[1646] 架空の土地の地図を描く 2005-06-12 (Sun)用事のない土日は部屋に閉じこもって小説を書いている。
気が付いたら、いろんなものを同時並行で進めていた。
・書きかけの長編小説1つ(半分ぐらい)
・書きかけの短編小説1つ(出だしだけ)
・書き終えて手直し中の短編小説2つ(そのうちの1つはこの前の土曜に一気に書き上げた)
アマチュアにしては頑張っている。
今抱えているものだけで作品集が1冊、(自費出版で)出せるだけの厚さになるなー、なんて思う。
以前友人の同人誌に載せた「ドライブ」もそこに加えて。
小説に関しては調子いい。非常に調子いい。
後はこれがいかにして日の目を見るか。
(自分のHPで公開とか、友人にメールで送るというレベルじゃなくて)
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小説を書く上で最近コツというか確実なことが1つ分かったのでここに書いておく。
それは、
架空の土地を舞台にした小説を書くのなら、
まずはその土地について地図が書けるぐらいに緻密な想像をしておくこと。
当たり前といえば当たり前なんだけど、
これができてない作家志望の若い人たちは多いのではないか?
少なくとも僕はできていなかった。
今更ながらリアリティーってもんは非常に大事だと思う。
もちろんこれはノンフィクションだといいってことではない。
どこまで想像力を駆使して1つの世界を作り上げるかということ。
安っぽいペラペラの書割のような背景をバックに展開する小説なんて
やっぱ誰も読みたくない。
現実の世界と作品の中の想像上の/虚構の世界とがどのような継ぎ目を持ち、
どのようにリンクしていくか。
小説の醍醐味の1つはそこにあると思う。
映画監督であれ、小説家であれ、はたまた絵描きであれ、もしかしたらミュージシャンであれ、
完璧な1つの「世界」「世界観」を提示できるかどうかが資質として1つのポイントとなる。
そこにその人の作家性というものが存在する。
そこで描かれる世界とは情報量が多くて
ひたすら細部が描かれていたらそれでいいというものではなくて、
シンプルに何もなくても、たった1つの確固たる情念さえ宿っていればよかったりする。
(しかし、その境地に達した人はどのジャンルであってもごく僅かである)
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そんなわけで僕も仕事から離れている時間の多くを、
今書いている長編小説の舞台となる土地についての考察/探索に費やしている。
ここにグラフィカルに地図を書くわけにはいかないので
箇条書きで、かなりはしょってざっくりと、まあこんな感じ。
□時代背景
・近未来の日本。西日本と東日本とに分割され、東日本は大統領制に移行している。
20年前に内戦が勃発したことが分割の原因となる。
□舞台となる土地
・そこは名前がなく、ただ単に「村」と呼ばれる。
・西日本の半島にある、海沿いの小さな村。
電車や車に乗って来るよりは、日に2本出ている定期船に乗った方が早い。
・小さな漁港があるため、主な産業は漁業ということになる。
・村の中心部に位置する小さな丘の上に「教会」があって、その裏には墓地がある。
・丘のふもとには村で最も栄えている通りがある。
酒場がいくつかあるぐらいで、村には
・通りのその中心には四辻があって、東の方には坂があって上った先に住宅街に出る。
西の方に歩いていってもやがて住宅街となる。
主人公はその西側の方にて以前「宿」を営んでいた家の一室を与えられる。
・村の北のはずれ、もう1つの丘を上っていった上に「病院」がある。
周りは半分を林で囲まれ、何もない。残り半分は小さな集落である。
こんな感じ。
でもまだまだ足りない。
実際に小説に描くかどうかは別として、もっともっと細部を想像/創造していかなくては。
その世界の中で呼吸して、いきていかなくては。
戻ってこれなくなってもそれでいい。
自分の描く作品世界の中で死ねるのなら、作家として本望である。
[1645] 祖母の七回忌 2005-06-11 (Sat)祖母の七回忌、祖父の二十三回忌、父の(1年遅れの)二十三回忌。
これら全て兼ねた法事が行われた。
親族、と言っても父の兄の家族と「立川のおばさん」とそれに僕のこじんまりとしたもの。
「七回忌」って何を着ていくものだろう?と困る。
ジーパンにTシャツでいいのだろうか?
まさか。でも喪服でもないだろう。
インターネットで調べてみるとどこかに、
四十九日以後徐々に喪服からくだけたものになっていきます、みたいなことが書かれていて、
間を取って普通のスーツを着ていく。
この間買ったばかりでまだ新品と言っていい、灰色の光沢のあるスーツ。
ネクタイも派手ではないけど明るめ。Yシャツは一応、白。
・・・行ってみたら僕以外みんなきちんと黒で、「しまった」と思う。
やはり黒が無難か。せめて黒っぽいスーツを着ていけばよかった。
久し振りに正座をして、焼香のときに足元がふらつく。
お経が読まれた後、副住職による法話。
諸行無常と縁起について。でも足が痺れて聞いてる側はそれどころじゃない。
祖母と、祖父と、父と、掛けることの列席者の分の大変な数の塔婆を裏の墓地に持っていく。
この歳になって初めて、墓には水をかけるものではなく
(よくわからないけどそういうものだと思っていた)、
きれいな布に水を含ませて拭いてあげるものだということを知る。
終わった後でみんなで食事に出掛ける。
こういうとき、僕はうまく親戚の人たちと話ができない。
引っ込み思案なところがクローズアップされる。
ビールをひたすら飲んで出来上がった頃に
話の流れが「おいしいもの」になって、そこからようやく話ができるようになる。
「光麺」だとか「大勝軒」だとかラーメン屋が話題の中心となる。
覚えているのは、
・久喜にとにかく量が多くて有名な蕎麦屋がある。この前テレビでも紹介された。
普通盛りを頼んでも、「山」盛りとなる。笑っちゃうぐらいに高い山となる。
それで500円ぐらいなもんだから、ちっともおいしくないのに行列ができている。
カツ丼もまた蓋が乗らないぐらいにうず高くなり、かき揚はハンパじゃなく「広い」らしい。
・上野というか御徒町、アメ横ガード下に有名な餃子屋があり。「昇龍」
とにかく餃子が大きいとのこと。
小さな店に行列の先頭から10人ぐらいずつ入れられ、
その10人が食べ終わると次の10人が、というシステムらしい。本当だろうか。
帰りは車で送ってもらう。
