年の秋に初めて1人で飛行機に乗って、青森に帰った。
朝早く羽田空港に向かった。いくつかの手続きを済ませて、時間が来るのを待った。
搭乗口から飛行機までの輸送手段は小型のバスだった。
どこまで行くのだろう?と思いながら窓の外の風景を眺めた。
人類が初めて月面に降り立ったときに使われたような形をした
古びた荷物運搬用のカートが、残骸のように無造作に置き去りにされていた。
コンクリートの地面がどこまでも続いて、様々な地味な色で直線や曲線が引かれていた。
バスがゆっくりと飛行機の側を通りすぎる。
角度が変わることによって機体の様々な箇所を見ることができる。
オーバーオールを着た日に焼けた男がエンジンを整備している。
青空。ちぎれた、白い雲の破片。

このとき、僕の中で何かが一瞬にして形作られた。
音楽が聞こえた。映画のオープニングだ。
飛行機へと向かうバスの窓から見える光景。
そこにタイトルや役者の名前が現れては消える。
ギターのカッティング。タイトなリズムの感触。
やがてバスは動きを止めて、そこから本編が始まる。
その飛行機は既に空へと飛び去ってしまった。
誰かが空港の近くの柵にもたれて、その小さくなってしまった一点を見つめている。
彼、あるいは彼女は見送りのためにそこに来た、
しかしその人に直接別れを告げることのできるような立場にはない。
耳を突き破るような音が消えて無くなって、彼、あるいは彼女はそこから歩き去る。
カメラはその歩く姿を捉える。歩くのと同じスピードでカメラがゆっくりと水平に移動する。

僕はこのシーンを完全に、頭の中でイメージとして構成することができた。
これは「いける」と思った。
物事の始まっていく予感。心地よい緊張感。僕は僕を取り戻せるかのように感じた。

・・・しかしここから先の光景を僕は導き出すことができなかった。
物語はどこに向かっていくのか。−−−飛行機はどこへと向かっていたのか。
そもそも彼、彼女は誰なのか。僕のことなのか、それとも別な誰かなのか。

僕の中でその瞬間が永遠に止まってしまっている。
彼、彼女は歩き続けたままだ。空港の柵の側を。何も言わずポケットに手を突っ込んだまま。

---
僕は先週アメリカに行ったとき、同行した人の写真はほとんど撮らずに
空港の写真ばかりを撮った。成田だけで12・3枚は撮った。

空港の雰囲気が好きだ。しかしその中で暮らしていくことはできない。
束の間の時間をそこで過ごすだけ。どこかへと向かうための通過点にすぎない。

目的地を見出せないまま、だけど移り変わって行くのを願うということ。

僕はいったいどこへと向かおうとしているのか?


[63] 風景、あるいは光景(続き) 2001-02-15 (Thu)

(昨日からの続き)
学生時代に映画を撮り続けることで燃え尽きてしまった僕は
働き出してから「撮りたい」とは思っても「じゃあ何を?」ってところで
何も出て来なくなってしまった。
撮りたい風景も言わせたいセリフも使いたい音楽も役者として面白そうな奴も
そういうのを見つけ出そうとする努力をしなくなった。
僕がこの前最後に撮った作品から2年が経過。
映画の一部品として使えそうなイメージやモチーフの断片は
僕の中で無数に蓄積されているはずなのに、
それを吐き出すための第一の突破口が見出せない。
ちょっとしたきっかけがあればあとは、転がっていけるだろう。
坂道を転げ落ちていくように。その突破口。

(ある意味それが見つかることを恐れている自分もいる。
そうなるともう後には引き帰せないから。
作りたいと思うものを作っている間はいい。日々楽しく過ごせるだろう。
しかしそれを作り終えた後の僕はどうなるのか。フリーターか?
あてもなくそんな暮らしをするのは嫌だ。
今も昔も映像の専門学校やシナリオライター養成所に通う気はないし)

イメージやモチーフの断片はたくさん眠っているはずだ。
それを結びつけるための手段に、もどかしさを感じているだけだ。
より正しくはそれを半ば強引にでも結び付けていくための熱意やエネルギーだ。
それが失われてしまった。

今の僕には中途半端な作品はつくれないし、「お手軽な」作品もつくれない。
ある程度の方向性とある程度の質感を持ったものをどうしても望んでしまう。
これまでと同レベルなものをつくりたいとは思わないし、
最低限のものであれ「前進」を何よりも求めるだろう。
しかし次の段階に進むには乗り越えなくてはならないものが無数に存在していることはわかっている。
次の一段が非常に高いハードルとなって僕の前に立ちはだかっているのが見える。
撮影の方法や脚本の書き方といったテクニカルな面もそうだし、
「僕が向き合わなくてはならないもの」
それにどこまで深く食い下がっていけるか、
それをどこまで他人に伝えようとするか
(それは自己完結で終わってしまった場合にどこでそれを失敗作だと認めるか否か、その境界線を持つことでもある)、
そしてどのような結論を見つけたいのか
(ぼくはこれまで灰色のデリケートな濃淡、その微妙さを提示して終わることを好んでいた。
見る人によってその色合いが変わるというような。
しかし僕もそろそろ作品の中でイエスかノーをはっきり言うようにしなくてはならないと思う)。

エネルギーを失ってしまった僕はその高いハードルの前で
これを飛び越そうとする日が来るのだろうかと考えるだけで日々を過ごしている。
僕はこの壁にもたれかかり、それは始めのうちは冷たくごつごつしていたものの
今では僕の体温が残りその感触にも慣れてしまっている。
それはいいことなのか、悪いことなのか。そもそもいい悪いの問題なのか。

普通の会社員として何の不安もなく暮らしていけていることに
ためらいを持つべきなのかどうか。

---
あ、また今日も逸れてしまった。

明日こそはきちんと当初の予定通りに書く。空港という風景についてです。


[62] 風景、あるいは光景 2001-02-14(Wed)

僕は学生時代に8本の映画をつくった。
そのうちの6本は大学院時代の2年間に撮った。
4ヶ月に1本の割合で完成したことになる。
これは、学生映画としてはかなりのハイペースだ。
しかもそのほとんどが1時間を越え、長いものは2時間半になる。
就職活動をしていた時期、修士論文を書いていた時期を除けば
それなりに勉強をしてバイトをやった中で
残りの自由に使える時間のほぼ全てを映画に注ぎ込んだ。

僕は1作ごとに成長していった(と僕は信じている)。休みなく階段を上り詰めていった。
最後の2本は120%力を出し切って僕としては後悔のない作品をつくり上げることができた。
最後の作品で全てを使い果たした。
ああ、僕はこれを作るためにこれまで走り続けたんだな、と思った。
それまで言いたかったことの全てをそこに閉じ込めた。思い残すことはなくなった。
そこで僕は燃え尽きた。

映画をつくりたいとは思う、しかし何を題材にしていいのかインスピレーションが沸かない。
そんな時期がしばらく続いた。ゼロになった。えぐられて穴が空いた。
埋められることのないまま大きくも小さくもならず、ただ空白だけが残った。
物語を紡ぎ出すことができなくなった。
僕は僕の現実的な生活をやり過ごすより他になくなった。

働き始めたのだから、それでもこれでいいのだと思った。
悔いが残る作品をつくってジタバタしてるよりよっぽどいいやと考えることにした。

がむしゃらになって映画をつくっていた時期は
「あ、この風景は使える」「この建物はどうか?」いつもそんな視点で周りを見ていた。
働きだしてからはそうでもなくなった。
僕は目の前のその光景を見ていることもあるし、見ていないこともある。
良くも悪くもニュートラルになった。

風景。意味付けのされない単なる「風景」の中を生きてゆく。

---
様々な物事が通りすぎていって時々思いついたように僕は取捨選択をする。
目を閉じてそっとその光景を記憶の中から取り出す。
僕は映像よりも文字の人間だから、探り当てたその記憶は
イメージとしては曖昧なものになっている。
ぼやけて消えてしまった部分を僕は言葉で補っていく。
いつのまにかそれは全てが言葉に置き換わっている・・・。

---
あ、今日書こうと思ってたことからいつのまにかかなりずれてた。
明日やり直す。

とりあえず明日に続く。


[61] 今よりは音楽に近い仕事 2001-02-13 (Tue)

www.webnation.co.jp の新年会が行われ、参加した。
各社の現場レベルの担当者が集まるもの。
店は新宿、鍋やカニが出てきておいしかった。使える。

WebNation に音楽・映像商品を卸している会社の人と初めて話をした。
名刺の交換をした。
音楽が好きだったり詳しかったりするんですかと僕は質問をした。
「嫌でも詳しくなります」と即答される。
「この仕事をしていると興味がなくても詳しくなります」
卸しなのでメーカーか店舗、どちらかをひたすら回る。
休みの日にCDを買いに店に足を運ぶことがなくなったと僕の隣の隣の人が言っていた。
店に行っても客が何のCDを買おうとしているか見てしまうし、
何を試聴しているかそれとなくチェックしてしまうし、
商品の陳列が少しでも乱れてたら直したくなる。
小島さんが「僕は休日に家でインターネットをしたくはなりませんね」と言うと、
「そうそう、そのようなものです」と相槌を打つ。

CDすら買わなくなると言っていた。
「岡村君も趣味で聞いてる方がいいんだろうね」と小島さんは言う。
実際に演奏する(これはなさそうだ)
ロックの雑誌で働く(これは運がよければあるかもしれない)
これら、音楽を音楽のままで扱えるような仕事なら
(「仕事」としてしまうとそれはそれで音楽からかけ離れてしまうことになるのか?)
多少なりとも「趣味と実益を兼ねる」というスタンスでやっていけるのかもしれないが、
音楽をパッケージ化された商品として捉えるようになれば
遅かれ早かれそれはただの商品でしかなくなるのだろう。
日々、商品を効率よく流通させることだけを考えるようになる。
照明器具・健康食品を売って歩くよりはましか、そんな気分で。

DGの渡辺さんと初めて個人的なことを話す。
学生時代からDJをやっているとのこと。
話題は僕や阪本さんが関わっているうちの会社の「2000年今年の10枚」に。
渡辺さんは「DJ的」な聞き方・買い方が身についているので
試聴して曲単位で「これはいい、買う、これはいまいちだ、買わない」という
0か1の判断を素早くしていくらしい。
対照的に僕は「資料」的な聞き方・買い方が身に染み付いてしまっているので
試聴は一切しない。店で試聴機のヘッドホンを利用したことがない。
このアーティストのアルバム8枚出ているうち6枚持ってるから
これも一応持っておく、みたいな買い方。
それがガイドブックを見る限り「世紀の駄作」扱いをされていようと構わない。
聞いてみて本当に「あ、こりゃひどいや」と思ってしまうことになっても全然構わない。
ぶっちゃけた話聞かなくてもいい。ビニールを破らなくてもいい。
1度聞いてみたらあとは「持ってる」だけでいい。

でもそうなるとアイドルオタクのような、その人のモノなら全部集める、
しかも無名であればあるほどありがたいというような
コレクターになってしまうのではないか?と渡辺さんは僕に問い掛ける。
それはちょっと違う、と僕は答えた。

例えば僕がドアーズが大好きだとして、ドアーズに関する書物を読み漁り、
ドアーズのTシャツを着て歩き、万が一フィギュアが出たらそれも買うか
といえばそんなことはまずしない、興味がない(ヴォーカルであるジム・モリソンの詩集は買ったけど)。
音楽そのものが大事なのであって、それは同時に
「僕がその音楽を持っているということ」こそが大事なのであって、
その音楽を閉じ込めたもの、あるいはそのソウル、
僕が惹かれるのはそこだ。そこに尽きる。
もちろん、高級なアンプとスピーカーを買い求めて
音がやっぱり違うねということもしない。
はっとする瞬間があるのであれば、安物のAMラジオでノイズが混じっていても「許す」だろう。

僕は確かに普通の人ならまず間違いなく知らないし知らなくてもいいようなものを
たくさん持ってるが、それは嗜好がマニアックな方向に向かっているからというよりは
少しでもかっこいい音楽を聞いてみたい。少しでもいい曲を聞きたい。
これまでになかった斬新な音を聞いてみたい。そんな欲求が常にあるからだと考えている。
それはアメリカの70年代でアンダーグラウンドなまま終わってしまったグループのコンピかもしれないし
それは時としてhitomiの「LOVE2000」やモーニング娘。の「Loveマシーン」なのかもしれない。
僕のレンジはどんどん広くなっていって、より難解なノイズミュージックにも
日本のチャートで1位になった使い捨てのような曲にも同じだけの興味を持つようになった。

しかし、それらのソウルや興味をあるがままに受け入れ、
あらゆる瞬間で音楽を楽しんでいるかといえばそうではない。
ライナーノーツやアーティストガイドを何よりも大事がり、
その音楽を知識化し学習し体系化していくことに喜びを見出している自分もまた
はっきりとそこにいる。

音楽が好きで好きでたまらない半面、
音楽は究極的には「資料」だと捉えてしまう僕はどこか崩れてるとも思う。
音楽は素材だ、とする渡辺さんの聞きかた、
それはそこから自分の音楽を作り出すことも可能なのだから、
その方が正しいと思う。健全だと思う。
音楽を聞くという事に対して優劣もいい悪いもないはずなのだが、
自分のしていることは間違っていると感じてしまう瞬間が時としてある。
それは音楽を聴くという姿勢よりも
「消費する」という姿勢が勝っている瞬間なのだろう。


[60] 昔の日記が出てきた 2001-02-12 (Mon)

昨日、部屋の片付けをしてたら机の引き出しから昔付けてた日記が出てきた。
「やだなあ。恥ずかしいことしてたなあ」と思いつつも一応ページをめくってみる。
そこに書かれてることのくだらなさは手にとってみるまでもなくよくわかってる。
思い出して嫌な気持ちになる。人生でも一番楽しい時期だったんだけど、
文章のテンションの低さがいかんともしがたい。19歳の2月から12月まで。
上京して1年目の終わり頃から2年目の終わり頃まで。
そもそも字が汚くて読めない。読めるんだけどわざわざ読みたいと思わない。
たくさん書いてる時というのは同時に勢いがあるときであって
それは要するに「書くべし」という衝動を感じているわけなのだが、
そういうのに限って追っつかなくて殴り書きになるから読めたものじゃない。
ロシアに行く直前、「僕は遂に童貞を捨てた!」なんて書いてあるのを見つけて、
・・・破棄しようと思った。その後「世界はここから始まる!!」と続く。
僕は若かった。そしてそのまま、年をとってしまった。
この日記帳は単なる過去に過ぎなくて、今の僕にとっては何の役にも立たない。
ゴミ箱の中がふさわしい。さよなら。

全般的に授業に出てどうこう、バイトに行ってどうこう、
麻雀をやってどうこう、酒を飲んでどうこう、ということしか書かれてない。
毎週、同じ授業に出て同じ時間にバイトに出て、毎日、同じことの繰り返し。
「すげえな、ここまでなんにもなかったのか」とむしろ自分で自分に感心してしまう。
明日のことは考えなくていいし、昨日のことは忘れてしまえばいいし、
今日のことはただ適当に受け止めて垂れ流してればいいし、
最高にいい時代だった。日記だなんて付けなければよかった。

捨ててしまう前に幾つかの文章(と呼ぶのは嫌だが)を書き残しておく。
並べてみると普通に日記を書いているようだが、ここに載せなかった残りのやつは
(それがまあ大部分だが)かなりやばい。しょぼすぎて見るに耐えない。

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3月16日(水)

昨日はその後石坂と裕と3人でカラオケに行き、
3時間歌った後仁の退寮を記念してコンパを
開いた。バイトのため8時に起きなきゃならなかったの
だがなんとかなるだろうと思って飲み始めた。山手線
ゲームが始まりそこで見事にはまってしまい、とんで
しまった。泡盛をストレートでイッキ飲みしたらしい。
叫び回って俺はだめだとか口走ったそうだ。
起きたら10時半になっていて急いで寮から飛び出して
いった。着いたら具合が悪くなり、トイレで3回吐いた。
掃除のおじさんから胃薬をもらって飲んで寮に
帰って3時間ぐらい寝たら少し良くなった。その後
またバイトに行き、ぼんやりとした時間を過ごした。
この一件で僕は信用を失った。嫌なことだ。

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3月18日(金)

自由というのは何らかの制約があって初めてその存在を
有意義なものとする。自由というのは前提としてそこにある
というのではなくて得るものでなければならない。僕が
今置かれている状況というのは自由とはまたかなり違う。
物理的には何の制約もない。日一日怠惰に過ぎて
いくだけだ。誰も僕を責めるものなどいない。精神的
にはどうか。僕は今何を考えてもいい。どんな
思想を持とうとどんな妄想を持とうと構わない。
しかしそういう状態を自由と呼ぶことは今の僕には
できない。むしろ不自由だ。あらゆる意味で不自由だ。

*******************************
3月23日(水)

その後2年生の追いコン、ナーバスな気分で始まった。始めは一松で
やっていたが、その後寮に戻って再開。僕と仁は全裸に
なって中庭で叫んでそのまま風呂に入った。倉橋も加わって
3人で夢を追い求めることのリスクについて話し合った。
夜中も2時を過ぎていて湯は冷めていてぬるかったが
そんなことはどうでもよかった。部屋に戻ってからまた飲み
始める。そのあたりから記憶がなくなった。

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3月26日(土)
今日もまた夢の一断片:
明彦がなぜか小さくなってしまった。僕はアイスらしき
ものを食べていて明彦はそのアイスの中に
入っていく。僕はそれに気付かず冷蔵庫の
フリーザーの中に入れてしまう。明彦の父らしき人が
明彦はどこだと尋ねる。僕は探し回る。誰かが
(これは今となっては判別がつかない)冷蔵庫の中は?
と尋ねるので、僕ははっと気付いてアイスの箱を取り
出した。明彦は凍りついていて、パーマンのコピー
ロボットのように球と棒だけの体になっていた。
僕は左手の上に彼を乗せ右手で温めようとするのだが
うまくいかない。左足、右足、右手と折れていってしまう。
左手だけが残された。

*******************************
4月15日(金)

倉橋と一緒に武蔵野でラーメンを食う。
僕は一番安いものをたのみ、わびしい思いをしていたら
彼はチャーシューを1枚分けてくれた。
この恩は忘れない。

北2Bのピエール君と打つ。

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9月12日(月)

バイト5時30分で切り上げて
太田とサンダルズのライブ。
場所は渋谷クアトロ。
一度入って腹が減ったので出る。
吉野家の牛丼を食べる。
雨が降ってる中を戻る。
待たされて待たされてライブが始まる。
前座(Audio Active)
ベースがうまい。一曲全部チョッパー。
終わってさらに待たされて始まった。
かっこいい。
いつのまにか体は反応しグルーブの中へ。
太田に言わせるとイマイチだったとか。
でも他に知らないので僕には良かった。
吉祥寺のジャズの聞ける店で飲む。
僕はウォッカ。
多摩湖線の終電を逃して
2人で歩いて帰る。

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11月7日(月)

(学園祭3日目)
高場のところに顔を出したら
ただでおでんが食えた
今日はどこもあまり店はやってない
映創会にも人はほとんど来ない
礒さんという伝説の人が見に来てくれていた。
ダンス部で飲んで
盛り上がって結局池落ち。
寒くなったのですぐ寮に戻った
途中で自転車にぶつかり
カゴが曲がり、調子が悪くなった。
由利とプヨプヨをやる
その後格ともする。
久々に大暴れした、今日のコンパでは
グチャグチャになった。
気持ちいい

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11月24日(木)

体育はフォアボール1 セカンドゴロ1

ついにスタジオに入る。
演奏はけっこうなんとかなった。
1時間で1人400円ほど取られる。
メンバーもいい人たちばかりだ。
残りの3人のテクがしっかりしてるので
僕が崩れてもなんてことない。
いきなり歌わされる。
西武線の終電になんとか間に合った。

スーパーマリオ3の5面をクリアした。


[59] 今日もまただるいんだよねー 2001-02-11 (Sun)

昨日に引き続き今日もだるい。考える気力がない。
それはつまり人と話す体力がない。
昨日1日休んで今日からバリバリ休日出勤するつもりでいたのだが
面倒くさくなってそれはやめにする。あほらしくなった。
歯車か、俺は? ・・・ねえ、歯車、俺?
今日1日分○○○が遅くなったところで人生は80年あるんだからさあ、みたいな気持ち。
無駄に気分が大きい。そしてその分密度は全体的に薄い。少し不安になる。あくまで、ほんの少し。
明日は国民の祝日のさらにその振替休日だ。
月曜が会社休みで、そのまま火曜・水曜と休み続けたらどうなる?面倒くさいというだけの理由で。
僕が会社を無断欠勤したというだけでは地球の温暖化は防げないし、森のバカも辞めそうにない。
だったらどうすればいいんだ?もっと休む?俺1カ月ぐらいアメリカ行きたいんだよねー。
目覚めちゃったよ、海外旅行に。とりあえずアメリカを回りたいね。グランドキャニオン。
ダラス行くから近いと思ってたんだけど、あれ全然近くないんだね。あとニューヨーク。
メキシコとブラジルにも行きてえな。北極圏でオーロラも見たい。死ぬまでに1度。
人間いつ死ぬかわかんないからさ。あんた明日死ぬかもしれないよ?
死ねる?そのとき、あっさりと?僕?死んだっていいよ。だってしょうがないもんねえ、今。
すいません、僕今夜することなくてずっとビール飲んでます。数えてみたら、7本飲んでる。
正月に親戚からもらってきたエビスビールがあって、あれって最初の1口はうまいけど
2本目、3本目になるとかなりまずいね。渋くて。大人の味。
僕お子様だからバドワイザーがよくてさ。この前面と向かって子供扱いされてさあ、
君はなんでそんな子供なのか、もう20代も後半だろう?
へっうるせえよ、じゃあてめえはなんだよ、オマエ人に説教できるほど偉い人生を送ってんのかよ?
この世に何か残したのかよ?オマエの娘は美人なんかよ?まーいいや、どうでもいいや。
で、そのエビスビールがやっとのことでなくなって、そこから先はキリン一番搾り。
会社から運んできたやつ。去年の暮れに「納会」とかいう名前でしけた
なんだ、最初に専務が出てきて挨拶をするようなやつがあって、
そんでだーれも酔っぱらってなくてビールが箱でたっくさん余ってて「もったいねえや」
「どうせあれ会社の経費で買っててあとで返品するんだろ」と
一箱抱えてエレベーター降りて目立たないように大きな袋に詰めて、
それで日比谷線・丸ノ内線乗ったんだよね。
でも国産のビールならアサヒのスーパードライが一番いいね。
「あなたはどこのビールが好きですか?」って聞かれたら「サッポロ」っつうのが
通っぽくていいらしいけど、それなんなんだろ?スーパードライの方がうまいじゃん。
あ、その前にバドワイザー。アメリカって偉大だよなあ。
ハイネケンはドイツ?あれはおいしくないね。ギネスは・・・よくわかんないね。うまいよ、たぶん。
そう、それですることなくてこれまたやっとのことでDVDの
ビースティーボーイズとビョークのビデオクリップを見ることができて。
ビースティーはやっぱ「Sabotage」だね。これに尽きるね。
これ以上に冴えてるねなかったね。がっかりしたよ。
もっと「クール」なもの想像してんだよ、俺みたいな一般リスナーは。
ほとんどただの意味のない映像の垂れ流しじゃん。
俺に作らせろ。ソニーミュージック面接で落ちてさ、そのときどういうわけか
音楽プロデューサーで受けててさ、「あなたの好きな音楽ソフトとその理由」なんて質問があったから
おお、これはいくらでも書けるなんて思っちゃったんだよね。
それいいこと書いたから面接進んだんだけど、
そんで俺学生時代いかに気合いを入れて映画をつくってたか語ったら、たった一言
「君、なんで映像ディレクターで受けなかったの?」そんで終わり。悔しいねー。
その辺りで「あーどうでもいいやー」と思った結果が今の会社で。まあいいや。
あとよかったのは「3MCS and 1DJ」
これDJが現れるまでピタッと「待機」してる3人のポーズがいいね。
ビョークの方は平均点は高いんだけど心に残るクリップはなかったね。
あ、あ、あ、えーと「All is Full of Love」はよかった。非常によかった。
あと、スパイク・ジョーンズの撮ったやつ、今調べてる、そうだ、
「Its so quiet」これもミュージカルっぽくてストーリーがきちんとあっていいね。
さすが「Sabotage」をつくった人だけあるわ。
「マルコビッチの穴」は面白くもなんともなかったけど。
あー明日は会社行こっかなあ。行ったって誰に感謝されるわけでもないしなあ。
上司には休日出勤はいけませんってこの前言われたしなあ。
じゃあ、どうすんだよ。その分仕事は遅れていくよ?
それを自分なりにリカバリーしようとしたから、僕の遅れで他の人に迷惑かけたくなかったから
土日を犠牲にして出てきてんのに、それを、ねえ?
まーいいや。とにかく明日行っとこう。
NTのインストールやんなくちゃいけないんだよね。
外注にやらせようとしたら向こうの偉い人に
「なんでそのようなくだらないことを私たちがぃなくちゃいけないんですか?」
みたいな顔されて、だから僕がやんなくちゃいけないんだよねえ。
そうだよな、外注は雑用係じゃないんだよな。
でもさ、嫌なら嫌ってはっきり言って欲しいよ。なんで俺ごときの顔をうかがってんだよ。
全くもう嫌になるよ。そういうのが一番疲れんだよ。


[58] なんだかだるいよ 2001-02-10 (Sat)

昼の12時までぐっすり寝てる。
途中何度か目を覚ますこともあるのではないかと不安になったが、そんなことはなかった。
どうやら僕の体はアメリカでの4日間を「毎日変な時間に寝起きしていた」と捉えていたようだ。
少しも慣れることのないまま日本に戻ってきた。

眠くはないんだけど、全般的にだるい。疲れてる。ゆえに気分的に眠い。
物事を考えてみたくない。体も動かしたくない。だけど何かをしなくてはならない。
やらなくてはならないことがいくらでもある。

散らかった部屋を片付けたい。
ここ1カ月ほぼ休みなしで出社してたから、そして休めたら1日中出掛けてたから
部屋のあちこちにいろんなものが散乱したままだし、さらにその上に埃がたまってる。
何とかしなきゃと思いつつ、次の休み次の休みと引き伸ばしてきた。
向こうで買ってきたものの整理を始める。
机の上のダイレクトメールを捨てる。電話料金やJCBの請求書をひとまとめにする。
疲れた。もうこれ以上何もしたくない。

食べるものを買いに行く。
作る気力がないからたぶんレトルトのカレーとか出来合いのコロッケとなる。
歩いてて、あー東京は寒いなあと思う。
「向こうは今の東京と変わらない寒さだ」と説明を受けていたんだけど、
フォートワースはこっちの4月頃のような暖かさだった。
セーターを着ていれば、その上にコートは必要ではなかった。
「1日の寒暖差が激しい」とも言われていたが、そのように感じることはなかった。
過ごしやすい場所だった。

大家さんにお土産のチョコレートを渡したとき、
「うちの娘もアメリカが好きで毎年行ってるんだけど、
そう、ケンタッキーからフロリダまで車で行ったりするのね、でも
今年は雪が多いらしいから行かないなんて言ってたわ」という話を聞いた。
ふーん、そうだよな、ニューヨークやシアトルやナイアガラの滝は
大雪だったかもしれないんだよな、たまたま僕の行ったとこが
過ごしやすかっただけなのかもしれないな。そんなふうに考えた。
僕はいい時期にいい場所に行った。

だけど、そのような物事をそんなふうに考えてみたところで
何がどうなるのだろう?とも思う。僕は何について考えたかったのだろう?
どのような判断を下したかったのだろう?
フォートワースについて。そこでの4日間について。

ドアーズの2枚組のベストを聞いた。
聞いてるとフォートワースの風景が嫌でも思い出されてきた。
それは感傷的なものでは決してなく、僕の頭の中ではただただ
茫洋たる直線か、あるいはきっちり90度のカーブを描いた広い道路と
その周りに広がってる野原や空き地や駐車場や工事現場や住宅地が
単純に機械的に移り変わっていった。
例えそれが「Touch Me」であろうと「Light My Fire」であろうと
「Summer's Almost Gone」や「The End」であろうとどれも同じ1つの光景、変わらない。
僕たちは乾いた直線道路の上を永遠に走り続ける。
誰かの運転する車の中、座り心地のいいシートにこの身を沈めて、
適度なスピードで、目的地のあてもなく。
ただ、ドアーズの曲目だけがランダムに切り変わっていく。

12月や1月に買ってそのまま聞いてなかったCDをたくさん聞いた。
Theピーズの2枚のベスト、Seagull Screaming Kiss Her Kiss Her のライブ、
Yo La Tengo の編集盤、など。


[57] あーあ日本に帰ってきちゃった 2001-02-09 (Fri)

1度目が覚め、それからまた眠る。
西へ西へと飛んでるので、もしかしたら外はずっと明るいままなのではないか?
窓はシャッターみたいなのが下ろされてるので、機内は暗い。
僕の席の真横の外国人が頻繁にそのシャッターを上げて外を見てて
(僕はそれで目が覚める)どうもずっと空が明るい。

10何時間と乗って最後に「お飲み物いかがですか?」と聞かれたとき、
「ウォッカ」と僕は答えた。自分からウォッカを頼んだのは久しぶりだ。
94年にモスクワに行ったとき、1ヶ月間毎晩ウォッカを浴びるように飲んでいたので
それ以来飽きてしまった。ほんと、飽きた。

ジンを頼んだときはジントニックにしますか?と聞かれ、余ったジンは小さな瓶ごとくれた。
前にも書いたことなんだけど、この小さな瓶が僕はとても気に入った。
でもウォッカを頼んだときはロックですか?と聞かれ、あ、カクテルつくってくれるんじゃないの?
ソルティードッグとか言ったらつくってくれるのかな、そういうことしてくれるのかなあ
・・・面倒だな、そう一瞬で判断して「はい、ロックで」と答えていた。
そしてロックならばコップに全部注いでしまうから、瓶を僕の目の前に残してくれることはない。
あ、しまったと思うのだが、すいませんその空いた瓶をもらえますかというのは頼みづらい。
普通の人はそんなことはしない。
このフライトだけでしか顔を合わせることはないのだとしても、
キレイな人に「変な人」という印象を抱かれるのは嫌だ。
知らず知らずのうちにそういう印象を抱かせているのはまだいいとしても
(僕の人生そんなことばかりだ)自分の手を汚してまでそんなことはしたくない。
僕の後ろの席の人の飲み物を用意している間、言おうかどうか迷ってもどかしい思いをした。
瓶をもらわなかったから、どの銘柄のを飲んだのかわからなかった。
とりたてて特徴のない味だから、ズブロッカか?

飛行機に乗ったとき、どの程度までのカクテルならつくってもらえるのか?
これが今後の課題だ。

アエロフロートでモスクワに行ったとき、ロシア人のパーサーに
「飲み物はいかがされますか」と英語で聞かれ(てると同行した人に教えてもらって)
カートの上にトマトジュースがあったからブラッディーメアリーつくれるんじゃないの?
そう思ってそのように言ってみたら、彼は申し訳ないです聞き取れませんとでも言いたげに
残念そうに首を振り、聞き返してきた。僕はもう1度ブラッディーメアリーと言った。
彼はああ、わかりましたって感じで僕にコップと何かの小瓶を渡した。
それはブランデーだった。これから1カ月モスクワに行くのに俺の英語力
(ロシア語力はハナからあきらめてる)はこんなもんかい、とがっくりきた。

機内食にペンネが出てきた。最近日本も国際化してるので
ペンネを食べる機会がけっこうあるのだが、あれがどうも僕は好きになれない。鬼門だ。
T社で昼に出されたので、申し訳程度にちょっとだけ皿に盛った。
初日にホテルのダイナーで昼食をとったとき、
山田さんが頼んで残したのを味見させてもらったのだが、味も何もないとんでもないシロモノだった。
よくこんなものアメリカ人は皿にいっぱい食べてるなと呆れてしまった。
ペンネだけになおさらそう思った。

---
飛行機が順調に成田に到着した。
アメリカに着いたとき、空気の匂いが変わらないことに僕は戸惑いを覚えた。
その国によって匂いは大きく違うんじゃないの?
それにまず慣れなければならないんじゃないの?と。
だから日本に戻ってきてやはり空気の匂いが一緒だったとき、
「懐かしい日本の匂いよ」ということもなく、まあ短い旅行だったこともあって
何の盛り上がりもなかった。あー疲れた疲れた、ぐらいのもの。

日本は魚の匂い、もっとはっきり言うとイワシの匂いがするらしい。
モスクワでの1カ月の生活を終えて成田に戻ってきたとき、
うわ、こりゃまさにイワシだ、とむしろ感激してしまった。
(それにつられて8月末のうだるような暑さにも懐かしさを感じてしまった)
モスクワに着いたとき、シェレメチェボ空港の中には好意的に言えば
クッキーの詰め合わせの缶を開けたときのような匂いがした。慣れるまで2・3日かかった。

---
入国手続きが済んで、スーツケースを受けとって、問題は税関となった。
小さな問題が僕にはいくつかあった。

1)「煙草は200本まで免税」と機内であるが、僕の買った量はたぶん越えている。
でもこれは僕が吸う煙草ではないので、没収されても痛くも痒くもない。
こんなのバカ正直に申請する人なんているのだろうか。

2)フォートワース空港のショップで買った「例のやつ」これが4つある。
リュックの中とコートの中に分散させるべきか機内で迷って、結局あほらしいからやめといた。
これも、没収されても「ま、いいや」程度のもの。買ってきてくれと言った人には、同行者に
「岡村君は確かに買ったんだけど、税関で見つかってしまった」と証言してもらう。

3)瓶に詰めて持ち帰ってきた「アメリカの砂」
見つかったとき、これが1番危ない。
動植物を持ち帰ってきたときは条約上の問題と保健所的な問題から申請が必要なのは知ってるが、
砂とか土はどうなんだろう?バクテリアが駄目、ということなら土は論外だろう。
だけど靴の裏に土の付着している場合はどうなるんだ?などと飛行機の中で眠れないときに考えた。
砂や土がOKだとして、いくら僕がこれを砂しか入ってないと言い張っても
中に何か入れてるんではないかと疑われるのは必至である。
別室に連れてかれて中身を開けられて、その場で検査をするのか?
その結果がすぐに出ることはないから、今日のところは没収で終わるのか?
中はただの砂ですねということがわかったとき、砂を詰め直して返してくれるのか?
その郵送料は向こうが払ってくれるのか?検査費用を徴収されるのか?
疑ったりしてすいませんと謝ってくれるのか?
そんなことを考えていると、しばらく眠れなくなった。
この砂は原価がかかってないだけ、没収されても資産的にはどうってことはないのだが、
多少なりとも僕の思いが込められているので取られてしまうのは嫌だ。
ほとんどの人は「ただの砂じゃないか、なんでこんなもの持ち帰ってんだ?」と思うのだろうが。

普通の旅行者は荷物を開けるよう要求されることはない、という。
それでも挙動不審だと開けられてしまう。
この場合、どの程度の挙動不審ならパスできるのか。
嘘がつけなくておどおどしてしまう人はそれだけでNGなのか?