注がれるままホイホイビールを飲み過ぎ、かつ日ごろの疲れもあって、
家でCDを聞いていたら眠ってしまった。
いかんいかんと思ってロフトで横になったら目が覚めず、起きたらすっかり夜になっていた。
[1644] 僕の音楽遍歴 その9(高校3年@) 2005-06-10 (Fri)高校3年の時に一大転機が訪れる。
それは「輸入盤」というものの存在を知ったことだった。
そしてさらに、東京には「輸入盤をメインに扱う店がある」ということを知って愕然とした。
一切知らなかったわけではない。
あるということは知識として知っていた。だけどリアルなものとして認識できていなかった。
青森市に住んでいるとそもそも手に入るものは国内盤のみ。
中古CD屋にてたまに見かけるぐらい。
高2の頃、ジャスコの中の大きな家電の店の一角のCDコーナーにて輸入盤が扱われるようになった。
今でも覚えているけど、そこでは高校卒業までの間に
Roxy Music 「VIVA! ROXY MUSIC」と The Sugar Cubes 「It's It」そして
何の予備知識も無くジャケットに惹かれて 10000 Maniacs 「Blind Man's Zoo」この3枚を買った。
CDケースが縦長の薄っぺらい紙箱の中に入っている昔のアメリカ仕様でそのまま売られていた。
(青森市では売れるわけが無くて、その後何年か後には確か店ごと無くなった)
でもこれって、国内盤が出るぐらい有名な人たちのを売っているわけであって、
僕も普通の店に国内盤が見つからなくてレンタルにも無いからこれらを買ったわけであって、
気分的には青森駅 LOVINA の新星堂で国内盤を買うのとあまり変わらない。
高3の夏にとある事情で上京し、そこで知り合った人に教えられて
初めて渋谷のHMVに行ったときはテンパった。
夢中になって何時間も過ごした。
今の場所ではなくて、今はパチンコ屋になってしまった ONE OH NINE の地下にあった頃の話だ。
国内盤の出ることの無いアーティストのアルバムというものが
この世にはたくさんたくさん、たっくさん存在する。
これは17歳の僕にとっては衝撃的なことだった・・・。
その日上野から乗ることになっている寝台特急の時間はまだまだ先で、
1万円というお小遣いで何のCDを買うべきか真剣になって悩んだ。
Can 「Monster Movie」と Gangway のコンピレーションを買ったことは覚えている。
(Gangway のことは全然知らなかったが、HMVにて大きく扱われていたのでつい買ってしまった)
残り2枚がなんだったのかは今、思い出せない。
再度上京したとき、Can 「Soundtracks」「Delay」を買ったことは覚えている。
輸入盤の店はその後の僕の人生(というか金銭感覚)を大きく狂わせる。
輸入盤こそ扱っていなかったが、青森市には BE BOP という気の利いたCDショップがあった。
いいセレクションをしていたと思う。店の内装もおしゃれだった。
新町に本店があって、サンロードの中にもう1軒あって、
バブルの頃には小さな店をもう1件夜店通りに出していた。
この夜店通りの店はかなりセレクトショップ的な位置付けで、さすがにすぐ店を畳んでしまった。
でもこういう店があったおかげで、高校生だった僕はかなり救われた。
なーんにもなくて息詰まるような青森市で青春時代の前半半分を過ごしていた僕にとって
持て余す好奇心のアンテナをくすぐるようなものは他になかった。
もちろん当時にはインターネットなんてなかった。
そもそも情報というものが全国的に大きな、ざっくりしたもの以外に流通しないようになっていた。
ここではいろんなCDを買ったなあ。
大学生になっても帰省するたびにここでたくさんCDを買った。
ここでCDを買うという行為そのものが嬉しいことだった。
Can で言えば ALFA から出ていたボックスセットの3巻目
(奇跡の名作「Future Days」が入っている)が売られていて、高2の冬にそれを買うと、
1年後まで売れ残っていた4巻目を高3の冬に買った。
ビートルズのアナログの海賊盤もここで何枚か買った。
以前の回で万引きしたと書いたのは、もちろんこの店だ。
この店で埋もれてしまって返品されるよりは、
お金が全く無くても聞きたくて聞きたくてしょうがない僕が盗んででも聞くべきだと
そういう理由で、店に敬意を表しながら万引きをした。すいません。今謝ります。
BE BOP の作っていたフリーペーパーでは地元が誇る、
有名になりかける寸前のグループ Sing Like Talking の連載があったりした。
残念なことに僕が大学生の時にこの本店もなくなってしまった。
青森市に不況の波を感じるようになったのはこの頃のことだ。。。
僕の人生を狂わすもう1つの要素、中古CD屋は高校の頃の青森市には
市役所の近くの「佐々木レコード社」か
夜店通りの古本屋「ブックサプライ」ぐらいしかなく、
ここもまた定期的に通って珍しいものが無いか探した。
「佐々木レコード社」では Neil Young 「Weld」や Patti Smith 「Horses」を買った。
「ブックサプライ」ではほんと、いろんなものを買った。数え切れない。
閉店するつい最近に至るまで、帰省するたびにここをチェックしていた。
あ、あと「Black Box」とかいう名前のも1軒あったな。
夜店通りを転々と移転し続け、いつのまにか閉店した。
ここが確信犯的にマニアックな品揃えで、
たった1人きりの暗い感じの店長は相当ロックに詳しそうだった。
高2かの時期で他に言っておきたいこととしては、
法律上の規制かなんかで
全国的にレンタルで洋楽のCDが取り扱い不可になるというムードが一時的に高まったことだ。
僕にしてみれば死活問題だった。顔が青くなった。まじで。
その一方でいくつかの店では洋楽の在庫を1枚300円で投売りを始めたので、
僕は小躍りしながら買い漁っていた。
(その中の1枚にあったのが The Honeymoon Killers でそこから Crammed Disc への興味が始まる)
結果として洋楽のCDは取扱不可にはならなかったはずだ。
でもその後どこのレンタルも洋楽の新譜をあまり増やさなかったのは覚えている。
まあ結局は大学進学の時期だったので、
高2の僕が一大事と感じたほどの大した影響は無かった。
・・・振り返ってみると音楽しかない高校時代だった。
後は演劇部の部室にいるか、昼休みに大富豪をやってるか、家で勉強しているか。
それしかなかったから、ロックにのめりこんだんだろうな。
[1643] 無観客試合 2005-06-09 (Thu)疲れている。眠りたい。早く帰りたい。
ちょうどいいタイミングでサッカーの試合。
プロジェクトの若者たちはみな「サッカー見るんで早く帰ります」と宣言している。
僕も便乗して早く帰ることにする。
というか僕も試合を見たい。
来年ドイツで開催されるワールドカップへの出場が決まる大事な一戦。
普段とりたててサッカーファンじゃないとしても、
「や?見なきゃならんだろう?」という気持ちになる。
3月に北朝鮮にて行われた北朝鮮−イランの試合にて観客が暴徒化したことにより
FIFAの措置により第三国タイでの無観客試合となる。
こういったとき、これまでの北朝鮮ならば
その後の試合をボイコットするのではないかと思ったのであるが、
プロジェクト内の北朝鮮の事情に強いキムさん(仮名)曰く、
「そのようなことをしていたのではいつまでたっても強くなれないので、
国際試合を経験するためにもボイコットしないことを将軍様が命じた」のだそうだ。
家に帰ってきてテレビをつけてみるとバンコクの国立競技場が映っているが、観客がいない。
がらーんとしている。
なのにバンコクのホテルには大勢の日本人サポーターが押し掛け、
(朝のニュースでは「いてもたってもいられなくて、とりあえずタイまで来てみました」と語っていた)
代々木の国立競技場も満員となっている。
全体的になんだか奇妙な雰囲気。「おかしなもんだなあ」とつい口に出して言ってしまった。
試合が始まってみると「これはまるで練習試合か?」と錯覚してしまうぐらいに
非常に淡々としたものに感じられて、
サッカーが今のような人気の無かった頃に
たまたまテレビをつけたら試合がやっていたときのことを思い出した。
僕の子供の頃は熱狂的な応援団というものは存在しなかった。
観客はただひたすら、固唾を飲んで試合を見守っていた。
ここ10年の日本人サポーターの声援の大きさというのは神懸かっている。
多少インフレ入ってると思った。
淡々としているのは中田ヒデ、中村俊輔がイエローカード累積で出場できなかったというのもあって
どことなく華が無いように見えたというのもあるかもしれない。
(怪我で高原・小野も元からいないし)
ボールをキープしている率は圧倒的に日本が高いのに、
中盤にどことなく覇気が無いのか決め手に欠けて点に結びつかない。
無観客試合だとベンチの指示や選手同士のやりとりの音声が拾え、
より「リアル」な中継となるのではないかと言われていた。
確かにそのようなものとなった。
普段とは違ってあちこちに配置されていた大型のマイクが目についた。
(大きなライブやコンサートの会場ではマイクを様々に配置して音を拾う技師と
大きなコンソールを前にしてミキシングを行う担当の人がいるものだが、
こういうスポーツの中継でも大掛かりにそういうのが行われているのだなと改めて認識する)
激しくて鋭い、短い単語だけになった叫び声が時々耳に飛び込んでくる。
スタジアムには観客がいないはずなのに日本を応援する大合唱が聞こえてくる。
うねるような大きな声の塊が全てをうっすらと覆い尽くしている。
代々木の国立競技場の音声をミックスするという「演出」かと思ったら、
なんとスタジアムの外に集まった日本人サポーターたちによる声援だった。
すごいもんだな、と感心させられた。
終了間際、田中のパスを受けての大黒のシュートはよかったな。
キーパーをすり抜けて、映画の1シーンのようだった。
北朝鮮の選手たちはみな同じ背格好、同じ顔に見えた。髪形が同じだったせいか。
最後の最後に乱闘騒ぎを起こしかけてレッドカード。
怒りに肩を振るわせて退場するフォワードの選手をなだめようとする
同僚の選手の姿がなぜか印象に残った。
[1642] 僕の音楽遍歴 その8(高校2年) 2005-06-08 (Wed)高校に入って行動範囲が広がった。
あれこれ興味を持ち外に出かけていった、ということではなくて
ただ単に自転車通学で片道最速で40分かかったから。
(しかも青森市内ってなんかあるわけでもないし。。。)
いつも同じルートを行き帰りすると飽きてくるから遠回りしたり寄り道するようになる。
帰りに友達と一緒になるとたいがいそうなる。
そういう寄り道の一環としてレンタルCD屋回りに精を出す。
市内のありとあらゆるレンタルCDに通ってた。
そんな僕の趣味を知ってる友人たちから
「ちょっと遠いけどどこそこに新規オープンしたよー」と教えてもらうと
家とは全然反対方向だろうと行ってみた。
当たり前のことなんだけど店によって品揃えが微妙に違ってて、
ここにしかないCDってのがそれぞれどこの店にもあって、
そういうのの在庫のリストというかカタログが僕の頭の中で常に更新されていた。
県内有数の進学校に通っていても、偏差値の高さをそういうところに使っていたわけです。
その当時買ったり借りたりしたCDは(まだそんな枚数もなかったということもあって)
何曲目のタイトルは○○で、というのもきちんと把握していた。
今では信じられないが、当時の小遣いは5千円。
ほぼ100%レンタル代かCDに消える。
それに毎日、ジュース代として100円もらってた。
これもジュースは買わないで貯めておく。
10日我慢して1000円になるとCDを2枚借りに行く。テープを2本買う。
非常にストイックな生活だった。我ながら感心する。
そんな切り詰めた中で買ったり借りたりするCDだから
あれこれ悩んだ末のセレクションになる。自然と質が高くなる。
青春時代の有り余る情熱とエネルギーと時間を費やしてふるいにかけるわけだ。
なくなく諦めたものだってある。
あの当時が一番勉強になった。
自分で自分を、基礎から叩き直したというか。
90年から91年という時代に洋楽を聞き始めたわけなのであるが、
今思っても当時は特別な時代だったように思う。
イギリスではマンチェスタームーブメントが勃発、
アメリカではオルタナティブの時代に突入。
(僕が大学に入った頃、この2つの時代の激流がもたらした成果として
前者はブリットポップに結実し、後者はグランジへとつながっていく)
毎月のようにとんでもない新譜が発表され、レンタルしてもしても追いつかない。
お年玉はもちろんCDに消える。
The Stone Roses , Happy Mondays , My Bloody Valentine ...
Dinosaur Jr , Pixies, Sonic Youth, Nirvana ...