僕はそんな運の悪い人間ではない、そう思い、ジタバタせず税関の列に並ぶ。
同じ集団の人間だと思われたら、前の人が通ればそれでいいだろうと考え、山田さんの後ろについた。
なんで山田さんのとこにしたのかといえば、そこの係官が、
何人かいる中で最も若くてユルそうだったから。

山田さんがあっさり通って僕の番になった。
さあ、と思って前に進もうとしたらリュックサックのいつもの場所に
パスポートがないことに気付いた。あれ?
そのわずかなスペースを思いっきり手探りするがそれらしきものの感触がしない。
持ち上げて覗き込んでも入ってない。焦った。やばい。
これってかなり挙動不審になんない?ならない?どう?やばいねー・・・と心の中で自問自答する。
冷静になって考える。入国手続きのようなものがあってそこを通ってきたのだから、
その時点ではパスポートがあった。だから、落としたか別な場所に入れているはず。
コートのポケットを探す。ない。(こんなとき、「例のもの」をコートに入れておかなくてよかった)
リュックサックの別の場所は?・・・あった。
昂ぶっていたものがさぁーっと引いていった。ほっとした。
そして前に進んだ。その若い係官にパスポートを見せた。

「前の人と同じ団体ですか?」「はい」
「煙草や酒類などなんたらかんたら」「ないです」
それで終わり。あっけなかった。わずか20秒ほど前の焦りに較べるとあっけなさ過ぎた。

とにかくこれで全てが終わった。
一昨日のショッピングモールの時点でほぼドルを使いきっていた僕は両替の必要もない。

---
今回のでかなりマイルが貯まるから入っといたほうがいいよと佐々木さんに言われ、申込書をもらう。

京成線に乗って、日暮里まで。もちろん初めて乗った。
安いが、時間がかかる。それに普通の人も通勤通学に乗るからスーツケースは邪魔だ。

何事もなく荻窪駅につく。部屋までスーツケースを引きずっていく。
帰り着いて部屋の中でスーツケースを開けて、洗濯物を洗濯機に放り込んでスイッチを入れて、
腹が減ったなあと外に出る。材料を買いに行ってつくるだなんてとんでもない。
日本的なもの食いたいなあ、そう思って駅前に出て、結局「てんや」で天丼を食べた。
洗濯が終わって、部屋の中に干して、湿った布団で寝るのはやだなあと乾燥機をかけて、
ぼんやりとしばらく音楽を聞いていたらいつのまにか2時になっていた。
布団の中に入ってすぐ、眠くなった。
僕はいつものように、何事もなかったかのように、眠りに落ちていった。


[56] さらばフォートワース 2001-02-08 (Thu)

帰国の日。フライトは午後1時頃。成田まで約13.5時間。
日本時間にして(9日)午前4時にここを発ち、到着は(同日)午後17時半の予定。
飛んでる間に日付変更線をまたぐので、マイナス15時間のとんでもない時差が解消され、
8日(木)の昼に飛び立っても着くのは9日(金)の夕方となってしまう。
来るときはムリヤリその日15時間追加され、帰るときは15時間奪われる。
まだピンと来ない。慣れない。

朝8時に起きて、9時半に下に降りていって食事をとる。
コンビーフとポテトを炒めあわせてハッシュドポテトのようにしたものと
スクランブルエッグ、トースト。コーヒー、オレンジジュース。
これでだいたい12ドルか。チップに2ドル。
オレンジジュースは甘くもなく酸っぱくもなく、それでいてオレンジの味がしておいしかった。

そうだ、食事の待ち合わせの前に早めに下に降りていって玄関を出て、
駐車場をブラブラ歩いて、余ってるフィルムを使いきろうと止まってる飛行機の写真を撮る。
フェンスを越えたすぐ向こうが滑走路、あるいは機体のメンテナンスのための場所。
中型の飛行機がずらりと並んでいる。
今日もまた曇りで、雨がポツポツと降っている。

来るときの飛行機の中で「アメリカの砂を持ち帰りたい」と
ボンベイサファイアの小瓶をもらってきた僕は
どこかに砂のたまってる場所はないかと探してみる。
ホテルの周辺をぐるっと回ってみても木を植えられた場所に湿った黒い土か
工事している場所に乾いた灰色の土があるだけ。土だと違うんだよ、と思う。
時間はそんなにないし、道路を人が歩かない地域でもあるから遠くには行ってられない。
もう一回りしたときにホテルの裏側に道路の舗装が余りよくない箇所があって、
そこの窪んだ部分にほとんど砂利に近い砂がたまっていた。
僕は右足を地面の上で左右に動かしてその辺りの砂をうずたかくし、屈み込んで
瓶の口をその山の中に突っ込んで中に埋めては取りだすという動作を繰り返した。
僕は何も考えず、無感動に砂を瓶に詰めていく。
これから後999個に対して同じことをしなくてはならないように。
それは高校球児が甲子園でやるような感傷的な行為ではなく、
学術調査の探検隊に同行することのできた助手の弟子の下っ端が
「先生たちにならって僕も何か標本を持ち帰りたいなあ」と
儀式的に真似するような、そんな行為。

食事が済んでから部屋に戻って、帰り支度を始めた。
スーツケースに詰めるものとリュックサックに詰めて機内に持ち込むものと選り分ける。
来るときスカスカだったスーツケースも、お菓子や本やそういったものでいっぱいになってしまった。
持ってみるとずっしりと重い。
ベルトを巻こうとしても、時間がなくて結局使い方がわからないまま。
持ち手の部分に通すようにできない。丁度いい大きさの輪をつくって
それを上から通すだけ。あまり意味がなく、見た目も良くないが、仕方ない。

チェックアウトは自分でしてくださいと言われていて、
どうしよう、何を聞かれるだろう、まず最初は「Check out, Please」か?と考えながら列に並ぶ。
フロントには女性が2人いて、そのうちの1人は日本人か韓国人っぽい。
二世かなと考える。2分の1の確率で、僕はその人に割りあたった。
それとなく名札を見たら思いっきり日本語の名前で、その下にHYATT OSAKAと書かれている。
研修か何かで派遣されてきたのだろう。何にせよ、疲れてるし日本語で物事が進められる方が
楽でいいから、キーを渡したりなんなりといった作業を日本語でやりとりした。

ホテルから空港へ直行するバスに乗って、5分ほど走る。
女性の車掌にどこまで行くのか?と聞かれて僕らの集団が「Japan」と答えたため、
JALのカウンターの近くまで行ってくれる。

---
JALのカウンターで航空券とパスポートを渡す。
日本で出国手続きをしたときにパスポートに貼り付けたチケットの半券のようなものを剥がす。
スーツケースにくっつけるタグに住所を書き込む。搭乗券を受け取る。
これでどうも全ての手続きが終わりらしい。
カウンターには40代近辺の男女が3人ともう少し若そうな年齢の女性がいて
みんな日本人っぽいのだが、最初から最後まで話すのは英語。
僕のとこだけではなく横の方でもそう。日本語で話しちゃいけないのかなあ。

「B36」が搭乗口になっているというのでそこまで行くのだが、
そこは妙に寒々とした、簡素を通り越して何もない場所だった。雰囲気的に。
成田と同じように待ってる乗客のための椅子が並んでて、
時間が来たら搭乗券を差し出すカウンターがあるのだが、その空間に対して僕は
「何かが、流れのようなものが、疲れ切って既にそこを立ち去った場所」という印象を受けた。
しらじらとしている。通路の端、終点が「B38」であることから
行き止まりに近いことがそのように感じさせているのかもしれなかった。

ボーディングは1時頃なのに、今は12時前。時間を持て余す。
免税の店があって、香水やバッグ、ネクタイ、チョコレート、煙草などが売られている。
「あ、煙草買っときゃなきゃ。忘れてた」と日本で売ってないやつを探す。
煙草を吸う人にとって1番のお土産はやはり珍しい煙草であるように思う。
マルボロ「Ultra Light 100s」というのがあってこれが最もかっこよかったから、まず1つはそれ。
「100s」がついてるやつとついてないやつがあったのだが、どう違うのだろう?
タールか何かの量か。それにしてもこれ、相当軽いんだろうな。
僕は吸わない人間なので、味がどうというこだわりはない。
いかにそれが珍しそうなものであるか、その1点。
もう1つは「1940 - 1980 Pin-up Collection」という
要するにパッケージに肌も露な女性の絵が描かれているもの。
ワイングラスを持ったり、アメ車の横で寝そべったりしてる。
だけどこれ煙草としてどんなもんなんだろう?
僕が94年にモスクワに行ったときはまだマルボロのメンソールが日本では売られてなくて、
確か市街のどこかでそれを買って帰ったように思う。

あと1時間あるし、他にどんな店があるんだろう?と通路を歩き出す。
B36からスタートして番号が若くなって行くにつれて、にぎわいを増していく。
雑誌、菓子などを売る店、テキサスの土産物を扱う店、マクドナルド、スターバックス、
その他コーヒースタンド、バー、両替所。
通路には50mおきぐらいに靴磨きの人たちがいて、暇そうにしている。
スタジアムの観客席を3段分、横は2mほど切り取ったようなものが置いてあって
客はその1番上に座って靴を磨いてもらう。
床屋もあった。看板に「Jet Cut」と書かれていた。

看板で言えば、ホテルのダイナーでは40年代・50年代を中心とした
映画のポスターやスターの写真があちこちに飾られていて、
僕が初日に座った席の横の柱にはキム・ノヴァクの写真が貼られていた。
カウンターの上には白い横長のプレートがあって、赤や青の浮き出した文字で
気の利いたコピーが書かれていた。おそらくこれらの看板は手に入れようとしたら
けっこうどこでも誰でも可能であり、全米の似たような場所で同じように飾られているのだろう。
そのうちの1つには「I scream , you scream , we scream for the ICECREAM !」とあった。
あれ、これって「Down By Law」の中で、刑務所に入れられた
ジョン・ルーリーとトム・ウェイツとロベルト・ベニーニの3人がグルグル回りながら
叫んでたフレーズじゃん、あれは(監督である)ジム・ジャームッシュの考え出したものではなく
アメリカ人なら誰でも知ってるフレーズなのか、そうかそうだったのかあ、
1つ勉強になった。ほんのちょこっとしたものでしかないけど、
アメリカのポップカルチャーの成り立ちを肌で感じた瞬間だった。

この通路はB1まであるはずだ、そう思ってずんずん歩いていく。
もちろん、B36・35・34と搭乗口はそれぞれ各飛行機会社ごとに割り当てられている。
見たことも聞いたこともない航空会社がほとんどで、
そういうののところで待ってる人たちはアメリカ人、羽田で国内線を待ってるような佇まい。
旅行、ではなくバスを待ってるような気軽さ。

飛行機が飛び立った後の待合所は閑散としていて、その片隅で
パイロットが女の人をひしと抱きしめていた。何も言わず、動くこともなく。
通りすぎてやがて引き返して、10分後にまたそこを通ったとき、
彼は通路の真ん中に立って女性の短い、ブロンドの髪をそっと撫でながら優しい言葉をかけていた。

B5まで来るのに途中どこにも寄らず早歩きでも7・8分かかった。それぐらい長かった。
そして驚いたことにそこから先にはさらにAブロックとCブロックとがあり、
案内図を見る限りではそれがまた同様に長々と続いていて、なんだか気が遠くなりそうだった。
エレベーターを昇ってAブロックへと通じる「動く歩道」を進んでいるとき、
窓の外にホテルハイアットが見えた。直線距離にしてあと5分ぐらいのところか。
ホテルから空港までバスで5分かかった。それをまた徒歩で戻ってきた。
フォートワースは世界で2番目に大きい空港である、と同行してた誰かが言ってた。
実感した。とにかく横に長い。全長何キロになるのだろう。

Bブロックの端から端までを2往復した。
歩いてるうちに、ああ、これってジョギングコースにいいなあと思いだし、走りたくなってきた。
もちろんそんなことしてる人は誰もいないので、僕も走ったりはしない。
でもその分かなりスピードをあげて歩く。歩くのが気持ち良くなってきて、
汗をかいてセーターを脱ぐ、Tシャツ1枚になる。
歩いてるだけで楽しい気持ちになってきた。こんなの初めてだ。

4人乗りのカートが通路をよく走っていて、空港の職員が乗ってることもあれば
普通の人が乗ってることもあった。「地球の歩き方」を参照すると、
「もう少しで飛行機が出発する、急いでる」みたいなことを告げると快く乗せてくれる
と書いてあった。・・・乗ってみたかった。というより、運転してみたかった。

アメリカに旅行するのならば、例のものを買ってきてくれと頼む人が何人かいた。
昨日ショッピングモールにいたときはすっかり忘れていて、
それを(外国人が)購入することは可能か、値段はいくらか、日本に持ち帰れるような大きさか、
といった項目を検討することはできなかった。
今日の朝思い出して「ま、買わなかったけど別にいいか」という気持ちだった。
通路を歩いていて、途中で気になる店があったら覗き込んでみる。
西部劇に出てくるような馬に乗せる鞍が550ドル。
(いったいどこの誰がわざわざ空港でこんな大きなものを買って機内に持ち込むのだろう?)
これはまあ買わないとしても、小さな1オクターブのハーモニカが9.99ドル。
欲しいなあどうしようかなあ、なんて迷ってる。
そうしてるうちにやがてある店で、「ある店」でなくてもテキサス土産の店でなくて、
飲食店でもないほぼどの店でも、「それ」が売られてるのに気付くようになる。
空港で売ってるのだから空港を利用する旅行客は誰でも帰るのだろう、そう判断して、
棚に陳列されてる中で最も小型のサイズのものを2種類、自分の分も含めて2つずつ、
計4つをレジに持ってった。1つ5ドル程度。
大型の普通サイズでも良かったし、その方が面白そうなんだけど、
もしかしたら日本の税関で隠さなきゃいけないかも、だったら小さいほうがいいなと僕は考えた。
1つ1つがパッケージされてるので、中がどうなってるかわからない。
もしかしたら「はずしてる」かもしれない。そもそも「例のもの」といったときに
思い浮かべたものが僕とその人では違うかもしれない。
それでも買ってみた。普通に売ってくれた。
チームの人の座ってるところに持ってって「買ってきましたよ」と言ったらみんなが笑った。
それを両手に持って笑顔でいる僕を、写真に撮ってもらった。

---
免税品の煙草を受け取って飛行機の中へ。今回も通路側の席。
行きの時、機内は割と空いていたが、帰りはもっと空いていた。
エコノミークラスは半分も乗ってないのではなかろうか。
窓側3席も通路側4席も1人か2人ずつしか座ってない。
僕の座ったところでは反対側に乗客がいたのでだめだったが、
僕の前後の席は他に人がいなかったので、肘掛けを上げてごろんと横になることができた。

離陸まで時間がかかる。予定より10分遅れる。
着陸したときも滑走路に着いてから10分待たされた。
これはフォートワース空港の離発着が多いので、管制塔が規制をかけてしまうため。

機内では村上春樹の最近文庫で出た「辺境・近境」を読む。
アメリカでは日本語で書かれた文章がきっと恋しくなるだろうと考えて
出発の前日に買って持ってきたんだけど、ありがたいことに今に至るまで読むことはなかった。
(ただ単に時間がなかっただけだが)
旅行記。瀬戸内海の無人島に行ったり、讃岐でうどんを食べたり、メキシコに行ったり。

メキシコ。読んでるうちに「行きたいなあ、俺も」と思った。
それは村上春樹の文章の力ではなく(それももちろんあるのだが)、
僕が今回の出張で海外旅行も悪くないな、という感想を抱いたからだ。

僕がこの4日間で目にしたアメリカは、その巨大な存在を
あるところでスパッと切り出した断面のさらにその中の1点でしかない。
危険なスポットに足を踏み入れることはなく、
白人であれ黒人であれスパニッシュっぽい人であれ、みんな穏やかで礼儀正しかった。
「Yeah」「No」「Thankyou」「Please」だけで全てが事足りて
あとは数字を表すために指を立てるか、笑ってごまかすかすればよかった。
それ以前に誰か英語を話せる同行者の後をくっついてるだけでよかった。

空港から半径5kmの範囲から恐らく出なかった。
毎日同じようなモノを食べて飲んだ。
日本でも買えるようなものを買った。
いつも車に乗って移動していたから、自分の足で道を歩くことがなかった。

それでも、僕は今回の旅(出張ではなく、「旅」と言いたい)でいろんなことを知ることができた。
具体的にこのような知識、となると瑣末すぎてどうしようもないが、
ある種の雰囲気、実際にその場所に行ってみなければ決して得ることのできないような
ある種の雰囲気、というものがやはりこの世にはあるのだということを身をもって知った。
僕はここフォートワースで1つの感触に包まれて日々を過ごした。
それは視覚的にはだだっ広い空き地に代表されるものかもしれないし、
風の吹き方、その音や肌にあたる力かもしれない。

1つの感触を知るようになると、さらに別な感触を知りたくなった。
地球上には僕が一生をかけても味わうことのできないほど多くの「感触」が
何も特別なことはなく、ただ、そこにある。
誰を待ってるわけではなく、しかし誰かのために、そこにある。
それらの存在を知ることのないまま、存在するのだということを知らないまま
生きていたり死んでいったりするのは
つまらないこと、もったいないことなのではないだろうか?

僕は次の場所に行きたい。

---
機内が空いているせいか、ビールをいきなり2本くれて、その後すぐもう1本もらった。
機内食も食べ終えてビールも3本飲んで、ぐっすりと眠ることができた。


[55] ショッピングモールでお買い物(後編) 2001-02-7 (Wed)

予定通りに全ての議事が進行し、出張の目的は表面上達成された。
(東CBの僕以外の人たちはみな日本に帰ってからの課題が山のようにあって
頭を抱えてはいるが)

今夜はJ社の人たちに案内してもらってショッピングモールに行くことになっている。
「わーい買い物買い物」と僕ははしゃぐ。
横浜のランドマークのようなものを想像していたのだが、
行ってみたらやはり倉庫のような1階建ての建物だった。
全体として細長く、端から端まで大小様々な店がテナントとして入っている。
名前は「GRAPEVINE MILLS」
この「MILLS」の系列のモールは Directory を見る限りでは
ロス・シカゴ・ワシントンDCと全米各地にあるようだ。
僕はまず木村さんと「Virgin Megastore あんじゃん!」と喜んで入り、
その後岡部さんとモール全体を見て回った。

---
Virgin はまあ、日本にもあるような Virgin だった。日本盤が売ってないだけ。
新宿や池袋にあるのとはフロア面積としてはそれほど変わらない。
品揃えはたいしたことなかった。一応アーティストごとに商品が並んではいるのだが、
全然関係ないアーティストのが平気で混ざっていたりする。日本では考えられない。
価格はどれも17ドル前後で、日本と比べて取り立てて安いわけではない。
ジャンル分けもそんな凝ったことはしていない。
Rock & Pops & R&B という日本ではあまり見ることの出来ない
分けられ方をしていて(この店だけかも)、その他に JAZZ , Classic ,
Club(だったか、Techno & House だったか)、という感じ。
「imports」のコーナーには相対的に見てわずかばかりのCDがあって、
日本盤がたまーにあった。ほとんどはイギリス盤か。
Clearlance のコーナーというのがあって、
その名のとおり売れ残り品をディスカウントして置いている。
ここで僕は Blondie の限定盤のライブアルバムを見付け、
たぶん日本ではもう売ってないだろうと買うことにする。6.99ドル。
たまたまなのだろうけど、ダラスのライブ。(1980年)

CDは日本でも帰るものばかりだろうと考え、書籍コーナーをメインに見て回る。
楽譜のところでは日本では売ってなさそうなバンドのが割とあった。
Television とか Gang of Four のがあったらあのベースラインを弾いてみたいなあと
探してみるものの、そんなのあるわけがなかった。

パンクロックのカヴァーアート(要するにレコードジャケット)を集めた大型の本と
Blue Note(ジャズの老舗レーベル)のカヴァーアートを集めた大型の本とがあって、
「これっていいね」と2冊とも買った。どちらも30ドル弱して、カードで支払った。
自分ではいいものを買った、この値段でも全然構わないと思って納得しているのだが
日本でも洋書を扱ってる本屋では売ってそうな気がして、そこがちょっとうーんというところ。
パンクの方は吉祥寺のパルコブックセンターで飾ってあるのを確かに見た覚えがある。
表紙がThe Sex Pistols の「Never Mind the Bollocks」だったので間違えようがない。
(わかる人にはそれがどういうものなのか間違えようがないですね)
それにしてもこの黄色のジャケットはこの手の本の表紙としてはかなりうってつけ。
知名度といい、デザインといい、この他のジャケットが選ばれることは考えられない。
あったとしても The Clash の「London Calling」か The Damned の1st か?

「Punk」は Marcolm McLaren が、「Blue Note」の方は「Horace Silver」が
それぞれ序文を書いている。

正確な名前は覚えてないが、黄色い分厚い電話帳のような
「Alternative & Indie Rock Disc Guide」という本があった。
これはまさに辞書のようにアーティストデータとカタログで
ページがびっしりと埋められているもので、「おおこれは持っとくと便利そうだ」と
欲しくなったのだが、大きいし重いしで買うのは諦めた。
2・3ヶ月先にまた来ることがあったらそのときはぜひ、と思ったんだけど
今考えるときちんと名前を控えておいて日本でインターネットで
洋書として買うというのもありだった。しまった。

その他には「How to be a Bad Girl」という小さな本があって、
ベストセラーっぽい扱いだったので買ってみた。
田舎から大都市へと移り住んできた女の子がいかにして「Bad Girl」になるべきかの手引き。
よくあるハウトゥーもののパクリ。
「仕事を見付けたら、まずはそれをズル休みすることを覚えましょう」
なんてことが書かれてある。

「AKIRA」の英語版があったのだが、買うのはやめといた。
同じくバットマンやスパイダーマンのコミックも欲しくならなかった。

---
その他の店へ。GAP , TOMMY HILFIGER , GUESS などといった定番の店があって
どれも一応入ってみるものの、大した物は売ってない。というかセンスのいいものがない。
日本ではJeans Mate のようなポジションにあると思われる店が大小たくさんあって、
どれも見た感じは一緒。欲しいものがない。ただでくれても困りそうなものばかり。
アウトレットがメインのモールだからかもしれない。どうもジャスコっぽい。
「せっかくアメリカに来たんだからさー、ネルシャツでもなんでもいいんだけど
そういうの欲しいよねー」「古着ってアメリカから輸入してるのが多いんだっけー」
という安易な気分で来てる僕はかなり落胆した。

「なんか買わないと気が済まない」と日本でも買えそうなのに、
Blooks Brothers にて女性物のカットソーを買う。一応XLサイズのもの。夏にこっそり着る。

御土産を買わなくちゃと思う。
東CBの人たちにはガムを50個買った。うまいかどうかはわからないが、
よく見かけるものではあったので、思いっきりハズレではないと思う。
あと、何人かの人たちのためにペロペロキャンディーの大きなやつを
キャンディーとチョコレートの専門店で買った。
大家さんにはテキサスと書かれたチョコレートを買った。
この前東CBの人たちと飲んでいるときに「最近行楽地で「努力」とか「根性」って書かれた
ペナントって見ないよね」って話になったので、いいのがあったら買って帰ろうと探したものの
あったとしてもダラスカウボーイズの真面目なものだったりで「笑える」ものがない。
母親と妹にはコーヒーカップでいいのがあったので2つ買い、
テキサスは唐辛子が名産のようなので Chili Pepper の詰め合わせを買った。

アメリカのダイエーのような店があった。

Starbucks で一休み。僕は普段 Starbucks に行かないので味が同じなのかどうかわからないが、
Starbucks フリークの岡部さんが言うところでは、
サイズの種類はやはりこっちの方が大きいねとのことだった。

遊園地のようにテイクアウトの店が固まって一列になってて、
広々としたスペースに椅子とテーブルが並んでる一角があった。ここで夕食。
中華とイタリアンと迷って、イタリアンにて
ソーセージの入ったペイストリーのペパロンチーノ味を買ってみたのだが、
しょっぱいだけで味がしない。大きいし、集合時間も迫ってるしで半分残した。
ペプシコーラも半分以上残ってるのを捨てた。
日本ではLサイズのカップがこっちではSサイズ。こんなにいらない。

本屋に入ったのだが、取り立てて欲しいものはなかった。
わざわざペーパーバックで読みたいものも無く、荷物も重くなるだけだし。

こんな感じでショッピングが終了。

---
ホテルに戻って、またなんとなく僕の部屋に集まる。
みんなベッドに寝そべってテレビを見る。
プロレスをやってる。非常にインチキっぽい。衣装や髪型も含めて。
観客も興奮しているのだが、固唾を飲むというよりは笑ってる。
場外乱闘のようなこともやるのだが、お約束としてやってる感じ。
観客がいきなりリングにあがってきてそれをレスラーがフォールして
カウントをとる場面もあった。何でもあり。

せっかく最後の夜だから下のバーに行って飲みましょうと僕は提案する。
行ったのはいいのだが、黒人のガタイのいいバーテンに
「おまえらIDカード持ってるか?21歳越えてるのか?」と聞かれ、
持ってないと答えると「じゃあ駄目だな」と首を振られた。
運転免許証を見せても「なんだこれは」と笑われるだけ。生年月日は昭和で記入されてるし。
最後には「どうしても飲みたかたっら部屋に戻ってパスポート取ってこい」と言われて
それもあほらしかったのでそこで飲むのは諦めることにした。
正直、こんなきちんとしているものだとは思ってもみなかった。
空港の敷地内のホテルということもあるんだろうけど。

ハイアットホテルの西館から東館へと長い長い通路を渡っていき、
そっちの方のバーに行くと年齢のことは聞かれず、
やっとのことでビールにありつくことが出来た。
僕はコロナを飲んだ。冷たく冷えていて、おいしかった。
僕らが席に着いた頃からフロアは混み出して立って飲んでいる人ばかりになった。
ジュークボックスが大音量で鳴っていた。
その音に負けじとアメリカ人たちが大声を張り上げて喋り、笑っていた。
僕らはみんな疲れていたので、一杯で切り上げて帰ってきた。
笑いたいような気分でもなく、ただただ疲れていた。

**********************

ベッドメイキング用のチップ 2
ミスト 1
コロナビール 5


コーヒーカップ 5.99
コーヒーカップ 6.99


「The Bad Girl's Guide To Getting What You Want」 14.95
「Blue Note The Album Cover Art」 24.95
「Album Cover Art of Punk」 29.95
Blondie「Picture This Live」 6.99


Iced Ameican (Tall) 1.95


5コ入りガム5種類×2つずつ 10.62


テキサス名物のチリソースで味付けされたピーナッツ 6.49×2
同じく似たようなスナック菓子 6.79×2
「テキサス」と書かれたチョコレート 14.99×2
チリソース3本セット 11.99


カットソー 35.60


ペパロンチーノのソーセージペイストリー 3.89
ペプシコーラのS(?)サイズ 1.29

<レシートがないので名前がわからないがキャンディーの店>
ペロペロキャンディー 大 3.99
ペロペロキャンディー 小 0.99

※これら買った商品はあくまで定価
これにさらに7.25%の消費税
(その州によって税率は異なる)みたいなのがつく


[54] ショッピングモールでお買い物(前編) 2001-02-7 (Wed)

集合時間に間に合うギリギリの時間まで寝てる。
それが可能な時間に目覚ましをセットする。
急いで歯を磨き、顔を洗い、髭を剃る。リュックサックに必要なものを詰める。
VAIOや「地球の歩き方」やミーティングの資料、使い捨てカメラ etc.
残りの物は全てトランクにしまって念のためカギを掛けておく。
枕もとのサイドテーブルにベッドメイキング用のチップを2ドル置いておく。
部屋のドアを開けると新聞が数種一まとめに重ねて折り畳まれて置かれている。
詳しく見ている時間はなかったが、1番上にあるのはダラスの地元紙。
昨日までとは違って空は曇っている。灰色の雲が隙間無く空を覆ってる。
水質や土壌は東京のそれとは違ってるかもしれない。
しかし雲の質感は、その流れ方は何も変わるところが無い。

9:00 - 17:00 のミーティングにあたって、T社の人たちはコーヒーやミネラルウォーター
だけでなく、パンケーキや果物も用意してくれている。
ホテルでの朝食の代わりにそれを食べれば、お金もかからないし安上がりだ。
コーヒーのポットが4つ並んでいて、左端のには「Decaf」と札が書かれていた。
「カフェインなし」のこと。アメリカでは一般的なものであるらしい。
ミネラルウォーターは「Dasani」という銘柄でコカコーラが出している製品。
水としては多少濃い目な感じがする。成分表には糖分・塩分・脂肪・プロテイン
全て0g、カロリーも0とある。どこで産出された水なのかは書かれてない。
いつか日本でも売られるようになるかも。
果物は南国系というか南部っぽいもの。
オレンジ・メロン・パイナップル・キウイフルーツ。

そういえば空港やホテルの自販機ではコカコーラを見かけることはなかった。
ペプシばっかり。ペプシコーラとダイエットペプシとマウンテンデュー、それにミスト。
ミストはキリンレモンのような炭酸飲料で僕はホテルでこればかり買って飲んだ。
ペプシが薬品っぽくて嫌い(「Dr.Pepper」はその意味でもっと嫌い)で、
コカコーラの方が断然いいという僕には納得がいかなかった。
なぜどこもかしこもペプシなのか?
フォートワース空港周辺ではたまたまそうなのか?
(後にホテルの売店に行ったらコカコーラも売られていた。
しかし自販機で見かけるのはあくまでペプシ)
それともテキサス州ではペプシが強いのか?
アメリカでは確か共和党がコカコーラ、民主党がペプシを「支持」していて
(逆かもしれない)大統領選挙が終わって政党が変わると
ホワイトハウス内の自販機が総入れ替えされると昔何かの本で読んだ。
テキサス州の知事からこの前大統領になったブッシュは共和党だけどな。
・・・そんなこと関係ないか。

T社では昼食を別に用意してくれた。
昼食は終日セッションが組まれている6日7日に出たのだが、どちらもメニューはだいたい一緒。
ペンネにトマトソース、チキン、ライス(カリフォルニア米っぽい)、シーザーサラダ、
ズッキーニとブロッコリー、黄色いズッキーニ(?)を軽く油で炒めたもの
(これはホテルでも付け合わせで出てきた)、それに今日だけシンプルなピザ。
みんなはうまいと言っていたが、僕はあんまりうまいとは思えなかった。
まずいものたちの中では相対的にうまいというものではあるが。

コーヒーはいわゆるアメリカンコーヒーで、味も素っ気もない薄いやつを
朝から晩まで飲むことになる。セッションが休憩になるたびにカップに注ぎに行く。
ホテルのダイナーでは1度コーヒーを頼むと時々「お代わりどう?」と注ぎに来る。
もちろんいくらお代わりしても無料。

---
J社が今度新しく構築しようとしているショッピングサイトは
その注文フローのとあるタイミングにおいて
アメリカにあるT社のサイトと接続することになっている。

今回の出張ではその接続をいかにスムーズに行うか、そもそもどのように接続するべきか、
それは物理的なネットワークとして、あるいはプログラミングのレベルで、
とにかくあらゆる面においてT社とより多く合意を勝ち取ることを目的とする。
画面の流れをどうするか。データベースをどうするか。
どのようなデータを日米間でやり取りしなくてはならないか。
それを物理的にどう実現するか。
ネットワークにトラブルが起こったとき日米間でどう対処するか。
決めなくてはならないことは余りにも多く、
2日半のミーティングでは全てを決めることはほぼ不可能。
事前にT社へとQ&Aを投げておいて(Eメールの時代になって良かった)
回答を受け取ることでわかったこともあるのだが、
実際に顔を突き合わせてみないことにはわからないこともたくさんある。

僕は一応今回の出張ではアプリケーション開発チームにおける
「GUI(Graphical User Interface)」と
「CRM(Customer Relationship Management)」担当ということになっていたのだが、
ここ1年間携わってきたもう1個のプロジェクトの方がまだ忙しいことから
これまでの要件定義フェーズにはほとんど関わってこなかったので
そのシステムはどういうものを作りたいのかは最低限わかっていても
技術的にどのように実現していくかということはほとんどわかってない。
・・・そんな状態で厚かましくもアメリカまでノコノコついてきた。
セッションの間、僕が発言できることは2日半の中で1度もなかった。
他の人たちが言ってるのをただ聞いてるだけ。
それでも今回の出張の間に「技術的にどう実現するか」について
かなりの部分をキャッチアップすることができた。
(そしてそこに僕が提供できる技術的知識・情報は今のところほとんどなく、
今回のプロジェクトを通じて様々な物事をひたすら学習・吸収しなくてはならないことがわかった)
「もう1個の方のプロジェクト」はあと10日ぐらいあれば終わらせられそうだし、
そうすればこっちの方の仕事に全面的に関われることになる。
またT社を訪問することがまず間違い無く最低でも1度はありそうなので、
次に来るときには自分は「○○○」の担当者であると言えるようになって
積極的に質疑応答に加われるようになりたい。

それにしてもJ社の人からは「彼は会議の間一言も口を聞かないし、
メモをとってるわけでもないし、英語も話せなさそうだし(それでいて行き帰りの車の中では
くだらないことを1人でべらべらとひっきりなしに喋ってるし)、
いったい何しに来たのだろう?」と思われてるような気がする。
ホテル代はうちの会社が出してるが、航空券はJ社に負担してもらってる。
「次回からは会議で発言できる技術担当者だけを連れてきてください」と言われそうだ。
J社の人たちはかなり「まとも」な人たちなので。
ここまで技術的な情報を知っていて頭の回転も速く仕切りもうまい
システム担当者たちというのはそうそういないだろう。かなり手強い。
僕は今のところ何の担当者でもないので、彼らには覚えられていない。
そのような人間といちいち話している「暇」は彼らにはなさそうだった。

---
英語に関して言えば、僕は思ってたよりも聞き取れた。
日本人(東洋人)相手だからゆっくりはっきり言ってるというのもあるのだろうが。
T社の人たちだけでなくホテルのウェイトレスであっても、
詳細はわからないものの何を言わんとしているのかは最低限掴める。
英語で論文や小説を読む訓練を学生時代に続けていたからだろうか、
聞いた単語や文をいちいち頭の中で翻訳することはしない。
話されたスピードについていけるかどうかの問題。
T社の人たちの言ってることは「何をテーマとして話しているか」把握しているため
調子のいいとき(明瞭に話す人で、僕の知ってる技術用語が出てきて、なおかつ眠くないとき)
には6・7割、アベレージでも4割ぐらいは内容がわかった。
日本語で話されてても何の事かわからないネットワークがらみのことは
ちんぷんかんぷんだったが。

一方、読む訓練を通じて英語を「受け入れる」ことは易々とできるとしても
話す・書く訓練は学生時代してこなかったので、僕の中から英語を「引き出す」ことができない。
何を言われてるのかはわかっても、ひどいときには「Please」すら出てこない。
とにかく単語が思い浮かばない。慣用句も思い出さない。
4つの選択肢の中から正しいものを選択せよ、とテストされるのならば答えられそうなのだが。

英語を話せるようになりたいと心から強く思った。
今の僕ならほんのちょっとのトレーニングさえ受ければなんとかなるはず。
基礎はしっかりとあるのだから自転車に乗れるようになるみたいな、
1度習ってしまえば簡単な、そのようなものであるはず。

---
T社はその分野においては全米で一定のシェアを獲得しているサイトを
構築・運営している企業だけあって、従業員たちは優秀そうな人たちばかりだった。
Database , Network , Screen Flow , CRM などと話題ごとにそれぞれの担当者が出てきて
説明があって、質疑応答を行う。普通の人たちだった。でも、切れ者そうだった。
来る前は「向こうの技術担当者」というとナードっぽい変人もいるのではないかと
勝手に思い込んでいたのだが、そんなことはなかった。
洗練されたものかどうかまではわからないが、穏やかな物腰を身に付けた人ばかり、
みんな「優しい」人のように思えた。少なくとも大人、成熟した人たちだった。


[53] フォートワースの風景(後編) 2001-02-06 (Tue)

その日のセッションが終わって、J社の人たち7人と東CBの7人、
合計14人で食事に出かけた。ファミレスが並んでいる地域のステーキハウス。
テキサス州には同じようなステーキハウスがいくつもいくつもあって、
初めてならどこに行くべきか困ってしまうことになるのだろう。
僕らが行った店の向かいもステーキハウスだった。

---
車に乗っている間に、昨日からずっとフォートワースの風景に対して
どことなく感じてきた違和感の意味がわかった。
この都市はどこへ行くにも車で、しかもたぶん自分の車で、
というのが徹底しているせいか、道路を歩いている人をほぼ100%見かけない。
外にいるのはガソリンスタンドの店員や車から降りてきた人あるいは車に向かう人、
門にペンキを塗るために雇われた人などである。
道路を歩いている人がいないだけでなく、
例えば住宅地もそれなりにあるのに外で遊んでいる子供というのも見かけない。
子供の姿を外で見かけることがなかった。
家の中にはそれぞれの生活があるのだろう、なのにそれらの家はどれも
ひっそりとしているのを僕はなんとなく感じた。生活感が感じられなかった。
家の周りに物が投げ出されている、置き忘れられているということがない。
人が歩いていないから道路にはゴミもない。
緩やかな、しかし強力に作用する秩序が支配している都市、そんな印象を僕は持った。
そのことに対して良くも悪くも僕は思わない。
しかし無人の都市に迷い込んだようで、そして自動車だけはいくらでも走っていて
その中では特別なこともなく普通の人がハンドルを握ってて、
そのことに僕は寒気とは言わないまでも、ある種の奇妙な感覚を抱いた。

---
14人が2台のレンタカーに分かれて移動するのだが、
僕がいつも乗る方の車ではAMなのかFMなのか
オールディーズ専門のチャンネルに合わせたままそれを変えようとしなかった。
懐かしい曲が次から次にかかった。
「Locomotion」とか「(There's a kind of)Hush」とか。
その中にThe Doors の曲も混じってて「ああ、ドアーズってアメリカ人にとっては
ヒットチャート常連のポップミュージックだったっつうのは本当だったんだな」と
改めて認識する。曲目は「Touch Me」と「Light My Fire」
「Light …」は途中の長い間奏をバッサリと切り落としたシングル用のエディット。

ドアーズはポップチャートばかりのAMでは「Light …」が
学生向きのFMでは「The End」が、というようなことを全米でも恐らく
初めて同時にやってのけたバンドなのだということをこの前何かで読んだ。
ポップスはポップスであって前衛は前衛、それが混ざり合うことは当時考えられなかった。

アメリカで実際の風景を目の前にしてラジオから聞こえるドアーズは
僕が日本で聞くCDのドアーズとは違う輝きを放っていた。

---
ステーキハウスは薄暗いオレンジ色の照明の中に鷲や鹿の剥製や彫像が飾られている、
そんな場所だった。非常に立派な木造の小屋、古き良き開拓時代の。
ここでは前菜があり、サラダとスープがあり、そしてメイン、食後にはデザート、
というフルコースになってしまった。メインに「プレミア フィレミニョン」$32
を頼んだ僕はやばいこれは50ドルを越えてしまうとびくびくした。
しかしどうもこの食事はJ社側のおごりらしいということがわかってほっとした。
J社の役職の方がウェイトレスにアペタイザーは全員これで、
なんてメニューを指差していたので、最初のうち「うわーどうしよう」と思った。
こりゃ70ドルが80ドルになってもたいした差はないなと開き直って
バドワイザーを3本飲んだ。結果的に下手に遠慮せず攻めの姿勢で望んだ僕はとても得をした。

「プレミア…」は3/4ポンド。これがどれくらいになるのかわからず
結構大きめのが来るのかなと思っていたらそうでもなかった。
付け合せのポテト(皮付きで丸ごとホイル焼きにしたもの)の方が大きかった。
32ドルというのはここでは中の上ぐらいの値段。
18オンスの巨大なステーキになれば40ドルはしたはず。ロブスターは時価。

それなりにお金を支払って食べるものだけあって、アメリカに来て以来ここで初めてやっと
まともにうまいものが食べられた。日本では決してステーキを食べない僕としては
その良し悪しの厳密的なところがわからないが、
ほとんどソースもかかってないのに肉本来の味で食べれてしまった。
あと、テーブルの上にはオレンジ色のばかでかいチーズの円柱が置かれていて、
摩り下ろすための専門の器具を用いて薄皮を剥ぐように断片を切り取る。
これが大変おいしくて、岡部さんや木村さんとうまいうまいとほぼ休みなく食べ続けた。
日本に持って帰りたいなあと思った。テキサス州の名物なのだろうか。

---
夜、東CBチームは今回のT社・J社とのセッションで決まったこと、
明日質問しておきたいこと、日本に持ちかえって検討したいことなどをまとめた。
僕の部屋に日本から持ってきてローミングもできるVAIOがあって
日本とのメールのやり取りの係になっていたせいか、自然と僕の部屋が
ミーティングのための溜まり場になってしまった。
7人全体での話し合いが終わったあとでも、アプリ側・インフラ側と2・3人ずつに
分かれてまたああでもないこうでもないと協議を続ける。
床に寝そべって、ソファーに座って、あるいはベッドの上。
僕は居場所を全て占領されて、VAIOも使用されて手持ち無沙汰なまま
たまにアプリ側の話しに加わったりする。
えっ、あのときあの人はああ言ってたように聞き取れましたけど、みたいな。
夜の12時を過ぎても一向に終わりそうな気配はなく、僕は「もういいだろう」と
僕は浴槽の蛇口をひねってお湯をためた。
普段会社で接してる人たちの声がかすかに聞こえる中での風呂は
あんまり居心地のいいものではなかった。
風呂から出てきてから、キリがないので「寝れる人は寝といた方がいいでしょう」と主張して
6人には僕の部屋から出てってもらった。その後どこか別の人の部屋で話し合いは続いたようだ。
それでも僕がベッドに入れたのは午前2時だった。

************

ベッドメイキング用のチップ 2ドル
朝食のオムレツ 7.25ドル
(ステーキ 32.5ドル)
ミスト 1ドル


[52] フォートワースの風景(前編) 2001-02-06 (Tue)

昨日の夜は11時に寝た。熟睡した。
ものすごく眠ったはずなのに目が覚めたら外はまだ真っ暗で、
「5時頃・・・かな?」と思って時計を見たら午前2時ちょうど。3時間しか寝てない。
あーでもあと5時間は寝れるなーと布団に包まるのだが、その後しばらく眠れない。
次に目が覚めたのは午前5時。そしてそこから全く眠れなくなる。
あとで聞いてみたところでは東CBの他の人たちは朝までぐっすりだった人と
僕のように夜中目が覚めた人と、きれいに半分に分かれた。
目が覚めた人の中では僕がもっとも眠れてないようだった。
時差ボケにいいようにやられてる。

5時に目が覚めたとき、喉にかすかな痛みを感じてエアコンを切った。
それまでこの空調の音でかき消されていて気がつかなかったのだが、
空港が近いだけあって飛行機の飛び立つ音が時折大きく聞こえてきた。
目を閉じて、金属音が遠ざかりやがてかき消されていくのを聞いた。

7時に目覚ましが鳴った。
夜明けだった。日が昇り空は紺色からオレンジ色へ。やがて水色へ。
飛び立ったばかりの飛行機が朝焼けの空に一瞬シルエットになってゆっくりと上昇していった。

---
朝食を下のダイナーで。オムレツとポテトのセットを食べる。
オムレツはハムとチーズ入りのもの。
ポテトはフレンチフライではなくタマネギと一緒に炒めたものだった。