Primal Scream 「Screamadelica」なんて
ほんのちょっとしたタイミングの問題で当時聞けなかったんだよなあ。
お金が無いとか、借りようとしてもいつも貸し出し中だったとかで。
Rockin 'on では毎月のようにとんでもないニューカマーが現れる。
Ride の赤ライド、黄ライドってのが輸入盤で東京では話題になっているのに
青森ではもちろんそんなの聞けるわけが無い。
この2つが一緒になったコンピレーション「Smile」が発売されたときは嬉しかったなあ。
今でこそ時代を変える一大傑作として崇められている
Nirvana 「Nevermind」も My Bloody Valentine 「Loveless」も
Rockin 'on では合評扱いになってなくて、普通の枠扱いだったんですよ。
Nirvana の方には「売れそうだ」なんて書いてあったけど。
こういう新譜を割と多く扱っているレンタルが
青森市ではジャスコ・サンロードから観光通りを南へ、八甲田山の方に自転車で走って行くとあって、
あれはアコムがやってる店だったかなあ。とにかく通い詰めた。
ここにしかないCDってのがたくさんあって、僕にしてみればパラダイスだった。
店員の趣味だったのだろうか。
高3の途中ぐらいから新譜はどうでもいいような売れ選ばかりとなって、僕の熱意も冷めた。
話は前後するが、高1の冬から Rockin'on を毎月買い始める。
1月号で買い始めにはちょうどよかったのと、表紙が Led Zeppelin だったから。
しかもジミー・ペイジもロバート・プラントも痩せていた4枚目までの頃。
あの表紙じゃなかったら買ってなかったかもな。そして Cross Beat 派になっていたかも。
毎号がバイブルみたいなもので、全ての記事やインタビューを目を皿のようにして読んだ。
(今でも毎月途切れなく買ってるけど、会社員になってさすがに
ディスクレビューとインタビューを1つか2つぐらいしか読まなくなった)
そういう縁があったせいか(もしかしたら順番は逆かも)、
「ロックに詳しくなりたい」と思って買ったガイドブックの著者は渋谷陽一。
新潮文庫から出ていた「ロック―ベスト・アルバム・セレクション」
(これは今でも普通に買えるはず。何気にロングセラー)
この中で紹介されているCDの数々を目にして15歳の僕はため息をついた。
「こんなに全部買えない。。。」
自分が行きたかった場所の地図を与えられて
そのとてつもない広さと地形の多様さを知り、唖然とする。
その地名や解説の文章を読んでそこがどんなところなのか想像してワクワクする。
どれだけ時間をかけてもほんの少しずつしか探索の進まない自分をもどかしく思う。
最初から最後まで全てのページを一通り読んで、
高1の僕は「では、どこから聞き始めるか」と考える。
パンクに興味を持っていた僕にしてみれば77年以後のものが面白そう。
それ以前のロックは、特に60年代は、
ブルースの影響が色濃くて自分には無縁のものに感じられる。
あるいは単なるポップミュージックか。
70年代前半から半ばにかけてもそう。
例えば The Eagles 「Hotel California」は有名な曲なのでその名前ぐらいは知っていた。
でもアルバム通して聞いてみようとまでは思わない。
「ニューウェーブ」という言葉に僕は心を惹かれる。
パンク以後の、実験性の高い音楽。
たぶん僕がそのとき自分の置かれていた、
自分に対して抱いていた状況が反映されていたのだと思う。
何らかの屈折した思い、どことなくなんとなく感じていた孤独。
家族や友達がいても、自分の居場所がないような、何かが違うような、漠然とした不安。
転校を繰り返していた僕は
その地域で小さい時から育まれてきた友人関係というものに溶け込むことができない。
スポーツのできない子供だったのでそういうところで活躍もできない。
家に閉じこもって本を読むことが何よりも好き。
その本といっても四次元がどうのUFOがどうのという超常現象系ばかりだ。
そんな暗い小学生時代をなんとか乗り切り、
中学・高校と明るい部分も広がっていきつつも、
暗い自分は一皮剥くとすぐ下に広がっている。
今でもそれを引き摺っている。
「ニューウェーブ」の何がいいかと言えば、技術至上主義ではなくて、
若さゆえの衝動を元に自己表現しようとしていたことだ。
自分にしか為しえない、フリーキーで突拍子も無くて、寂しくて攻撃的で臆病な表現。
ギターを性急に掻き鳴らし、ドラムは例え下手であっても未知なるリズムを叩きつけ、
キーボードが虚無的なフレーズを奏でる。
最初のうちはイギリスを中心に XTC, The Cure , The Police といった
メロディーの際立っているものを聞いていた。
それがやがて The Pop Group, Gand Of Four, Wire, PiL といった
先鋭的なものへと重心が移っていく。
Mute と日本で契約していた Alfa が頑張っていたこともあって
Cabaret Voltaire や Throbbing Gristle や Einsturzende Neubauten の国内盤や
ボックスセットが出ていた時期だ。(音楽的な時代が異なるが、Can もボックスセットが出た)
こういうのを予約してでも買っていた若者は青森市では相当珍しかったのではないか。
アメリカのパンク・ニューウェーブを聞かなかったわけではない。
渋谷陽一の「ロック―ベスト・アルバム・セレクション」を見ていた中で
どうしてもこれが欲しいと思って、レンタルにも無くてCDを買ったのが
Television 「Marquee Moon」
官能的でヒステリックで繊細なギターの旋律、特に表題曲のイントロを聴くと今でもゾクゾクする。
「この世のものとは思えない、凄惨な音」と誰かが評していたが、全くもってその通りだと思う。
金属的で無機的で、それでいて人間的でどことなくつたない音の向こうに
ひっそりとした孤独が広がっていた。
[1641] 僕の音楽遍歴 その7(高校1年) 2005-06-07 (Tue)高校に入った頃から洋楽趣味が全開になる。
無駄に意味も無いところで変に潔癖な性格が災いして、
「これからはもう邦楽なんて聞くもんか」なんて心に固く誓ってしまう。
中学生時代にビートルズを聴き始めて一通り極めると、「次」を求めたくなった。
それまで洋楽に対して全く詳しくなかった僕が
ビートルズ以外に初めてレンタルCD屋で借りたのは
Led Zeppelin の4枚目と The Clash の1枚目。
なんとなく名前は知ってて、有名だったので「まずはここから聞いてみるか」と思った。
※なお、当時はほんとわかってなかったから、どうもこれが話題らしいと
コリー・ハート(懐かしいですね)を借りてきたりしていた。
・・・もちろん1回しか聞かなかった。
Lez Zeppelin の4枚目なんて洋楽初心者が初めに聞くもんじゃないよな。
余りにも完成度が高いんだけど、それが普通だと思ってしまった。
その前に聞いてたのがビートルズだったのでなおさら。
中学生で丸坊主で土日も学校のジャージだけを着て暮らしていた僕からしてみれば
とんでもなく衝撃的な作品だった。
「これがロックか!」「これがハードロックというものか!!」
でも、不思議なことにそこからハードロック・メタルに進んでいくことは無かった。
僕がLed Zeppelin で好きになった要素は
・音の強度、圧倒的な存在感(例「When The Levee Breaks」)
・ボンゾの叩きだす破天荒なグルーヴ(例「Misty Mountain Hop」)
・垣間見えるエスニックというかエキゾチックなフレーズ(例「Four Sticks」)
であって、
代表曲とされる「Stairway To Heaven」のギターソロがどうこうってふうにはならなかった。
(これまた不思議なことに)自分でギターを弾こうって気にもならなかったし。
分かる人には分かる話ですが、この例で上げた3曲ってどれもB面なんですよね。
普通4枚目って言ったらA面の
「Black Dog」「Rock And Roll」「Stairway To Heaven」なんでしょうけど。
これって象徴的なことだよなーと今ではしみじみ思う。
僕のその後の音楽的趣味をよく表わしている。
A面が王道サイドだとしたらB面は異物サイドとでも呼ぶべきものであって。
A面ももちろん好きだけどどうしてもB面の方に目が行ってしまう。
その後の人生において文学も映画も、どんな感じのものが好きですか?と聞かれると
「得体の知れないもの」と答えてしまうような人間となる、
もしかしたら分岐点かもしれなかった。
あるいは、ここで表面化した。
・・・なのでその後一通り Led Zeppelin を聞いてみて4枚目以外に好きなのは
7枚目の「Presence」だったりする。
一見つるりとした滑らかな手触りのハードロックなんだけど
最も訳の分からないアルバムだから。他のどのアルバムよりも底知れない闇が広がってるから。
得体の知れない凄みがあって、得体の知れないファンキーさがあって、
得体の知れない音の塊が鳴ってるから。
純粋に音楽的に聞くならば1枚目か2枚目ってことになるんだろうけど。
でも実は「Presence」を聞いたのは高3ぐらいで、
4枚目を中学生の時に聞いてそこからしばらく Led Zeppelin からは遠ざかっていた。
余りに圧倒的な完成度ゆえに「これ以上のものはないんだろうな」と
直感的・本能的に知ってしまったから。
そして今でも4枚目を聞いたときの衝撃を再体験したくて、
僕は手当たり次第に、普通の人からすると尋常じゃない量とスピードの音楽を消費しているのだと思う。
いろいろと聞いていった末に辿り着いた地点が Led Zeppelin の4枚目だとしたら、
幸福な音楽人生を過ごせただろう。
そして極め尽くした達成感ゆえに、ロックというジャンルから足を洗っただろう。
そういうことにはならなくて、僕はもう10何年も「悪魔に魅せられた」状態だったりする。
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その一方で The Clash の方は1枚目じゃ物足りなくて、
その後すぐ他のアルバムを次々と借りてきてテープにダビングした。
ブルーハーツ仕込みのパンク好きってのが根っこにあるから、
すぐにも親しみが湧いたのだろう。
Led Zeppelin の4枚目と並べるとものすごい両極端。
音が余りにも軽くて薄っぺらい。
でも、身近に感じて何度も何度も繰り返し聞いて生活の糧としたのがこっちだったりする。
出会いというものはつくづく奇妙なものである。
1曲目の「Janie Jones」のツッタカタッタ、ツッタカタッタというドラムの音を聞くと
今でも新鮮な、「ウォーッ!」という気持ちになる。
「White Riot」「London's Burning」というのが
曲の中身以前に概念としてかっこよく思えた。
ブルーハーツ並みに燃えた。
あれこれ聞いたけどやっぱこの1枚目の「白い暴動」だよな。今でもそう思う。
ストーンズ同様、「London Calling」の良さが分かったのは
やはり20代に入ってからだったりする。
「Sandinista」は今も昔も好きです。
2枚目は今も昔もピンと来ない。
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当時非常に「いい!」と思っていたのに
The Clash を聞いてたのってたぶん僕だけだったんだよな。高校の学年全体でも。
Sex Pistols は何人か持ってる人いたけど。
洋楽といえばメタル。
友人たちの多くがメタルを聞いていて、それ以外のジャンルには興味を持って無さそうだった。
なので「オカちゃん、これいいから聞きなよ」と勧められて借りるのは
Yngwie Malmsteen や Greate White などなど、
国と地域、時代を問わないコテコテのメタルの数々。
LAメタルよりはジャーマン系の方が多かったような印象がある。
借りたうちの半分は全然体が受け付けなかった。
なんというか、ハードロック・ヘヴィメタルの美意識の中に閉じこもっているもの。
今でも全然だめ。どれだけ音楽的な関心領域が広がっても。
残り半分は今でも聞いたりする。
Mr.BIG, Metalica, Whitesnake あと最近はさすがに聞かなくなったけど、
Pretty Maids とか。これらと比較するとあんまり知名度は無いけど、
Pink Cream 69 というバンドは非常にいい曲を書いていた(ただし2枚目まで)。
Metalicaの5枚目が出たときなんて「事件」だったなあ。
レンタルに並ぶと早速借りに行った。
「オカちゃん、あれ聞いた?」「聞いた聞いた!」ってな感じ。
今でこそ Metalica はロック界全体での大物で
Rockin'on で表紙になってもおかしくないぐらいだが、
当時はまだハードロック・メタルとそれ以外のロックは全然住む世界の違うものだった。
Metalica の5枚目がその垣根を越え始めた最初のアルバムだったように僕は記憶している。
その後 Faith No More のようなミクスチャー、
Jane's Addiction のようなオルタナティヴ、
Nine Inch Nails のようなインダストリアル、
さらに時代は下って Korn のようなヘヴィ・ロックが台頭してジャンルは融合しあう。
スラッシュメタルが人気を博し、例えば Anthrax が再評価されるようになる。
メタルを聞いてる友人たちのほとんどが軽音でバンドをやっていて、
文化祭となるとその手の曲の演奏をしていた。
僕は何度かそういうののビデオ撮影をした。
軽音の凄腕メンツが集まったバンドは確かこっそり学校を休んで
仙台で行われたアマチュアのバンドコンテストに出て、優勝した覚えがある。
80年代のハードロックの名盤はやっぱ
Guns N' Roses 「Appetite For Distruction」
高校の頃に借りて聞いた時には「勢いがあるねえ」ぐらいにしか思ってなかったけど、
今聞くとこれメチャクチャとんでもない。
どうしたらあんな曲が書けて、あんな演奏ができるんだ?
「Rocket Queen」みたいな曲、他では聞いたことがない。
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そう言えば中学校の時に洋楽って言ったら周りはユーロビートだったなあ。
特にヤンキー系の連中が聞いてた。
運動会でもユーロビートに合わせてみんなでラジオ体操系の踊りもさせられたもんだ。
今でもあるのかな。時々見かけるような気がする。
ユーロビートって結局なんだったのだろう?