T社へ。ホテル、あるいは空港から車で10分のところにある。
僕らのいるところが特殊なのか、フォートワースという場所がこうなのか、
どこまで走っても郊外のような雰囲気が続く。
あるいはこう言ってもいいかもしれない。「郊外だけによって成り立っている都市」
道路の周りには草原が広がり、開けた所に出ると日本の郊外の国道沿いのように
ファミレスやディスカウントストアが連なる。
ああこれは川崎からウミホタルを経て木更津の先、
高速を降りて房総半島を南下していったときの風景に近いなあ、と思った。
夜中に車に乗っていると見えるのは遠くの建物の明かりだけになってしまって
マクドナルドやトイザラスの側を通り過ぎるとき、ここは日本なのではないかと錯覚してしまう。
ゴテゴテした看板がないのが大きな違いか。
方向を指し示すものでさえ小さく地味に地面に刺さってるだけなので、
建物は似たようなのばかりであって目印になりにくいし、
初めてここに来て車を運転する人はすぐ間違える。
J社の方は昨日のうち何度も何度も「しまった今の道を入るんだった!」と繰り返した。

当たり前のことだが、アメリカから日本に上陸したファミレスの類があちこちに建っている。
今は日本になくても、見慣れないファミレスの中には
いつか日本へと進出してくるものがあるかもしれない。
雑貨屋では「Pier 1 imports」があった。あれはアメリカが本拠地だったのか。

日本のコンビニではセブンイレブンがアメリカに店舗を出している。
昨日、T社の帰りに立ち寄った。
店の雰囲気はセブンイレブンというよりはケンタッキーフライドチキンに近いものを感じた。
一通り眺め回して、理論的にはこの品揃えはコンビニそのものだと理解することはできた。
しかし何かが決定的に違う。店を構成している「間」が大きく違っている。
それは商品を配列する棚の間隔ではなく、商品を棚に詰め込む密度の違いだ。
たった1つの店舗を見ただけでどうこう言えないが、たぶんノウハウとそれを元にした
マニュアルがあって店舗を作るのだから
アメリカ全土、あるいは少なくともテキサス州ではどこもこんな感じなのではないだろうか。
売ってるものはもちろん日本では見かけないものばかりである。
雑誌があって日用雑貨があってペット用品があって、アイス、ジュース、カップ麺、
ポテトチップ、ビールと商品のジャンルは一緒。
レジの前にガムのようなものを並べてるのも一緒。
だけどよーく見てみるとすぐにその差異がはっきりしてくる。
「聞いたことないぞこのメーカー」というものばかりだし、
日本でも売られてるブランドでもパッケージのデザインが違ったりする。
また、デザインだけでなくサイズが変わってたりもする。
「Kit-Kat」のキングサイズであるとか。
日本のと全く同じ(だと思う)サイズのプリングルスのサワークリームが並んでるのを
見かけたとき、なんだかほっとした。

飛行場が近いからなのか、高い建物は全くと言っていいほどここにはない。
あっても1つだけニョキッと生えてきたかのように、寄る辺なく突っ立っている。
空き地がいくらでもあるのだから、わざわざ高い建物を建築する必要性がないということか。
企業の建物が並んでいる地域に出ると平屋建ての倉庫みたいなのが
適度な間隔を空けて配置されている。
その多くはやはり適度な間隔を空けた街路樹によって囲まれている。
とにかく平べったい。ブロックを積み重ねて直方体を作ったかのよう。
例えて言うならば地面に倒されたモノリス。奇抜なデザインをしたものは見受けられない。
色はクリーム色か茶色、灰色、それらの混ざり合わさったどこか、が多い。
一見特徴がない。それでも昨日今日と眺めているうちにその違いが目に付きだした。
その控えめな、上品な個性を僕は理解し始めた。
ブロックであるならばその素材の違い、あるいは四角い窓の並び。
企業は「Nokia」であったり「American Airlines」だったり世界に名立たるものばかり。
だからといってどこも空間を消費するようなでかいビルを建てることなく、
申し合わせたかのように同じ形、同じ大きさの直方体とすることを選んでいる。
時としていくつかの企業が1つの直方体をシェアしている。
彼らはもしかしたら支社というものはどれだけの大きさにするのが生産的なのか、
法則のようなものを見つけているのかもしれない。
そしてそのオフィスは人がぎゅうぎゅうに押し込められることはなく、
どのような地位の人間であれ、一定以上のゆったりとしたスペースが与えられているのだろう。

---
T社もまたそのような直方体であって、中に入ってみると
天井は骨組みが剥き出しになっていて空調のダクトがあちこちに顔を覗かせている。
後で聞いたところではこの建物は昔実際に倉庫だったようだ。
(他の企業のもかつて倉庫だったのかどうかはわからない)
内部の造りは太い柱を打ち立ててどうこうというよりも
がっしりとしたパーティションを縦にも横にも組み合わせて作りました、
もとからある建物の中にさらに建物を入れてみましたという感じ。

T社はインターネット関連のベンチャー企業なので
その内装はモダンで、若々しく無駄のなくシンプルにまとめられている。
受付のある辺りは意味不明なアートっぽく「なんだこりゃ」と思わせるものの、
そこから先セキュリティカードによるチェックを通された向こうは
機能性の飽くなき追及がテーマであるような、
余計なものを配置すること自体がストレスを生み出すのだ、
この壁に飾られた絵画も一定の役割を果たすようになっている、
とかいった主張がさりげなく聞こえてくるような、そんな雰囲気があった。

2階のミーティングルームへと向かう途中の階段の踊り場、
あるいはそのミーティングルームの壁一面の窓から
従業員1人1人に割り当てられた区画が見えた。
正方形の桝目が無数に並んでいる。
それはドアと天井がないもののほぼ個室になっている。
大きさは4畳半ぐらいになるのだろうか。
人によってはそこにいろいろなものを飾っていて、
それは古い地球儀だったり動物のぬいぐるみだったり、写真だったりする。
こういう場所を与えられたいものだと僕らはみんなため息をついた。

---
その日のセッションが終わって、J社の人たち7人と東CBの7人、
合計14人で食事に出かけた。ファミレスが並んでいる地域のステーキハウス。
テキサス州には同じようなステーキハウスがいくつもいくつもあって、
初めてならどこに行くべきか困ってしまうことになるのだろう。
僕らが行った店の向かいもステーキハウスだった。

---
車に乗っている間に、昨日からずっとフォートワースの風景に対して
どことなく感じてきた違和感の意味がわかった。
この都市はどこへ行くにも車で、しかもたぶん自分の車で、
というのが徹底しているせいか、道路を歩いている人をほぼ100%見かけない。
外にいるのはガソリンスタンドの店員や車から降りてきた人あるいは車に向かう人、
門にペンキを塗るために雇われた人などである。
道路を歩いている人がいないだけでなく、
例えば住宅地もそれなりにあるのに外で遊んでいる子供というのも見かけない。
子供の姿を外で見かけることがなかった。
家の中にはそれぞれの生活があるのだろう、なのにそれらの家はどれも
ひっそりとしているのを僕はなんとなく感じた。生活感が感じられなかった。
家の周りに物が投げ出されている、置き忘れられているということがない。
人が歩いていないから道路にはゴミもない。
緩やかな、しかし強力に作用する秩序が支配している都市、そんな印象を僕は持った。
そのことに対して良くも悪くも僕は思わない。
しかし無人の都市に迷い込んだようで、そして自動車だけはいくらでも走っていて
その中では特別なこともなく普通の人がハンドルを握ってて、
そのことに僕は寒気とは言わないまでも、ある種の奇妙な感覚を抱いた。

---
14人が2台のレンタカーに分かれて移動するのだが、
僕がいつも乗る方の車ではAMなのかFMなのか
オールディーズ専門のチャンネルに合わせたままそれを変えようとしなかった。
懐かしい曲が次から次にかかった。
「Locomotion」とか「(There's a kind of)Hush」とか。
その中にThe Doors の曲も混じってて「ああ、ドアーズってアメリカ人にとっては
ヒットチャート常連のポップミュージックだったっつうのは本当だったんだな」と
改めて認識する。曲目は「Touch Me」と「Light My Fire」
「Light …」は途中の長い間奏をバッサリと切り落としたシングル用のエディット。

ドアーズはポップチャートばかりのAMでは「Light …」が
学生向きのFMでは「The End」が、というようなことを全米でも恐らく
初めて同時にやってのけたバンドなのだということをこの前何かで読んだ。
ポップスはポップスであって前衛は前衛、それが混ざり合うことは当時考えられなかった。

アメリカで実際の風景を目の前にしてラジオから聞こえるドアーズは
僕が日本で聞くCDのドアーズとは違う輝きを放っていた。

---
ステーキハウスは薄暗いオレンジ色の照明の中に鷲や鹿の剥製や彫像が飾られている、
そんな場所だった。非常に立派な木造の小屋、古き良き開拓時代の。
ここでは前菜があり、サラダとスープがあり、そしてメイン、食後にはデザート、
というフルコースになってしまった。メインに「プレミア フィレミニョン」$32
を頼んだ僕はやばいこれは50ドルを越えてしまうとびくびくした。
しかしどうもこの食事はJ社側のおごりらしいということがわかってほっとした。
J社の役職の方がウェイトレスにアペタイザーは全員これで、
なんてメニューを指差していたので、最初のうち「うわーどうしよう」と思った。
こりゃ70ドルが80ドルになってもたいした差はないなと開き直って
バドワイザーを3本飲んだ。結果的に下手に遠慮せず攻めの姿勢で望んだ僕はとても得をした。

「プレミア…」は3/4ポンド。これがどれくらいになるのかわからず
結構大きめのが来るのかなと思っていたらそうでもなかった。
付け合せのポテト(皮付きで丸ごとホイル焼きにしたもの)の方が大きかった。
32ドルというのはここでは中の上ぐらいの値段。
18オンスの巨大なステーキになれば40ドルはしたはず。ロブスターは時価。

それなりにお金を支払って食べるものだけあって、アメリカに来て以来ここで初めてやっと
まともにうまいものが食べられた。日本では決してステーキを食べない僕としては
その良し悪しの厳密的なところがわからないが、
ほとんどソースもかかってないのに肉本来の味で食べれてしまった。
あと、テーブルの上にはオレンジ色のばかでかいチーズの円柱が置かれていて、
摩り下ろすための専門の器具を用いて薄皮を剥ぐように断片を切り取る。
これが大変おいしくて、岡部さんや木村さんとうまいうまいとほぼ休みなく食べ続けた。
日本に持って帰りたいなあと思った。テキサス州の名物なのだろうか。

---
夜、東CBチームは今回のT社・J社とのセッションで決まったこと、
明日質問しておきたいこと、日本に持ちかえって検討したいことなどをまとめた。
僕の部屋に日本から持ってきてローミングもできるVAIOがあって
日本とのメールのやり取りの係になっていたせいか、自然と僕の部屋が
ミーティングのための溜まり場になってしまった。
7人全体での話し合いが終わったあとでも、アプリ側・インフラ側と2・3人ずつに
分かれてまたああでもないこうでもないと協議を続ける。
床に寝そべって、ソファーに座って、あるいはベッドの上。
僕は居場所を全て占領されて、VAIOも使用されて手持ち無沙汰なまま
たまにアプリ側の話しに加わったりする。
えっ、あのときあの人はああ言ってたように聞き取れましたけど、みたいな。
夜の12時を過ぎても一向に終わりそうな気配はなく、僕は「もういいだろう」と
僕は浴槽の蛇口をひねってお湯をためた。
普段会社で接してる人たちの声がかすかに聞こえる中での風呂は
あんまり居心地のいいものではなかった。
風呂から出てきてから、キリがないので「寝れる人は寝といた方がいいでしょう」と主張して
6人には僕の部屋から出てってもらった。その後どこか別の人の部屋で話し合いは続いたようだ。
それでも僕がベッドに入れたのは午前2時だった。

************

ベッドメイキング用のチップ 2ドル
朝食のオムレツ 7.25ドル
(ステーキ 32.5ドル)
ミスト 1ドル昨日の夜は11時に寝た。熟睡した。
ものすごく眠ったはずなのに目が覚めたら外はまだ真っ暗で、
「5時頃・・・かな?」と思って時計を見たら午前2時ちょうど。3時間しか寝てない。
あーでもあと5時間は寝れるなーと布団に包まるのだが、その後しばらく眠れない。
次に目が覚めたのは午前5時。そしてそこから全く眠れなくなる。
あとで聞いてみたところでは東CBの他の人たちは朝までぐっすりだった人と
僕のように夜中目が覚めた人と、きれいに半分に分かれた。
目が覚めた人の中では僕がもっとも眠れてないようだった。
時差ボケにいいようにやられてる。

5時に目が覚めたとき、喉にかすかな痛みを感じてエアコンを切った。
それまでこの空調の音でかき消されていて気がつかなかったのだが、
空港が近いだけあって飛行機の飛び立つ音が時折大きく聞こえてきた。
目を閉じて、金属音が遠ざかりやがてかき消されていくのを聞いた。

7時に目覚ましが鳴った。
夜明けだった。日が昇り空は紺色からオレンジ色へ。やがて水色へ。
飛び立ったばかりの飛行機が朝焼けの空に一瞬シルエットになってゆっくりと上昇していった。

---
朝食を下のダイナーで。オムレツとポテトのセットを食べる。
オムレツはハムとチーズ入りのもの。
ポテトはフレンチフライではなくタマネギと一緒に炒めたものだった。

T社へ。ホテル、あるいは空港から車で10分のところにある。
僕らのいるところが特殊なのか、フォートワースという場所がこうなのか、
どこまで走っても郊外のような雰囲気が続く。
あるいはこう言ってもいいかもしれない。「郊外だけによって成り立っている都市」
道路の周りには草原が広がり、開けた所に出ると日本の郊外の国道沿いのように
ファミレスやディスカウントストアが連なる。
ああこれは川崎からウミホタルを経て木更津の先、
高速を降りて房総半島を南下していったときの風景に近いなあ、と思った。
夜中に車に乗っていると見えるのは遠くの建物の明かりだけになってしまって
マクドナルドやトイザラスの側を通り過ぎるとき、ここは日本なのではないかと錯覚してしまう。
ゴテゴテした看板がないのが大きな違いか。
方向を指し示すものでさえ小さく地味に地面に刺さってるだけなので、
建物は似たようなのばかりであって目印になりにくいし、
初めてここに来て車を運転する人はすぐ間違える。
J社の方は昨日のうち何度も何度も「しまった今の道を入るんだった!」と繰り返した。

当たり前のことだが、アメリカから日本に上陸したファミレスの類があちこちに建っている。
今は日本になくても、見慣れないファミレスの中には
いつか日本へと進出してくるものがあるかもしれない。
雑貨屋では「Pier 1 imports」があった。あれはアメリカが本拠地だったのか。

日本のコンビニではセブンイレブンがアメリカに店舗を出している。
昨日、T社の帰りに立ち寄った。
店の雰囲気はセブンイレブンというよりはケンタッキーフライドチキンに近いものを感じた。
一通り眺め回して、理論的にはこの品揃えはコンビニそのものだと理解することはできた。
しかし何かが決定的に違う。店を構成している「間」が大きく違っている。
それは商品を配列する棚の間隔ではなく、商品を棚に詰め込む密度の違いだ。
たった1つの店舗を見ただけでどうこう言えないが、たぶんノウハウとそれを元にした
マニュアルがあって店舗を作るのだから
アメリカ全土、あるいは少なくともテキサス州ではどこもこんな感じなのではないだろうか。
売ってるものはもちろん日本では見かけないものばかりである。
雑誌があって日用雑貨があってペット用品があって、アイス、ジュース、カップ麺、
ポテトチップ、ビールと商品のジャンルは一緒。
レジの前にガムのようなものを並べてるのも一緒。
だけどよーく見てみるとすぐにその差異がはっきりしてくる。
「聞いたことないぞこのメーカー」というものばかりだし、
日本でも売られてるブランドでもパッケージのデザインが違ったりする。
また、デザインだけでなくサイズが変わってたりもする。
「Kit-Kat」のキングサイズであるとか。
日本のと全く同じ(だと思う)サイズのプリングルスのサワークリームが並んでるのを
見かけたとき、なんだかほっとした。

飛行場が近いからなのか、高い建物は全くと言っていいほどここにはない。
あっても1つだけニョキッと生えてきたかのように、寄る辺なく突っ立っている。
空き地がいくらでもあるのだから、わざわざ高い建物を建築する必要性がないということか。
企業の建物が並んでいる地域に出ると平屋建ての倉庫みたいなのが
適度な間隔を空けて配置されている。
その多くはやはり適度な間隔を空けた街路樹によって囲まれている。
とにかく平べったい。ブロックを積み重ねて直方体を作ったかのよう。
例えて言うならば地面に倒されたモノリス。奇抜なデザインをしたものは見受けられない。
色はクリーム色か茶色、灰色、それらの混ざり合わさったどこか、が多い。
一見特徴がない。それでも昨日今日と眺めているうちにその違いが目に付きだした。
その控えめな、上品な個性を僕は理解し始めた。
ブロックであるならばその素材の違い、あるいは四角い窓の並び。
企業は「Nokia」であったり「American Airlines」だったり世界に名立たるものばかり。
だからといってどこも空間を消費するようなでかいビルを建てることなく、
申し合わせたかのように同じ形、同じ大きさの直方体とすることを選んでいる。
時としていくつかの企業が1つの直方体をシェアしている。
彼らはもしかしたら支社というものはどれだけの大きさにするのが生産的なのか、
法則のようなものを見つけているのかもしれない。
そしてそのオフィスは人がぎゅうぎゅうに押し込められることはなく、
どのような地位の人間であれ、一定以上のゆったりとしたスペースが与えられているのだろう。

---
T社もまたそのような直方体であって、中に入ってみると
天井は骨組みが剥き出しになっていて空調のダクトがあちこちに顔を覗かせている。
後で聞いたところではこの建物は昔実際に倉庫だったようだ。
(他の企業のもかつて倉庫だったのかどうかはわからない)
内部の造りは太い柱を打ち立ててどうこうというよりも
がっしりとしたパーティションを縦にも横にも組み合わせて作りました、
もとからある建物の中にさらに建物を入れてみましたという感じ。

T社はインターネット関連のベンチャー企業なので
その内装はモダンで、若々しく無駄のなくシンプルにまとめられている。
受付のある辺りは意味不明なアートっぽく「なんだこりゃ」と思わせるものの、
そこから先セキュリティカードによるチェックを通された向こうは
機能性の飽くなき追及がテーマであるような、
余計なものを配置すること自体がストレスを生み出すのだ、
この壁に飾られた絵画も一定の役割を果たすようになっている、
とかいった主張がさりげなく聞こえてくるような、そんな雰囲気があった。

2階のミーティングルームへと向かう途中の階段の踊り場、
あるいはそのミーティングルームの壁一面の窓から
従業員1人1人に割り当てられた区画が見えた。
正方形の桝目が無数に並んでいる。
それはドアと天井がないもののほぼ個室になっている。
大きさは4畳半ぐらいになるのだろうか。
人によってはそこにいろいろなものを飾っていて、
それは古い地球儀だったり動物のぬいぐるみだったり、写真だったりする。
こういう場所を与えられたいものだと僕らはみんなため息をついた。


[51] アメリカだよ、おっかさん(後編) 2001-02-05 (Mon)

ダラス出張まだ1日目。
日本を5日昼の12時半に出発して11時間飛行機に乗っても
ダラスとでは時差がマイナス15時間あるから、
日付変更線をまたぐこともあって、到着時刻は5日の朝8時半になってしまう。
海外渡航の経験に乏しい僕にとってはなんだか釈然としない。
僕が経験した実際の時間と時計の上で表される時間とのずれ。
1日は24時間である、それはどんな人間であっても。僕はそう信じてきた。
しかしその前提があっさりと覆されてしまう。

---
機内では2回目に目が覚めて以来、眠れなくなってしまった。
昼寝をした日の夜に眠れないような、頭の中では眠いけど体は全然眠くない
そんなあまりよろしくないコンディションに陥る。
寝ておかないとやばい。今日は空港に着いてからホテルに荷物を下ろして
休む間もなく訪問先で半日ミーティングすることになっている。
徹夜に極端に弱い僕は絶対寝てしまいそうだ。
(そしてそれは本当にそうなってしまった・・・)

スクリーンでは映画をやっていて、椅子の背に挟まってる冊子を見てみると
「悪いことしましョ」というものらしい。名前は聞いたことがある。
去年の暮れにやっててそんなにヒットしなかった映画だ。
さえないアメリカ人男性が美人の悪魔に魂を売り渡すことで
女性にもてたいという願望を叶えようとする、とストーリーが紹介されている。
ヘッドホンをすれば音声が聞き取れるんだろうけど
映画自体もさえなさそうで真剣に見る気にはなれなかった。
寝よう寝ようと目を閉じて眠れなくてまた目を開けてと繰り返しているうちに
いつのまにか終わってしまった。目を開けるとちょうどラストシーンで、
そこだけしっかりと見てしまって、なんだか損をしたような気持ちになる。
2本目は「シャフト」サミュエル・L・ジャクソンが出ている。
これは見たいという気はあったのだが、幸か不幸か僕が2度目に眠ることが出来た
時間帯にぴったりはまっていて、これもまた目が覚めたらラストシーンだった。
冊子を見るとJALの他の路線では「コヨーテ・アグリー」を上映しているようで
ああ、それなら見たかったなあと残念に思った。

空が明るくなりだした頃、朝食が出てきた。今度は中華風のお粥。
胃に優しいものを提供しようということなのだろうか。
あっという間に食べ終わって物足りなく思う。
スクリーンには入国時に必要な書類(I−94W査証免除用)と
関税申告書の記入の仕方が表示される。

---
飛行機は緩やかに旋回しながらその機首を下げていく。
車輪が滑走路をガッとつかんで強烈なブレーキの音が機内を伝う。
窓の外には、当たり前のことだが、空港らしい風景。
トラックのようなもの。カートのようなもの。
アメリカ。フォートワース空港。

シンプルな白い建物の中をぞろぞろと歩いた。
入国管理に並んで、自分の番が来るのを待った。
ずらっと日本人がうにょうにょと3列になって手持ち無沙汰にしている。
「地球の歩き方」を見るとここで「ビジネス」か「観光」か聞かれるとある。
「siteseeing」という単語を心の中で唱えながらドキドキしながら待つ。
岡部さんの後に僕の順番が来た。書類を差し出す。向こうは僕の目を見ず、「Hello」
「ヘロー」「How Are You ?」「ファインセンキュー」
何日いるのか?と聞かれたように思えて「スリー」と僕は指を3本立てる。
岡部さんも指を3本立てていたので、同じことを聞かれてたはず。
質問はそれで終わって係員はパスポートにスタンプをあちこちに押して僕に突っ返す。
日本人観光客が続いていたので、どうせこいつも英語話せないなと判断したのだろう。
がらんとしたさらに簡素な手荷物受取所に進むと僕のス−ツケースがゴトゴトと回っていた。

J社の人たちと合流してホテルに向かう。
その前にレンタカーを借ります、と空港の建物の外に出て
レンタカーセンター直行のバスに乗る。
10分ほど走って到着したのだが、それでもまだ空港の敷地内だった。
あるいはそれに似たようなものだった。
滑走路と道路と空き地と、どこまで行ってもただそれだけ。
草原と非常に間隔の開いた並木道と空港の施設っぽいオブジェのような何かと
幹線道路の乗り換え。空き地ではブルドーザーが土を掘り返している。

センターにはハーツやエイビスといった著名なレンタカー会社が集まっている。
ここもまた広々とした空間で、航空会社のように各社のカウンターが並んでいた。

---
センターから空港中心部へと引き返して、宿泊先であるハイアットへ。
世界の各地にある有名なホテルですね。空港の敷地内にあると事前に聞いていたので
同じようなホテルが林立しているのかと思いきや、あるのはハイアットだけ。
道路を挟んで向かい合ってポツンとEASTとWESTの2棟が建っている。
周りには他に高い建物は一切ない。

チェックインする。名前と宿泊日数を告げてクレジットカードを渡したらあとは
「ここにサインしろ」と言われてそのとおりにしておしまい。カギを受け取る。
こじんまりとしたロビーにはダイナーとバーがあった。
ダイナーではコーヒーの入ったポットを持ったウェイトレスが忙しく動き回り、
バーの方はまだ閉まっていてバドワイザーのネオンは明かりが消えていた。

部屋は10階で、窓からは空港直結の広い直線道路とその脇を走る小型のモノレール、
向かいのEASTと小型の管制塔、その向こうに野原、
さらにその向こうにうっすらと低い町並み、そしてそのずっと遠くに高層ビル郡が見えた。
ここはあくまでフォートワース。あれがダラスなのだろう。

シンプルなベッドと机とテレビだけの部屋。冷蔵庫はなし。
ベージュ色の壁。家具は薄い茶色。それらに合うような色づかいの
秋の湖を描いた大きな風景画と3枚一連なりの抽象画が掛けられている。
カーテンは2重になっていて、外側は薄くて真っ白、内側は厚手でよく見ると花柄。
洗面台にはコーヒーメーカー、向かいの壁は鏡になっていてその奥はクローゼット。
清潔なバスとトイレ。たぶんこれが基本的なアメリカの中級のホテルの部屋。
浴槽は僕だと腿の辺りまでしかなくて、あとで風呂に入ったときに
体を平べったくしなければならなく、かなり窮屈だった。

---
ローミングが出来るかどうか試しているうちに集合時間になって
(ホテルから市内に掛けるにも外線番号「9」を
先頭に付ける必要があることがわからなかった)
東CBの7人で集まって下のダイナーで昼食をとった。

メニューを見ると「Cowboy Steak」というのがあって
テキサスに来たのだからこういうのを食べなきゃなとオーダーしてみる。
アメリカの食べ物はとにかくでかいとよく聞くので
とんでもない大きさの肉が出てくるんじゃないかとみんなで話してたんだけど、
出てきたのは僕の想像をはるかに下回るちっちゃな普通のステーキだった。
やけどしそうなほどにジュージュー言ってる鉄板の上に出されるかというとそうでもなかった。
他の人たちの頼んだハンバーガーの方が(より正確に言えばその付け合せのポテトの方が)
アメリカらしいデカさを感じさせた。

---
ホテルで休む間もなく荷物を置いただけで昼食、さらにそれを終えてすぐ、
J社の人たちの運転で今回の訪問先であるT社へと向かう。
今回の訪問はJ社の人たちがコーディネイトしたもの。
T社の人たち(もちろんアメリカ人)と名刺の交換をして
(僕は名前を言って「Nice to meet you」と言って名刺をもらって
「Thank You」と言ってぎこちなく笑うだけ。それ以上の自己紹介はできない)
そのまますぐミーティングへ。
飛行機の中でどう多く見ても3時間しか寝てなくて、
こちらでの昼の1時と言えば日本では午前3時。眠くて仕方がない。
しかも飛行機の座席に11時間も座っていて疲れ切っている。
僕は情けないことにそのミーティングの行われた午後の4時間をほとんど寝て過ごした。
他の人たちはみんな眠そうだけどしっかりと起きていた。
僕にとって今回の出張は正直なところ、チャンスがあったからなんとなくくっついていっただけ
というニュアンスが強いので、起きてないと後で話しが決まらず・わからず困るっていう
ようなことも厳密にはなく、非常にあっさりと眠気の誘惑に屈してしまった。
それでも「寝てもいいや」とあきらめてその場にいるわけではないので
目を開けよう目を開けようと僕なりに努力はした。
Friskを5錠まとめて口の中に放り込んでみたりもした。
体力の限界を感じた。全てを投げ出しそうになるまであとわずかだった。
「今目の前にベッドがあってそこで寝てもいいなら100万払ってもいい」
「今ここで辞表を書いたら日本に帰ってもいいだろうか」
そんなことばかり考えた。

ミーティングからやっとのことで解放されてホテルに戻ったとき、
東CBとJ社の人たちは夕食を食べに行ったようだけど、
僕はもうとにかくつらくて行けなかった。昼のステーキが腹に重くて食欲も沸かなかった。
部屋でぼんやりしているうちに東CBの他の人たちが僕の部屋に来てミーティングを始めた。
出張用に会社のノートPCを持ち歩きメールの送受信を行うことになっているのは
僕の役割になっているから、自然とそうなった。

ベッドに入れたのは夜11時になってから。長い長い1日だった。
高校時代の中間テストや期末テストの前の日、あと1日、せめてあと半日でもいいから
時間が止まってしまったらどんなにいいだろう、そんななことをよく考えた。
でもそれは実現してしまうと僕にとってはとんでもない苦痛だった。
1日は24時間であってそれが長くも短くもならないことのありがたさを身をもって知った。

********************
ホテルで買った「Mist」という缶ジュース 1ドル×2本

「Cowboy Steak」 12.5ドル
アイスコーヒー 1.5ドル
上記の食事に対して払うことにしたチップ 2ドル


[50] アメリカだよ、おっかさん(前編) 2001-02-05 (Mon)

ダラス出張1日目。

朝5時半に起きて焼きうどんを作って食べた。
腹が減るだろうからと2玉入れて冷蔵庫に残ってた野菜も全てぶち込んだ。
腹が苦しくなった。

せっかくキャスターがついてるのだからとスーツケースを引きずって歩こうとしたら
ガラガラという音が余りにもうるさくて、どうせ着替えしか入ってないのだからと
荻窪の駅に着くまで会社に着くまでそして結局は空港に着くまで、手に持って歩いた。
駅に向かうと途中「あ、ガスの元栓閉め忘れた!」ということに気づくのだが、
引き返すのもめんどくさく「ま、いいか」とそのまま歩いていった。
その後電車の中で「そうだ、保険証も忘れてる」っつうことにも思い当る。
でもアメリカで使うわけないし、正月青森に帰ったときも保険証忘れてたしなあ。
(「忘れてった」どころか今日になって半年振りぐらいに
この世には保険証というものがあるのだということを思い出したぐらいだ)
「ま、これもええでしょ」と一瞬でどうでもよくなる。
本当に怖いのは何か他に忘れたものがありそうだ、「確実にありそうだ」という
僕の心の奥底では認識していながらも、もう1人の僕が意地悪なのかなんなのか
決してその「何か」そのものを表面化させえない、だけどしきりと
ほのめかし騒ぎたてる、このざわついたもどかしい感覚である。

---
朝8時。会社に寄って、支給されたノートPC(VAIO)に今回の出張で必要な
ドキュメントの電子データをコピーする。30分ほど作業して会社を出た。
リュックサックには旧式のVAIO一式(ACアダプターやFDドライブ)と
「ダラスまで手荷物で運んでください」と書かれて机の上に置かれていた、
向こうでのセッションで配ることになる資料の分厚いコピーの束が追加された。
むちゃくちゃ重くなる。

最初、茅場町の駅から東西線で日本橋まで行ってそこから東京駅まで歩いていって
電車かリムジンバスに乗ろうと考えていた。しかし、この時間の東西線は上りも下りも
尋常じゃなく混んでるからスーツケースの乗客は非常に迷惑だ。乗れないことも考えられる。
タクシーを拾った方がいいだろうと判断して僕は手を上げて1台捕まえた。
「お客さんどこまで?」と聞かれて、「東京駅までお願いします」と答えた。
「何口?」「八重洲口で」
「お客さん、スーツケース抱えてるけどどこの空港行くの?」
「成田です」
「あのね、電車で行くっていうなら丸の内北口の方が近いし、
それよりも箱崎からバス乗った方がいいよ。月曜のこの時間なら道は込まないし。
何時に乗るの?」
「11時半集合なんです」
「だったら時間あるけど、空いてる箱崎で手続き済ませて行くのがいいよ」
「そうですか。じゃあそうします」
とかやり取りしている間に箱崎に着いてしまった。これだったら会社から歩いて来れた。
「すいません、ワンメーターで」と僕は謝った。
「会社がこの辺?それでも東京駅行こうとしたの?
会社の人も箱崎から行けばいいってこと前もって教えてくれれば良かったのにね」
ほんとそうだ。当たり前過ぎる話なのかな。
僕は箱崎が茅場町のすぐ近くであることを知らなかった。

海外は2回目になるが、前のはパッケージツアーのようなものなので
箱崎集合であっても僕はほとんど何もしなくてすんだ。
でも今回は自分1人でチェックインと出国手続きをしなくてはならない。
「地球の歩き方」で事前に学習はしていてもなんだか失敗しそうで
(何に失敗するのかはよくわからないのだが)かなり不安になっていた。
中に入るとそこはがらーんとしていて航空会社ごとに区分けされている。
JALのところに行くと入り口には何やらレールがあって
「ああ、ここはたぶんトランクを預ける場所なんだろうな」と思った。
どうぞと言われたのでスーツケースを置いてそれがX線に通されるのをちらっと見た。
中は衣類ばかりでスカスカだったからほとんどの部分が透明だった。
海辺に打ち上げられた厚手のビニールが所々ひび割れているようだった。
僕はかつて青森でイカ釣り漁船に乗ったことがあって、
釣り上げられたばかりの生きたイカは透き通っていて、まさにこんな感じだった。
そしてそんな中でシェーバーだけがポツンと細長く浮かびあがっていた。

案ずるより生むが易し、どこのカウンターに行っても航空券かパスポートの提示を求められて
それを見せるだけで何事もなく物事が進んでいった。
(そしてそのままあっさりと飛行機まで乗れてしまった)
リムジンバスに乗って成田へと向かった。出国手続きが箱崎で済んでしまい、
あー僕はもう日本にはいないことになるのかそんなことを考えた。
ここで僕がこっそり引き返して普段の生活に戻ろうとしたらどんなことが起こるだろう?
病気になったり犯罪を犯したりしたらどんな扱いを受けるのだろう?
バスは幕張のビル郡の間を、ディズニーランドやザウスの側をゆっくりと走っていった。

空港のすぐ目の前に検問所があって、リムジンバスはそこで停車して警官が乗りこんできた。
パスポートを持っているかどうか1人1人チェックされた。

---
出発が12時半、チームの集合時間が11時半。
なのに僕が着いたのはほぼ10時。あー国際空港ってこうなっているのかあと
箱崎の東京エアシティターミナルのさらに何倍も広い空間を歩く。
1階には各航空会社のチェックインカウンター。
その上の階は電気用品店やレストランやみやげ物屋。
あ、なんだこれだけで他に何もないものなのかとすぐに飽きる。
本屋で薄っぺらいトラベル英会話を買う。
銀行で日本円を1万円分両替する。1ドル118円で84ドルになった。

見送り用の外の展望台に出たら人がほとんどいなくて、寒々しかった。
僕はしばらく、遠くから飛行機とその整備をしている人とを眺めた。

母親に電話をかけて、いないようだったから
「今からアメリカに行く。金曜には戻ってくる」と留守電を入れる。

11時を回った辺りからチームの人とばったり会うようになり、7人揃い出す。
チームリーダーの山田さんがジーパンを履いていて
「なんすかそれー、ずるいじゃないすか!」と僕は怒る。

母親から僕のPHSに電話がかかってくる。
僕が会社員としてアメリカに行くまでになったことを喜んでいるようだった。

登場手続き。僕は箱崎で出国手続きを済ませているから
他の人たちが並んで待たされるところを素通りできた。
どうも成田から出国するなら箱崎からの方が良さそうだ。

---
飛行機の中へ。エコノミーの席に7人が分散して座る。みんな通路側。
「地球の歩き方」を読んでいるうちに飛行機は滑走路を旋回し、
やがて直線の道路を加速して機体が重々しく持ち上がる。
僕の座った席の一帯は翼の真横だったから景色が見られなかった。
その日ずっと曇りだった空を突き進むうちに厚い雲の層を打ち破り青空が広がった。

機内食が出る。書き写しておく。
日本風味 中巻き寿司/鮪角煮/レンコン金平
コック・オー ヴァン(若鶏赤ワインソース煮 ヌードル添え) または
揚げ豆腐の牛そぼろ餡かけ ご飯添え
フレッシュサラダ オニオンドレッシング
チョコレートケーキ
ハーブロール バター
コーヒー 紅茶 緑茶
はっきり言ってうまいかどうかよくわからなかった。
昔ロシアに行ったときに乗ったアエロフロートはたまたまファーストクラスだった。
そのときに食べた機内食はおいしかったような気がする。

食事の前に飲み物のサービスがあって、メニューを見るとジンがあったのでそれを頼んだ。
スチュワーデスがジントニックを作るためにボンベイサファイアの小さなビンを開けて、
中身をプラスチックのコップに注ぎ込んだ。半分ほど注いだ残りを僕の席の前に置いた。
透き通った青い色のビンは小奇麗で上品だった。僕は持って帰ろうと思った。
だけどビンだけ持って帰ってどうしよう?ジントニックを飲み干したコップには
まだ氷が残っていたので、少しばかりのジンを全部コップに注いで少しずつ飲んだ。
そうだ、これにアメリカの土か砂を詰めて持ち帰ろう、そんなことを思いついた。

その後缶ビールも飲んで酔いも回った僕はいつのまにか眠りこんでいた。
目を覚まして腕時計を見ると午後3時。1時間ばかり眠っていた。
窓の外は既に真っ暗になっている。東に東にと進んでいるから夜を捕まえるのが早い。
前方のスクリーンにはその時点での飛行データが表示されていて
飛行速度は968km/h、高度は10100m、外気の温度は−57℃とあった。
アンカレッジの近くを飛んでいるようだった。


[49] スーツケースを買いに行く/木曽さんのライブ 2001-02-04 (Sun)

明日からの出張に備えて必要なものを買いに行く。
2・3日前に書いたことなんだけど、滞在先ではスーツでなくても構わないが
ジーパンはNGということになっているので、「何よりはまず」とチノパンを探す。
西武新宿の駅の近くにいくつか店が固まっているので、そこに行ってみる。
OSHKOSH(スペルこうだっけ?)で3900円、
色といい形といい素材といい「これぞまさにチノパン」というのがあって
「ああ、こういうので十分だよな。1週間過ごすだけなら」とも思うのだが
これじゃあいくらなんでもワークパンツ的過ぎる、
どうせなら日本から帰ってきても普通に履く気になるようなものにしたい
そう考えて結局リーバイスの倍ぐらいするのを買った。

裾を上げてもらってる間、暇になって他の店を見て回った。
いろいろと見ているうちに「今買ったのに合うようなデニムのジャケットなー」
そんな欲望がムラムラと沸き起こってきて
SUGARCANEのジャケットでいい色の白があったので、ついつい買ってしまった。
2万。これから先何年も着れそうないいものを買ったとは思うのだが、出費としては痛い。
(チノパンもSUGARCANEのに揃えたかったが、1万2000円ぐらいするので諦めた)

池袋の西武にスーツケースを買いに行った。
どうせ買うのならサムソナイトにしておこうと思った。
新宿駅の地下、サブナードを歩いてると小さな鞄屋がいくつかあって
そこには1万円以下で大きさとしては十分なスーツケースがいくらでも売られていた。
こういうのでもいいのではないか?・・・でもモノとしてどうなのだろう?
聞いたことのないメーカー(といってもサムソナイトの他には何があるのか知らない)
のは買うべきではなさそうだ、スーツケースとは単なる鞄ではなく
それは一定の外見と大きさを保っていればいいというものではなく
高ければ高いだけの機能を保証するものなのではないか、そんなふうに考えが進んだ。
今後の生活において必要となりそうなものに対して、安易にケチってはならない。
目先の状況とか現在の金銭状況とかそんなことに惑わされてはならない。
自分はきちんとしたスーツケースを持っているということは
家や車を持っていることのミニチュアのようなものなのではないか?