位置付けとか意味合いとか実体ってなんだかよくわからない。
[1640] 僕の音楽遍歴 その6(中学校3年) 2005-06-06 (Mon)どういうきっかけなのかは覚えてないが、ビートルズを聞き始める。
英語の授業に役立つからなのかもしれないし、
洋楽を聞くということがかっこいいことに感じられたからかもしれない。
中1か中2の冬休みに「Past Masters」の Volume 1 , Volume 2
2巻組のテープを買ったのが最初。
でも最初のうちは聞かなかった。よくわからなかった。
そもそも英語の歌を聞くという行為の意味が。
それがある日突然ピンと来て、本格的に聞き始める。
本格的と言うとまああれだけど、要するに休みの日は一日中聞いてるような状態である。
中3から高1ぐらいにかけてがピークで、高3までは普通にヘビーローテーションだった。
どれだけ洋楽にのめりこんで詳しくなっていっても、1番はビートルズだった。
「Past Masters」を繰り返し聞いてた時期があって、それが物足りなくなってくると
中3ぐらい(89年ごろ?)には青森市内にもCDレンタルの店が増え始めたということもあって
アルバムをちょこちょこ借りてきてはテープにダビングするということを繰り返した。
受験も終わって合格してという春休みに
それまで聞いてないやつをまとめて借りてきて、全部揃った。
その中には62年のデビューの前の音源なんてのも入っていた。
最初の頃は何がオリジナルのアルバムだったのかがよくわかっていなかった。
たぶん中3のことだったのではないかと思うが、ひたすらビートルズについて学習した。
シンコー・ミュージックから出ているビートルズ関係の文庫を買っては読む毎日だった。
歴史や音楽観や発言やその他いろんな物事について。
青森市で手に入りそうなものは片っ端から吸収していった。
今となってはいろんなことを忘れてしまっているが、
当時はいっぱしのビートルズ博士の気分だった。
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それまでブルーハーツばかり聞いていてパンクな思想が身につき始めていた
僕はもちろんジョン・レノンに憧れた。
反抗的で、拗ねたところがあって、孤独で、普遍的な愛を求めていて。
ビートルズの曲の中でも、ジョンの曲ばかり好きになった。
ポールの曲は出来過ぎというか技巧的で、一言で言うと甘すぎた。
ジョンの曲は天賦の才能に導かれて作っているようなところがあって、
剥き出しの魂が込められているように感じられた。
後期で言えば「Revolution」「Don't Let Me Down」「Across The Universe」といった辺りだ。
(今では中期の「Day Tripper」「Girl」「Paperback Writer」の方に天才を感じる)
人間という未完成な存在が、神様に近付くためにもがいている、そんな印象を僕は受けた。
ジョン・レノンが死んだ日のことをなぜか僕は覚えている。
僕はまだ5歳で、幼稚園に通っていた。
テレビではずっとその暗殺事件について語っているか、
ビートルズの歴史を辿ってジョンの曲を流していた。
大勢の外国人がブラウン管の向こうで大声で泣いていた。
政治家とは別の、何か大事な人が死んでしまったんだなということが子供心に伝わってきた。
僕がその後ビートルズを後追いで聞き始めた頃には、神様は死んでしまっていた。
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高校生だったときに洋楽を聞いていた人ならば誰もがやるように、
僕もテープの編集ばかりしていた。
ビートルズのテープは死ぬほど作った。自分の好きな曲ばかり集めたやつの。
いつ作ったとしてもこういった曲が入る。思いつくままに上げてみる。
「Dear Prudence」「A Day in the Life」「Here, There, And Everywhere」
「Hello Goodbye」「Let It Be」「I Feel Fine」「Yes, It Is」「Help !」
「Something」「We Can Work It Out」「Sexy Sadie」「Julia」「Till There Was You」
「No Reply」「All I've Got To Do 」「Two Of Us」「I Want You」「Come Together」
1番好きな曲は「A Day in the Life」で、その次は「Dear Prudence」かなあ。
これは高校のときからほぼ変わらない。
「A Day in the Life」はもっとランクが低くて、
20代後半になってからかな。僕の心の中で No.1 になったのは。
中学生の時は「We Can Work It Out」が1番だった。今ではそれほど魅力を感じないけど。
「Yesterday」や「Hey Jude」といった定番は元からあんまり好きではない。
好きなアルバムで言えばいろんな変遷を経て、今では「Let It Be」だ。
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高校生までで余りにも聞きすぎたために、大学に入ってからは全然聞かなくなった。
今もほとんどというか全く聞かない。
嫌いになったかというとそういうわけではない。
結局のところ、ロック50年の歴史の中で最も偉大なグループはというとビートルズなのは間違いない。
いつかまた僕もビートルズに戻っていくのだと思う。
そしてまたテープを作るんじゃないかな。
そのときにはMDかCD−Rか、なんになってるかわからないけど。
それにしてもいつかビートルズのアルバムを全部揃えようと思っているのだが
(実は全部持ってなかったりする)
いつかデジタル・リマスターされるはずと踏んでいるのでずっと買わずにいる。
「Beatles 1」はデジタル・リマスターされた曲が収録されているので、
残りの曲全部もデジタル・リマスタリングされているのではないか。
それとも今現時点でもイギリスのどこかで延々と作業が続けられているのか。
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あと、よく書いてる話として、
「Anthology」も「Live at the BBC」も「Let It Be Naked」もみんな出る度に買ってたけど、
どれも1度聞いておしまい。何回も聞くものではないな。
「税金」だと思って毎回買ってる。
高校生の頃、青森市で手に入るビートルズのブートレッグを買い漁った時期がある。
正直に告白するけど、万引きすらした。
ほとんどがデモを集めたもの。主に「ULTRA RARE TRAX」のシリーズ。
「Swingin' Pigs」とかいうレーベルのもので
サングラスをして葉巻を吸ってる豚のイラストが描かれていた。
観客の声しか聞こえない、武道館公演のやつも買った。
ビートルズについて語りだすと、
特にアルバム1枚1枚のそれぞれの曲の話になると長いから、
とりあえず今日はこの辺で。
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ちなみに、ストーンズは
中学・高校の時には何がいいのかさっぱり分からなかった。
そのよさが分かり始めたのは20代に入ってからだ。
ゴダールの「One Plus One」を見たりとか、そんなんで。
今では断然ストーンズの方がいい。
あのダーティーでセクシーでワイルドで、だけど寂しがり屋で、
その裏返しでそっけなくてぶっきらぼうな感じ。たまらない。
男として憧れるのはやはりストーンズだ。
ビートルズは優しすぎる。
[1639] 幽霊 2005-06-05 (Sun)恋人の幽霊が現れた。
あれは午前0時になったばかりのタイミングだったと思う。
僕は部屋の電気を消してベッドに潜り込もうとしていた。
ふと見ると真っ暗な中に青い微かな光がぼんやりと漂っていた。
パチパチ、パチパチと静電気がはじける音がした。
空気がひんやりと張り詰めている。
僕の目の前にモヤモヤとしたイメージが浮かび上がって、次第にそれが鮮明になっていく。
それはやがて彼女の像として形をなした。
「像」と呼ぶのは、彼女の姿が完全に静止していたからだった。
静止画像のような、ホログラフのような、そんな姿だった。
両手は手の平をこちらに向けて胸の前で固まり、何かを探るような、あるいは、
何かを拒否するような、必死でガードしているような身振りを示していた。
その両目はここではないどこか別の世界の何かを見つめ、
何かを強く訴えかけるような、何かに困惑しているような表情を浮かべていた。
彼女は助けを求めていた。
「驚く」とかいう以前に、そのときは頭の中の何もかもが消し飛んでしまっていた。
僕は部屋の中で立ち止まったまま、凍ったようになってその像を眺めていた。
どれぐらいの間そうしていたのかはわからない。
彼女の姿は突然ふっと消えてしまった。
5秒間のことだったのかもしれないし、5分間のことだったのかもしれない。
部屋の中には暗闇だけが残された。
その日は彼女の命日だった。
その1年前に彼女は事故で死んだ。
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「彼女は何を訴えたかったのだろう?」
それからずっと、僕は考え続けた。
成仏できずに現世をさまよって、
実は常に僕の周りを、今、この瞬間にも漂っているのだろうか?
そしてこの僕に対して何かを言おうとしているのだろうか?
何を言いたかったのか。
それはわかるような気もするし、永遠にわからないような気もする。
彼女を突然失ったことに対する苦しみ、悲しみ。
その中を僕は1年間ひっそりと生きてきた。
周りの人に対しては何も変わらぬように接してきたつもりではあるが、
心の中では常に沈み込んだようになり、鬱屈したものを抱えていた。
時としてそれは暴発し、やり場の無い気持ちを押さえ切れずに眠れない夜を過ごした。
この世の中のあらゆるものを呪い、罵った。
そういったものの全ては、今思えば、実は僕を中心とした
あくまで僕のための感情だったことがわかる。
僕は彼女と向き合っているのではなく、僕自身と向き合っていた。
彼女の「幽霊」が現れたことで
僕はこの世界がもっと複雑なものであることを知った。
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この一件があってから、僕は彼女の写真を自宅の机の上に置くことにした。
それまでは彼女の写真の束を厚手の封筒に入れて引き出しの奥深くに仕舞い込んでいた。
取り出して写真立ての中に入れた。
一番いい笑顔の写真を選んだ。
僕は別に彼女の写真に話し掛けたり、同じように笑いかけたりするようなことはしない。
だけど、日々の暮らしの中で何かがあったとき、
悲しいとか苦しいとかそんな単純な言葉では捉えきれない、
複雑な気持ちに直面した時、彼女の写真を手に取って眺める。
[1638] 書き疲れた 2005-06-04 (Sat)昨日は作業工程の一区切りということで夜遅くまで仕事していた。
(今回のプロジェクトでは一区切りじゃなくても毎日遅いが)
まあ、日本 vs バーレーン戦にさえ間に合えばいいかと思っていた。
つまり終電で帰れればそれで十分。欲は言いません。
そんなふうな態度でいたら本当に遅くなった。
家に帰ってきて缶ビールを飲みつつ始まるのを待つ。
日本時間にして午前1時半開始という微妙な時間。
前半34分の小笠原の先制ゴールはばっちり目撃したが、
後半は30分ぐらいから眠ってしまっていて、
目が覚めたらジーコ監督の記者会見だった。
あちゃーと思ったけど、勝ってたからいいです。
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布団に入って10時ごろ目を覚ますが、眠くてたまらない。
母からの要望で、父が新聞社の青森支局で働いていたときに
お世話になった方々に本を送ってほしいとのことで、全部で3冊送ることになった。
まずはその3冊分の厚めの冊子小包用の封筒を駅前の西友の中の文房具屋に買いに行き、
部屋に戻ってその封筒に宛名を書いて本を入れた。
同封する手紙は前の晩は3通、帰ってきてからサッカーの始まるまでの間に書いてある。
そしてまた駅前の西友の中の郵便局に持っていった。
僕の父が死んだのが今から20年以上前で、
生きているならばもうとっくに定年を迎えている。
その当時一緒に働いていたか上司に当たる方たちであるため、皆かなりのお年となる。
今回の3冊の前に先々週1冊、やはり母からの要望で
当時の支局長だった方にお送りしたところ、長めのお手紙を頂いた。
ありがたいものです。
先月半ばにこれまでの人生でお世話になった方々に本を送ったところ、
何人かの方から丁寧にも手紙や葉書をもらって、叱咤激励された。
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昨日の朝、地下鉄に乗ってたら短編のアイデアが思い浮かび、
今日の昼から夜にかけてずっと書いていた。20枚いっきに。
まだまだ手直しは必要だけど、とりあえず書ききった。
思いっきり疲れた。
(よって、今、書くということが非常に苦痛)
風変わりなものを書きたくて始めたんだけど、
どっちかというと奇妙奇天烈なものになってしまった。
何かいても一緒なんだなあ・・・、と思ってしまう。
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夕方、突然空が暗くなり、いきなりバケツをひっくり返したような土砂降りに。
雨が降り始める前、空が黄色っぽい灰色に染まった。
[1637] GW中に見たビデオ 2005-06-03 (Fri)ゴールデンウィーク中に借りてきたDVDのメモを日記に上げるのを忘れてた。
今日は設計書納品の日でバタバタしていて何も書けないので、代わりにこれを。
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「ソラリス」
ソダーバーグ監督の方。
ソダーバーグだったらこのところの作品はいつも劇場で見ていたのだが、
この頃は仕事が忙しくて見に行くことができなかった。
アンドレイ・タルコフスキー監督のSF映画の超名作「惑星ソラリス」のリメイク。
というかスタニスワフ・レムのSF文学の超名作「ソラリスの陽のもとに」の再映画化というべきか。
最初ソダーバーグが「ソラリス」の映画化をすると聞いたとき、「ええー?」と驚いた。
この2つ、なんか全然結びつかない。
この後に撮られた「フル・フロンタル」「オーシャンズ12」と見ていくと
ソダーバーグは知的に、スタイリッシュに、どんどん洗練されていってるのがよくわかる。
だけどその分中身がなくなっていってるなあというのが正直な感想。
映画という手段を通して世の中の人々に訴えかけたいことってこの人にはもうなくなったのだろうか?
知的でスタイリッシュな作品でそこそこ面白いものになったらもうそれでいいのだろうか?