サムソナイトのスタンダードタイプには色が10種類あるようで
パンフレットを見せてもらうと緑色のが良さそうなのだが、在庫を切らしてるらしかった。
青・オレンジ・グレイが濃淡2種類あって
オレンジいいねとは思ったものの目立ちすぎるかなあと無難に青にすることにした。
今回の出張では3・4日用の小さいので十分なんだろうけど
これからどんな旅に出かけるとも限らない、そう考えて大きくても1週間用のを買った。
スーツケースが3万2000円。ベルトが2900円。

旅行用品売り場には収納用品だったり洗濯用品だったり
様々なものが売られていたのだが、どうせ必要ないだろうと見向きもしなかった。
この日その他に買ったものとしては歯ブラシのセットとリングノート、靴下2足がある。

---
夜、営業の斎藤さんと西荻窪のTURNINGというライブハウスに
R社の木曽さんのライブを見に行った。
木曽さんには僕が1年目だったときの仕事で何かとお世話になった。
1度飲みに行ったことがあって、昔パンクバンドをやっていたころのエピソードを
たくさん聞かせてもらった。この人の経歴は(このような日記には書くわけにはいかないが)
僕が社会人になって出会った人の中で1番面白かった。

この日4組出ることになっていて、木曽さん曰く
「レベルの高い小屋だから期待できるでしょう」とのことだったのだが、
本当にレベルが高かった。

1個目は「カクテルパーティー」というバンドで
スリーピース、ベースなし、ツインギターでそのうち1人が左利きという面白い編成。
オルタナティブ・ニューウェーブ系の音を学習していった末の音といった感じで
音楽的には僕は割と好きなのだが、いかんせんヴォーカルが
「君の手」だの「明日」だの「希望」だのそんなことばっかり口にするので
それがどうにも頭が悪そうだった。演奏はどの曲もいつもいいとこまで行くのだが
そこから先突き抜けることなく、無駄にお行儀が良すぎた。
自分の頭のすぐ上に天井のあるようなバンド。不都合はないが居心地は悪い。
背伸びができなくて猫背になりそうだ。メジャーデビューはまだまだ遠いだろう。
それにしてもMCに困って「メンバーの中に1人雨男がいて、さあそれは誰でしょう?
・・・ではそこのあなた」と客に聞くというのはたるいだけなのでやめてほしかった。

2個目。これはすごかった。思わぬ拾い物。「outatoon」
もしかしたら半年後にはRockin'on JAPAN に期待のニューカマーとして登場するかもしれない。
ジャンル分けするならヘヴィロック。
レイジとマッドカプセルマーケッツとナパームデスを足してゴスっぽくしたような音。
ブレイクに差し掛かったときの音の一体感がヴォーカルも含めてすさまじいものがある。
重いがべたつかない多彩なリズムの感覚もいい。
サビに至るまでの長い長い道のり(メロディーのないヴォーカルがモゴモゴ呟く)を
改善できれば、ひょっとしたらこのバンドはとんでもないことになるかもしれない。
メンバーは全員黒い服を着ていて、余計なMCやバンド紹介などは一切なしという
潔い態度など、存在感がピシッと完成している。
デモテープがカウンターに積んであったのでもらって帰った。
インディーでCDが出たら買いたい。
もっと進化できそうなバンドなのでまた何ヶ月かしたらライブを見たい。
(だけどこの手の音を僕は普段聞かないのでわからないが、日本のパンクシーンでは
このようなバンドが既に結構多く活動しているのではないかという気がしないでもない)

3番目が木曽さんとこのバンド。会場前からみんなで飲んでいたらしく
そんなこともあって出来はよくなさそうだった。
至ってオーソドックスなR&Rという曲目も浮いていた。
うちの部で木曽さんに関わってもらってるプロジェクトは
ここ2週間終電で帰って土日も出るというようなペースで動いていて、
木曽さんはスタジオに入って練習している暇がなさそうだった。
木曽さんのベースは指は器用に動いていたものの
ギターとドラムのコンビネーションに合ってなかったように感じられた。
木曽さんたちは2個目のバンドを楽屋で聞いて「これはつらい」と思ったらしい。
演奏が終わった後で僕と斎藤さんの席に来て
「こんなブッキングこれまでなかったよ」と困った笑顔を見せた。
たぶん普段ならもっと一体感で押すことの出来る音なのだろう。
そしてそれはR&Rのバンドが固まって出たときに
観客の気分も温まってきた辺りで登場して、そこでガッと出て行けるものなのだろう。
4バンドのテイストがバラバラだったから、それぞれの目当てのバンドを見に来た人が
他のバンドを見ていったいなんだこれはとひいている、全体的にそんな雰囲気があった。
客席が全然盛り上がらずどのバンドも大変そうだった。
そしてそこで1番損をしたのが、最も音楽性の違う木曽さんのバンドだった。
そういうことなのだろう。(みんな職業のある、若くはない人たちみたいだし・・・)
それにしても年くってかっこ悪くなって、だけどフロントマンとしてのキメのポーズは
100個200個でも知ってる、そんなヴォーカルは生理的に受け付けませんでした。

4個目はたぶん30に差し掛かってて
それぞれのバンドでそこそこのところまで行ったんだけど
メジャーデビューし損なった人たちの集まり、そんなバンドで
それもまあなんだかわかるような演奏でした。悪くはないけど決して良くはない。
演奏はうまいけど決め手は無数に欠けている。
足りないものが足りないままそれが逆説的な魅力には転じえない。
なんにせよ1曲ごとにチューニングを「あれえ、合わないなあ。すみませんねえ」って感じで
やってるのは「なめとんのか」と思いました。以上。


[48] 銀座、荻窪行き 2001-02-03 (Sat)

会社からの帰り道、銀座で日比谷線を降りて丸ノ内線のホームに向かった。
次に来るのは荻窪行きではなかったし、座って帰りたかったから
丁度良く逆方向のが来たこともあって1度東京駅まで乗っていった。
降りてすぐ隣のホームに移って、荻窪行きが来るのを待った。
乗り込んで座ってからデイパックの中の本を取り出した。
「存在の耐えられない軽さ」が終局部分に差し掛かっていた。
恐らく今日の夜、布団の中で読み終えることになるのだろう。
トマーシュとテレザは農場での生活を始め、
サビナはアメリカで画家として成功し、フランツはカンボジアでのデモに参加した。
(注:この小説において時系列的な筋書きはほとんど意味をなさない。
登場人物がどのような結末を迎えるかは物語の割と早い段階で読者に明かされる)

銀座でたくさんの人が乗り込んできた。10時を過ぎていたから、飲んだ後の人が多かった。
隣に若い男女が座った。2人はごく自然にそれまでの会話を再開させた。
僕は読書に没頭しようとするのだが、喋る男の声が大きいので意識を集中させることができない。
最初のうち僕はムッとしていた。
「僕は本を読みたいんだ。静かにしてくれないか。君の周りには他にいくらでも乗客がいるし、
誰だって君の話をわざわざ聞かされなきゃいけない理由なんてないんだ」
・・・なんてことはもちろん言ったりしない。
僕だって隣に知ってる人がいたら大声で話してるのかもしれないし、それに何よりも
同年代の人間に「注意」するために話し掛けることはひどく奇妙なことに感じられるからだ。
そんなことしてる人見たことない。別に見たいとも思わない。そういうこと。

本を読んでるフリをしながら僕は2人の話を聞くことになった。時々機械的にページをめくった。
一方的に男の方が話していて、それはどうも音楽としてのハウスやテクノについての
レクチャーのようだった。女の方は「ふーん、そうなんだ」って感じで聞き入っていた。
口調から察するところでは、2人は知りあって日が浅いようだった。
話の節々にお互いに対する丁寧な言葉遣いが紛れ込んだ。
内容としては何年にデリック・メイが発表した何たらが、とかいったこと。
いつのまにか僕もまた「ふーん、そうなんだ」って感じで聞き入っていた。

ハウスの機嫌は1978年に遡る。
それは歌モノのレコードをかけるのに飽きたDJが1番と2番の間のインストの部分だけを
繋いでかけたことに端を発するのだという。
本当のことなのかどうか僕にはわからないが、たぶんそうなのだろうと思う。

僕は2人がどんな人たちなのか知りたくなった。
でも横を向いてまじまじと見つめるわけにもいかず、ただその足元だけが見えた。
男はゆったり目のジーンズを履いていて、それは僕がうらやましくなるような
斬新な色遣いをしていた。薄いチェックの模様が入っていたように思う。
女の方は黒いストッキングにヒールの高いシンプルな靴を履いていた。
それは決して安い物ではなく、しかるべき場所で買ったしかるべきものであることが僕でもわかった。

男の方の話が一通り済んで、女の方には言うべきことは何もないようだった。
何を意見として言うべきか素人だからその糸口が全くつかめない、そんな感じ。
ぎこちない間が空いて、地下鉄本来の音が聞こえだした。
次の駅名を告げる声。車両がきしんで揺れる。
僕は本を読み始めようかと思った。
そこへ突然女の方が話し始めた。
「最近ね、三越の食器売り場によく行くの」
そして続ける。「音楽の話じゃなくてごめんね」
男は笑って、「いいよ」と言った。

「これまでは高島屋の方が全然よかったの。高島屋ばっかり行ってた。
でも三越の方も最近よくなってきて」
「どこの?」
「”三越前”の。・・・あ、違う。銀座の」

そこでまた間が空いた。次の駅は新宿のようだった。
2人にはそれが話の切れ目になった。立ち上がって扉の方へと歩き出した。
僕には男のかぶるニットの帽子と女が左の耳につけた2つのピアスが見えた。
2人はそれぞれの手にした荷物を持って、開いたドアから消えていった。
電車が走りだした。
僕は小説に戻ろうとした。だけどなんだか、読む気になれなかった。
向かいの座席の窓に映るコンクリートの壁をぼんやりと眺めたまま、
荻窪の駅が近付くのを待った。


[47] 渡辺・鶴岡・澤井 2001-02-02 (Fri)

渡辺からメールがきて、今度の金曜日時間があったら私たちと飲みませんかと誘われた。
「私たち」の残りは鶴岡と澤田。映創会の後輩。
会社の人たちと飲みに行く話もあったのだが、それもなくなりそうになったので
僕は「仕事が早く終わったら行けるよ」と返事をする。

彼女たちが1年生で入部してきたとき、僕は大学院の1年生だった。
4年たって彼女たちも卒業することになった。早いものだ。
それぞれ就職も決まった。卒論も出した。もう少ししたら3人で卒業旅行にも出掛ける。
彼女たちはいつも3人一緒にいた。どの程度「いつも一緒」なのかはわからないが、
サークルの集まりがあって顔を合わせるときに3人のうちの誰か1人が、
ということはほとんどなかった。3人揃って、あるいはNO。

女子大にはそういう3・4人の小さなグループが無数にあるのだと思う。
あるものは卒業から年数を経るに従って結びつきが弱くなりやがて消えていく、
またあるものは会う頻度は減るものの半永久的に残っていく。
後者の場合、3月に卒業旅行に出掛けるのと同じような感覚で
30代・40代になってもそれぞれの立場があって家庭がある中で
旅行に出掛けてしまうのかもしれない。

---
彼女たちは3人ともこれから出て行く社会に対して大いなる不安を抱いていた。
会社で働くということを恐れていた。
僕は「なるようになるよ。この時期誰だって不安なんだろうけど
飛び込んでみれば案外それなりのところに落ち着くよ」と助言した。
彼女たちの1人は「5年先に自分はどうなっているんだろうって考えると不安になる」と言った。

「今目の前の就職でネガティブな気持ちになっているときにその先を考えたって
ネガティブなことしか出て来ないんだからさ、今はとりあえずなんでもいいから
もっとポジティブなことを考えて気持ちを少しでも前向きにした方がいいんじゃない?」
「そういう岡村さんは働いてる今、ポジティブなことって考えるんですか?」
「学生時代に映画作ってる頃よりはよくなったよ。ネガティブには考えなくなった。
必ずしもポジティブには考えないけど・・・、そう、まずはゼロだね、何事も」
「ゼロ?」
「社会に出ているとくだらないことばっかりだからさ、そんなことにいちいち
感情を動かしていても疲れるだけなんだよね。だから何事も「へー、ああそう」ぐらいの
心構えで接していく。みんなそうなんじゃない?
大人になるっていうのは面の皮が厚くなることだと最近思うね」

要するに昔の僕は現在のあるいは未来のネガティブな状況に対して
真剣になってネガティブな気持ちのまま向かっていったということだ。
どのような気分で過ごしていたとしても物事は常に流れていく。
それならば最低限ゼロ、もしも可能ならばポジティブに考えた方がいい。
最悪の事態とはどんなものであろうか冷静になって予想しながら。

---
その後、恋愛の話、この3人ではだれが最も結婚が早いかという話になった。

「岡村さん、社内恋愛しないんですか?」
「え、嫌だよ俺」
「えーどうして?」
「どうしても何も・・・。うまく行っても行かなくてもめんどくさそうだし。
・・・社内恋愛したい?」
「したーい」と3人の声が揃った。「あこがれるー」

(それにしても一方では「社内恋愛したい」と言っておきながら
一方では「会社に入りたくないな」と言ってのける「女の子の気持ち」って
いったいなんなのだろう?
「太りたくないけどケーキは食いたい」みたいなものか? ・・・全然違うな)

---
興味深いことを聞いた。
この前3人で合コンに行ったときになぜか、「子供を産む瞬間に
夫に手を握ってもらいたいか?」みたいな話題になって
女の子たちの意見はみな一致して「それはいや!」だったそうだ。
へーそんなもんなの?と僕は思った。
「頼むからあっち行ってて。見ないで」ぐらい嫌なことらしい。
僕はむしろ女性の方が手を握ってもらいたがるのではないかと考えていた。
ふーん。そんなもんなのか。


[46] アメリカ出張の準備 2001-02-01 (Thu)

5日からのアメリカ出張の航空券を渡される。
旅程表と一緒に出国審査・入国審査のカードもパッケージに同封されている。
ああ、本当に行くんだなあ。来週の今頃アメリカにいるんだなあ。
そう考えると僕は子供のようにわくわくする。

訪問先はやはりコンピューター関係の会社になる。
スーツである必要はないとされていたが、ジーパンはふさわしくないだろうと言われる。
「だったらなんですか?」「チノパンでいいんじゃないかな」
「僕ジーパンしか持ってないんですけど・・・」「・・・」
僕はジーンズしか履かない分、黒・白・灰色など10本近く持っている。
それが全部ダメ。日曜にはトランクと一緒にチノパンを買いに行かなくてはならない。

4日程度の出張なのでとりたてて持っていくべきものはない。
パスポートなんかを別にすれば着替えとシェーバーぐらいしか思いつかない。
いざとなったら向こうで買えそうだし。
トランクをスカスカにして出発して、お土産を詰めこんで帰ってくることになるのだろう。

向こうでインターネットにつなぐために、
会社のVAIO(ノート)をセットアップし直したのだが
社内からLANではなくダイヤルアップでかける方法がよくわからない。
インストールし直すと「インターネット接続ウィザード」みたいなのが用意されるのだが、
例えばVAIOだと恐らくso−netとプロバイダ契約することになってしまうので
利用するわけにはいかない。僕が家で加入しているODNのIDとパスワードで
接続できないか試してみることになる。
モデムの設定の仕方がまずお手上げだったのだが(家のマックは箱から取り出して
電源と電話線を差しこんで後は画面上で聞かれたことに答えるだけでよかった)、
試行錯誤して人に聞いて回ってやっとODNの国内のアクセスポイントに接続できるようになった。
しかしその後ODNの海外ローミングサービスを利用しようと
いくつか紹介されている設定方法を試してみるのだが、どれもうまくいかなかった。
あとはフリーメールの登録をしなくては。

今週は会社の行き帰りに「地球の歩き方」のアメリカ旅行のAtoZを読む。
感化されやすい僕の頭の中は今アメリカのことでいっぱいである。


[45] そういえば去年の今頃モー娘。にはまっていた 2001-01-31 (Wed)

そういえば去年の今頃、僕はモーニング娘。にはまっていた。
ひどく疲れていた。入社以来最も忙しい時期だった。
入社8年目の人がそれまでやっていた仕事を入社1年目の僕が引き継いだのだから
何がなんだかわけがわからない状態で、それでも手探りでなんとか仕事を前に進めていった。
気がつくと夜の10時を過ぎている。毎日終電かその一つ前で帰る。
帰ってきてただぐったりとしている。すぐにシャワーを浴びて眠る。
土日は昼まで起きられないし、起きても何もする気がしない。ぼんやりしてるだけ。
(今思えばこのときにとんでもなく成長した。このときの貯金で残りの1年を過ごした)
そんな生活が1ヶ月ほど続いたときにふと茂木さんの机の上を見ると、
「ザ ビデオ Loveマシーン」が置かれてあった。
8人のメンバーが安っぽい銀色のペラペラの衣装を着て無表情に立っているやつである。
ほとんどシャレというかタチの悪い冗談のつもりで僕はそれを借りた。
家に帰ってとりあえずビデオデッキにテープを差しこんでみた。
このシングルは1999年9月9日発売ですよというのを知らせるための
どうでもいい寸劇が最初5分ほど流れた後で本編が始まった。

今でも覚えている。僕はこの日に3回繰り返して鑑賞し
それから毎日2週間家に帰ってから必ず1度は再生ボタンを押した。
「ザ ビデオ 恋のダンスサイト」を自分で買ってからはそれと交互に見た。
クラスで2番目か3番目にかわいい女の子がほぼノリ一発だけの楽曲に合わせて
今時誰も思いつかないようなあほらしい振り付けで踊るというのが僕にとっては非常に画期的だった。
ここでは「クラスで2番目か3番目にかわいい女の子たち」というのがポイントである。
なんでこんなルックスのいい子たち(とはいっても妙に垢抜けてないところのあるのが
僕に微妙にフィットした)がこんなかっこ悪いダンスを一生懸命にやっていて
しかもそれでいて非常に楽しそうなのか?僕はしばらく思い悩んだ。
で、それはまあどうでもいいことなのだと思い当たった。
本人たちがそれで楽しいのならばそれでいいんだよね、そう思った。
僕はそこに地のついた素朴なポジティブさを感じた。
マスコミとかメディアとかそういうものに人工的に作られたものではなく
その人たちが本来持っているエネルギー。その化学反応。

僕はこのビデオに出会わなかったらいったいどうなっていたことだろう、とよく考える。
あのとんでもない時期を乗り越えることができたのは部署の周りの人が、
というよりは端的に言ってモーニング娘。のおかげである。
僕はストレスがかなり溜まっていた。マシンを蹴る、上司を殴るぐらいはやったかもしれない。

普段よくわからない音楽を聴いてよくわからない小説を読んでよくわからない映画を見て
気難しい人・よくわからない人という印象を僕は周りに与えていたと思う。
よくわからないというのはロックはアメリカでもアンダーグラウンドなものを聞く、
ロシアの現代小説に関して修士論文を書く、昔の東欧の映画を喜んで見る、
そんな普通の人ならまず接することのないようなジャンルのものを当然のものとして
身の回りに配置している、そのような人間であること(それは今でも基本的に変わらない)。
そんな人間がいきなり「モー娘。!」と言い出したのだからこれは相当に不気味だったに違いない。

ビデオを買い揃え、写真集も入手し、ホームページに毎日アクセスし、
普段全く見ないテレビもレギュラー番組だけはチェックした。
去年の前半、これ以外に楽しいことはなーんにもなかった。

この子いいねーと思っていた石黒彩・市井沙耶香が脱退することで
僕の中では徐々に盛り下がっていき、「ピンチランナー」を見に行ったのが僕の中で最後だった。
新メンバー4人はどれもぱっとしないし、最近のシングル2枚もたいしたことない。
彼女たちもピークを過ぎてしまったなと思う。

いくつかの楽曲「サマーナイトタウン」「抱いてHold On Me」「Love マシーン」と
それに「ちょこっとLove」は楽曲として非常に優れていると思うし
「ザ ビデオ Loveマシーン」は今でもふと見ることがある。
なつかしいとかそういうことではなく、ただなんとなく。


[44] 記憶・感覚・思考 2001-01-30 (Tue)

いとこが掲示板に「今日の出来事なんかよく覚えてるね」って書いてた。
小島さんには「いつもそんなに考え事ばっかりしてるのか」と聞かれた。
そんなことはないです。そんなわけないですよ。

---
その日何があったのか次の日になるとほとんど覚えていない。
毎日毎日一定のルーチンワークをこなしているだけであって、多くの場合
その日がどういう日だったか他の日と区別がつかなくなってしまっている。
覚えるに値するだけの出来事も普通は起こらない。
記憶力が他の人よりいいわけではない。普通レベルだと思う。

僕はこれまでたくさんの小説を読み、たくさんの映画を見てきたが
その8割9割がたはその結末を覚えていない。
人によっては真ん中の辺りで主人公が言ったあのセリフが、と言う人もいるが
もちろんそういうのも右から左に抜けてしまっている。
僕の中には単純なストーリーの図式とある種の「感覚」「手触り」だけが残される。
後からその小説や映画を思い出すとき、その存在感でもって良かったかどうかを判断する。
総体的にどのようなインパクトを僕に与えたか、ということ。

小さかった頃、思い出すのは嫌なことばかりだった。
ふとした弾みにあるとき受けた・やってしまった物事がフラッシュバックして
表面上は平静さを装うものの、僕の内面はパニックに陥る。
そして願う、「何もかも忘れてしまえた方が楽です!」
この世には神様がいて遅まきながら願いをかなえてくれたのか、
それとも自然の摂理なのか、最近面白いくらいに記憶が断片化・沈殿化してしまっている。
手繰り寄せて再構成するのは並大抵のことではない。
それに過去の出来事を思い出してどうこうしなくてはならないような状況も最近ほとんどない。
気がつくと何をするにあたっても体で覚えていることをただ繰り返すだけ。

(この機会に一応ここに書いておきたいのですが、僕はそういう記憶をとどめておくために
この日記を書いているのではないです。「僕を知ってほしい」ということでもないです。
1日1時間か2時間コンスタントに文章を書く訓練をするにはいったい何を書くべきか?
そう考えると必然的に日記になってしまったというだけのことです。
「公開トレーニング」という考え方が1番近いですね)

---
起きている時間のほとんどは何も考えていないと思う。

僕は何事も瞬間的にYesかNoで判断してしまう。
僕自身(というか誰であっても)自分の思考のプロセスというものは
おぼろげなものでしか把握していないと思う。
それでも自分は「即決型」であることはわかっている。
人間が感覚派と理論派に分けられるのならばまず間違いなく感覚派。
まずそれがNoならNoと答えを出す。ほとんど好き嫌いのようなもの。
そしてそこからなぜNoなのかたどっていく。時間がある場合には。
複雑な物事を考えなくてはならないときはたぶんそのYes/Noを無数に積み上げていく。

一瞬で答えを出してしまっていて、あとは考えているふり。
ずっとこの方法で長いこと生きてるから勘は鋭くなり、経験も深まっていく。
今のところ何の問題もない。

・・・でもその半面抽象的な物事を粘り強く理論的に考えていくことは全く駄目。
僕は高校時代数学ができなくて苦労した。
証明問題は特に苦手で、そういうのは僕のポリシーに反してすらいた。
「この図を見ればどうしたってA=Bに決まってんじゃん。
いまさら何をごちゃごちゃ言わなきゃいけないのさ?」っていうような態度。

日々歩き座り呼吸をしている間にも様々な情報が僕を取り囲み、
僕は単なる「刺激の受容器官」となってなんらかのアウトプットを返す。
それらの情報のいくつかは瞬間的な取捨選択の末に僕の思考の網の中に捕らえられる。
それらは断片化されその他の断片と交じり合ってそれが何かを生み出すこともあれば
波が引くように分解していくこともある。
恐らくそれは完全に消えてしまうのではなく、僕という人間の奥底に残されて
またふとした弾みに意識の表面に断片化されて現れる。

---
僕は日記で書いてるようなことを日々考えながら暮らしているかといえば
全然そんなことはないですね。疲れるだけです、そんなことしていたら。
紙と鉛筆がそこにあれば、あるいはモニターを前にしてキーを叩いていれば
そういった記憶の断片が、もつれ合った細かな断片の群れが甦ってくるというだけのことです。
「甦らせる」というのは24時間のうちのほんの一瞬の作業であって、
そのときに思い出された感覚や思考、あるいは純然たる出来事を
時系列的に追っていく、あるいはいくつかの角度から捉えてみる、ただそれだけのことです。

僕は最近書くことと考えることとが作業として限りなくイコールになりつつある。


[43] 日常生活を描く (1) 2001-01-29 (Mon)

時計ベル天井枕壁梯子床冷蔵庫パントースター、牛乳コーンポタージュスプーン。
TシャツYシャツトランクス靴下シェーバー洗顔料歯磨き。
小学校自販機道路自転車白猫コンビニ地下鉄階段ホームマイク車両ドアシート。
会社員傘コート女子高生小学生会社員老人会社員おばさん会社員会社員会社員。
広告週刊誌女性セブン近藤サト憲子さん景子さんanan木村拓哉さん。

霊岸橋永代橋ビルディングコンビニ伊藤園おーいお茶エレベーター入館証スキャン。
DELL電源メール上司挨拶ミーティングホワイトボード進捗チェック内線問い合わせ。
昼食パスタペパロンチーノレモンティー午後の紅茶読書「存在の耐えられない軽さ」
マイクロソフトマウスクリック、フリーズモニターシャットダウン。
セットアップVAIOCD−ROMVISIOインストール。
コーディング単体テストテストテストドキュメント作成ブラインドタッチ。
Cloretsシュガーレスメンソール、ホッチキスセロテープチューブファイル。
インターネットHMVArabStrapマキシオーダー注文確認メール。

真夜中帰り道焼鳥屋横断歩道シャッター閉店塾中学生大声。
アパート2階階段鍵革靴照明ネクタイYシャツ留守電メッセージ再生メモ消去。
エアコンコーヒーモカ砂糖3gコンロリンゴナイフフォークPHSスイッチ着信音量設定。
KENWOODケースCDプラスチックPOWER音楽。
ベース歌詞リズムノイズループ声ジャケット写真女性顔表情瞳皮膚唇。

「雨上がり道カサ水鏡子供大人毎日素直感じあえること
恋人時間言葉夢花花風君愛孤独
指約束今心カギ大人恋臆病さよなら
誰皆時代出会い時羽空青僕勇気命
明日一人心音朝今日・・・

シャワーシャンプーリンスノズル格子窓スポンジワイドハイターバスマジックリン。
バスタオルドライヤー冷蔵庫ボルヴィック鏡自分睫毛喉目つき口元。
靴下パジャマ静けさ梯子布団壁枕天井ベル時計、暗闇。


[42] 部屋の契約を更新する 2001-01-28 (Sun)

会社から戻ってきて夜、下の階の大家さんに家賃を払いに行った。
この部屋に住みだしてから早2年、契約を更新することが決まっている。
今後は不動産屋を通さず、直接大家さんと契約を結ぶことになった。
「貸室賃借契約書」を2通手渡され、
次に家賃を払うときまでに目を通しておいてくれと言われる。
「延滞損害金」の項目には「1日につき賃料の0.1% ¥70」とある。
30日遅れても2100円か。ここだけ見てもたぶん良さげな待遇。
これまでの一人暮らしで払いそびれたことはないんだけど、ちょっと嬉しくなる。

次の2年間が過ぎたときの更新料はなしでいいと言われたものの
さあそこまでこの部屋にいるかどうか。
駅からは遠いものの静かな、落ち着いた場所。
フローリング、新築。
・・・ではあるがなにしろ狭い。キッチンを含めて6畳。
そこにCDが2500枚と本がマンガを含めるとどう少なく見積もっても500冊。
置き場所が確保できなくなりつつある。隙間を有効利用することばかり考える。
下は物置で上のロフトはカプセルホテル。そんな部屋。
広い広い場所に引っ越したい。ソファーを置いて寝っ転がりたい。
部屋の真ん中で大の字になりたい。

でもここを出ていったとしても今の大家さんみたいにいい人に出会える保証はないし。

引っ越しは来年の今頃かねえ。あと1年はたぶんいるはず。
次はそろそろ中央線沿線から離れるべきか。
杉並区にいたまま(本籍が杉並区なので戸籍謄本が取り寄せやすい。
住民だと平日の昼間に窓口に行かなくていいので非常に楽)
もっと南に行って京王線、小田急線の辺りにしようか。
1番住みたいのは吉祥寺なんだけど荻窪より相場は高くなるのだろうか。
横浜にも住んでみたいが会社に通うには遠くなる。
これからゆっくり1年かけて考えることになるのだろう。

それでも隅田川から先、東の方には例え新築家賃8万で
2LDKなんてのがあったとしても行きたかねえな。
どんなことがあっても、お金がなくて困ったことになっても、
僕はそれがなぜなのか自分でもよくわからないんだけど、
たぶん「都落ち」って感じがするから、千葉には住みたくない。
うちの会社の人の大半に喧嘩を売るようですが。
・・・やっぱり僕にとっての東京は中央線の範囲内のものなんだろうな。


[41] お母さん、今日東京に雪が降りました 2001-01-27 (Sat)

今月東京で雪が降ったのはこれで3回目。
上京以来ここまで雪が降った年はこれまでなかったような気がする。

朝目が覚めて歯を磨いて服を着替えて、まずはクリーニング屋に行かなきゃと
部屋のドアを開けたとき、思わず目を疑ってしまった。
外は吹雪で、強い風が吹き付けていた。真っ白な雪が厚く降り積もっていた。
それでも3秒後には冷静になって、「丸の内線止まってなきゃいいな」と
思いながらブーツに防水スプレーを振り掛けた。

クリーニング屋に今週着たYシャツを出して先週出したのを受け取ったとき、
店のおばさんから「昨日の夜山手線で酔っ払いがホームから線路に落っこちて
それを助けようと線路に降り立った男性3人が電車に轢かれて即死した」という話を聞いた。
本来ならば線路に異物が置かれたときには感知するはずの装置が作動しなかったらしい。
僕ならそんな状況ではどんな行動をとっただろう。
周りに駅員がいないか探すぐらいのことはできるだろうか。
何も見なかったふりをして立ち去る。
誰かが勇敢な行動を試みるのを離れたところから見てる。
他の人たちのように人垣の一部となって好奇心が半分入り混じった気持ちで眺めている。

---
丸の内線は通常通り動いていた。会社に着いて10階の大きな窓から外を眺めた。
僕はこれまで1階か2階にしか住んだことがなかったから、
雪が降ってるのを目にするのは地上か地上よりも少し上の視点からということになる。
首をほんの少し傾けるだけで足元に雪が広がっているのを見ることができる。
そのとき、雪はあくまで上から「降ってくる」ものだ。

10階から下の方を見ると、それは奈落の底へと落ち込んでいくもののように見える。
少しずつ少しずつあてにならないスピードで、限りなく小さくなっていく。
視界からその破片は消えてしまう、
しかしそいつは地上を、地面を、道路を白く覆い尽くしてしまっている。
それは1つになる。破片のそれぞれは「無限」である。
しかしそれはやがて巨大な「1」へと加わっていく。

降り続く。途切れることなく、まるで永遠というものの現れであるかのように。
見ていると吸い込まれそうになる。
身を乗り出すとそれは僕の体を柔らかく包み込んでくれそうな気がする。

10階の窓からまっすぐ遠くを見た。
川があって橋がかかっていてその上を自動車がノロノロと動いていた。
その周りをビルが取り囲んでいた。
それらの空間全てを満たすように雪は風に煽られ舞い降りていった。
空は灰色で僕の視界に届く範囲を超えてそれは続いているはずだった。
目の前の空間の全てを満たそうとするもの。
今この瞬間を満たそうとするもの。その運動が永遠を感じさせるもの。
僕はこの前世界の終わりについて書いた。
この光景もまた、僕が抱くその概念に近いものを持っている。

---
僕たちを取り囲むものの全て。
その1つ1つの瞬間が単調に反復される。
それはやがて単一の無機的な存在へと収斂される。
僕たちはその中へと沈み込んでゆく。
なすすべもなく寒さに震えている。
何も必要としない。そこには何もない。
時間と空間から「意味」が剥ぎ取られてしまっている。
僕たちはただそこにいるだけ。
帰る場所も思い出す過去もなく、たった1人で。


[40] 茂木さんの・・・ 2001-01-26 (Fri)

茂木さんの結婚を祝して東CB・元東CB・元TISの人が10人ほど集まった。
銀座松屋の7Fに食堂が立ち並ぶ中、隅の方に特別食堂というのがあって
小さな個室を貸し切ることができる。
おばさんが1人専属で貼り付いて食べ物や飲み物を運んでくれる。
東京のデパートにしてはかなりまともな刺身と寿司が出た。
(食い意地の張った僕は他の人の残した分も
「もったいないもったいない」と喜んで食べた)

夫となる栗原さんに初めてお会いした。
誰とでも分け隔てなく話そうとする、気さくな人だった。
その場に居合わせた人の名前を(次会うことがあるのかどうかわからないのに)
きちんと覚えていて、僕は好感を持った。
社会の中で暮らしていると理論的に「これこれこういうポイントがプラスだから、
その合計点が基準を超えたから、恐らくいい人なのだろう」という判断の仕方がある。
でもそんなめんどくさい作業を必要とせず、
直感的に「あ、この人はいい人だ」そういう雰囲気が素直に伝わってくる人だった。

2次会はカラオケに行った。
ここのところどうにも声は出ないし音程は狂いまくる、
それでも気心の知れた人ばかりのカラオケだったから楽しかった。
後半かなり盛り上がった。何を歌うべきか考える必要もなく
「岡村君はブルーハーツ歌っててよ」って感じで僕は気持ちよくがなることができた。

帰りは茂木さん・栗原さんと3人で中央線に乗った。
金曜の終電間際だったせいか、身動きも取れないくらいに混雑していた。
茂木さんが「暑いー」と言ったら隣に立っていたおじさんが窓を開けてくれた。
涼しい風が車内に吹き込んできた。

---
1000円ぐらいのプレゼントを各自渡すことになっていて、
最近忙しい僕は気の利いたものを買いに行く暇はなく
水曜の夜渋谷に飲みに行ったときに探そうとしたものの
9時を過ぎていて開いてるのはCD屋か本屋ぐらいで
そのどちらかだったら本の方がいいだろうと僕は考えた。
Book 1stに行ってずらりと文庫が並んでいる中でさあどれにしようと途方にくれた。

結局「ホテル・ニューハンプシャー」の上下にした。
前にもこの日記に書いたことなんだけど
学生時代僕はこの本に出会うことができてほんと良かったと思っている。
人生山あり谷ありでその中では大切なものを失うこともあって悲しいことも多いんだけど、
家族とか恋人とか大事な人の側にいることでまた新たなものを見つけていく、
そんな小説であるとも言えるから読んでもらえたらいいなと思った。

茂木さん、お幸せに。


[39] ちょっと長めの昼休み 2001-01-25 (Thu)

10時からDGで開発者会議。13時30分から引き続きEDI勉強会。
開発者会議は案外さくさくと進んで11時には終わってしまい、2時間半の暇ができた。
茅場町まで戻ったとしてもまたすぐ引き返してこなくてはならない。
どうしようとりあえずここにいようか、そうしましょうということになった。

DGの会議室でコーヒーを飲みながら今後のスケジュールの話をした。それも終わった。
新宿が近いからこの合間に行って本を買いたいなと僕はふと思った。
土日も会社に来てるだろうから、多分行ってる暇はない。
「初めての海外出張」みたいな本があったら事前に読んでおきたかった。
小島さんにそのことを言うと、いいねえ行こうか、荷物は置かしてもらって
すぐにもビルを出て駅へと向かった。

新宿でご飯を食べよう、さてどこにしよう?
話しているうちになんとなく新宿の中村屋に行ってカレーを食べることになった。
ビル全体が1つのレストランのようなものなんですよ、
2階がインドカレーで3階が欧風カレー。いいんじゃない?それ。
行ってみると4階では昼はカレーバイキングをやっているようで、迷わずそこにした。

ビーフ・チキンでまず一皿食べて、シーフード・キーマでまた一皿食べて
これ以上腹には入りそうにない、苦しいと僕はベルトを緩めた。
ズッキーニのカレーと豆のカレーは残念ながら食べられなかった。
それでも目に付いたオレンジプリンがおいしそうだったので、つい皿に取ってしまった。
プリンなんて半年振りぐらいだ。最近プッチンプリンですら食べてない。

中村屋は僕の母が若い頃近くのお茶道具屋で働いていたこともあって、
弟が訪ねてくるとご馳走した、そんな場所だった。
僕ら一家が青森から上京してくる機会があると決まってここで食事をした。
母子家庭である僕はここで生まれて初めて、3桁ではなく4桁の値段のする食事を
意識して注文したように思う。ビーフシチュー。
それは青森の喫茶店で食べるような黒いどろっとしたものとは全然違っていた。

---
紀伊国屋書店に行く。中村屋の向かいに本店があるのだが、素知らぬふりをして
僕は「こっちです」と南口の高島屋の方まで小島さんを案内した。
高島屋と東急ハンズにも行きたかったから。(小島さん、遠くまで歩かせてしまってごめんなさい)
トランクは買うべきだろうか、差し当たってはまず相場を知っておこう、そんな腹積もりがあった。

アメリカ出張に行けることは決まった。しかしそれは3日間程度のものだ。
向こうではスーツを着ることはない。もしかしたらリュックサック1つで充分かもしれない。
でもこの機会にトランクを買ったらどうか?
このプロジェクトでの出張はあと2回ほどありそうだ。
今のリュックサックだと買ったお土産を両手にいくつも持って歩くことにもなりかねない。

1.トランク:Samsonite の大きめの頑丈そうなやつを買っておいたら
世界のどこに行くにも使えそうだ。しかしそんな機会はここ2・3年で果たしてあるのだろうか?
そもそも今の僕の部屋には置いておくだけでかなり邪魔になる。

2.キャリーケース:あんまり荷物が入らないだろうが今回の出張、今回のプロジェクトでは
この程度で充分だろう。使わないときにはぺしゃんこにしてどこか部屋の隅に置いておけばいい。
小型の3WAYのタイプにすれば青森に帰るときにも使えそうだ。
大き目のスーツケースが必要になったらそのときはそのときでまた考えよう。

・・・といったことを考えてキャリーケースをそのうち買うことにした。
紀伊国屋書店に戻って旅行コーナーに足を踏み入れてみると
地球の歩き方のシリーズに「成功するアメリカ旅行計画」というのをあるのを見つけた。
アメリカでのインターネットの仕方からチップの換算票まで至れり尽せり
情報が乗っていたのでそれを買うことにした。
「初めての海外旅行」というような本もたくさんあるのだが目次をめくってみると
どれも話が大雑把過ぎた。旅慣れた人がいるのならいらないなと思った。

---
紀伊国屋書店を出ると雨が降り出していた。
この日はこの後ずっと雨が降っていて、夜中強く屋根を打ちつける雨の音で僕は目を覚ました。


[38] 大山さんと「大佐」 2001-01-24 (Wed)

映創会の先輩である大山さんが転勤で上海に行くことが決まり、
それを機に8年の長きに渡って付き合ってきたヤンマーと結婚することになった。
だったらお祝いしようよと身内の人間で集まって飲んだ。
場所は渋谷にあるネパール料理の店。

サークルに入ってすぐの僕は大山さんとよく
岡:Canはやっぱ「Future Days」でしょう
大:「Tago Mago」の方がいいじゃん。ダモ鈴木が・・・
なんて会話をしていた。プログレ、特にジャーマンロックについて。
それは今でも変わらない。
ヤンマー(←文字にするとすごいあだ名だなあ)は2年に1度ぐらい機会があってたまたま会う
というレベルなのだが、よくよく考えてみると僕の同級生に当たる。

大山さんは「幻影城妄想譚」というその後ある意味サークルの伝説となる作品をつくることを思い立ち、
その主演は僕となった。
詳細は全てはしょるが、僕は上半身裸にトランクス同然の短パンを履いて中央線に乗った。
吉祥寺の街を歩かされた。確か白いハチマキに日の丸が描かれていた。
撮影が終わってお疲れさんということになって、僕はその上にGジャンだけを羽織っただけの格好で
井の頭公園近くの伊勢屋で焼き鳥を食べた。大山さんがおごってくれた。
奈賀さんが一緒にいた。もう1人誰かいたように思う。
誰だったかは覚えてないが「おまえこんな姿で吉祥寺を歩けるなんて偉いよ」と言われた。

店には「大佐」がいた。昔出演した作品の役名からついた名前だ。僕は初めて会った。
このようなあだ名のつく人は得てしてその集団の中で伝説的な人物であって
僕は気難しい素っ頓狂な人を想像していた。
でもそんなことはなく、温厚な人だった。(今は丸くなったということなのかもしれないが)

大佐は映創会史上初のビデオ作品を監督した人物であり、
それは「シャンバラは我にあり」という名前であって
内容はパゾリーニの「ソドムの市」の思いっきりパロディーなのに
撮影場所は僕の住んでいた寮の中庭、僕はなぜだかは分からないが繰り返しその作品を見た。

「8mmなんてまどろっこしいだけじゃん。これからはビデオだよ」つって
映創会史上初めて「僕は(私は、俺は)ビデオでしか撮りません」と宣言した人間として
僕は奇妙によじれたリスペクトを勝手に抱いていた。
大佐が印したささやかな第一歩を僕がわけもわからず後に続いていった、そんな感じ。
会うことができてよかった。
映画会社に就職。今は大阪の劇場の副支配人らしい。

大山さんに会いにそのうち上海に行こう、
(みんなでバンドをやっているので)中国の路上で演奏しよう、そんな話になった。
そのときまでに大山さんは胡弓を練習しとくよと言っていた。


[37] 痩せるね 2001-01-23 (Tue)

茅場町にオフィスが移ってから毎日ほとんどの時間腹が減っている。
11:30に下のコンビニへ弁当を買いに行き、17:30になってまた弁当を買いに行った。
こういう弁当というものは腹いっぱいにはしてくれないものであるし
それは近くに食べに行っても同じこと。
日本橋にいた頃は昼は社食があってご飯は好きなだけお代わりできた。
たくさん食べて運動しないから太っていく一方なんだけど、
空腹感は時間が来たから腹が減るという健全なものだった。

朝はパン1枚、これは入社してからずっとそう。
夏は牛乳、冬はインスタントのコーンスープ。
朝こそしっかり食べなくてはならないのだが、
そのために準備している時間があるのならその分を睡眠に回したい。
独身サラリーマンなら誰だってそう思うはず。

量ってみたら3kg痩せていた。
入社時が66kg、1年間日本橋で過ごして次の年量ったら69kg。
うわーやばいなー体動かさないとなーと思いつつもそんな機会もなく
秋頃にはついに70kgに。
それでもそこから今67kgにまで落ちた。
身長178cmなので70kgでも全然許容範囲なのはわかってるけど
体重が増えた分僕の場合腹が出てくるだけなのでみっともないことこのうえない。
学生時代後半63〜64kgがずっと続いていた時代もあったので、
この際それぐらいまで落としたい。

高校3年生には既に今と同じだけの身長があって
毎日自転車で片道45分ほどかけて通学していた。
大学1年の時は体育会系の社交ダンス部にいた。
がりがりに痩せていて58kgぐらいだった。

僕は普段間食をしないし、夜は6時か7時に夕食を取ったら
後はもう夜食を取らない方なので、このままいけば確実に痩せていけるだろう。
野菜を食べることは好きだから、栄養面で極端なことになるのは避けられると思う。

この前顧客とのミーティングの後、チームの人たちと遅い昼食のために
近くにあったパスタの店に入った。例によって朝はパン1枚で
昼はそのミーティングの準備に追われて食べてる暇がなかった。
店に入った時点で4時近く、僕にしてみれば夕食の時間帯に近かった。
メニューを見たらドリアがあってそれがなんだかおいしそうに見えた。
それを頼んで出てきたのを食べた。食べ終わった後で気がついたのだが、
こういう店のドリアというのはご飯としてはとても少ない。
きれいに片付いた深皿を前にして、僕は心の中で「うーん」と唸った。
他の人たちも食べ終わって談笑を始めたりタバコに火をつけたりしている中で
周りの席にちらっと目をやるとチームリーダーである山田さんが
カルボナーラを半分以上残している。
僕は恥を偲んで「あのー」と声をかけ、そのカルボナーラの皿をもらった。
みんなが見ている中でペロッとたいらげた。

あれ以来竹島統括マネージャーは僕のことを「大食い」だと思っているようですが、
それはいつもあんまり食べてないからです。
日頃お金に困って食える機会があるときはなんでも食うというのとも違うんです。
とにかく毎日腹が減ってるんです。
茅場町の食糧事情が中途半端だからそれとどう折り合っていくか、
それが今1番の悩みです。


[36] MS-ACCESS VBA 2001-01-22 (Mon)

1月に入ってからずっとMS-ACCESS VBA で作成されたアプリケーションの改修。
本来ならば新しい方のプロジェクトの要件定義・基本設計に
参加しなければならないところなのだが、アプリのリリーススケジュールも決められているし、
掛け持ちはできる限り(僕としては)避けたいところではあるので
とにかく早く終わらせてしまおうと改修に専念している。

ACCESS VBA のコーディング。ほとんどの場合はDBから条件に合致する値を
セレクトするためのロジックを考えることなのだが、それを表示するための
テキストボックスを置いてその位置の調整みたいなこともやる。
はっきり言ってこれでも一応僕は会社では2年目とは言え「上級職」ということになっているので
そのような立場にある以上、「あれれー。このボタン1mm右にずれてるー」なんてことに
熱中するわけにはいかない。1時間も2時間もそんなことに悩んでいるわけにはいかない。

とはいえこの改修ができる人間は
a) このアプリを必要とするサイトの業務知識
b) このサイトのシステム構成(本番環境・保守環境・開発環境)に関する知識
c) そもそも ACCESS VBS に関する基本的な知識
この3つを、最低でも a) b) の知識を持っていなくてはならないので
そうなると開発できる人間がこの広い世界でも2・3人ということになってしまう。
僕がやるしかなくなる。
アプリの中身(コード)がどうなってるのかほとんど見たことがなくて
c) に関してほとんど知らなくても、やるしかない。

外注は基本的に c) の知識しかなくて、a) b) を説明するには非常に時間がかかる。
そのようなことをせず僕が「設計」をしてこことこことここにこのようなコードを仕込んでください
と具体的に指示をするだけでもいいのだが、そこに何が必要だろうと考えて
コードを全て見ていくのならば僕が修正コードを打ち込んだ方が結局は話が早いじゃないかと考えた。
外注と僕とでは労働時間での単価が異なるにせよ。
それにこのアプリに関して顧客から質問を受けたときに答えられる人間が1人もいないのも考え物だ。
(このアプリのオリジナルを作った人はだいぶ前から僕の部署にはいない)

というわけでコツコツと1人地味にちょっと打ってはテストして
ちょっと打ってはテストして、を繰り返す。席の近くでは新プロジェクトの要件定義のための
業務分析ということで松井さんや岡部さんがユースケースがどうこう言ってる。
元から人が足りないところへ僕もいないようなものなので、端から見てて非常に大変そうだ。
やはりこのアプリの改修は早くから準備して外注に投げちゃってしまえばよかったなあと後悔した。
僕はプロジェクトを仕切るよりもちまちまとコーディングをしていることの方が絶対楽しいという人間である。
後者は外注にやらせるべきであって、僕らが社員としてやるべきことは前者であるというのがわかっていても。
そんな僕でも新しい方のは大きなサイトとなるだろうし、その要件定義をやってみたかった。
経験しておきたかった。でももう遅い。体が2つない限りそれはできない。

先週の金曜日、初めて1人でACCESS のモジュールを作成した。Functionプロシージャ。
それまでは既にあるものの変数をいじってみる・条件分岐を増やしてみるぐらいのものだったのが
どうしても今回の改修では1からいろんなものを作り出す必要が出てきた。
プロシージャを呼び出す側がセットする引数。
それに対して呼び出される(今回つくる)側のセットする返り値。その決定。
変数を宣言する。画面から入力された値を元にSQL文を動的に作成されるようにする。
DBをオープンする。条件に合う値を取得する。
その結果をもとにいくつかの条件分岐を行う。場合によってはそこで処理がEXITされる。
場合によってはメッセージボックスを表示する。そこで表示するメッセージを条件によって切り替える。
その時ユーザーが押したボタンによってその後の処理が変わるようにする(返り値が変わる)。
エラーが発生したときのCatchの部分を最後に置いておく。
出来上がったものは見た目には非常に単純なものでしかないし、コードも全部で50行もない。
それでもこれだけのものを作るのに1日かかってしまった。ぐったりした。
でもまあいい経験にはなった。この後マイクロソフトのVBAが
一般開発者にとってどこまで有効な知識となるかは疑問に思うが・・・。


[35] バナナを黄色くする仕事 2001-01-21 (Sun)

去年の4月末に大学の友人から「明日○○先輩と飲むんで岡村も来いよ」というメールが来た。
風邪を引いて熱が37℃を超えていたんだけど
その先輩には僕が上京したときからお世話になっているし当時1年近く会ってなかったから、
少し顔を出したらすぐ帰るのでもいいかと思って「行くよ」と返事をした。
次の日、会社帰りに渋谷に行った。風邪は良くも悪くもなっていなかった。
待ち合わせの場所はハチ公前で、小雨が降っていた。まだ誰も来ていなかった。
僕はビニール傘を買う気力もなく、あー寒気がすると震えながらぼんやりと突っ立っていた。

やがて友人と先輩が現れた。これで揃ったと思ったら
「今、女の子たちも来るからまだもうちょっと待ってて」と言われた。
えっ何すかそれ?この3人だけじゃないんですか?
そこで初めて説明を受ける。「おまえ聞いてないの?今日合コンだよ」

これが健康なときならば嬉しい誤算ということになるのだろうが
咳が出る・鼻水が出る・強い風邪薬を朝昼晩飲んでるから
意識がふらっとするという最悪なコンディションでは、それはほぼ拷問に近いイヴェントだった。
ただでさえ人見知りする僕が熱があったらなおさら駄目じゃん。
気分が盛り上がらないし、頭の回転も鈍くなっている。
その夜1回限りにしか会わない人たちだと割り切ってはいても
まず間違いなく彼女たちにいい印象を与えないまま終わるのだろうなあと思うと気が重くなる。
そしてその中へこれからずぶずぶと入り込んでいく。
負け戦になるとわかっていてもどうしても超えられないしがらみのせいで
出陣せざるをえない武将の、さらにその部下の部下の部下の気持ち。

案の定なんのいいこともなく終わった。さえない受け答えしかできず
聞かれたことに答えるだけのロボットのようになって、目の前の串焼きを食べて終わった。
(スペイン坂を上る途中の横道を入ったところにある炭火焼の店。雰囲気もよく、料理もおいしかった)
その場に居合わせた女の子たちに対してよりも友人と先輩の前で
無様な姿をさらすことのほうがつらかった。
僕はもうこういう場に誘ってもらえないのではないか、そんな不安を漠然とではあるが感じた。

終わって女の子たちを駅まで送っていった後、
さあやっと帰れるかと思ったらそこで解放されることはなく、
△△が今やっと仕事が終わってこっちに向かってるらしいから
もうちょっと飲もうぜと有無を言わさず連れていかれる。
どこか地下を降りていったアイリッシュパブで
僕は腫れて真っ赤になっているだろう喉を自ら痛めつけるかのようにやけになって黒ビールを飲む。
終電を逃してタクシーで帰った。次の日は眠いしだるいし風邪はもちろん悪化してるし、散々だった。

---
その女の子たちはみんな会社の同僚のようで、何の会社?と聞いたら「果物」と言われた。
果物を輸入して卸したり、ジュースを作ったりする会社。
(聞けば誰でも「ああ」と思い当たる有名なブランドでした)
隣に座っていた女の子に名刺をもらったら肩書きが
「ジュニア プロダクトディベロップメント スペシャリスト 技術・開発グループ」となっていて、
僕はなんだこりゃ???と好奇心を持つ。
それで「これってどんなことやる仕事?」と質問をしたら
「バナナを黄色くする仕事」という答えが返ってきた。
小さな倉庫のような場所になんとかエチレンとかいう気体を充満させて
そこにまだ青いバナナを置いておく。どうもただそれだけのよう。
世の中にはそんな仕事があるのか、そしてそれをこんなふうな名前で呼ぶのか、
僕はゆるくなった頭の端で「すげー」と感心した。
視界が広がった。世界は広いなと思った。
でも一口に黄色くすると言っても温度調節や気体の密度の調節など、難しいことが多いのだそうだ。

まあとにかく
風邪を引いて熱があって、喉が痛くてカプセルを3つも4つも飲み込んだその時の僕には
それは楽園のような、もっと正確に言うと楽園を作り出すお手伝いのような、
そんな素晴らしい仕事のように思えたのでした。
この夜に交わした・交わされたたくさんの言葉の中で覚えてるのはただこの話だけ、
悪夢の中でほんの一瞬明るい音楽が聞こえた、そんな奇妙な感覚だけが残されたのでした。


[34] 合コンに行くの巻 2001-01-20 (Sat)

エランさんがセッティングした合コンに行く。
相手はエランさんの昔のバイト仲間とその高校時代の友人らしい。
4:4 のはずが男性側1人キャンセルで4:3 。
17:00 にスタートするために16:30 に集合というかなり早い時間帯でのスタート。
もしこの日19:00 スタートだったら僕はまず間違いなく
出社して仕事してから向かったことだろう。
10:00 に起きて12:00 に会社に着いて15:30には出るというぐらいなら
行かないほうがまし。

場所は渋谷。
新宿・渋谷とCDを買いに回って待ち合わせの時間になった頃、雪が降り始めた。
それもみぞれっぽいのではなく、真っ白な大粒のボタン雪。
HMVを出てセンター街を歩き、109の前の広場を横切る。
突然降り出した雪に多くの若者が戸惑っていた。

プライムビルの中のエレファントカフェへ。
ここは従業員が常に大声を張り上げて挨拶をしていて、
しかもそれは何度聞いてもよくわからない呪文のような言葉であって、
ラストまでこんな調子で叫ばなくてはならない店だったら
俺には勤まらないな、絶対働きたくないなと思った。
(オープン前に店に入ったら従業員たちが「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」
と挨拶の練習をしているのが広い店内の奥の方から聞こえてきた)
店内はあちこちに象の置物が配置され、お香が炊かれ
タイ・インドネシア・インドその他アジア地域の趣味が混ぜこぜにされ
(僕はその辺よくわからないがエランさんに言わせるとそうらしい)
だけど素人目には不思議な統一感があって、照明は暗く、案外料理はおいしかった。
照明が暗く従業員も役割によって服装がばらばらで男性はほとんど黒い服で
なおかつトイレの近くの席だったので
歩いてるのが店員なのか客なのかがはっきりしないのはいかんともしがたかったが。

盛り上がるでも盛り下がるでもなく、エランさんを中心に辺り障りのないことを話していく。
今思い出してみると僕は誰かの発言に対して適当に突っ込んだりしているだけで
自分のことを話すということがほとんどなかった。
今どんな仕事をしているか、大学はどこか、年はいくつか、出身地はどこか、それぐらい。
「学生時代映画をつくっていた」
「ロックミュージックが好きだ。ベースを弾いていたこともある」
「大学院でロシア文学をやっていた。ロシアに行ったことがある」とか
こういう場でよく僕が話してきたような、
その後会話が転がっていくかもしれない契機になるようなことは一切僕の口からは出なかった。
「どんな映画作ってたんですか?」「最近どんな映画を見ましたか?」
「○○の新しいの聞きましたか?」「モスクワってどんな街ですか?」
・・・ってことにつながっていくことが多いんだけど。
たぶん彼女たちが後から僕のことを思い出したとき、
データがほとんどなくて「どういう人だったっけ?」ということになるのだろう。
(そうか、僕は興味を持たれてなかったのか!)

1つ重要な情報を入手した。女の子にとって「かわいい」という言葉の持つ意味だ。
彼女たち全員が同意したのだが、女性にとって男性に対する最大の誉め言葉は
「かわいい」なのだそうだ。「かっこいい」なんかでは全然ない。
自分に関係のない男性がしているのであるならば
嫌なこと、くだらないことに見える行為であっても、自分の好きな男性がそうしているのならば
「食べちゃいたいくらいに」かわいいことと映ってしまう。
「かわいい」という言葉は「これは自分が愛着なり愛情を抱くに足る存在である」
ということの「宣言」のようなものなのか。単なる「指摘」ではなく。
僕とエランさんは、もし仮に女の子にかわいいと言われたら
そのニュアンスには子供っぽいという意味合いを大きく感じ取る、
時として同じこととして捉えるね、と言い張るのだが。

ひょんなことから話題は幽霊を見たことがあるかということになって、
エランさんと女の子の1人は「幽霊なんて信じないが、神様は信じる」と主張し、
僕ともう1人の女の子は「幽霊はいると思うが、神様なんていないと思う」と主張した。
エランさん曰く、幽霊とはその国固有の観念的なものであって
マレーシアに来た日本人がマレーシアの幽霊を見ることはないだろう、
なぜならそれがどのようなものなのかイメージを持っていないから、ということだった。
神様については、つらいことがあったらそれは神様が自分に与えた試練だと考え、
いいことがあったら神様に感謝する、と言うのだが
そんな対象は必ずしも必要なもんかね?と僕は疑問に思った。

2次会はカラオケになったのだが、初対面の人とのカラオケが何よりも苦手の僕は
思いっきりトーンダウン。分厚い曲目リストを渡されて適当に選んで
マイクを握らされて低い声でボソボソと抑揚なく歌って、
それ以外の時間はモニターに映し出される歌詞と背景を眺めるようになって
その場からはほとんどフェードアウトの状態になる。つらかった。

外は雪がほとんど溶けてしまって道路がびしょびしょになっていた。
屋根の上に小さな雪だるまをいくつもいくつも乗せて走っている車があって、
横断歩道のところでみんなで笑った。


[33] 雪の中 2001-01-19 (Fri)

「明日は雪になるでしょう」という声をどこかで聞いた。
最近寒い日が続いてるからそんなことになってもおかしくはないな、そう思った。

雪。スキーもスノボもやらない僕にとってそれは
JRが止まっちゃうし、たんなる厄介な自然現象でしかない。
「東京に住んで長いことになる僕」にとっては。

青森に帰っても毎日雪かきでしかもそれが吹雪の中朝と夕方ということもあったりして、
厄介なものであることには少しも変わりはない。
しかし東京で目にする雪と青森で目にする雪とは全然別のものだ。
前者のはそう、まさに単なる自然現象だ。
後者の場合、それは常に(夏であってもそんな気がする)僕を取り囲み人間性すら規定するもの
僕を形作ってきたもの、そんなようなものに思える。

青森に帰って雪に閉ざされた中で例え1週間であれ生活をしていると
僕の中で確実に何かが甦ってくる。
心と身体の奥底に染み付いてしまったものが目を覚ましもう1人の自分を見つめ出す。
僕はその視線を感じる。彼は言葉を発することはないがその存在を
その息遣いを感じることはできる。
それはすぐそこにいてポツンと1人、弱々しい表情を浮かべて立っている。
やがて僕は彼と同化してしまう、その時僕は青森の人間へと戻っている。

夜の雪道をとぼとぼと歩いていると頭上でゴーッという音が聞こえる。
あれはたぶん遥か彼方上空で風が動いている音だ。
東京では決して聞くことのできない、余りにも巨大な音。
それは地上に届くまでにかなりかすかなものへと変わっているのだが、
その存在の大きさは例えコートを着ていても肌に伝わってくる。
耳の奥から心の底への細い狭いわずかな繋がりを確実に揺さぶる。
僕は考えることをやめてしまう。ただ、風に吹かれるがままになる。
真っ暗な中を吹雪が断続的に風向きを変える。
足元ではブーツが新雪を踏みしめる鈍い音を感じる。
そんな中で僕は何かを取り戻す。

それが何かはわからない。しかし
東京の生活でためこんだくだらない思いが全て吹き払われている、そんな感じはする。
これが「清められる」ということなのだろうか。

---
正月に10日間帰省したことによって僕の中でリセットボタンが押された。
1月になってから2つのプロジェクトが同時平行で
しかも2つともいきなり佳境に入っていて、毎日大変な目に遭っている。
でもなんとかやっていけている。
これが年末年始も休みなしで何の区切りもなくやっていたら
いったいどういうことになっていただろうか。
考えてみると結構怖い。


[32] 青森リンゴ/「存在の耐えられない軽さ」 2001-01-18 (Fri)

正月青森から東京に戻ってきたとき、リンゴを1箱の半分ぐらい送ってもらった。
大家さんに何個か持っていって、残りは自分で食べることにした。
平日は朝も夜も皮を剥いて食べてる暇はないから、土日に1個ずつ食べる。

リンゴにはスターキングデリシャスとか北斗とかいろんな品種があるけど
オーソドックスな「ふじ」が1番おいしい。素朴な味がするから。
世の中にはいろんな種類のリンゴがあってそれを全部食べ比べたわけではないけど、
「ふじ」はリンゴ本来の味がするのだと思う。昔からあるし。
新しい品種が次々と生み出されるが、
その多くは「ふじ」と他の何かを掛け合わせたものだったりする。

リンゴが好きかといったら、そうでもないですね。
小さな頃から冬になると毎日のように食べさせられてて。
青森に住んでいるとどこからともなく送られて来たりもらえたりする。
たぶん家でリンゴを買ったことってないんじゃないかと思う。
台所や物置の片隅からいくらでもいくらでも出てくる。
正月帰ったときも毎晩食卓にデンと乗っかっていて
僕は「うわーまたかあ」と顔をしかめる。
これはたぶんミカンの産地の人もそうなのではないか?
もう食い飽きたよ。普通の人の一生分食っちゃったよ。
そんなふうに言ってるのではないか。
ミカンだったらそんなことはないのか?だったらくやしいぞ。

自己紹介のときに「青森県出身です」と言うと
「庭にリンゴの木は植えてますか?」と聞いてくる人がいるが
あれは何なのだろう。そんなわけないじゃん。
じゃあ何かね、愛媛や和歌山の人は家にミカンの木があるのかね?
本気でそう思ってるのか、それともユーモアのつもりなのか。
小中学校の社会の時間はいったい何を教えているのだろう。

カレーを作るときには僕は必ずすりおろしたリンゴ
(1個入れると甘くなるから半分だけ)かあるいはリンゴジュースを入れる。

---
岡部さんと Sherbets いいよね、「38スペシャル」最高だねと言い合う。

寝る前に少しずつ読む本としてミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を選ぶ。
僕の周りでも読んだ人が何人かいてみんないいと言っている。
さあ、どんなもんか。最初20ページ読んだが確かに面白そうだ。
「不滅」はピンとこなかったが、「冗談」は僕がこれまで数多く読んできた中で
ベスト10に入れてもいいくらいに素晴らしい小説だった。
完全なる小説。そんなフレーズが思い浮かぶ。


[31] トンデモ本の世界 2001-01-17 (Wed)

「2000年5月5日宇宙人大襲来 アメリカ政府が隠し続けた恐るべき事実
--- インディペンデンス・デイはなぜ緊急制作されたか --- 」
という本を借りて読んだ。
これがもう大変面白かった。

「インディペンデンス・デイ」は来るべき大型宇宙船大襲来に備えて
宇宙人(グレイと呼ばれる種族)に対する敵愾心をアメリカ国民に植え付けるために
作成されたのだというところから始まり、
キリストは宇宙人(グレイに対抗する種族「エンジェル」)であり
ピラミッドはエンジェルの科学技術によって建造され
地球人はエンジェルの実験から生み出されたというところまで行きつく。

グレイもエンジェルも元は「ユリウス」という惑星
(オリオン座ベテルギウスを中心とする惑星系にある)の住人だったのだが、
超大国同士で核戦争を繰り広げた結果ユリウスは荒廃してしまい、
他の惑星に避難したものたちがやがてエンジェル(地球人のような外見をもつ)となり、
ユリウスに居残ったものたちは残留放射能の影響を受けて
身体が奇形化し、グレイ(小柄で目が大きく、灰色の肌)となった。性格も悪くなった。

グレイは第2次大戦中はヒットラーの側について
高度な科学技術と引き換えに人体実験用の素材の提供(つまりユダヤ人)を受けていたのだが、
ドイツの敗戦後はロズウェル空軍基地の事件を契機に主にアメリカと密約を交わすようになる。
歴代の大統領は「Majestic 12」(この辺の話は昔日テレが矢追純一を担ぎ出して
毎月のようにスペシャルをやっていたので有名ですね)を召集し、
その時々の「外交」方針を決定した。1970年ベトナム戦争を勝利したかったアメリカは
科学技術との引き換えに実験用の人間の捕獲の暗黙の許可と地球上への補給基地の設営を
グレイに認めるのだが、1983年グレイの目的が地球の占領であることが判明、
1990年グレイ追放計画を実施、基地を急襲・占領した。
このとき逃げそこなったグレイを拷問にかけたところ驚くべき情報を聞き出すことができた。
地球移住のための大船団が2000年5月5日(この日は太陽・月・水星から土星までの各惑星が
地球の片側一直線に集まる「惑星直列」が発生、大規模地震が誘発されるかもしれない)の
到着予定に向けて何百光年のかなたから着々と地球に向かって航行しているという。
アメリカ政府は急遽対グレイ兵器「オーロラ」「サンダーボルト」を開発、
湾岸戦争はクェートをイラク侵攻からどうのこうとというのが目的なのではなく、
実はその究極兵器の威力を試すために行われたものだった。

書いていくときりがないので以下、その他ポイント。
・AIDSはグレイからもたらされた遺伝子操作の技術によって生み出された、
本来はベトナム戦争時に使用することを想定された細菌兵器であった
・SDIについて言えば軍事衛星が打ち落とすのはソ連のミサイルではなく、もちろんグレイの宇宙船である
・70年代以降アメリカや日本といった先進国で広まった若者の無気力無関心は
グレイによるマインドコントロールである。グレイは麻薬も広めた
・インターネットはグレイ侵略時に全世界の情報を瞬時に多元的に収集する目的で普及が進められた
情報システム網だった。これはそのルーツがアメリカ国防総省が開発したARPANETであることから明らかだ

2000年5月5日は既に過去の日付になっていて、
巨大地震は起こらなかったし宇宙人が攻めてくることもなかった。
この本を読んでどれだけの人がその内容を信じるものなのかよくわからないが、
「読み物」としてはなかなかよくできたものであって、僕はかなり楽しい時間を過ごすことができた。
そんなわけねーじゃんと突っ込みたくなる個所も随所で見られるのだが、
ここまで滑らかにこじつけられるとむしろ爽快ですらあった。

僕は小さい頃からUFOに関わる話が大好きで、この宇宙には必ずやどこかに
知的生命体が存在しているのではないか、その中には高度な文明を発達させて
地球を訪れているものもあるのではないか、そのように考えている。
でも僕は昔日テレでよくやっていたグレイうんぬんの話は
なーんかちょっとねえって感じである。
たぶんどこかに小さな事実はあったのだろうが、それをテレビ用に面白おかしく
広げていったらあんなふうになってしまったのではないか。
宇宙人を解剖しているフィルムを入手した!とかね。


[30] モノレール 2001-01-16 (Tue)

新しい方のプロジェクトの打ち合わせのときにはいつも浜松町から羽田行きのモノレールに乗る。
乗っているのは空港へと向かう旅行者かビジネスマン・サラリーマン。トランクかブリーフケース。
空港まで行くならばモノレールは川沿いを走り、やがてだだっ広い整備場をかすめる。
飛行機に乗るときはこのモノレールから既に旅が始まっているような気がする。
昼間の屋形船が岸辺にぶらぶらとつながれている。
クリーム色の大きな倉庫がいくつもいくつも突っ立っている。
ビルの看板が見える。工業地帯がある。
終点に近付き出すと乗客たちはそわそわし始める。

就職活動をしているときに何度か田町に出掛け、時間をつぶすためによく
低いビルの立ち並ぶ裏側に作られた川辺の小公園に行って
ベンチに座り周りの風景を眺めた。立ち上がって柵の側で川面を見つめた。
ふと気がつくと目の前をモノレールが通り過ぎて行く。
逆方向から来た車両とすれ違う。
何もかもがその動きを止めてしまってただモノレールだけが動いている。
そんな地点、そんな瞬間がある。

海沿いを行く「ゆりかもめ」も乗っていて飽きることがない。
お台場、レインボーブリッジ、芝浦ふ頭。
その光景の移り変わりが僕にとってはひどく印象的なものだったので
学生時代映画を撮っているときに僕は最後尾の車両の1番後ろの座席に座って
(ゆりかもめは無人なので車掌室がなく、すぐ目の前が大きなガラスとなる)
後方へと流れ去るその全てをビデオカメラに収めた。
その映像を再生してみると回転しない、ゆっくりとしたジェットコースターのようだった。
モノクロ。冬の曇り空。ぼんやりとした光と鈍く押しつぶされた影が次々と交差する。
僕はその映像に自作の詩を女の子に読んでもらったものを被せて
最後の映画の1シーンとして埋め込んだ。

僕はモノレールというものに対していまだに「未来の乗り物」というイメージを持っている。
ただしそれは21世紀にとっての未来ということではなく、
あくまでも既に取り残されていった20世紀にとっての未来ということである。
古びてしまった、だけど過去のある時点においてはそれは確かに未来だった、そんな乗り物。


[29] 絵日記をつけ始める 2001-01-15 (Mon)

去年の秋に茂木さんから、新潮社が出している「マイブック」という
文庫サイズの日記帳の2001年版をもらった。
「これに書きなよ」と言われたのだが、さあ何を書こう?
字ばっかりの日記は既に毎日書いている。
絵日記でいーじゃん、そう思って会社の下にクレヨンを買いに行った。
色鉛筆でもいいのだが、こういうのはクレヨンの方が気分が出る。
ペンテルのふとパス。12色。

1月1日から1日おきで書き始めた。
(毎日書いているとクレヨンの絵が閉じるときに重なり合って汚くなる)
元旦は初日の出を書いて、次はおばさんの家にいた猫を書いた。

・・・といっても僕は絵をスラスラ描ける人間ではなく
自分で見ても「あちゃー」な絵である。こりゃひどいなと思う。
「へたうま」にもならない。
小中学校の図画工作の時間、僕はアイデア勝負であって
実際に手を動かすのは苦手であった。手先が器用ではない。
休日にキャンバスの前に立って果物の絵を書きたいとは思わないが
ちょっとしたときにささっとイラストの書ける人を見るとうらやましくなる。

もう1回大学に通えるなら美大に行ってみたい。
いたって普通の大学を出た僕としては
なんか非常に居心地のよさそうな場所というイメージがある。
(人によっては興味もないデッサンやデザインやらをひたすらやらされて大変らしいが)

「感性」というもので勝負できる人間に僕は強い憧れを抱いている。
学生時代に何人か美大の人と話すことがあったが、
アンテナの張ってる場所が僕ら文系の学生とは全然違ってて
あーすげーなーとひたすら感心してた。
2年生の冬休み、早稲田を母体とする小さな劇団の旗揚げ公演に
音響として参加することになり、そこにはいろいろな大学の人がいて
その中にはムサビとか造形大の人たちがいた。

家が近いから小中と一緒で、高校も遠くまで自転車に乗って通った友達が
造形大に行ったのだが、今どうしているのだろう?
3年のときに些細なことから仲たがいしてしまってそれっきり。

正確には、直接仲たがいしたわけではない。
高校の同級生が映画をつくるというので
彼が全面的にしきって僕がチョイ役で出ることになったのだが、
その同級生と僕が大喧嘩して、途中で降りてしまった。
最後に会ったのがその大喧嘩のときで、そのことで彼が
僕のことをどう思ったのか聞くことのないままもう5年経っている。
無責任なことをしたのだからたぶんかなり僕のことを怒ったと思う。
今でも怒ってるのかなあ。


[28] 世界の終わり 2001-01-14 (Sun)

昨日の夜、村上春樹の本を読んでいたら「世界の終わり」は"the end of the world" で
「世界の果て」は"world's end" だ、みたいなことが書かれてあった。

世界の果て、世界の終わり。
小説や詩を書くことを志すようになった頃から、
僕はこの2つに憧れのような気持ちを抱くようになった。
明日にもこの世界が終わってしまってほしいとかそんなことではなく、
普通の人間ならどこまで行っても見ることのできないもの。
地平線のように彼方にあるもの。
それがいつ、どこにあるものなのか見当もつかないが
今この瞬間はいつもの、ほんといつもの凡庸な時間の断片であって
ここは「ただ僕が身体を占めている場所」でしかない。
昨日もそこにいたし、今日もまたそこにいる。
今という時間、ここという場所からは永遠に逃れることはできない。

それは荒野なのか。それとも氷に閉ざされているのか。
人間性を突き詰めて行った先の極限状態なのか。
それとも何もかもがそうなのか。
日々の暮らしが凡庸であればあるほど Edge は研ぎ澄まされていくのか。

人気のない波打ち際を僕は1人歩いている。
スニーカーが濡れてしまってる。
空は灰色で潮風が強くもなく弱くもなく吹きつける。
そしてそれは当分の間止みそうにない。
様々なガラクタが打ち上げられている。
拾い上げるとそれは形を失って指の間を擦り抜けてゆく。
色彩が失われている。
単調なノイズが続いてる。
僕はただ波の残した線の上を歩くだけ。
このまま行っても何もないし、
引き返すと言っても「じゃあどこまで?」そんな感じ。
朝が来て夜が来て、そう、
僕は朝と夜がこのまま無限に繰り返されてゆくことを知っている。

僕にとってはそんなイメージ。
声を発することもなく、やがて言葉を忘れていってしまう。
つなげていって何か意味のあるものを生み出そうとするが、
疲れてきってばかばかしくて、考えがまとまらない。
時々砂の上に身を投げ出して、眠ろうとするも眠れない。
立ち上がってTシャツとジーパンの砂をはらって、また歩き出す。

・・・ってことは僕はそこで何かを見いだすのではなく、
そこに何をも見いだせないこと、どこまで行っても何もないこと、そういうことなのか。
そして僕はそういう場所に「憧れて」いる。頭の片隅で心の奥底で、たぶん求めている。
光でも闇でもなく、空白、無。

空白のような日々、それが無へと変わっていく瞬間。


[27] 土曜日に出社して考えたこと 2001-01-13 (Sat)

WebNation管理画面がこのままだとどうにも先が見えないので出社して作業を続ける。
土曜日。けっこう出社している人がいる。
それでも平日に比べれば人はかなり少ないし、電話もかかってこない。
とても居心地がいい。集中できて仕事がはかどる。

土日出社して月火休むといった選択が自由にできたらいいのに。
土日出たらどこかで振替休日を取るというのではなく。
社内・社外ともにミーティングがなかったら、
どこからも問合せの電話がかかってくる当てがなかったら。
自分で好きなようにその週のスケジュールを組んで。

あるいはその週40時間働くとして、残業が続いて木曜までに40時間超えてしまったら
金曜日はでなくてもいいとか。だったら僕は必ず週休3日制にする。

早く在宅勤務がOKになってほしい。
そうしたら僕は可能な限り出社しなくなるだろう。
大学の先輩で外資系に行った人がSOHOな感じで、出社は月に1度程度だと聞いたが
夜遅くとんでもない時間に電話がかかってくることもあるし、FAXも届く、
こまめにメールをチェックしなくてはならないし
顧客との打合わせはそりゃあるわけでしょっちゅう外に出る、
別にそんな面白いものでもないと言っていた。

せっかく21世紀になったんだから家にいながらテレビ電話で会議をするようになってほしい。

21世紀後半は誰もが召し使いロボットのようなものを最低1台は引き連れて行動し、
何かあったら人間の代わりにどこそこへ出かけて作業なり手続きなり何やかや
めんどくさいことをしてくれるというふうになるのではないか。
で、僕の代わりに会議に出てくれたり買い物に出かけてくれると。

---
生まれた時に小さなロボットが与えられ、ロボットはその子供とともに成長し、
大人になった時にはよきパートナーとしてチェスの相手をすることもあれば
病気になれば医者の代わりになる、複雑な物事を相談する、冗談を言って笑わせる、
様々なことができるようになる。
ずっとその人の側にいたのだからその人のことをよく知っていて
行動の記録も膨大にあるわけで、ある意味その人の複製のようなものになる。
やがて時が来て主人が死んでしまったらロボットもスイッチを切られてしまう。
・・・というのをモチーフに小説が書けそうだ。
既にありそうなネタだが。アシモフあたりが書いてそうな気がする。

話をどのように展開させるべきか。今思い付いたアイデアの断片。
1)主人の死後、役目を終えたロボットたちの老人ホームのような場所があって
そこにたくさんのロボットたちが集まってくる
2)ロボットの中には質の悪いのがいて主人を殺すなりなんなりして人間に成りすまそうとする
3)男性の主人と女性の主人とが結婚して子供が産まれた時、ロボット同士も
データを交換し合って新しい「子供」ロボットを作り出す。それを親が与える
4)大金持は自分そっくりの身代わりを100コ持っている。
100コまったく同じものかもしれないし、それぞれ微妙に役割が違うかもしれない
5)ロボットと暮らすのがどうにも性に合わない人、そういう人たちのコミュニティー
6)ふとしたことからロボットと引き離されてしまった人が直面する危機的状況
7)同性愛かつナルシストな人が自分のロボットに熱をあげる
8)犬はロボット犬を連れている

たぶん1)と3)を組み合わせると何か面白いものが書けそうだ。


[26] 山形/成人式/麻雀 2001-01-12 (Fri)

WebNationグッズ対応のZOPE−ColdFusion間結合テストということで
朝からDGに行って作業をする。昼にレイさん、カリーナさんと食事に出かける。
器の店「亘」(この字だったっけ?)へ。ここのランチはいつ食べてもおいしい。
電車に乗って食いに来る価値は十分にある。
今日のメニューはミニ丼セットということで、5つの選択肢から2つのドンブリを選択する。
鶏ネギ丼と牛丼を頼んだのだが、どちらもミニなのが惜しいくらいうまかった。
牛丼は当分吉野屋・松屋で食べられないですね。

先月の今ごろ、開発者会議の後で同じくDGの人たちと食事をした時に
カリーナさんが青森に旅行するかもしれないと言っていたが、
どうやら山形に行ったようだった。
「でも山形って何もないでしょ?」って聞いたら
見るものがなくて困ったと言ってた。しかも大雪。
よりによって東北6県の中で最もマイナーなところを・・・。
この時期行くのなら仙台か秋田ですかね。

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東CBの人たちと飲みに行く。
茅場町の駅の方に行って、裏通りのもつ焼きの店へ。
非常に狭い店で何かと大変だった。

話題が成人式のことになって、僕は右隣の先輩と左隣の後輩に
(「岡村君と飲みに行くと日記に書かれちゃうからなあ」
といつも言われてるから誰と行ったか書くのはやめにする)
成人式に行ったか聞いてみたら2人とも行ったようだった。
しかもそれが至極当然のことのようだった。
「え、岡村君行かなかったの?」と不思議がられた。

その当時僕は小平市に住んでいて住民票も移していたので
たまたま今この時期だけ住んでいる場所の成人式に行ってどうすんだよ
と思い、「ぶっち」した。
青森市で出てもいいのだろうけど、そしてそうすれば高校の友人に会えたんだろうけど、
正月で1週間ぐらい帰って東京に戻ってきてからすぐのことなので
また青森に行くのはあほらしかった。
その正月には3年の時の担任の先生も呼んでクラス会やったし。

前の晩徹夜で麻雀をして、昼頃起きたら既に成人式は終わってた。
「メシでも食いに行くべ」とジャージにジャンパーを羽織って
近くの部屋の友人と駅前まで歩いていったら
寮の連中が何人か連れ立ってスーツを着て向こうから歩いてくるのにぶつかった。
彼らはきちんと小平市の成人式に出席したようだった。
講演はショーコスギだったと聞くと、ちょっと行ってみたかったような気がした。

---
その頃の僕は授業にはきちんと出ていたがそれ以外にすることは
バイト以外に何もなく、昼も夜も機会を見つけては麻雀をしていた。
点2か点3で300円、500円ぐらいのはした金を
「払えよ」「今ねえよ」なんてやりとりをしていた。

4人部屋の1・2年生の寮では打たない日はなかったが
1人部屋の3・4年生の寮では月に2・3回誘われるかどうかになり、
大学院に入ってからは年に2・3回になってしまった。
会社に入ってからは1回しか打っていない。

その1回は会社の人とであって今はもう辞めてしまった知念さんと打ったのだが、
「1人でフリーの雀荘に行っててかなり強いらしい」との評判通りのプロに近い麻雀だった。
僕なんかの麻雀がレジャーだとしたら知念さんのは労働といった趣があった。

いろんな人と麻雀を打ってきたが、これはケタが違うなあ
天性の才能があるんだろうなあという人がやはりこの世には存在する。
寮の同じ階にも1人そういうやつがいて、破壊的な力を持っていた。
1日に2半荘ずつ打っていったとしたら月2回のペースで国士無双を上がるというような。
僕らは役満を上がっていったらその度に部屋のコンクリートの壁に
名前と役と日付と降り込んだ奴の名前を書いていった。
それは10年以上前から続いている伝統で、
ポスターなどの貼られていない箇所のほとんどが黒マジックの殴り書きで埋められたいた。
城間と言う名の沖縄から来たそいつは寮にいた2年間の間に
たぶん20か30は役満を上がって、壁に書ききれなくて天井に名前を書いていた。

麻雀は性格がはっきりと出てしまうものなので
僕の場合これまで役満を1回しか上がったことはない。
でもそのたった1度の役満は純正9面待ちではなかったものの九連宝燈。
1・4萬待ちで4萬なら九連、1萬なら面清その他になったものを
1萬が一度対面から出てのを見送って1順してみたらポロッと4萬が出たのですかさずロン!
あー今思い出しても興奮する。

あの頃は一瞬で符計算ができたのに今では全く駄目のはず。
麻雀が無性にやりたくなってきた。むずむずする。うー。


[25] 仕事が忙しくなってきた 2001-01-11 (Thu)

東京に帰ってくるなり急に忙しくなってきた。2つのプロジェクト掛け持ち。
青森にいる間に腹を括ってきた。当分土日も暇ではなくなるだろう。
書こうと思って詳細を詰めていた小説もしばらく棚上げ。
買ってまだ見ていないDVDが10枚以上もある。
JJVのためにまずは旅行業界について詳しくならなければならない。
それでいてWindows2000のマイクロソフトの資格を取るために
分厚いテキストを上下読むことにもしたし。
今日(といっても1日後れで12日なのだが)はもう何も書く気がしない。

10日は新しいプロジェクトキックオフのミーティングに連れ出された。
ここ1年ベンチャーであるDGとばかり接してきて、
今後は半官半民のでかい企業を相手に。雰囲気の差が激し過ぎて疲れた。


[24] 僕、あるいは僕の姿形をした何か 2001-01-10 (Wed)

夢を見る。知ってる人が出てくる。
会社の先輩が高校の同級生となぜか仲良く話してたりなんかする。
全然覚えのない人も含めて大勢の人が入れ替わり立ち代わり登場する。

で、考える。
ということは僕も誰かの夢の中に出てきているのではないか。
僕、あるいは僕の姿形をした何か。
そいつは僕そのものかもしれないし、僕によって象徴される何かかもしれない。

僕がこれまで出会って少しでも関わりのあった人が何百人といるならば
この「僕」はほぼ毎晩のように誰かの夢の中に現われていることにならないか。
僕の分身はその瞬間に同時に10も20もの空間を占めることもあれば
その存在を生み出そうとしない夜が10も20も続くこともありそうだ。

僕はあなたの目の前を通り過ぎるだけの役割だったのか。
それならばその時、あなたのことに気付いただろうか。

それともあなたに話しかけたのか。
それならばその時、あなたにいったい何を話しただろう。

僕の夢の中にAという人が現われて言葉を交わすとき、
Aの夢の中には僕は現われるのだろうか。

僕はその中で歩き、佇み、呼吸をした。
あなたもその中を歩き、佇み、呼吸をした。
それは単なる記憶の揺らぎのようなものでしかないのか。
断片的な映像の戯れ、うつろいゆく色彩の感覚。そのようなものなのか。


[23] 青森について書き忘れたこと 2001-01-09 (Tue)

1月4日に街に出た時に「味の札幌」というラーメン屋に入った。
青森市にはたいしたラーメン屋はないが、ここのはうまいと思う。
「味噌カレー牛乳ラーメン(バター入り)」を注文した。
名前だけ書くとかなりゲテモノっぽいが、スープはしつこいところがなく
言われなければ牛乳やカレー粉が入っていることがわからない人もいると思う。

「るるぶ」のようなガイドブックでこの店が紹介されているのを見たことはないのだが
地元の人なら誰でも知っている店なので、昼は混んでいて並ばないと入れない。
中学高校の頃からよく食べたなじみの味なので、僕にとってはこれが「基準」になっている。
スープの濃さ、チャーシューの厚さ、面の太さ、など。

青森市には他に「丸海」という全国テレビでも紹介された
オーソドックスな醤油味のラーメン屋もあるが、あまり僕の好みではない。
丸海のほうが好きという人の方が周りでは多かったけれど。

---
僕は青森に帰る度にいつも服をたくさん買って帰った。
古着屋が充実していたから。古着屋でなくても、いいところが多かった。
店がほとんどひとかたまりになっているから東京であちこち回るよりもよほどいいし、
品数は少ないとしても品揃えが劣るということはない。
かつて「evis」のジーパンが珍しかった頃(7・8年前)、
日本ではこの3店で入手できるというその1つが青森市の店だったということもある。
東京に負けないだけの熱意やこだわりを持っていた店がいくつかあった。

今回帰って何度もその界隈を歩いてみたのだが、何かが変わってしまっていた。
「お、いいねこれ」というものが見当たらなかった。
どこもかしこも下北沢や原宿のようなメッカではなく
普通の町にある普通の、凡庸な古着屋に成り下がっていた。
多くの店で古着の扱う量が減っていた。
古着っぽくつくられたトレーナーみたいなのばっかりになっていた。
どういうことなのだろう?正月3が日で売り切ってしまったということなのか。

青森で古着を売る場合、どのような流通経路を辿るものなのだろう?
その店が独自に海外のどこかとわたりをつけて輸入してくるのだろうか。
その店の目利きが買い付けに行くというような。
それは簡単にできるものなのか。

それとも問屋があるのだろうか。
問屋制の場合、その青森の問屋あるいは青森に卸す問屋が駄目になったのか。
誰かが代表してアメリカに買いに行く、
あるいは誰かアメリカにいる人と契約をすれば適当に見繕って商品を送ってくれる、
そういうシステムのような気がするが、
実際のところどのような仕組みになっているものなのか。


[22] 帰京 2001-01-08 (Mon)

昼14時に青森駅を発って夜19時半に東京駅に到着ということになっているのだが、
昨日からの関東−東北での大雪で予定通りにいけるかどうかわからない。
東北自動車道は一部閉鎖。東北新幹線も朝のうち運転を見合わせていた。

母親が青森駅まで見送りに行くというので、バスに乗って駅の西口まで。
妹は一昨日から3連休を利用して札幌に出掛けてしまった。
橋を渡り駅の正面の方へとまわって、駅前の小さな喫茶店に入った。
母の行きつけの店のようで、入るなり1人で切り盛りしているおばさんに
「あら、お久しぶり」と声をかけられる。

店内は食材や食器やよくわからない雑多なものが置かれていて
お世辞にもきれいとはいえないが、なじみの人には居心地よさそうな雰囲気があった。
50年代っぽいオーソドックスなジャズがかかっている。
母も僕も玉子雑炊を注文する。

待ってる間、カウンターに積んであった雑誌を読もうとしたら
店のおばさんが参加してるのか、女性ばかりの集まった川柳の会の会報が置いてあった。
めくってみる。手のひらほどの小冊子に「紐」「お酒の名前を入れて」
といったお題目のもとに1ページ5句ほど乗っかっている。
地域の同好会なので、「おおっ」というのもあれば「あちゃー」というのもある。
毎月なのか隔月なのか会報は105号になっていて、
少なくとも10年近くは続いている集まりのようだ。

中心となって句を作っていた人が昨年亡くなられてから1年が経ったようで
僕が手にとった号は巻末に、親しかった会員たちによるその人へと寄せる言葉が綴られていた。
そしてその人の残していった句が2ページにわたって並べられていた。
優れた句が多かった。自分の言葉があり、視点があり、なによりも「意志」があった。
この人でなければ生み出されることのないであろう、簡潔にして力強い言葉の群れだった。

この会報は同じのがいくつか積み重なっていたので、
興味のある人は持ち帰ってもいいということなのだろう。
この人の句の載っている2ページのためにも持ち帰ろうかとも考えたのだが、
東京の部屋でこの小冊子がどこかにしまわれてそれがいつかひょっこりと出てきて
その度に僕は持て余してしまうのだろう、それはいいことではないし
やめておいたほうがいいな、そんな気分になった。
たぶんこういうものは「一期一会」なのがいいのだろう。

玉子雑炊は薄味なのがいかんともしがたいのだが、深めの土鍋にホタテが5コも6コも入ってて
それがミミまで柔らかくて、とってもおいしかった。
青森を去る直前においしいものが食べれてよかった。

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今日は成人式で青森の街を晴れ着を着た女の子たちが歩いてたり待ち合わせしてたりしていた。
「青森は美人が多いなあ」という感想をここ2・3年、帰省して街を歩いてると抱くようになった。
地味だけどキリッとした、はっきりした顔。例えて言うならば「こけし」のような顔か。
色白。目がパッチリしていて口元をキッと結んでる。
そして何よりも眉。ここがキリッとはっきりしてないと。
青森に美人が多いというよりも、
僕の基準が青森をベースにしているということの方が正しいかもしれない。

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青森−盛岡間の特急は5分遅れ、盛岡−東京間の新幹線は20分遅れでそれぞれ発車した。
青森から吹雪がどこまでも続いた。仙台までは降っていた。大宮に雪が残っていた。
新幹線は途中雪による線路交換機の故障で通過する2つの駅で徐行運転をしなければならなかったが、
それでもほぼ予定時間通りに到着した。走っている間いつもより飛ばしてるような感じがした。

中央線に乗って荻窪駅に着いて、改札を出て階段を上がると
地面には固まりになって黒ずんだ雪がわずかばかり残っていた。


[21] 雪かき・その他 2001-01-07 (Sun)

上空の寒気が緩んだのか、今日は1日暖かい。空も程よく晴れている。
家の周りの雪を本格的に片付けようということになって、午前中いっぱい体を動かす。
普通にいつものように道路から家屋までの歩道に降り積もった雪を片づけた後で、
屋根から落ちて家の壁ギリギリの部分に高く山のようになった雪を母親が掘り崩し、
僕はそれをダンプに積んで家の近くの空き地まで運んでいって投げ捨てる。

ダンプと言っても普通の人はわからないと思うので説明すると、
スコップが柄のついたスプーンのようなものなら、
ダンプはショベルカーの先端のショベルを外してそれを押して動けるように
左右から長めの鉄パイプを、ジェットコースターに乗ってると握ることになる
上から見るとコの字型をした棒のような感じで取り付けたものです。
非常に分かりにくい説明ですね。それでもまあとにかくオートバックスのような
店に行くとたぶん「スノーダンプ」という名称で北国では普通に売られています。
これは要するに大量の雪をどこかに運ぶための道具であって、
時々子供がこれに乗っかってソリの替わりにするものです。
でもそれは割と危険な行為であるし、バランスも悪いのでそんなに面白い遊びではありません。

ここは住宅地なんだけれども近所には空き地がまだいくつかあって、
そこにそれぞれの家が雪を捨てるための場所と道路からそこに至るまでのコースを確保する。
みんなが共同でここに捨てましょうみたいなことにはなっていない。
去年までは家の真ん前がまだ空き地だったのでそこに運べばよかったのが、
家が2軒建ってしまったのでさらにその隣の空き地まで押していかなくてはならなくなった。
それはたいした距離でもないしたまーに帰ってきてわずかな期間手伝う僕としては
なんてことないのだが、住んでる母親にしてみれば大変なことである。
それにここの空き地にも家が建ってしまったらいったいどうするのだろう?
さらに遠くまでトボトボと押していくことになるのだろうか。
吹雪の中を。日によっては朝昼晩3回ずつ。

こっちにいるうちにとりあえずできることはやっておこうと僕は黙々とダンプで往復する。
12月から本格的に降り始めてまだ1カ月、近年暖冬が続いているものの
それでも積雪量はかなりのものになる。
100往復とはいかないまでも50往復は最低でもやったはず。
かぶっていた毛糸の帽子を脱ぎ、高校時代に周りで流行っていたものの
今となっては着る気がせず単なる防寒具に成り下がった白のハーフコートも脱ぎ捨てる。
天気が良くて日曜だとどこの家庭も考えることは一緒で、道路に出てあちこち見ると
図ったように近所の多くで雪片づけを始めている。
何人かの人にペコッと頭を下げ、場合によっては呼び止められ、何年かぶりに顔を合わせたのだから
「いつから来たのか・いつまでいるのか・まだ東京なのか・働いてどれくらいになるか」
そんなことを聞かれる。

---
高校サッカー。青森山田高校が4強入りし、創立以来初めて国立競技場でプレーすることになった。
相手は滋賀県の草津東高校、こちらも初めての国立競技場。
テレビ中継があるようなのでせっかくのことだからと見てみることにする。
解説を聞いてると参加した4200(あれ、42000だったっけ?)の高校のうち
この国立競技場に立てるのは準決勝まで進んだ4チームだけ、
そしてこれまでその栄誉を勝ち取ったのは青森山田と草津東を入れても43チームだけ。
ああ、すごいことなんだろうなあと漠然とではあるが思う。
強い高校が何度も4強入りするからこんなに少なくなってしまうのだろう。
(最多は帝京で16回、そのうち優勝が8回とアナウンサーが解説を加える)

試合は累積したイエローカードの関係でキャプテンを含む主力選手3人が出場できなかった
青森山田が0−2で負けた。青森山田にはブラジル人の留学生がいて、
2年生ではあったが代理のキャプテンとなって1人気を吐いていた。
そんな一方的な展開ではなかったので、欠場の3人がいたら勝っていたかもしれない。

私立は高校サッカーでも外人の助っ人を引っ張ってくる時代になったのか。
高校駅伝でもそうだった。留学生を走らせている。ラグビーも確かそうだった。
花形スポーツの市や県の大会では金のある私立が全国どころか全世界から
有力そうな選手を集めてくるのだったら、そりゃ勝てるに決まってる。
何かがどこか変な感じがいつもする。間違ってるとは言えないが正しいとも言えない。

---
昨日、車に乗っていると「道の駅」を2つ見かけた。階上町と種市町のと。
青森県では他に4・5箇所で見かけたことがある。田舎に行くとあちこちにあるようだ。
僕が上京する前は見たことがなかった。
あるとき帰省したときにふと気がつくとそれまでなかったはずのものが青森の各地にできている。
でも関東近辺では見た覚えがない。
この現象は何なのか気になって母親に話してみると、新聞の切り抜きを見せてくれた。
2000年8月5日の毎日新聞ではドライバーの休憩施設や物産品などを案内するために
1993年にスタート、現在では全国に551駅、とある。
そうかやっぱり(比較的)新しいものなのだ。探せば関東でも見つかるのだろう。
僕にとってはプラスにもマイナスにもならないものであるが、
車に乗ってる人には便利なものなのだろう。僕の母親はとても好きらしい。

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この休みに僕にしてはけっこうテレビを見た。主に正月番組。
そうすることによって世の中の流れを断片的にではあるが知ることができた。
最近の自動車の装備で一昔前のカーナビのように流行りそうな製品は
「バックウインドウ」(って名前だったかな)であること。
中吊り広告でよくその名を見かける「釈由美子」は確かにかわいいがその言動が壊れていること。
海老一染ノ助染太郎はどうも干されてんじゃないかということ。
東京に初雪が降ったこと。
21世紀になったところで人々はそんなに浮かれてはいないんだなということ。


[20] 青森県三戸郡階上町大蛇(2)種市海岸 2001-01-06 (Sat)

朝起きてリビングルームに入るとすぐ2人の姪っ子が「今日は何して遊ぼうかー」とすり寄ってくる。
昨日の夜は食事の後、オセロをすることになった。
上の方が最近ルールを覚えたらしく、誰彼つかまえては勝負したがるらしい。
ルールは知っててもセオリー(4隅を取れとか)は知らないので、
良く言うとランダム、悪く言うとデタラメにコマを置く。
やっぱ俺が負けたほうがいいんだよなあ、と考えて
僕が●○●とあるところの右側にわざと白を置いて●○○○としてもその右に黒を置こうとしない。
しかも横のをひっくり返せると気付いてそこに置いたとしても
それがそこから斜めにあるやつもひっくり返せる、といった状況には決して気がつかない。
「レイちゃんここもひっくり返せるんじゃないかなー」と指で指し示してあげると
「うん、そうだー」ヨイショヨイショとひっくり返す。
そうか、こういうことを毎日やることなのか子育って、疲れるし同じことの繰り返しだと
ぞんざいになっちゃうよなあとたかだかこれぐらいのことでも実感する。

その盤はオセロだけでなく薄っぺらい金属板を交換すると
ダイヤモンドゲームや将棋もできるようになっている。
その中に名前は忘れたが8×8の碁盤の目ではなく円形の升目で行うオセロもあった。
ああ、ゲーム機だけでなくこのようなアナログなゲームにも
進化や突然変異があるんだなあということを考える。

そうだ、この2人に会う前に「お兄さんはね、」みたいな話し方を心の中で何度か練習してから
昨日の夜は家の中に入っていった。なのにいとこは僕がプレゼントの袋を渡した直後もう一言目から
「あらー良かったねー。おじちゃんにいいものもらってー」と言いだす。
あー俺もついにおじさんかと非常にがっくりきた。

今日の朝のお題目は折り紙であって、一通りヨットなどをつくってから
「ねー果物では何が好きー」と僕に聞き、昨日はイチゴを一箱買って持っていったら
2人とも満面に笑みを浮かべて食べていたので「イチゴ」と答えると
折り方教室みたいな本のページをめくってイチゴを探す。
熱心に、そして見るからに不器用そうに紙を折り畳む。
紙の図柄は非常に派手なバックにドラえもんがプリントされたものであって、
例えばシンプルな赤い紙ではない。それでもでき上がったときには、
「わーありがとーおいしそうなイチゴだなー」と声に出して言う。
この時の僕をビデオカメラに撮っていたらテープは金を積んでも手に入れ、焼却する。
東京で接してる人たちだけではなく、親兄弟であろうとも見せたくない姿だった。

それにしても小さい子供の相手をするときはその子供が言ったことを反復すればいい
というのはとても効きますね。「あのね、今日ね、メロンパン食べたの」って言われたら
「そー、メロンパン食べたのー」と繰り返す。でもこれも慣れてくるとマシーンのように
こっちも繰り返すだけになるので注意が必要。

折り紙が終わると次はなぞなぞ。オセロとは違って出されたやつ全て大人げなく答える。
「ビルはビルでもかおのなかにあるビルってなーんだ?」「唇」即答。
「あんパンとしょくパンに「おーい」とはなしかけました。ふりむいたのはどっちでしょう?」
「食パン」「どうしてぇ?」「ミミがあるから」「せいかいです」
ちょっと考えてからこんなことを僕に質問する。「でもなんでしょくぱんにはみみがあるの?」
僕は困ってしまって「さあ、なんでだろうねえ」と答える。食パンの作り方を説明するのは難しいし。
「あ、おかあさんがごはんだよーって呼んでるよ」とごまかす。
2人は僕に質問していたことを忘れて、ダイニングキッチンへと駆け出す。

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いとこの旦那さんの運転で2人の姪っ子とともにドライヴに出掛ける。
ここ三戸郡階上町は岩手県との県境にあって、車で15分も走ればそこはもう岩手。

海沿いの道を進む。階上町は集落ごとに小さな漁港を持つ。
漁船が岸に付けられている。網をしまう小屋が潮に焼けている。
種市海岸へと向かう途中、種市高校が目の前を通りすぎる。
ここには潜水科のコースがあり、その名の通り水に潜ることを学ぶ。
日本には他に2つ3つしかない珍しいものなので、付近の子ばかりでなく全国各地から生徒が集まる。
そのような説明を受けて僕は「ふーんそうか」そういうのもあるんだなあと感心する。

岩手県は首相鈴木善幸を生んだ土地であって三陸海岸の整備がきっちりと行われている。
がっしりとした防波堤が途切れることなく続き、津波から町を守るための門まであった。
力のない青森県は沿岸の整備も貧弱なもので、国道が何事もなく普通に繋がっていて
その周りに建っている家は同じようなものなんだけど、悲しいかな防波堤を見ることによって
ああこっち側は青森、こっち側は岩手とはっきり区別することができる。

種市海岸。海浜公園になっている。僕らより先に来た人はほとんどいなかったようで、
駐車場に降り積もった雪のほとんどが白く手付かずで残っている。
子供達は車から降りると元気に走り出し、トコトコと小さな足跡を付けていく。
潜水艦や帆船の形をした遊具施設があって昇ったり降りたり大声ではしゃぎ回る。
お城の形をしたすべり台があるんだけど、雪が固く凍りついていて滑り降りることができない。

車に戻ると「わたしのしーでぃーのはこみてー」とミスタードーナツの箱を僕に手渡す。
中はアニメの主題歌集ばかりだったが、ブラックビスケッツやグレイもあった。
久々に「団子3兄弟」を聞く。

鎌倉時代に建立されたという由緒ある寺下観音へ。
修行僧が修業を積んだ場所とのことで境内はピリッとした空気に包まれている。俗化していない。
ゴツゴツした岩が転がりところどころ滝のようになった小川が静かに流れる。
近付いてみると水が澄んでいる。砂の粒がはっきりと見えた。

---
1度家に戻っていとことおばさんを乗せて、八戸駅方面へ。
途中大きなお酒のディスカウントストアに寄って「ウイスキーをみやげにもってけ」と言われる。
なんでも東京で飲みたいものを、そう言われてラム(マイヤーズ)とジン(ゴードン)を選ぶ。
部屋に常備しておこうと考えつつも面倒くさがって買いに行かなかったもの。
車が出発してから、「あ、青森か岩手のワインを買って部屋に来た人に飲ませればよかった。
でなきゃ青森の地酒!」と後悔した。
僕はワインも日本酒も飲まないから物色している間は気付かなかった。
そういうの買わないとね。

八食センターという海産物から何から無数の市場がその中に入った広い施設の中でみんなで昼食。
ここがうまいとのことだったので、寿司屋の1つに行く。
寿司屋と言っても蕎麦もカレーもラーメンもなんでもあるというやつで、
いつ行っても入るには並ばなくてはならないという。
客席はむちゃくちゃ広い。でかい会社の社員食堂か学食のよう。
僕の座ったところから厨房が見えたのだが、正に戦場のようだった。
寿司職人が5人いて休みなく握り続ける。その奥には鍋や釜があちこちで湯気を立てている。
食器を運ぶ人が女の子からおばさんまで幅広く控えていて、休みなく動き回っている。
市場の中だけあって、寿司もその他のものも東京では考えられない値段だった。

来るときは鈍行だったが、帰りは「青森は吹雪いてらってゆうはんで特急さ乗ったほうがいいよ。
雪で大変なことさなったら特急優先さなって普通列車は止まるかもしれないはんで」
そのように言われて特急で帰ることにする。
昨日同様、八戸はよく晴れている。まさかと思いつつ列車に乗る。
三沢を過ぎた辺りから吹雪になり、青森は大雪で大変なことになっていた。
青森駅からバスに乗って、家に戻った。
帰ってきてそのままの格好で雪かきをした。


[19] 青森県三戸郡階上町大蛇(1)蕪島 2001-01-05 (Fri)

いとこが結婚して八戸の方にいる。
1度遊びに来なさいといつも言われていたものの、これまで行く機会がなかった。
今回、せっかく10日もいるんだから行ってみようか。
正月に電話してみるといつでもいいというので、とりあえず5日にということになった。

---
八戸まで青森駅から特急だと1時間、鈍行だと1時間30分。
そんなに変わんないんだったら、鈍行の方が旅っぽくていいじゃん?
そう思って乗ってみたら、車両は東京の電車のような座席が
横に長く1つながりになっているタイプのもので、1つの席に2人ずつ
4人で向かい合い膝突き合わして座るようなコンパートメント型ではない。
通勤電車の亜流に乗っているようで、旅の気分が出ない。
買い物に出掛ける人、部活の行き帰りの高校生、線路工事の人夫、
入れ替わり立ち替わりいろんな人たちがしばらく乗ってはそれぞれの駅で降りていく。
今日は天気が良く、陸奥湾の波も紺色に見える。
頭の中では繰り返し「みちのく一人旅」が鳴り響く。

三沢を過ぎて八戸に近付くに連れて雪は少なくなり、
八戸駅に降り立つと解け残ったのが道路のはじっこにかすかに色褪せて残っている程度だった。
ここは本当に同じ青森県なのか?そう疑りたくなるほどだった。
東京と同じことで、太平洋側は雪が降らない。その分「底冷え」する。
青森は雪が降るから吹雪になるから寒いという感じだが、
八戸の寒さはその寒さゆえに寒い、特に理由はない、そんな感じ。

---
八戸の繁華街は八戸駅周辺にない。
ローカル線に乗り換えて2つ目の駅、本八戸まで行かなくてはならない。
時刻表を見てみるとその電車が次に出るのが1時間後。目が点になる。
途中下車して、だったらこの駅の周りを歩いてみようかと駅舎を出るのだが、
あまりの何も無さ加減に唖然としてしまった。
これが青森県第2の都市の名前のついた駅の前であっていいのか?
駅ビルも無くホテルも無くコンビニもファーストフードも無く、
あるのは繁盛してなさそうな定食屋がいくつか。
1時間後に本八戸駅に着いて周りを見渡しても、そんな感じだった。
おい、俺騙されてんのか?そう疑いたくなった。
その後いとこの旦那さんに迎えに来てもらって車に乗っているときにこの話をしたら、
八戸という町に駅ができることになったとき、当時強い力を持っていた
乗り合い馬車の組合が強硬に反対したため、町の中心部に駅を置くことを断念したのだという。
本八戸の方もそう。それはよそ者が町を訪れるのを避けたいということでもあったらしい。
「駅の周りにいろんなものが建ってそれに人が集まってっていうのが普通なのに
この町はそうじゃないから、だから発展しないんだよな」と言ってた。

それでも八戸駅のすぐ横に大きな建物があって、観光物産館のようなものだった。
名前は「ユートリー」1階のほとんどが特産物や御土産を売る店、
2階は地元企業の生産物や事業内容の紹介。
青森市にも同じような趣旨の建物があって、名前は「アスパム」
こういうのに突拍子もない名前を付けるのって何なのだろう?
とにかく中に入ってみるのだが、時期が良くないのか観光客らしき人はほとんどいない。
ひっそりとしている。心なしか雰囲気も暗く感じる。
こういうところならあるだろうと八戸一帯の観光用のパンフレットを探すのだが、見当たらなかった。
ツアーやホテルやイベントのチラシはあっても、地図そのものが無い。
でも英語・ロシア語・中国語・韓国語の観光用パンフレットはあって、
ま、これでもいいかと英語とロシア語のを貰っていくことにする。
この後僕は汽車の中や喫茶店でロシア語で書かれた地図を
辞書もなくウンウン唸りながら眺めることになる。

八戸駅の駅舎は現在仮のものらしく、新幹線が青森まで伸びるのを見越して新しいのを建設中である。
「新幹線が来ますよ」ってことになると準備しなくてはならないことは多く、
たぶん青森駅でもそのうち工事が始まるのだろうと僕は考えていた。
駅の話のついでに旦那さんに聞いてみたところ、青森駅には新幹線を停車させるための設備を
新たに造るのはどうも難しいことのようで、どこか別の場所に独立して造らなくてはならない
みたいだよ、とのことだった。それをどこにするか揉めたことで以前青森まで伸びるチャンスが
回ってきたときは青森県(市?)内部で足並みが揃わず、見送られてしまったようだ。
現在候補地としては僕の家の割と近く、函館便の出るフェリー埠頭が有力らしい。

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12時30分に本八戸駅に到着。改札を出ると買い物に来たらしき高校生・中学生の群れが
ちらほらとあってその歩く後ろを付いていくと繁華街に出ることができた。
途中、八戸市文化会館の側を通った。
僕が八戸に来たのは高校の時に1度、県の演劇の大会に出場したときのことだ。
学校を休んで、部員みんなでバスに乗って、旅館についてミーティングをして、
文化会館に行ってリハーサルをして、帰ってからまたミーティングをして、
その日はぐっすり寝て次の日に上演して、他の高校のを見て一喜一憂して、
次の日東北大会出場を勝ち取ったのはどこか結果発表を聞いて、それは僕らではなかったから
みんなで力無くうなだれて帰りのバスで泣いたりぼんやりして、
そんなふうに過ごしたので「観光」している暇はなかった。
ああ、あれはもう10年も前のことだ。僕は17才だった。やっと戻ってくることができた。

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デパートがいくつか建ってるのでここが繁華街だろう、そんな感じの通りを歩き、
古着屋と中古CD屋を探す。僕はどの街に行こうとこの2つを探す。
札幌に行ったときも仙台に行ったときも弘前も、まずはそこから始まった。
中心部となる部分を取り囲む裏通りであるとか雑居ビルの2階とか、注意深く見て回る。
古着屋は今日いくつか見つけたが、これ!というものはなかった。
CDは何枚か買った。

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いとこの旦那さんには会社が終わって6時に拾ってもらうことになっている。
2時半には繁華街も探索し終えて、時間が余る。
明日行こうと思っていた蕪島に今日のうちに行っておくことに決める。
明日になったら雪が降りだすかもしれないし。

駅に戻ってしなびた喫茶店でラーメンを食べる。
70年代にはモダンだったような内装、くすんだオレンジ色の照明、
つげ義春の気分にちょっと近付く。

1時間に1本の汽車に丁度間に合って、さらに4つ向こうの鮫駅で下りる。漁港の町である。
列車はゆっくりと住宅地をぬけていって港へと近付いていく。
銀色の古ぼけた工場の煙突が白い煙を吐いている。
海産物をしまい込むための倉庫が立ち並ぶ。
本来ならばセリが行われる場所は巨大な屋根だけがポツンと取り残されている。
駅を下りて行先表示を頼りに海沿いに歩いていくと、やがて前方に小さな島が見えてきた。

蕪島はウミネコの繁殖地として有名で、国の天然記念物にも指定されている。
昔は本当に島だったのだが、近年埋め立てて誰でも歩いて行けるようになった。
ウミネコはカモメ(?)の一種で猫のようにミャアミャア鳴く、らしい。
「らしい」というのは実際にその群れを今日見れたわけではないからで、
それまで全然知らずにいて掲示板を見てやっとわかったことなのだが、
ウミネコが飛来してくるのは3月頃、8月頃まで子育てをして南方に帰っていく。
今は「いない」時期なのだ。どおりで観光客がいないし、波の音以外何も聞こえないわけだ。
夏ともなれば一帯は鳥たちで埋め尽くされ、その鳴き声は物凄いことになるはず。
日本の音風景百選に平成8年に認定された、とある。

島はそそり立つ大きな岩のようで、そのてっぺんには神社がある。
今年まだ初詣行ってないからちょうどいいやと石段を上がっていって
賽銭を投げて柏手を打って今年の願い事を心の中で唱える。
おみくじを引く。小吉だった。こんな句が書かれていた。
「池水にかげはさやかにうつれども手にとりがたき冬の夜の月」
項目ごとに今年の状態が書かれていて、例えば
願望(ねがいごと)は「思うにまかせず。目に見えて早くは出きず」
以下どれも同じようなことが書かれてあって、今年は総じて
「急いではならない。余計なことを言ってはならない。感情を抑えよ」ということのようだ。
ひっくり返して裏を見てみると「神の教」としてなかなかいいことが書かれてあった。
「腹が立つなら一と足あがれ、岩の下をば水がいく」
おみくじは細長く折り曲げて他の人のように木の枝に結んでおいた。

下まで降りていってから、寒いなと思い缶コーヒーを買って海辺のあずま屋のベンチに座った。
しばらく手のひらで包んでその熱を感じながら、波しぶきを見つめた。
砂の上を歩いていった。
岩の連なる上に1羽のカモメが止まっていて、あああれがウミネコなのだなと考えた。
先程の掲示板には近年越冬を終えてからも蕪島にとどまるのもいるとあったので、
この1羽がそうなのかもしれなかった。
全体的に白く、首に黒い太い線が1本引かれている。立ち止まってじっとしている。
僕はずっと見つめていたのだが、根比べに負けて僕はその場から立ち去ることにした。

正月休みなのか、港近辺には人は全くと言っていいほどいなかった。
時折車が通るだけだった。静けさがポツンポツンと街角に立っている。
この町はエネルギーを失っていた。
あばら屋のような小さな店や食堂が並んでいて、「洋裁」「御茶漬け」「喫茶 ピラフ」
なんて書かれた御世辞にもきれいとは言えない看板が視界に入ってくると
どうしようもなくいたたまれない気分になってくる。
僕は逃げ出すように駅へと戻る。

---
本八戸に戻ってきて、デパートの中へ。
いとこには子供が2人いて、どちらも女の子、7歳と3歳。
お年玉をあげなくてはと思うのだがお金をあげてもいいものなのだろうか、
悩んでどうしようか迷って、お年玉の替わりにプレゼントを買って持っていくことにした。
オモチャ売り場に10何年かぶりに足を踏み入れる。クラクラする。
ぬいぐるみのコーナーをグルグル回って、「俺変な人に見えないかなあ」ってことを気にする。
昔々の僕も普通の子供らしく、この場所がパラダイスのように感じられたものだ。
ここにあるものなんでも手当たり次第に買えるだけの財力は一応手に入れたものの、
大人になった僕にはなーんにも欲しいものはなくなってしまったのでした。

ポケモンのようなキャラクターグッズがいいのか、それとも電池で動くものがいいのか。
7歳で小学1年生の女の子はいったい何を欲しがるものなのか。
3歳の女の子と同じものを与えていいものなのだろうか。
答えが出てくるはずはないだろうから、最大公約数的に喜ばれるものをと考えて
テディベア系のぬいぐるみを2つ買うことにした。
1つは白でセーターを着ている。1つは茶色でデニムのジャンパーを着ている。

いとこの家に到着して出迎えてくれた2人に渡したらとても喜んでもらえた。
リビングのソファーの上には様々な種類と大きさのぬいぐるみが所狭しと並んでいて、
姉妹はそれぞれ「今日はこれ」と選んでベッドに運んでいく。
今日の夜は2人とも僕の買い与えたテディベアをニコニコしながら床を引きずっていった。
そういうのを見ると、僕も嬉しい気持ちになった。


[18] カイロプラクティック/サントリーの烏龍茶のCM 2001-01-04 (Thu)

昨日の夜、母親に「左足を引きずって歩いてる」と指摘される。
普段から姿勢が悪いし運動もしないということもあって僕の体は骨格的にガタガタである。
まっすぐ立ってると本人は思っていても両肩の高さが合っていない。
明日カイロプラクティックに行って診てもらうから一緒に、と言われる。

朝は6時に起こされて、妹に運転してもらい青森市の反対側へ。
とにかく腕の立つ人で、母は定期的に通っている。
朝は8時から診療開始。僕らが着いた時点ではまだ人は少なかったが、
すぐにも4人連れ・3人連れの家族が後から入ってきて待合室がいっぱいになる。
「うわ、今日は混んでるな」とあきらめて帰る人もいた。
噂を伝え聞いて青森のあちこちから来るみたいだ。
著名人も訪れ、プロ野球選手を診察したこともあると聞く。

僕がここへ来るのは今日で3回目。学生時代夏に1カ月帰省すると必ず連れていかれた。
カイロプラクティックってなんだかうさんくさい、
整体に気功を足して横文字で呼んでるようなものなんじゃないか、
そんなふうに最初は思ったものだが、正直なところ今でもだいたいそのように思っている。
エイヤと首を曲げられたときに失敗して一生寝たきりになってしまうのではないか
それが1番怖かったのだが、無免許でもないかぎりそのようなことはないらしい。

先生はもう70を過ぎているのに元気な人でとにかくよく喋る。
青森のいろんなところに住んでる人を診ているせいか、どこそこの誰それ(もちろん無名の人)は
今どこそこで働いているんだけど昔はどこそこで、みたいな話題に詳しい。
それがもとで全然関係のなかった客同士が共通の知人がいて話に花が咲いたりする。
話しぶりは元気そうだが体調は良くないらしく、これまでにもいくつか大きな病気をして
現在は毎日点滴を打ち、診療室の片隅には耳鼻科で見かける吸入器の機械の小型のやつ?
(手に取って鼻にあてるやつではなく、それが管で繋がっているデンとした武骨な、
ダイヤルやボタンのついた箱の方。イメージの沸かない場合は1ドアの冷蔵庫が近いか)
があってそこから酸素のチューブが長々と伸ばされ、それが鼻まで届いて呼吸をしている。
そんな状態にある人は絶対安静にすべきなのだが
人に求められてるのか、ただ単に好きなのか、休みなく仕事を続けている。

カイロプラクティックが天職。話を伺うとそれまで様々なことを経験してきたらしい。
終戦直後の若いころはバスの運転手、その後は市役所勤め。
キノコや朝鮮人参の栽培を試験所でやっていたりする。
僕の今の仕事を聞かれてコンピュータの仕事だと答えると
青森県に初めてコンピュータが入ってきたとき自分が戸籍の管理台帳を入力した、
今から20年以上前のことだ、自分でプログラミングしてゲームも作れる、と言いだす。
バスで流す「次は青森市役所前」といったテープを東北地方で初めて作成したのも自分であり、
その技術をもとに今の青森テレビの音声の誰それが・・・、とまで話が広がる。
どこまで本当のことなのか僕としてはかなり話半分なのだが、
憎めない人柄なので、まあ楽しけりゃいいやと思ってしまう。案外本当なのかもしれない。

僕に取りかかる前に「あぐらをかいてみなさい」と(津軽弁で)指示される。
それだけで僕の体の何が間違ってるかわかるらしく、腎臓が弱い、
このままだともっと悪くなってしまうと言われる。要するに背骨のどこがたわんでるかという話だ。
僕が母親の血を受け継いでいるなら、内臓系はどれも強くはない。
特に腎臓はトイレも近いし最近気になっている。

一通りメニューをこなしてもらう。複雑な姿勢から右腕を引っ張ってもらったり、
首を持ち上げてグイッとひねって骨がボキボキボキと鳴るようなやつだ。
ずれていた腰骨の位置を直してもらった。
足を揃えて立ちあがったつもりでも左足が外側に広がってしまうのもまっすぐになった。

---
その後、1人で親戚のおばさんの家に行く。山の近くにあった1軒屋を引き払って
最近海の近くに建てられたばかりのマンションに引っ越した。そこを初めて訪れる。

僕はここのおじさんにとてもとてもかわいがってもらった。
僕が高校・大学と合格したとき、最も喜んでくれた人だ。
学生時代に夜行バスで帰省すると、着いたその日全く寝てなくても必ず会いに出掛けた。

僕が大学3年の夏にいつも通り自転車に乗ってその家まで行ってみると
おばさんに「今日おじさんは出掛けてる」と言われた。
僕が都合も聞かず勝手に来たのだから仕方ないか、また次の機会に、とその時は思った。
その日はおばさんに東京での近況を報告して帰った。

秋になって母親から電話があって「どうも入院しているらしい」と聞かされる。
その後電話のあるたびに悪くなった、良くなった、と教えてもらう。
12月、「このところ急に体力が衰えたらしい」
大学が年末年始の休みに入って、27日の夜に僕は青森行きのバスに乗った。
28日の朝、家に帰り着いて一休みしてから母と病院に向かった。
病室に入ってすぐ気がついたのはその強烈に不快な匂いだった。
汚物と、今思うとあれは死臭だった。

個室のベッドの側の床におばさんがぼんやりと座っていた。
おじさんは骨と皮だけになって横たわっていた。
「せっかく豊彦君が来てくれたのだから」とおばさんがそおっと抱き起こしてくれるのだが、
ベッドの上で無理矢理に半身を折り曲げたその体は大きな人形のようだった。
意識があるのかどうかわからないが、それでもじっと僕の方を見た。
剥製のような目をしていた。剥製のような目でじっと僕の方を見つめた。

病室を出てバスの座席に腰を下ろした直後、僕は声を出して泣いてしまった。
普段は映画やテレビであっさりと「感動」してすぐ涙を流す僕があるが
普通の生活の中で身も蓋もなく泣いてしまったのはあれが最後だ。

おじさんはその2日後、30日の早朝に死んでしまった。
食道ガンだった。

僕は仏壇に線香を上げて今年も帰ってきましたよと報告する。

---
「バトルロワイアル」を見に行ったのだが、ちっーとも面白くなかった。
若者がバッタバッタ死んでいくだけ。
原作の方がいい。
僕の周りの人はみんないいと言ってるし、原作よりもいいと言っていたので期待していたのだが。
深作がつくるので「仁義なき戦い」の少年少女版ができ上がるのかと思ってたら全然違った。

原作にはまだかすかにあった情感が根こそぎ捨て去られていた。
彼ら/彼女たちはなぜ殺し合うこと、あるいは死んでいくことを受け入れたのか、
そういう部分を形ばかりの程度にしか描こうとしないので安っぽいものに思えた。
殺し合うことに理屈はいらないと考えたのだとしたら、
それを見ているほうにも強引にねじ込むだけのパワーがほしかった。
桐山和雄が殺人マシーンに成り下がっているのはいくらなんでもあんまりだ。

原作のあるものを映画化するとき、何を足場とすべきか、
何に対して忠実とすべきか、いくつか方法がある。
ストーリーあるいは雰囲気といったもの。
この映画では42人の生徒がいかに殺されていったかということにばかり忠実で
いろんな大事なものがガサーッと取りこぼされていったように思う。

1番近い映画は「ぼくらの七日間戦争」なのではないか。

この映画は未成年に悪影響を与えるとして国会議員を巻き込んで
表現の自由とかいった面でちょっとした問題となったが、
そもそもこんな、映画それ自体として質の低いものは見せるべきではないと思った。

---
古本屋で「SUNTORY OOLONG TEA CM SONG COLLECTION」というのを見つけ、買う。
読んで字のごとくサントリーの烏龍茶のCMで使われた曲を集めたもの。
中国で若い男女が川辺や草原で人生の春を謳歌しているその背後で「いつでも夢を」
「結婚しようよ」「鉄腕アトム」などのおなじみの曲の中国語版が流れるというやつ。
見てていつも和やかな気持ちになった。どれもいい曲だと思った。
そのCDが見つかって今年最初の掘り出し物だなとニンマリする。
(解説を見たらシリーズ最初の「いつでも夢を」は92年だった。そんな昔だったのか)

帰ってからさっそく聞いてみるのだが、なんだか物足りなかった。
あーそうか、やっぱりあれはあの楽しそうな男女がいてこそのものなのだなと考えた。
DVDで出たら買ってもいいなと思った。

90年代・80年代・70年代の優秀なコマーシャルを集めたDVDがあったら
買いたいなあと思った。国際コンクールで入賞したものとか。
権利の問題とかで無理そうだけど。
でもその当時の世相もわかるし、便利なものなのではないか。


[17] 青森県東津軽群今別町大川平(2) 2001-01-03 (Wed)

箱根駅伝の復路を見る。
往路は早稲田・大東文化・山梨学院・神奈川とここ10年の間に優勝したことのある強豪が
往路でみんなコケた。10位以下で終わった。
それでも底力があるところは復路で持ち直し神奈川・大東文化は5位6位辺りまで上がっていった。
山梨学院も9位に入ってぎりぎりシード権を獲得した。
大東文化は6区と10区で区間新記録を出し、
1区で失敗していなかったら優勝争いを演じたはず。もったいない。

僕が覚えてるだけでも1位は
中央→法政→順天堂→法政→順天堂→中央(往路優勝)→順天堂→駒沢→順天堂(復路優勝)
と目まぐるしく変化した。
往路8秒差で中央に負けた順天堂が「復路の順天堂」と言われるだけあって
後半圧倒的な強さ(選手の層の厚さか?)を見せつけて総合優勝。2年ぶり10回目。
途中9区では今回の2強と言われていた駒沢と順天堂のランナーが10キロ以上に渡って並走。
駒沢のランナーがラストスパートで順天堂を振り切ったときは駒沢の2年連続優勝か?と思った。

---
僕が昨日から泊まっている親戚の家はこれぞ田舎!という場所にある。
電車は2時間に1本。駅の周りは田んぼでその向こうは山。四方見渡すかぎり山。
川では鮎が釣れる。友釣りをやってみたこともある。初心者の僕でも面白いように釣れる。
いとこのお兄さんの運転する小型トラックの荷台に乗って農道を走ってると
風景がガラスに遮られることなくゆっくりと動いていって
僕はそのとき知覚の広がっていくような感覚を味わった。
ひどく当たり前のことなんだけど、空を見上げると雲は動くことなくじっとしていて
すぐ横の手を伸ばした先にある木々の枝は凄まじいスピードで後方へ流れ去っていった。
まだ小学生の僕にとって、それまでバラバラだった
頭の中の回路のいくつかが繋がったような、そんな体験だった。

山の向こうは海が広がっている。
そこは津軽線で大川平という駅だが、終点は三厩という駅で
そこからさらに進むと竜飛岬という本州最北端の岬がある。
最果ての地であるという以外に何もない場所。
高いところには自衛隊のレーダー基地があって、聞いた話では津軽海峡を
ロシアの潜水艦が我が物顔で就航しているらしい。陸奥湾の中も。
天気が良ければ向こうに陸地が見える。北海道だ。ほんとすぐ近く。
最近、この2地点間を橋で結ぶという事業を考えている人たちがいる。
実現したらものすごく便利だろう。青函トンネルはあくまで鉄道用であって、
本州から車で北海道に渡ろうとしたらフェリーで行くしかない。
自転車で日本1周している人たちも青森−北海道間では自転車を畳まなくてはならない。
この地域では買い物は青森市に出るのではなく、特急に乗って函館の方へという人もいる。
この事業によって生み出されるマイナスの要素もたくさんあるんだろうけど、
僕としてはぜひとも実現してほしいと思う。

大川平では北海道のテレビ局の番組も見れる。青森のよりも映りがいい局もある。
同じ日本テレビを見るにしても自然と北海道の方を見ることになって
コマーシャルは函館なり札幌ローカルのものばかりになる。
特にこの時期はデパートが初売りのCMをバンバン流すことになり、
東京でも見たこともなければ青森でも聞いたともないデパートばかりになって
そういうのを見て購買意欲が掻き立てられるのはなんだか変な感じだ。
架空のデパートの架空のコマーシャルを見るようだ。

ここの家には「庭」があって「池」があって「鯉」がいる。鮒もいる。
そういえば冬は鯉はどうしているんだろうと思って見に行ったら
どこかに退避させられているようだった。

学生時代、ゴールデンウィークや夏休みに泊まりに来ると、決まって池の掃除をさせられた。
池は小さな橋を境に2つに分けれていて、鯉たちをまず一方に寄せてしまう。
空いたほうの側の水をポンプで抜いて、デッキブラシで底や岩をゴシゴシとこする。
汚れに近いようなコケは取り除くようにする。石ころや葉っぱを拾い上げる。
きれいになると水を入れて、それがいっぱいになると鯉や鮒をタモですくって移し替える。
どれも結構な大きさになっているので、これはかなり手間取る作業。
特に鮒は大人しい性格のものは病気で弱ってないかぎり少なく、
尾びれをぴしゃっとはね上げて反抗したりする。
黙って余計なことは言わず作業してないと半年の間に様々なものが沈殿した池の水が
口の中に入ってしまうこともある。
移し替えたら、そちらの方の水をポンプで抜く。

---
箱根駅伝が終わってから、いとこたちと4人で帰ることにした。
昨日とは違って外は吹雪いていた。
強い横殴りの風に乗って雪が真横に動いている、あるいは下から上へと巻き上げられる。
車に乗っていると視界は5mもない。
道路の色と空の色が1つになってしまうので、
周りが田んぼのところを走っていると横幅という意味でどこまでが道路か分かりにくいし、
山の中で頻繁に上下する道路だと前方どこまでが道路でどこまでが空中なのかがわからない。
対向車線の車がライトをつけていないと、いきなり壁を突き破って物体が現れたように見える。
運転していて非常に怖い。

昨日見た散水区間にさしかかって、あれは水なのだろうかお湯なのだろうか、
普通の水なのだろうか、それとも何かが混ざった特殊な水なのだろうか、という話になる。
青森市の新町と呼ばれる駅前の繁華街の道路は僕が小さいころから同じような
融雪施設が整っていて、「あれは港が近いから海水を引っ張ってきて散水しているのだ」
そんな話をする人が何人かいた。それが本当なら車体が錆びついてしまう。
そこを毎日通るバスなら確実にボロボロになるだろう。
それに海水ならそのような匂いがするはず。
実際どうなのだろう。(こういうことに疑問を感じたとき、誰に聞けばいいのだろう?)


[16] 青森県東津軽郡今別町大川平(1) 2001-01-02 (Tue)

昨日の午後から雪が降り始める。
朝起きて雪かきを頼まれる。軍手、ゴム長で外に出る。
北国では玄関は2重になっていて、1つ目と2つ目の扉に挟まれた狭い空間に我が家では
何種類かのスコップをしまっている。用途によって大きさやすくう部分の材質が違う。
赤い色をした強化プラスチックのスコップが壁に立て掛けてあって、「それを使って」と言われる。
空は晴れてもいないし曇ってもいない。吐く息は当たり前のことなんだけど、白い。
ザッザッザッと薄く降り積もった雪を庭の片隅へと放り投げる。
すくって、歩いてって、放り投げて、元の場所に戻って、1歩進んでまたすくいあげて。
僕は無心になって雪を片付ける。
固く凍った部分があるとその箇所を割るために金属のスコップを取りに行く。

---
箱根駅伝が始まる時間になる。毎年欠かさず見ている。
客観的に考えると駅伝なんてただ何人かの人が走っているだけのものなのに
そこに強烈なドラマ性を感じてしまう。感じようとする。
(テレビ局もそういうものとして製作している)
学生ランナーとして何人かは名の知れた人もいるが(でも僕は知らない)
ほとんどは無名のランナーである。そういう人たちの走ってるときの苦しそうな表情や
ベストな走りができてタスキを渡し終えた直後の笑顔に一喜一憂する。
応援したくなる境遇や状況のランナーというのがその都度出てくるもので
抜かれそうになったり抜き返したりすると「あ、あ、あ、あーあーあー」と身を乗り出してしまう。
4年生でこれまでたいした記録を残さず、今年、最初で最後の「箱根」を走ることになり
卒業後は実業団で陸上を続けるのではなく普通の企業に就職が決まっている、
そんな選手が一生懸命走ってるのを見ると、そしていわゆるスターの選手と
互角に渡り合ってるのを見ると「ガンバレガンバレ」と応援したくなる。

(3年前に神奈川大が初優勝したときのアンカーのランナーがそんなタイプだった。
9区の時点でかなり差が開いていて、あとは普通に走るだけでよかった。
そして彼は「普通」に走った。気持ち良さそうに走ってて案外記録もよかった。
彼は優勝争いをしていた他の区間ならたぶん駄目だったろう。
なぜかこのランナーのことをよく覚えていて、なにかにつけて思い出す)

今年そういう気分で盛り上がったのは、
今大会は出雲学生駅伝と全国学生駅伝で優勝し箱根駅伝も優勝すれば3冠の順天堂大学と
昨年の優勝校駒沢大学の一騎打ちとの下馬評が流れる中で
昨年シード権落ちして全くのダークホースだった法政大学が
2区から4区までまさかの1位でタスキを渡す。
そんな状況で法政の5区を走るランナー。彼はよかったなあ。

5区の見せ場は走る前から決まっていた。
2位を走る順天堂大学の選手と3位を走る中央大学の選手はどちらも
区間賞どころか区間新記録を狙うだけの力を持ち、同じ高校の先輩後輩の関係。
因縁の対決とアナウンサーが称する。
5区はひたすら登り坂であってそのスペシャリストであることがランナーには要求され、
大学によってはある選手が1年から4年まで山登りだけを担当する。
そんな中で法政の5区大村選手は(最初で最後の箱根ではなかったものの)
同じ区間を走る15人の中では最も1万メートルのタイムが遅く
遅かれ早かれこの2人によって越されてしまうのではないか、
そんな雰囲気が中継からは伝わってきた。

走り出した直後は貯金があって楽な走りができたものの
山登りに関する技術的なスペシャリストではなく、ただ「自分は粘り強い」からという理由で
山登りを選んだ大村はやがて後続の2人に追いつかれてしまう。
そして順天堂大学のランナーにあっさりと並ばれて、かわされる。
あーやっぱりつかまったかあとその時思った。
しかしここから大村は意地と根性を見せ、追いついて再度先頭に立った。
サングラスをしてはいるものの歯を食いしばり苦しそうにしているのがよくわかる。
「おおおおこいつやるじゃないか!」と見てて嬉しくなった。
4年生で今年の春からは地元で公務員になることが決まっている、この箱根が最後のレース
そのようにアナウンサーが大村選手のことを紹介する。
ここでいい走りをしたところでアピールすべき対象はもう存在しない。
1位で受け取ったタスキを自分も1位で繋ぎたいという強い思い。ただそれだけ。

再度先頭に立ったもののそれもわずか限りのことで、その後すぐに順天堂と中央に抜かれて
そのまま差がずるずると開いてしまった。3位で到着して倒れ掛かり抱きかかえられる姿、
それはこの駅伝では見慣れた光景なんだけど、彼の全身は特に印象的だった。
自分の持てる以上の力をチームの絆や観客の声援をもとに120%に出し切った姿。
それを久々に見ることができた。すがすがしい気分になった。

---
母の実家が津軽半島のかなり先の方、東津軽郡今別町にあってお盆や正月は必ずそこに行く。
母の兄弟は7人兄弟なのでその子供や孫が一同に会したら大変なことになる。
今でこそ僕のいとこたちも青森よりは首都圏在住の方が多くなってしまったが
僕が小学生の頃はほとんどの親戚たちが東北地方に住んでいて
このような時期にはきちんと集まったものだった。

駅伝を見終わってから妹の運転する車で1時間かけてその家へと向かった。
午後は天気が良くなったので、道路も雪が解けていて運転が楽そうだった。
ああこれなら俺でも運転できるかなと思わなくもないが、
それでも雪道は怖いものなのでやめておく(ハンドルを握らせてくれないだろうが)。
途中の山道で中央分離帯から規則的な感覚で小さな穴から放水されていて
雪が解けている区間があった。へー青森にしては気の利く仕組みを導入したもんだなと感心する。
僕の父親はかつてやはり母の実家へと向かってるとき(あるいは帰るとき?)に
雪道を走ってるとふとした弾みにスリップして車が一回転したことがある。
対向車線からダンプカーが来ていたりしたら今ごろ僕は生きていなかったかもしれない。

先に来ていたのは東京の建築現場で働いてるいとこ2人だけ。
その他の人たちは来ないか、既に帰っていた。
カニを腹いっぱい食わせてもらい、ひたすらビールを飲んだ。
みんなで1つの部屋に集まって正月番組を見て笑いあう。
大きなストーブがあるのはその部屋だけ。食事の時間にはそこにテーブルを出すので、
冬場は基本的に1つの広い部屋にみんなで朝から晩まで一緒にいることになる。

いとこが集まったところでトランプやすごろくをする年でもなくなり、
だからといってその村に住んでる人間でもないから夜出掛ける場所もなく、
テレビを見ながらビールを飲むだけ。

母は7人兄弟の真ん中ぐらいで、ということは僕もいとこたちの間でも真ん中ぐらいになる。
上は結婚して子供がいるし、下はまだ小学生がいる。
テレビ番組がつまらなくなると母の兄であるおじさんは孫の映ったビデオを見だす。
子供のいるいとこ2人とも熱心にビデオを撮るようで、そういうテープがたくさんあって
(下手すると僕の家にまで回ってきている)
僕はお盆やGWや正月の度にその最新の映像を見せられることになる。
小さな女の子が夕食時に缶ジュースをコップに注ごうとしたら失敗して、
それでも気付かずにいて嬉しそうにしているとか、そんな映像。

「テレビ探偵団」(この番組自体懐かしいですね)の特番があってそれを見た。
テレビ史上名作とされている番組を100本カウントダウン方式で少しずつ紹介する。
1位は「おしん」で2位は「積み木崩し」3位が「柔道一直線」。
10位以内には他に「岸辺のアルバム」や「太陽に吠えろ」。
「スチュワーデス物語」や「不良少女と呼ばれて」「スクールウォーズ」が出てくると
懐かしさにみな「あー」とか「おー」とか言いだす。

---
「ここが変だよ日本人」も2時間半のスペシャルになっていて、
僕と××が一緒で×が近い○○○さんが出演しているのをこの日やっと確認することができた。
周りに熱い人が多い中で一言もその発言を聞けなかったのが残念でした。
「日本人の芸は海外で通用するか」というコーナーで
ゆーとぴあの例の平べったくて長いゴムを2人の人間が口にくわえるネタに大受けして
立ち上がって拍手している姿が印象的でした。


[15] 365(or 366?) × 25 +1日目 2001-01-01 (Mon)

元旦。僕の家には昔から初詣という習慣がなかったので、
(青森市には三が日に約11万人が訪れる「善知鳥神社」というのがあるが家からは遠い)
この冬からは自動車があるとしても、やはり行くことはない。
なーんにもすることはなく、妹の部屋にあったマンガをずっと読んでいる。
昼過ぎに母と妹はデパートの初売りに出掛けたようだが、僕は面倒くさくて行かなかった。

この前のゴールデンウィークに帰ってきたときにもマンガを読んでいた。
妹はマンガをたくさん持っていて、そのときは浦沢直樹の「Monster」を
1巻から12巻まで読んで他には萩尾望都の「トーマの心臓」を読んだ。

僕がマンガを最も読んでいたのは大学1・2年の頃で
4人部屋の寮だと雑誌や単行本がいくらでも転がっていた。
スピリッツやモーニングを毎週欠かさず読んでいた。
岡崎京子・内田春菊・西原理恵子の本を片っ端から買って、
西原理恵子は吉祥寺パルコで行われたサイン会にも行った。この人に関しては
漫画家としては素人同然の頃に「近代麻雀」で始まった連載を始めた頃から見ている。
正直に言ってあそこまでブレイクするとはちっとも予想できなかった。
一頃はどんな雑誌を開いてもあの人の破れかぶれな絵とセリフがあって、
それさえあれば他のマンガは特にいらねえなという時期もあった。

岡崎京子に関しては前の日記で書いたような気がするが
僕は高3の夏に演劇部の部室で「Pink」を読んで
「そうだ、僕はこんなとこにいるのではなくて絶対上京すべきだ」と心に強く思った。
単行本一冊一冊が僕にとって必要なものになっていった。
僕という人間の「思想」を形作るにあたって最も影響力のあったものを3つ挙げるとするならば
ビートルズ・ドラえもん(藤子不二雄)・岡崎京子ということになるだろう。

働きだしてからはパッタリとマンガを読まなくなってしまった。
マンガ喫茶は行ったことがない。はまって大変なことになるのが目に見えるから。

午前中は「Monster」の13〜15巻、
「おたんこナース」の佐々木倫子の新しい連載である「Heaven?」の1巻を読んだ。

午後はまず山本直樹の最新の短編集と「僕らはみんな生きている」を読んだ。
(岡崎京子の時代が強制的に終わってしまった今、山本直樹に最も「文学性」を感じる)
本棚の一角に山岸涼子という人のが山ほどあって
「ああたぶんこの人のは読むべきなのだろうな」と思って
どれを読むべきなのか尋ねてみたところ「日出処の天子」と即答され、
「あ、その名前は聞いたことがある」と読み始める。全部で7巻あるうちの3巻までを読んだ。

夜は現代洋子というこれまで全く知らなかった漫画家のものなんだけど
「おごってジャンケン隊」というのが3冊あって、
帯にスピリッツ連載中と書かれてるのに興味を持って読んでみることにした。
内容は現代洋子が担当者とゲストとその友人・知人たちとで高そうな店に入って食事をして、
最後に参加者全員でジャンケンをして負けた人が全額払うというもの。
誰が負けようと領収書を貰うのは不可というルール。
ナイナイが昔やってたゴチになりますってやつと西原理恵子の「恨ミシュラン」を足して
ちょうど2で割ったような企画。絵的にも漫画を書いている人間がどうにも負けてしまう点にも
西原理恵子の2番煎じな感は否めないのだが、それでも、
冬の夜、テレビも見たいものはないって時には面白い読み物だった。
ゲストはつボイノリオ・早川義夫から爆笑問題・小泉今日子・城彰二と幅広く、
なぜかガチャピン・ムックの回もある。

今夜はこれから帰省するたびに新刊が出たら買っている
秋月りすの「OL進化論」と植田まさしの「かりあげくん」を読む予定。
半年分のマンガを読んだ。

何も考えずに次から次にページをめくっていったため、
今日が誕生日であることをちっとも思い出さずに済む1日だった。
25歳の時は、四捨五入したら30であっても10年単位で物事を考えたらまだ前半である
そんな気分でいられたが26歳は明らかに後半。
来年の元旦・誕生日も僕は妹のマンガ本を読んでいるのだろうか。


[14] さよなら20世紀 2000-12-31 (Sun)

朝8時過ぎに起こされる。母親と2人朝食。
妹は昨日夜勤。明けの日は決まって昼まで寝てるらしい。
NHKの2000年を振り返る番組の再放送を見ながら昨晩の残り物を食べる。
次々に映像が映し出されるのだが「あーこういうこともあったなあ」という発見は
これといってなく、この1年の出来事をけっこう僕は覚えていた。

食べ終わって家全体に掃除機をかける。
自分の部屋の窓を拭く。窓や桟にびっしりとついた水滴を雑巾で拭い取る。
昨日の夜僕は風呂に入ったから、そして風呂場は僕の部屋の隣だから、
次の日の湿気は凄いことになる。出掛ける前に除湿器を作動させる。
帰ってきてからプラスチックの容器を取りだしてみるとひたひたと水が溜まっている。

大晦日なのだが何か特別なことをするわけでもない。暇なので僕は市街地へ行ってみる。
バスの停留所に行って驚いたのだが、年末年始でなくても朝10時台は1時間に3本。
いつの間にこんなに寂れてしまったのだろう。
停留所の向かいにあったタクシー会社は倒産したらしく、建物が無くなっていた。

停留所の隣は高い塀でぐるりと囲まれた酒造所。
かつては日本一に選ばれたこともあるといつだったか母親から聞かされた。
「田酒」という銘柄。家の近くだと飲める機会が頻繁にあるかというとそういうこともなく、
作られたものの多くは東京の料亭に運ばれる、
僕の母親がそこで働いている人とたまたま知り合いのため
やっと年に2本だけ分けてもらえる、そんな世界。
その2本も「手に入った。じゃあ飲むか」ってことはなく、また誰かに贈ってしまう。
大学の何年生だったか、1度だけ僕も飲ませてもらったことがある。
緊張してしまって残念ながら味は覚えていない。

---
駅前の繁華街でバスを降りて、まずは床屋に行く。「行きつけの」床屋。小学校から。
今でも帰省したら必ずそこで切ってもらう。上手だと思う。
どこをどうしてほしいか言わなくても済むのがいい。
最初から髪を梳くときのハサミでジョキジョキと切ってもらう。
年末だけあって昨日30日は混んで混んで昼も食べれないほどだったらしいが、
今日は全然暇。僕が店に入ってから終わるまで他の客は1人も来なかった。
東京で買ったお菓子を渡したら喜んでもらえた。

---
昼は新町通りの「柿源」という店で鍋焼きうどんを食べた。
僕がまだ中学・高校の頃はここの鍋焼きは天下一品だった。
こんなにたくさんいろんなものが入ってて天ぷらの海老も大きくて、それでいて1000円もしない、
いいのだろうか!と思っていたのだが、バブル崩壊後は具が多少貧弱になってしまった。
帰省したときにこれまでも何回か食べたのだがその印象は変わらない。
特に今日は31日で材料が思うように手に入らないのか、惨憺たるものだった。
鍋焼きうどんに関しては店に行かずとも家でうまいのを作って食いたいと試行錯誤したので、
今では自分で作るのが1番うまいというところまで行くようになった。
タレそのものは市販のものなんだけど、鳥肉を茹でるところから始めて
ポイントは卵が半熟で固まるまでの火加減。東京に戻るまでに1度は作って食べることになるだろう。

---
大晦日ということもあって閉まっている店も多く、街はひっそりとしている。
不況の波をもろにかぶって青森市は来るたびに寂れていくような気がしてたんだけど、
今日はもう歩く人も少なく、「世界の終わり」が近付いているような通り過ぎた後のような
そんな感じがした。ミレニアムも21世紀も知らないかのようだった。
騒いでいるのは東京やその他大都市だけなのではないか、
少なくとも「日本中が沸き立っている」というのは嘘なのではないか、そう思った。

---
映画を見る。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
公開と同時に見たかったんだけど、東京では混んでそうだったから
こっちで見ることにしようと決めていた。
よくよく考えてみると上京して以来青森で映画を見るのは初めてのことだ。
中学時代は欠かさず月に1本は見ていた。SF・ホラー系ばっかりだったけど。
高校時代もよく見た。「七人の侍」のリバイバルを放課後に見に行ったなあ。

街が不況の波に包まれるとしたら、映画館もやっていけるわけはなく
4・5年前に2つ閉館した。そのうちの1つはポルノ映画館で
ただでさえその身も蓋もないポスターを目にすると侘びしい気持ちになったのに、
それがなくなってしまったと聞くともっと侘びしい気持ちになったものだ。
僕が小さな頃から高校を卒業するまで、
その映画館に入って行く人も出てくる人も見たことは1度もなかった。
昔々、僕が生まれる前は文芸映画を上映するような場所だったそうだ。
その後ここは経営者が変わって今では雰囲気が全然違う、
東京でならミニシアターで上映されるようなのをかける映画館になった。
駅前の青森市中心部ではないけれど、遠くに別な映画館も建った。
弘前市には郊外型の巨大なショッピングセンターに隣接して
最近良く見かけるワーナーのシネマコンプレックスもある。

で、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
最近の作品にしては珍しくこっちの勝手な期待を裏切ることのなかった、すばらしい作品だった。
さすがカンヌでパルムドール、ビョークが主演女優賞取るだけあるよなと納得した。
基本はミュージカル。唐突に主人公が歌いだし踊りだし周りの人々もそれに合わせて体を動かす。
普通ミュージカル映画というとその唐突さが鼻につくのだが、
この映画ではそれが唐突であればあるほど主人公の夢と(映画の中での)つらい現実との
落差がはっきりとしたものになって切ない気持ちになる。
現実の世界のシーンではドキュメンタリータッチで何の装飾もなく進んでいく。
しかしそれがパッと切り替わる瞬間があって
音楽が始まる度に僕は背筋にゾクゾクしたものを感じる、
ビョークが歌いだせばそのはかない歌声にうっすらと涙すら浮かぶようになる。
クライマックスに向かうにつれてその声はいっそうはかなくなって、僕本当に泣いてしまった。

31日にしてはけっこう人が入ったと思う。
街が閑散としていたので見る人もいないんじゃないか、
ひょっとしたら僕1人のためにフィルムが回るんじゃないか、
最初はそう考えていたのだがそんなことはよかった。

---
映画を見終わったころ、妹から電話がかかってくる。
車で僕を拾って注文しておいた刺し身の盛り合わせをユニヴァースに取りに行くことになっている。
(僕はこれほどまでに大きなスーパーマーケットには足を踏み入れたことがなかった)
その帰り、青森市のカウントダウンのイベントのポスターを見た、
実際にその会場となる商店街の一角にある小さな広場も見た、と話す。
プログラムには「バンド演奏・DJ」という時間帯があった。
「このDJって何?地元の人?」「地元なんじゃない?」
「そういう人が普段活動するような場所ってあるの?」「あるみたいだよ」
「どこ?」と聞くと僕がまだ小さかった頃に一家が住んでいた、港の近くの飲み屋街の方だった。
ふーん、そうかあ、そうゆうのやる人やっぱいるんだよなあと僕は感心した。
ライブハウスも復活したし、バンド演奏可のバーもできたらしい。

年越しそばを食べながら適当にテレビを眺め、
それも退屈になってきて部屋に戻りストーブをつける。

今日もまた暖かく、雪ではなく雨が降っている。
断続的に1日中降り続き、今この瞬間にもポツポツと雨粒が屋根に当たる音が聞こえる。
雪ならまだしも雨ならイベントも盛り上がらないだろうなあ、と僕は思う。
今は22時37分。20世紀も残すこところあと1時間と23分ということか。
もう少しでカウントダウンが始まって、そうだその瞬間に僕はこの「25歳」を終える。
部屋にはテレビがないから僕はその声を聞くことなく、やがて自動的に26歳となる。
僕はもう眠いから、今夜はこのまま眠りについてしまうだろう。
いつものように。そう、いつものように。

さよなら20世紀。そしてその100年間。
さよなら25歳。これまでの25年間。
さよなら。さようなら。


[13] 帰郷 2000-12-30 (Sat)

今日から1月は8日まで青森に。
去年の正月はY2Kで帰れなかったから、青森の冬は2年ぶりということになる。

東京駅から東北新幹線に乗って盛岡まで。9:40 - 13:20
盛岡から青森までは特急。13:46 - 16:12
どちらも同じだけかかる。今のところ1日仕事。
新幹線が青森まで延びたら、それでも5時間ぐらいで着くようにはなるだろう。

どちらも臨時増発。指定席は売り切れ。帰郷のために走る列車。

東京駅で駅弁(穴子の押し寿司)と evian を買って新幹線に乗り込む。
長いこと待たされて、乗って、すぐに動き出した。
荷物を頭上の網棚へ。親戚に渡すお菓子と1日分の着替え、キャリングケースに入れたiBook。
上野・大宮、東京近郊の風景が続く。
僕はドストエフスキーの「悪霊」を開く。正月はこれを読んで過ごすつもりだ。

郡山にさしかかる辺りから、遠くの山の頂がまだらに白く塗られだした。
福島ではついに遠くまで広がる田んぼが一面真っ白になった。
だけど仙台では市街地に雪はなく、道路は何事もなく乾いている。
子供が家の前で縄跳びをしているのが見える。
古川から一ノ関へと進むに連れて、またあちこちに雪がうっすらと降り積もるようになった。

空は水色、雲1つない。
一昨日母親と電話で話したとき、30日は晴れてると言っていた。確かにその通りになった。
青森もこんなふうに晴れてるのだろうか?

青森の冬で今日のような快晴は月に3度あるかどうか。
週の2日は様々な色調の鉛色の雲が厚く厚く重なり合い、気がつくと雪が降り始めている。
真夏の積乱雲が空一面を覆っている様を想像してほしい。
それが海辺なら水平線の彼方まで続いている。四方どこを見渡してもどこまでも無限に続く。
残りのうち週に4日はぼんやりとした、まっさらな灰色の層に包まれる。
ただ灰色なだけの空。気がつくと同じように雪が降り始める。
白い微かな粒子が風に吹かれて僕の側を通り過ぎる。
やがていくつもの粒子がその後を追うようになる。
日によっては何かの加減で、空は灰色ではなく真っ白になる。
そんな日の雪は決まって綿のようにふんわりとしている。大きな破片となって舞い降りる。

盛岡から特急に乗り換えて青森に近付くにつれて、
空にはちぎれた雲のかけらが広がるようになった。
僕はそれを見て「ああやっぱりな」と思う。
でももしかしたら夕暮れが近付いてきたからそうなったのかもしれない。

野辺地を過ぎると浅虫温泉まで列車は陸奥湾沿いを走る。
海も空も同じような鉛色で、ただ1本の境界線が真っ直ぐに隔てるだけ。
空の方がまだ、青みがかっている。

---
新幹線に乗っているとき、通路を挟んで隣の席には2人連れの女の子が座った。
今どきの普通の人。髪が茶色っぽく、new balance のスニーカーを履いている。
彼女たちはスキーをしに行くところなのか、帰省のためなのか外見からは判断できないが
(でも雪の降り積もる場所に戻るのなら、普通はブーツを履く)
少なくとも「旅して回る」って感じではなかった。
1人はずっとCDで音楽を聞いていて、1人はずっと刺繍(!)をしていた。
青い布を丸い枠で押さえつけて、慣れた手つきで銀色の針を動かしていく。
そのほっそりとした白い手はあちこちに指輪をしている。
趣味の手芸サークルというよりは「私これで食ってます」みたいな雰囲気があった。
楽しい・楽しむという以前にまず手が動くって感じの。
まじまじと見つめるわけには行かないので窓の向こうの風景を眺めるふりをして
時々ちらっと視界に入るようにする。
湖か川の上を夜、三日月が浮かんでいる、そんな模様だった。
1つ仕上がって同じ図柄の次のに取りかかり始めた途中で、
全てを片づけてカバンに放り込んで赤いダウンジャケットを羽織った。
「彼女は上京して紆余曲折があって、今は刺繍によって生活を成り立たせている」
のかなあと僕は考えた。
旅行のために盛岡まで来たのなら、わざわざそのようなものは持ってこないだろう。

---
盛岡から青森行きの特急に乗り込むと、周りのほとんどの乗客が現か元青森県民ということになる。
年老いた夫婦が津軽弁か南部弁で話しだす。
そんなとき「ああ、帰ってきたんだなあ」と僕は実感する。いつも実感する。

でも最近調子狂うのはそういうおばさんが携帯を取りだして誰かと話しだすときで、
言葉は訛ってるのに携帯自身はピカピカのゴテゴテした新しい機種だったりするのは
なんだかどこか違和感を感じさせる。
話す内容自体は「今さ、八戸ば過ぎたはんであとぉ、んだなー30分で」って感じで
何も変わっちゃいないから、なおさら。

---
青森駅のホームから妹の携帯に電話をかけて、迎えに来てもらう。
妹が今年の春就職して車を買って、ほんと便利になった。
昔はお金がなかったから、よほどのことがないかぎりタクシーには乗らず、
駅から重い荷物をもったまま遠く離れたバス停まで行ったものだった。

雪はあんまりない。思ってたほど寒くない。
11月初めか3月半ばにたまたま雪が降りましたってぐらいの緊張感のない風景。
でもこれは今日たまたまのことで、暖かくて溶けてしまっただけのことらしい。


[12] 性格類型検査の結果/今年最後の出社 2000-12-29 (Fri)

(11月8日の日記で書いた)性格類型検査の結果が届く。
以下の4つの側面から判断するもの。
*********************************************************
興味関心の方向 :内向(Introversion) / 外向(Extraversion)
ものの見方 :直観(iNtuition) / 感覚(Sensing)
判断の仕方 :感情(Feeling) / 思考(Thinking)
環境への接し方 :知覚(Perceiving) / 判断(Judging)
*********************************************************
僕は INTP 型になった。

この型は、
***********************************************
「自分の理屈を大切にする理論家」
理論や理屈が好きで知的好奇心が強い。
実際的なことより空想的なことを考えることを好む。
独自の枠組みで物事を考えるため、
風変わりな印象を与えることがある。
***********************************************
…のだそうだ。

個人の得点をもとにもっとつっこんだ解説をすると僕は、
************************************************************************************
独自の価値観をもち、常識の枠組みにとらわれない自由な発想を好むタイプである。
実用性よりは可能性を重視したものの見方をするが、外界に対して静かで控えめであり、
自分の考えを人に説明するのは得意ではない。状況を冷静かつ客観的に分析し、
感情に流されず論理的に判断する。外界の変化に対しては比較的柔軟に対処するほうであるが、
内面的には周囲に左右されることなく独立的で確信に満ちている。

枠にはまった仕事や実務的なことは苦手なほうで、むしろ物事を体系化しながら
問題解決そのものをひとりですすめていくことに喜びを見いだすほうである。

対人面では消極的でうちとけにくいところがあるため、
他人から理解されにくく風変わりな印象を与えるおそれがある。

積極的に自分を表現し、まわりにとけこむことを心がけるとともに、
他人の意見に耳を傾け、共に考えようとする姿勢が望まれる。
************************************************************************************
ということらしい。(ここは同じINTP型でも異なる)

よく当たっていると思う。
でもこれは自分が思う自分だから当たるのであって、
他人から見たらかなりずれてるのかもしれないが。

内向/外向では内向の方に針がガッと振れていて、
もう少しで上位2%の枠内に入ってしまうところだった。

INTP型の自己啓発上のポイントは
****************************************************************
・理論のための理論、計画のための計画は避けること
・面倒でも自分を相手に理解させ、また相手を理解しようとする努力を
・わかりきったことでも入念な注意を向けること
素直な態度で人に接しよう
****************************************************************
うむむむむ。そもそも自己啓発って言葉が嫌なんだよな。

---
一昨日、社内報「ふれあい」の新年号が各自に配られる。
新年号は社員全員の顔写真と今年のお題目(自分を例える四字熟語)に
答える欄と100語ぐらいのコメントを書く欄がある。
ざっと目を通す。

自分の部署のところを見終わると、
各部署の同期の人たちが何を書いてるのだろうかチェックする。

顔写真を見ると、ほとんどの人が去年の写真と顔が変わっていたように思う。
これは2年目になってそれなりに社会的責任に対する自覚のある顔になった
とかいうことではなく、ただ単にアングルとか照明の加減とか
写される側の体調とか機嫌によるものなのだろう。

あることに気付いて、だったらたぶんと
次は今年の各部の新人の現在のと入社前のとを見比べてみる。
もう全然違う。就職活動用ではキリッとしているが、今はデレッとしている男子。
同じく以前のはキレイに端整な顔立ちで写っているのに、今では顔の造りからして違う女子。

やはり無防備な時に撮った写真の方が面白いですね。

---
今日は最後の出社の日なので何にもやる気がおきません。
朝からだらーんとしています。
納会でビール飲んで帰るだけ。今日は休めば良かった。


[11] パラダイス・ガラージのベスト 2000-12-28 (Thu)

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注)以下の文章はAVつまりアダルトビデオに関する言及がなされます。
女性の方はここから先は続きを読まない方がいいでしょう。
これまでアダルトビデオというものをちらっとでも見たことがなく、
汚らしい・汚らわしいというイメージを抱いている人なら特に。
(確かに出回っているうちの97%のものは汚らしいだけでなく
つまらなくて退屈なものなのですが)
いいですか?僕は警告しましたよ。
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パラダイス・ガラージ(=豊田道倫)のベストアルバムが発売された。
ここ5年間で様々なレーベルを渡り歩いたその全ての時期から万遍なくセレクトされている。
問題とすべきは2枚組の2枚目の方で、
カンパニー松尾が撮影・編集したDVDの映像集になっている。
ライヴがメインでそこにクリップとインタビューが挟まる。
知ってる人なら知っていることなのだが(と言っても普通知らないだろう)、
カンパニー松尾という人はアダルトビデオの監督である。

この人の得意とするものは、1時間半のソフトなら3人か4人登場することになるのだが、
全国の素人に1人で会いに行って自分でカメラを回しながらその行為を行うことである。
「ハメ撮り」というやつですね。全てがカンパニー松尾の視点から捉えられる。
三脚にビデオカメラを据え付けることでベッドの上の自分の姿を客観的に捉えることなく、
あくまでも主観的な映像。
その素人さんに会いに行くときに見た電車の風景も、
待ち合わせして出会って世間話をしているときも、
「では始めましょうか」ということになって実際に始まってからも、
全ての映像が等価なものとして続いていくことになる。

そしてここが意見の分かれるところなのだが、
この人はそれらの映像に私的な感情を盛り込んでしまう。
たいがいは地方の人に会いに行くために駅のホームなり電車の車両から
映像がスタートすることになるのだが、このときは決まって
彼がその頃つらつらと考えていることがモノローグとして表示される。
それは「最近忙しいなあ」というのかもしれないし、
「なぜ自分はアダルトビデオ業界なんてものに身を置いているのか」
というものなのかもしれない。

3人の女性とのやりとりが一通り済んだあとでいきなり
「この前付き合っている彼女と分かれた」というテロップが表示され
そのときに自分で自分を隠し撮りした痴話喧嘩の映像がつながっていることもあれば、
名古屋での撮影が終わった後に昔なじみの女優と会ってスタッフと
ごはんを食べに行った、ということもある。
いろいろ思うことが会って旅に出た時の風景が流れるときもある。

はっきり言ってこれらの映像は原則的に「不要」なものである。
男性のみじめな欲望を解消するに当たっては早送りされるだけのものである。
でもこの人の作品は、なぜかそういうものにはならない。

たとえて言うならばこの人は日記のようなものとしてAVを撮っている。
それはこの人の性格のにじみ出た優しさや哀しさに満ち溢れたものとして成立し、
その辺の下手な小説よりもよほど地に足のついた文学性を僕は感じる。
在りし日の岡崎京子のように。

(でもそれでいて安易な文学性に流れていくことはなかったし、
自分が撮っているものがあくまでAVなのだという認識を常にこの人は持っている。
そしてここが大事なのだが、単純に「出てくる女の子の質」といった点から見ても
AVとして優れている。嫌ならよけいな感傷的な部分は早送りしてしまえばいいのだ)

僕は学生時代、この人の「作品」を一頃映画を見るような感覚で次々にレンタルして
貪るように見ていた時期がある。荻窪に引っ越してからはどこの店の会員証も
作るのが面倒で持っていないため、AV自体見ることが無くなったのだが。

話は長くなってしまったけれども、そのカンパニー松尾が
個人的に撮り貯めたパラダイス・ガレージに関する映像の寄せ集めを
夜、会社から帰ってきてから見た。

パラダイス・ガラージは日常的な出来事をモチーフにしたフォーク弾き語りに
ジャンク=ノイズを組み合わせたような音楽で歌も演奏もちっともうまくない。
でも強烈なサムシングを持っている。
カンパニー松尾も映像技術的には見るべきところのものは何もない。
いつも目の前にあるものをただ撮っているだけである。
でもやはり同じようなサムシングを持っている。
この2人が組み合わされるとどうなるか。

ビデオクリップが2本あるのだが、最近の「アーティスト」の凝りに凝りまくった
「映像」とは全く異なる稚拙な「画面」。カット割だとかアングル・カメラの動きだとか。
しかし伝わるべきものは確実に、嫌というほど伝わってくる。

基本的にカンパニー松尾が普段撮っているようなAVから
女性との行為の代わりにライヴの映像が繋げられているようなもの。
地方に出かけてインタビューをして。モノローグのテロップがあって。
ほんといつも通り。
だけどこの両者を知っている人ならば「らしいなあ」というのがよくわかる。
結びつくべきものとして結びついたのだな、と。

世の中には「稚拙」であるからこそうまく伝えられるものがある。
不器用にしか言えないからこそ、伝わってしまうものがある。
そういうことを知っている人の表現は「他人」に対して限りない優しさを持つ。


[10] 会社のロゴマークなど 2000-12-27 (Wed)

社名やロゴマークの変更・新ビル完成に伴う各部署の移転に伴い、
新しい名刺が配られた。で、案の定これがかっこ悪い。

この会社のやることなすこと野暮ったいのはいったい何なのだろう?
センスがない。
いや、そう思っているのは僕だけで、10人のうち9人は
これでいいと感じてるのかもしれない。

地下鉄に広告を出したことがあったが、それもよくわからないコンセプトだった。
という以前に目立たない。インパクトがない。
手のひらに「www.tis.co.jp」と書いてあるだけ。
人によっては手相サイトかと思うかもしれない。

その他ポスターもそんなところ。なんかぱっとしない。
無難にまとめようとしているためか。
普通の会社では作っているからとりあえずうちも作ってみました、みたいな。

若者が就職活動で会社を選ぶ基準の1つとして、その会社の持つ
雰囲気やセンスといったものが今までよりも大きく作用するようになると僕は考える。
世の中で一流企業とされている名だたる大企業から送られてくる就職活動用の
パンフレットはたいがい独自のカラーが打ち出されていたし、斬新なセンスのものが多かった。
その会社の勢いが感じられた。興味のない業界であっても、いいねこの会社と僕は思った。

業界を絞っていくつか同じような会社から内定をもらった人が「ではどこにしよう」と選択する際に
この会社のパンフレットが良かったからここにしようというのを1番に考える人はいないだろうが、
この会社のパンフレットあんまり良くないからちょっとなあとマイナスポイントを入れて、
意識的/無意識的にその他の多くの点と比較することで
「ここはやめよう」と考える人はいるのではないだろうか。

それにしてもこのロゴマーク、なんとかならないのだろうか。
確か5種類候補があってその中から選ばれたはずだ。
でもその5種類の時点でどれもどうしようもなかった。
(僕は日本橋4Fのフロアに貼り紙がしてあって、どれをいいと思うか意見を書いてくださいとあるときに
「どれも今一つです。東CB岡村」と書いたし、
部長から意見を求めるメールが東CBプロパーに届いたときも「どれも駄目です」と返信をした)

どこかのB級のコンサルか広告代理店に任せっきりで作らせたものなのか?
こういうところにこそお金をかけないでどうするよ、ほんと。
本当にこの会社は儲かってるのかと疑ってしまう。

むしろ逆にロゴマークを公募制にすれば良かったのだと思う。
社内報の扉の絵を描く人がいくらでもいるわけだから、募集すればそこそこ集まったのでは。
そしてその中で社員全員による投票で決めれば良かった。
(そこまでしなくても投票をしてその結果を「考慮」に入れるというのがほしい。
今回のロゴもいつどこでこの5つの候補になって、それがいつどこでこれに採用されたのか
その経緯がわからない。「業務連絡」に出ていたんですかね?)

同期の○○君が作ったロゴだから、同じ部署の○○さんが作ったロゴだから、
というのだったら自然と親しみも湧いてくると思う。
全く知らない人のが採用されても、「自分たちのロゴ」と感じることができるのではないだろうか。

今のロゴの何が嫌かといえば、そのデザインのいけてなさ、意味不明さよりも
得体のしれなさだ。僕にとっては。


[9] 銀行が近くにない・・・ 2000-12-26 (Tue)

新しい社員証はドアの前でピッとあてて鍵を開けるだけではなく、
キャッシュカードとクレジットカードとしての機能も持つ。
(リアルゴールドのような配色で相変わらずセンスが悪い。
滋養強壮剤系の社員証。だけどなんだか色づかいが疲れてる)

JCBから封筒が送られてきて、銀行口座引き落としの依頼書に押した印鑑が
銀行のお届け印と違うので押し直してください、とある。
僕は半年前に酔った勢いでカバンを振り回している間に印鑑をどこかに無くしてしまい、
それ以来シャチハタのハンコしかない。
それを押して提出したらもちろん駄目だった。突っ返されて当然だ。

電話して聞いてみたら、銀行口座届け出印の変更手続きをして
それから新しくその判を押して提出して下さいとカード会社の人に言われる。
めんどくさいなあ、もうちょっと早かったら、引越し前だったら
下のフロアが三和銀行だったからすぐできたのになと思う。
新しいオフィスになって、どこに三和銀行があるのかがわからない。
茅場町の駅の近くに2つ看板を見つけたが、どちらもただのATMだった。

昼休み、探し回って時間を使うよりは確実に知っている場所に行った方がいいだろう
そう考えて地下鉄に乗って日本橋まで行った。
出ていったのはたかだか先週のことなのに、なんだか懐かしい感じがした。

変更の手続きをしているときに、「この新しい印鑑での御利用は急がれますか」と聞かれる。
クレジットカードの申込手続きのためにすぐにも使うと僕は答えた。
その時窓口の女の人に「あ、東洋情報さんですか」と言われた。
(「ええ、そうです」と僕は言う。そしてこの会話はそれっきり)

なんでわかったのだろう?
1)口座の番号でわかる
2)2年間同じビルにいたことになるので僕の顔を見たことがある
3)僕のような理由で印鑑の変更をしたTIS社員がこの時期とても多かった

・・・たぶんそんなことはなくて通帳のどこかを見れば書いている、ということか。


[8] 茅場町1日目 2000-12-25 (Mon)

茅場町タワーに移って1日目。

僕はここには入社以来1度しか来たことがなかった。
しかもその1回はタクシーだったから、ビルの場所がどこなのかよくわからない。
僕以外の人たちは普通、慣習的にその場所を知ってるので
今回の引越しにあたっても「茅場町タワー」というビルが具体的にどこにあるのか
周辺地図を提示されることはなかった。
「おいおい、引越しっつうのはまず引越し先の地理について説明するところから始まるだろうが」
そう思っていろんな人にそのように主張するのだが、誰も相手にしてくれなかった。
「配慮が欠けてるぜ」僕はこのフレーズを先週1週間口癖のように繰り返していた。

…ということがあったので、朝茅場町の駅に降り立ったときに
「とりあえず先頭の車両に乗ってその改札を出ればいいよ」と聞いてて
そのようにしたものの、それでも出口が12個あってどこから出ればいいのかがわからない。
(隣の門前仲町のように2つしかないだろうと思っていた)
入社して配属当初の、初めてそのオフィスに向かうときのような緊張感
(を水か何かで3倍程度に薄めたもの)に僕は捕えられている。
テンパって「もおなんなんだよこれー」と頭に来るが、冷静になって考えれば
就職活動のときには初めての土地でどの出口から行けばいいのかわからなくても
なんとかその会社に辿り着いている。駅の地図と会社のDBから探した地図とを照らし合わせて
少なくとも逆方向ではない出口から地上に出る。

永代通りをまっすぐに進んでいく。太陽が目の前に低く輝いている。
その強い光に向かって人々がぞろぞろと歩いていくのだが、
風が強く皆コートの前を押さえている。ただ眩しいだけの、1日の始まり。

10Fのフロアへ。午前中はずっと引越しの後片付け。
ダンボールの中のものをキャビネットに移して、ダンボールをぺしゃんこにする。
昼を小島さんと食べに行くのだが、前々から聞いていたように
このビルの周りには食べる場所がほとんどない。
ソバ屋に入る。明日からはビルの入り口に売りに来ている弁当を買うことになるのだろう。

夜はコンビニの弁当を買って食べる。昼はまだいいのだが
夜は周りで食べ物を確保できる場所がコンビニだけになりそうだ。
立ち食いソバもない。これから僕はどうしていけばいいんだろうと途方に暮れる。
週に5日コンビニの弁当だったら、体がという以前に心にとってよくなさそうだ。

ビルの近くには何にもない。本屋がない。銀行すらない。駅前まで歩かなくてはならない。
フロアの自販機は1台だけ、つまり1社だけ。
日本橋なら食堂に行けばまだ他の会社のが選べたし、
4Fから階段を降りて地下のコンビニに行くか外に出ればいくらでもヴァリエーションがあった。
ああ、この点1つだけとっても日本橋は恵まれていたなあと僕はしみじみと思う。
ホームシック。

こっちのオフィスの良さは10Fからの眺めの良さであって、
窓からは川が見える。これからの僕は川を眺めることによって時間を潰すことになるのか。


[7] 22時19分に 2000-12-24 (Sun)

朝8時半に目が覚めた。
1週間分の新聞を拾い読みした。
ごはんを炊いて、昨日コンビニで買った高菜の油炒めを上に掛けて食べる。
家から送ってもらったシジミのみそ汁を飲む。
昼前。大家さんに家賃を払いに行って、契約を延長する話をして、
あと1年はこの部屋にいるつもりだと伝える。
それと、正月には青森に帰る話。

午後。Yシャツをクリーニングに出す。ボタンが取れたところがあったから、修理を頼んだ。
先週出したYシャツを受け取った。
その足で駅前の西友に1週間分のパンを買いに行く。
コンソメスープが目に留まって飲みたくなり、カゴに入れる。
帰ってきてからずっとホームページ作成の作業を行う。その間たくさんのCDを聞く。
洗濯物を干す。

部屋が薄暗くなったことに気付く。ごはんを炊いて食べる。
浴槽の掃除。ハンカチにアイロンをかける。
ホームページの作業。ASAYANを見ながらグレープフルーツを食べる。

平均的な日曜日。

---
本当なら、これで文章が終わるはずだった。
しかしそんなことでいいのか?他に書くべきことはないのか?
そう思って続けることにした。

つまり、今日はクリスマスイヴである。

僕はこれまで1度たりとて、この日を女性と過ごしたことはなかった。
それ以前に、女の子と付き合うということがこれまでなかった。
僕は2・3年前からそういう物事に対してあきらめの気持ちを抱くようになった。
駄目な星の元に生まれついたのだとしてあきらめてしまうことにした。

僕は当分、自分から積極的に「動く」ことはないだろう。
・・・失敗することが目に見えているから。
普通の青年が10代後半から20代前半にかけて体験することになる恋愛の多くの事象を
僕は経験してこなかった。そして20代も後半になってしまった。
世の中の同世代の女性はこういう人間を嫌がるのではないかと思う。
口では「そんなことないよ」と言うかもしれない。
でも心の底では無意識的に、あるいは意識的に避けようとするのではないか。

だから僕はたぶん、好きな人ができたら僕の方からその人のことを避けるようになると思う。

それでなくても、僕はこんな歳になっても恋愛に「慣れて」いないから
何をするにもぎこちなくなってしまうだろう。
そしてそんなかっこ悪い自分を見せたくはないから、
僕はその人に決して話し掛けようとはしないし、視線も反らしてしまうだろう。
何を話したところで後で後悔するだけだから、
その人が僕に話し掛けてきてもそっけない返事をするだろう。

そういう態度の方がむしろかっこ悪いものだということは理屈の上ではわかっている。
でもそれは考えたところでどうにかなるようなものでもないのだ。

いくじなし。
僕は当分、このように臆病なまま生きていくのだと思う。
これでいいのだろうかとふと考えることもあるが、
「ま、誰に迷惑かけるでもなし」という思いにやがて掻き消されてしまう。
音楽がそこにあって小説を読めればそれでいいから
これまで通りそういうことで時間を使い果たしていくことになる。
経験することのための時間がますます減っていって
その悪循環の中で僕の中の閉じこもっている部分は
より取り返しのつかない深みへと嵌り込んでいく。

…僕が女の子だったら、こんなやつは相手にしませんね。


[6] クラウス・キンスキー/イルミネーション 2000-12-23 (Sat)

昨日の2次会で映画がどうこうという話が出てきた。
そのせいか朝起きたとき、映画を見に行こうという気になった。
BOX東中野に「キンスキー 我が最愛の敵」を見に行くことにする。

軽い二日酔いでフラフラする。昨日、それが原料がなんで中に何が入ってようと
そしてそれが誰の注文したものであろうと、目の前にあったものを次々に飲んでいたせいだ。
普段なら絶対飲まない焼酎のお湯割りも飲んだ。

映画は70年代にニュージャーマンシネマの旗手と呼ばれて
突拍子もない作品を次々に放っていたヴェルナー・ヘルツォーク監督の新作で、
(そうだ、11月に代表作「小人の饗宴」を見に行ったんだった)
この監督の作品5本で主演して強烈な印象を残した今は亡きクラウス・キンスキーについて
監督自らゆかりの地・ゆかりの人々に会いに行って思い出を語るというものである。
ヘルツォークの作風というのはあらゆる意味で凄まじいと呼ぶにふさわしいものだし、
キンスキーも1度見たら誰だって忘れられないだけのインパクトを持っている。
この2人の組み合わせは見方によってはレノン&マッカートニーや
シド&ナンシー、あるいはボニー&クライドのようなものなので、
(あくまで)好きな人にはたまらない内容になっている。

ヘルツォークがマチュピチュ遺跡やプラハいろんなところに行って話を聞きだすのだが
男性の場合誰に聞いても出てくるのは一緒、
不機嫌になったときのキンスキーが誰彼構わず怒鳴り散らし、撮影の進行を妨げたということ。
一方共演した女性はたいがい彼は優しく紳士的だったと述べる。
結局は愛すべき厄介者だったということか。

「パリ・テキサス」のナスターシャ・キンスキーはクラウス・キンスキーの娘だというのは
本当のことなのだろうか。映画では一言も言及されなかった。もちろんインタビューもなかった。
そういえば妻を始めとして家族の証言が1つもなかった。どういうことなのだろう。

「フィツカラルド」の主役はジャック・ニコルソン他何人かの人物が降板した揚げ句
キンスキーになったのだが、一緒に船でアマゾンを行く「助手」役にキャスティングされたのが
ミック・ジャガー、そんな時期もあったという。
ジェイソン・ロバーズが「フィツカラルド」でミック・ジャガーが「助手」というバージョンの
フィルムが現存していてそれが一瞬映し出されるのだが、もう全然雰囲気が違う。
クラウス・キンスキーとミック・ジャガーの「フィツカラルド」ってことになっていたら
まず間違いなくトラブル続きで完成しなかっただろうが、
それでもこれはこれで夢の組み合わせ。見てみたかったなーと思う。

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映画を見に行った後、新宿・池袋で買い物をする。
「ゴドーを待ちながら」といった戯曲で知られるサミュエル・ベケットの40年代後半の小説
「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名付けえぬもの」この3冊が白水社から復刊されたので
池袋のLIBROで買っておく。今買い逃したら次いつ手に入るかわからない。
高校時代常に学年でトップの女の子がいて、直接話したことはなかったがとんでもなく頭がよかった。
僕よりも偏差値で言えば10から20は違っていた。ストレートで東大の文・に入った。
日本では他にそこしかないから、という感じだった。
彼女の書いた読書感想文が学校の何かの印刷物に載っているのを見て読んでみたのだが、
何が書いてあるのかさっぱり意味がわからなかった。
その彼女が好きな作家というのがベケットで、大学院に進学してその研究をしているらしい、
前にそんな話を誰かから聞いた。
なんだかそんなことを思い出した。

LIBROで来年の手帳も買った。

池袋もそうだが、新宿はクリスマス前の土曜日ということもあって
どこもかしかも非常に混雑していた。ユニクロが入場制限していた。
どこで買っても一緒のはずなんだから自分の町で買いなよと思った。
高島屋から紀伊国屋への通路、JRの線路を挟んで向かい側へと渡る橋、
この一帯がどこまでも続くイルミネーションで繋がっていた。

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夜、再び中野に出掛けて園子音監督の「自転車吐息」を見る。90年の作品。レイトショー。
開場まで時間があったから、アーケードをそのまま進んで中野ブロードウェーに入っていった。
ショッピングモールなのだが今日行った新宿高島屋・昨日行ったプランタン銀座とは
全然雰囲気が違っていて、時間がそこで止まってるような、もっと言えば時代遅れな場所だった。
どこのフロアも「まんだらけ」ばかり、不況でどんどんテナントが出ていってその分また
「まんだらけ」の新しい店舗がそこを埋めることになる、そんな図式なのだろう。終わってる。
サークルの後輩がここで働いているので探してみるのだが、夜の9時だったからどこもしまっていた。
3F・4Fでこの時間でも開いてるのはゲーセンだけ、そのゲーセンでも人はまばら、
高校生や社会人らしき人たちが活気もなくだらんとゲームをやっている。
侘びしい気分になって足早に立ち去る。
中野はごちゃごちゃした町で特に何があるわけでもなく、町全体が裏通りのような雰囲気。

「自転車吐息」は僕が学生時代何度か応募した「ぴあフィルムフェスティバル」で
グランプリを取った園子音監督がぴあのバックアップを受けて作成したもの。
そんなに面白いものではなかったが(もっと破天荒なものを期待していた。
そういう点では昔の作品の方が凄かった)、それでも
「センス」のある人はやっぱ違うなーということを実感する。うー。

この監督の最新作「うつしみ」は予告編を見るかぎりでは非常に面白そうだ。
是非とも見に行かなくては。


[5] 引っ越し/忘年会 2000-12-22 (Fri)

引っ越しの日。一日中荷物を詰めたりゴミを捨てたり。Tシャツ1枚になって過ごす。
カジュアルデーなので下はジーパン。上はジャージ。
学生時代に戻ってバイトをしているようで、気分がいい。
「こんなの絶対1日じゃ終わらないよなあ」と朝のうちは思っていたのだが、
チームによっては前の日から段ボールにせっせと詰め込んでいたせいか
タイムリミットが近づいても誰もテンパることなく、淡々とのんびりとやっていっても
時間内にある程度きちんと終わることができた。
業者の人たちがこれから朝までかかって搬出するらしい。

フロアの端に次々と段ボール箱が積み上げられていく。
個人の机の上もきれいに片付いていく。
壁に掛けられていたものが外されていく。
することのなくなった人は手持ち無沙汰になり、同じような人を見つけては雑談を始める。
人によっては(ネットワークが切断されても)ギリギリまで仕事をしている。
僕は3時頃一休みしてコカコーラを買いに行った。
夏のある日、痩せよう!と思って以来ずっと飲んでいなかった。
久しぶりに飲んだら炭酸が喉にきつかった。

---
忘年会が銀座で行われた。プランタンのB1Fのパスタの店。
始まりの時間よりも早めについて食料品売り場をブラブラと眺める。
デパートの地下は食料品、そのように相場が決まっているとしても
さすがプランタンだけあって野菜や肉や魚をそのまま売っているということはなく
輸入物のお菓子のコーナーがあったり、チーズやパテの店だったり、ワインの専門店、
総菜屋があっても小奇麗なメニュー、その他には手の込んだケーキを作る店がいくつもいくつも。
ああ、銀座って場所は生活感を漂わせてはいけない、よそ行きの場所なんだなあと実感する。

パスタの店はそのフロアの一角にある。
貸し切りにはなっているものの、入り口を閉じるような仕組みはなく
通り過ぎる人たちから丸見えになる。僕らの姿が見えるだけでなく、
「あ、なんだぁ今日貸し切り?」と残念そうに立ち去る2人連れもこちらから見える。
目の前にはデパートの食料品売り場が広がっていて
立食形式で歩きながら飲むビールはそれ自体シュールだった。
ごくたまに通行中の人と目が合って、
「ああ、動物園で餌を食べている動物ってこんな感じなんだろうな」と思った。

ここでも(というかほぼ1日中)僕はTシャツだけで動き回っていて、
フロアの反対側にあるトイレに行くときも上に何か着ていくようなことはしなかった。
普通の客が厚手のコートを着て歩いている中を僕は1人薄着。
しかもけっこうビールを飲んでいる。

初級シスアドの合格証書を皆が見てる前で部長から受け取る。
(たかがこれだけの資格でこんなことまでしなくてもいいのに、と思うが)
副賞があります、というので「おっなんだ?」と思ったら
それは部長からのキスだった。僕は部長に駆けよってヒシと抱きしめ、頬を寄せる。
部長が僕の頬にキスをする。唇の感触はなかったが、髭があたってチクチクした。

プレゼント交換があって、音楽が鳴る中を皆で輪になって
袋や包みを次々に隣の人に受け渡していった。
その時の音楽が社歌「GetReady」であって、このイベントが終了した後
僕はラジカセからCDRを取りだす、そして「これ聞くとむかつんだよ」つって
ぐにゃっとへし曲げて割った。パリッという音がして、欠片が飛び散った。
僕はほとんどシャレのつもりでやったのだが
このCDRはどうも総務から借りてきたものらしく、
僕は後で始末書を書かなくてはならなくなった。あーあ。めんどくさい。

---
その後、2次会(居酒屋)・3次会(カラオケ)へ。
カラオケの頃にはかなり人数が絞られたのだがその分盛り上がらず、
途中でもう今日はここでおしまいにしようということになった。
DG阪本さんとタクシーに乗って帰った。


[4] 引越し準備/最近のラーメン 2000-12-21 (Thu)

午後から引越しの準備を始めた。
キャビネットから所属チームの荷物を整理し、
机の中・机の上の本や書類をダンボールに詰め込んだ。
一気に全部片付けてしまった。もう何もない。
机の上はダンボールとPCだけ。
文房具は1本ボールペンを残しておき、メモ用紙代わりの紙が1枚。
PCは一切手付かずで、一段落してからいつも通りに仕事の続きを行った。

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夜、エレベーターで戸田さんと一緒になってマスタニラーメンを食べに行った。
相変わらず店は混雑していて、席に着くまでにしばらく待たされた。
チャーシューメンに味付け卵を注文した。
ここのラーメンはスープ(とんこつ)に特徴があるらしく、3層に分かれている。
上の層は甘みがあり、中間の層があっさりとしていて、下の層は辛さを持つ。
僕としてはそんな「うまい」というほどでもなかった。
ごちゃごちゃしてて今一つだった。

豚の背脂の浮いたラーメンはここ2・3年新規オープンの店でよく見かけ、
どれも食べてみて「ああ研究されているなあ」と関心はするものの
だからといってうまいかというとそうでもない。

個人的には味噌ラーメンブームが東京で起こってほしい。


[3] 夢のハワイ旅行 2000-12-20 (Wed)

給料日。新宿のHMVにCDを買いに行く。高島屋の方に行ってから、MYCITYの方に移る。
MYCITYではこの時期他のデパートでもよくやるように、買い物をした金額に応じてクジが引ける。
コンピュータの画面と「START」「STOP」ボタン。
特賞は海外旅行、A賞B賞C賞、ハズレ。3年前と2年前ともにC賞を当てたことがある。
AからCまでそれぞれ賞品が5種類用意されていて、
当たった人はその中から好きなものを自由に選ぶことができる。
3年前の僕は外国のマーマレードの瓶を、2年前の僕はハーシーのキスチョコを持ち帰った。
今年は3回引いてどれもハズレだった。去年のことは覚えていない。たぶんハズレだったのだろう。

これまで僕がよくしてきた話なのだが、僕はこういう抽選でハワイ旅行を当てたことがある。
2年前、1998年の夏、1ヶ月帰省したときに青森の駅前商店街の福引きで当たった。

青森に帰ってきた初日、駅前の繁華街を歩いているうちに
「そうだ、この1ヶ月の間に読む本を買おう」と市内で最も大きな本屋に入り、
分厚い各界クリエイターのインタビュー集みたいなのを見つけた。
レジでお金を払うと、抽選券を1枚くれた。
「ねぶた祭りセール」と称して8月の前半、駅前の商店街・デパートが合同で行っているものである。
僕は「まあ一応引いてみるか」と隣のデパートに入ってエスカレーターを上り、7F特設会場に向かう。
既に人々がうんざりするほど並んでいる。その列の1つに加わって順番を待つ。どうやら3角クジらしい。
そのデパートが主催する抽選ではなく、駅前商店街で買い物をしたら
どこでも同じ抽選券をもらえるというものなので、みんな10枚とか20枚とか箱の中から引いている。
それでもたいがいみんなハズレ、僕の横にいた人も前にいた人もティッシュを山ほど持ちかえっていた。

僕の番が来て「それでは1枚引いてください」と係の人が言うので
何も考えず、右手を突っ込んで最初に触れたのを取り出す。
開けてみると「ダイヤモンドツアー賞」と書かれていた。
僕は「確か2等が1万円の商品券でそれが当たったらいいな」ぐらいにしか考えていなかったから
特賞はハワイ旅行だということはわかっていても、それが何という名称で呼ばれるものなのか知らなかった。
係の人に恐る恐る「ダイヤモンドツアー賞と書いてあるんですけど」と開いたクジを見せたときには
「何だべこれ。ハズレの1個上だべか」程度の関心しかなかった。

係の女の人が上ずった声で「ト、トクショウ大当たりです」と大声で叫んだ。
周りのその他の係の人たちが大慌てで「ほら鐘、鐘。がらんがらんと鳴らすやつ。あれないの?」と探した。
その場にいた人たちがざわめき、どよめきたってこの僕を見た。
でもその時の僕は自分の身に何が降りかかったのかいまいちピンと来ていなくて、
ぼんやりと突っ立っているだけだった。多分顔色1つ変えなかったと思う。

あれよあれよというまに物事が進んでいって(残念なことにこの辺り全然覚えていない)
僕の手にはツアーの概要が記された小冊子から始まって何やかやいろんな物が入った封筒が手渡された。
僕はエスカレーターをどんどん下っていってどこかのフロアの人のいないところで(これも覚えていない)
封筒を開けてツアーの概要を調べてみた。この頃には僕も興奮し始めている。

愕然とした。ツアーは10月に行われることになっていた。
10月。その当時の僕を取り巻いていた状況は今よりも非常に複雑だった。
前々から9月に超大作の映画を撮影して、10月はその編集にあてる予定でいた。
それをずらしてもいいのだが、そうしたら修士論文の取り掛かりが遅くなる。
就職も決まっていたし、卒業できないということは避けたかった。
そもそも映画の方は「この作品であわよくばコンテストでグランプリを、
その勢いで会社もすぐ辞めてしまって」ぐらいの意気込みでいたから
ハワイ旅行なんて僕の今後の運命にとってかなりどうでもいいものだった。

その頃はそれだけでなく、母親の体調が思わしくなかった。
毎日通院していた。入院するかもしれなかった。
長期で入院ということになったら、妹は1年間海外にいるし
僕が付き添わなければならなかった。論文は青森でもなんとかなるが、
映画だなんて論外だった。そんな状況でハワイ旅行に行っても仕方がなかった。

その日の2日後には札幌にちょっとした旅行に出かけることになっていた。
何人かで大学の友人のところに泊めてもらい、うまいものをたらふく食べる。
僕は映画で使うための風景を撮るためにビデオカメラも持ってきていた。
「旅行」といえば僕にとってそっちの方が切実でリアルなものだった。

誰かに譲るべきかどうか悩んだ挙げ句、
母も妹も行けないし親戚にとなれば誰が行くかでもめるかもしれず、
僕はその権利を辞退することにした。その日のうちに決めてその手続きを行った。
特賞の代わりにと現金2万円をもらった。
札幌旅行の足しになるから、その方が僕としてはありがたかった。

青森市の商工会議所が主催で青森市の人ばかりが行くツアーというのがそもそも
あんまり面白そうなものには思えなかった。壮行式とかくだらん行事がありそうだし。
ツアーの集合場所が青森で、飛行機は仙台から出発というのもなんだかなって感じだった。
それでも大学に6年間行ってほとんどずっと暇だったのに
なんで、ああなんでこの時期に当たってしまったんだろうとは思った。

その後札幌に出かけ日々楽しく過ごした。
母は入院せずにすんで、9月からは予定通り映画を撮影した。
10月に編集をして11月からは本格的に論文に取り掛かった。
映画は僕としては120%力を出しきれて手応えがあったんだけれど、
コンテストではかすりもしなかった。
僕は今でも会社で働いていて、当分の間ハワイに行けそうな気配は全くない。


[2] 同姓同名の人が名古屋に 2000-12-19 (Tue)

先週の金曜に東CB以外の日本橋のビルに入っている部署が
みんな引越ししてしまったため、4Fはフロアの半分ががらーんとしている。
人事のあった3Fは扉が閉まって真っ暗になっている。
食堂を利用するのはビルの人や総務でまだ残っている人、それに東CB。
テーブルはどこも空いていて僕は1人ポツンと食事をとる。
テレビがいつものようについていて、ワイドショーをやっている。

---
infoseekで「岡村豊彦」を検索すると2件表示される。
1つは正しく僕に関する情報で、大学院のその年の修士論文提出者リストだった。
もう1つは同姓同名の全く関係のない人。
(日記をWEBで公開しますと宣言したところ芳崎統括マネージャーがこの2つを見つけ出してきた。
そうでもなければ僕は自分の名前を検索エンジンで探してみることなど思いもつかなかったことだろう。
やったことのない人は試してみると面白いかもしれない)

その同姓同名の人というのは名古屋の人で
<名古屋工業大学W37同窓会報告>のページの中に見つけることができる。
-----------------------------------------------------------------
岡村 豊彦 倉敷機械営業部長。囲碁3段。5キロジョギング。将来は名古屋に。
-----------------------------------------------------------------

と紹介され、

-----------------------------------------------------------------
38年ぶりに出席した岡村君、髪は黒々として、精悍な体格。
さすが今も第1線で活躍している若さがある。
「お久しぶりです。岡村です。若い頃はずっとドイツ駐在員を勤めてました」
-----------------------------------------------------------------

という記述が報告の中にある。たぶんもう60代の人なのだろう。

僕はこの人に興味を持つ。親近感、ではない。もっと別なもの。

「姓名判断」的に、どのような生い立ちでどのような岐路があって
今の人生がどの程度満足のいくものなのか知りたいと思う。
僕の人生に今後、あるいはこれまでどのくらいの可能性や選択肢が
ある・あったのかはわからないが、その1つを選び取った結果がこうだ、という
言葉は悪いがある意味僕の将来の姿の1つのモデルケースとして。
彼は「岡村豊彦」という人生の先輩である。

会いたいとまでは思わないが、こっそりどんな人か見てみたい。
この名前にはこういう可能性もあったのかと感じ入ってみたい。
僕は囲碁はわからないし精悍な体格ではないしドイツに駐在することもなさそうだ。
外見にもこれといって共通点はないだろう。

名前の由来も知りたい。僕は1月1日生まれでそれが豊臣秀吉と一緒だから
というので「豊」の文字が入ることになった。「彦」は女性の「子」みたいなものですね。

そして小さかった頃、若かった頃、どのように呼ばれていたのかも知りたい。
「岡村君」「岡村さん」以外に。
僕は「オカちゃん」「オカ」「オカヤン」「トヨ」「トヨちゃん」などと呼ばれてきたが
この人もそんなふうに呼ばれてきたのだろうか。

いや、やっぱり会ってみたいなぁ。


[1] ホームページ作成再開 2000-12-18 (Mon)

今日1日会社を休んだ。休んで何をしていたかといえば
夏ごろ作りかけたものの途中で放り投げてしまった、ホームページの製作。
朝から晩までずっと。
前のは素人がいろいろやろうとしてにっちもさっちもいかなくなってしまった。
今回は新しく作り直すことにして、差し当たっては
構成も書き込み型の最近の日記と過去の日記のアーカイヴ、BBSの3つに絞ることにした。

トップページを作って、アーカイヴの雛型を作って、
書き込み用日記とBBSをCGIレンタルの会社に設置してもらった。
プロバイダからホームページ公開サービス利用開始の通知が届き、
送られてきたURLに試しに今ある分のファイルを転送してみた。
ブラウザから自分のホームページを見ることができたとき、部屋で1人「おお」と唸った。
HTMLエディタを利用しても自分でつくったページは
レイアウトとか配色とかひどくいまいちな仕上がり。
「ああもうどーしよっかなあ。もっと時間をかけようかなあ」と悩んでいたのだが
いざブラウザから見てみると「あーこれでいっかぁ。いいやいいや」という気持ちになった。

志を低くしたら完成まで後もうわずかというところまで来ていることに気付く。
後はトップページにカウンターをくっつけるだけ。
年明けぐらいにまた他のページを作ることにする。
(この仕事について以来、ある種の完成形が最初から見えていたとしても
一気に全部遣り遂げようとするのではなく、
スケジュールの都合とかを考慮してまずは必要最小限の機能に限定した1次リリースを行い、
それが一段落してから機能拡張のために2次・3次リリースを行う、
そのやり方に体が慣れてしまった。小説を書くときにもそんな感じになってしまう)

日記を公開するとして、これまでの文章を
このままインターネットにさらしていいものだろうかということが気になった。
やましいことを書いてきたつもりはない。
他人のプライバシーに関してはスレスレの部分をこすってばかりだとしても
それなりに配慮して、「これは書いてはいけないよな」と少しでも思ったことは書かずにきた。
内輪受けもよほどネタがないかぎり排除してきた。
「こいつバカじゃねえか」と書くことはあっても感情的な誹謗・中傷は極力避けてきた。
会社の秘密をばらすようなこともしていない。
それでも、インターネットならどうなのであろうか?

これまでは公開といっても社内のDB止まりだったから
「岡村君、今日のあの部分削除してくれないかな」という依頼も1度しかなかった。
でもWEBにするとなった途端、「それは困る、私の名前は出さないでほしい」
と言いだす人もいるのではないだろうか。
うちの会社の名前を出すのはまずいかもしれないし、
顧客の名前を出すのはもっとまずいかもしれない。

でもまあ(←最近口癖になってしまった)
そんなにたくさんの人が見るでもなさそうだしな、「いらん心配に終わるだろ」とも思う。
僕と無関係の人がこのページを見つけ出して興味を持つようなことはそうそうないだろう。

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昨日は午後ずっと年賀状を作っていた。
今年はスキャナーがあるしPhotoShopもあるし、楽だった。
これまでのを思い出して照らし合わせてみても、かなりマシな年賀状を作ることができた。
親戚・大学院でお世話になった人・高校の友人など普段会うことのない人の宛先を書きながら
この人たちは今どうしているのだろう、たぶん普通に暮らしているのだろう、
そんなことをツラツラと考える。