「セックスと嘘とビデオテープ」の頃には確かに何かがあったように思う。
映画として表現せずにはいられない何か。
それが「トラフィック」で頂点に達し、そこから先は明らかに下り坂。
なんだか残念だな。
うまいことはうまいんだけど、十分うまいんだけど、ただそれだけ。
その分存在感も、存在意義も小さい。
タルコフスキーの「惑星ソラリス」は作品そのものが哲学として成立していたが、
ソダーバーグの「ソラリス」は哲学について語っているだけの作品である。
結局のところは自殺した妻とその妻を忘れられない男の話。
ソラリス上の軌道を回る宇宙ステーション(現在)で起こる出来事と
地球(過去)で起こった出来事が重なり合うという趣向で、
「ソラリス」はただ単に背景、小道具でしかない。
感想や評価を検索してみたら「ソラリス」については誰も彼もがボロクソに言ってた。
タルコフスキーの「惑星ソラリス」は
(実は)原作者スタニスワフ・レムの意図していたものと違っていたようで、
レムは気に入らなかったらしい。
ソダーバーグのはさらにかけ離れていると思う。
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「カレンダー・ガールズ」
今度出る旅行記になぜかこの「カレンダー・ガールズ」の名前が出てくる。
しかも2回も。
行きの飛行機の中でやってたというのと、ドバイの空港の中でDVDを売られていたというので。
なのにまだ見ていない。見とかないとなー、と思った。
これまた公開時に見逃してしまった。ものすごく興味があった。
イギリスの片田舎の誰も知らないようなのどかな村が舞台。
最愛の夫を病気で亡くした友人を励ますために
その記念の品を病院に寄付しようというのをきっかけに
いい年をしたおばさんたちが集まって
地元の婦人会のカレンダーにてヌードになったところバカ売れ。
一躍有名になり、評判はアメリカにも飛び火してハリウッドにも呼ばれ・・・、
という実話を悲喜こもごも交えてさらりと描く。
これ、いい映画だと思う。
見ててとても楽しかった。清々しかった。
映画としてはイマイチな部分もところどころあるんだけど、嘘がなくて。誠実で。
奇をてらわず、何の迷いもなく「普通」になることを選んだのが成功している。
等身大の軽いユーモアでおばさんたちの奮闘振りをさらりと描く。
劇場で見てたら涙ぐんだかもなあ。
日々の生活に必要なのは
息詰まるような「常識」を打ち破るちょっとしたユーモアと
行動力、それをほんの一押しするささやかな勇気なのである。
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「猟奇的な彼女」
韓国のヒット作。結構話題になったと思う。
これは見に行くかどうか迷って、結局見に行かなかったもの。
見に行けばよかった!
やられた。
美人だけど変に正義感を振りかざしたり酒乱だったりで
突拍子もない行動を取るシナリオライター希望の女子大生に
妙に好かれてしまった優柔不断な兵役帰りの男子学生とが織り成すラブコメディー。
もう恐ろしくベッタベタで「なんだかなあ」と思ってしまうような展開も多々あるものの
これでもかこれでもかとベタに徹した分
最後の泣きの部分にすっと入り込める。
これ、泣くわ。
「何かお薦めの恋愛映画ないですか?」と聞かれることがあったら
僕は迷わずこの作品を挙げる。
そんな僕は屈折してる?
・・・というか恋愛経験に乏しい?
おばはんたちが韓流、というか「冬のソナタ」にはまった理由が
なんとなくわかったような気がした。
ストーリー物はやはり輪郭がくっきりしている方がいい。
今見ててどういう感情を抱くべきなのかはっきりしていて、
その感情を寸分たがわず抱かせるような演出がきっちりなされているということ。
変に曖昧な「芸術」など意識せず、観客を「乗せる」ことに命を掛ける。
笑わせるなら笑わせる、泣かせるなら泣かせる。
韓国映画はこの基礎体力がしっかりしている。
監督の感性やセンス、あるいはどこかの誰かのマーケティングだけでは
作品を作らないんだろうな。
なんといっても主演のチョン・ジヒョンがいいなあ。
「僕の彼女を紹介します」見に行けばよかった。
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話は変わるが、レンタルのDVDなりビデオを借りてくると
新作紹介として予告編が必ず流れる。
これって何のためのものなのだろう?
DVDでレンタルになっている時点で紹介されている作品もレンタルになっているだろうから、
「面白そうだな」と思ってもDVDを買うのではなくレンタルしてしまうのではないか。
そしたらあんまり利益にならないのでは。
そもそも作品がレンタルされたとき、
そのコミッションはメーカーに支払われるものなのだろうか?
支払うとしたとき誰がどれだけ借りたかってのは
店側の自己申告制になってしまいそう。
どういうふうになっているものなのだろうか。
[1636] 僕の音楽遍歴 その5(中学校2年A) 2005-06-02 (Thu)ブルーハーツ以外に当時僕がその他はまっていたのは
レピッシュとアンジー、ユニコーン、筋肉少女帯。
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ブルーハーツの次に好きだったのがレピッシュ。
僕の周りでは聞いてる人が結構多かった。
2枚目の「Wonder Book」が出て、ミニアルバムの「ANIMAL 2」を挟んで
3枚目の「Karakuri House」を出した頃。
「Wonder Book」は死ぬほど聞いた。
1曲目の「Our Life」がテレビのコマーシャルに使われ、
2曲目の「リックサック」がシングルとして話題になり、
それ以後の曲も捨て曲なしの一聴して耳に残る(というかこびりついて嫌でも忘れられない)曲ばかり。
僕は他に「爆裂レインコート」や「room」が好きだった。
なお、「Time Slip Boy」という曲は本当は「昭和生まれ」という名前だったんだけど、
昭和天皇崩御ということもあって自粛したという経緯があるようだ。
1枚目も「イージンサン」「Love Song」「Laura」「パヤパヤ」と名曲ぞろい。
ファンに最も人気が有るのは実はこの1枚目なのかもしれない。
そんで人気が最高潮になって出された(と僕は時代の空気を感じた)のが
3枚目の「karakuri House」
プロデュースはトッド・ラングレン。
当時はよく分からなかったけど、今だと素直に「すげー」と思う。
若さで押すニューウェーブ・スカ・パンクから
このアルバムで音楽的に一皮剥けて、
その後のレピッシュの方向性を定めた1枚目・2枚目とも劣らぬ傑作アルバム。
これがやっぱピークだったな。
当時なんかの電化製品のテレビコマーシャルにて使われた「Rinjin」が有名か。
変な曲(だけど名曲)ぞろいということではこれが最高潮。
その後は浮き沈みを経て今でも活動してるのが嬉しいところ。
若手バンドからの信任も厚い。
いつのまにか大御所になってしまった。
低迷した時期もあったんだけど、
「ポルノポルノ」「Q」と90年代後半に入ってまた名作を連発した。
エキセントリックかつウェットな部分を体現していた上田現が
まさかのプロデューサー業でのヒットにより脱退。
(↑「元ちとせ」ですね)
その後はさすがにパワーダウンしているように思う。
僕が中学校の時にはレピッシュのメンバーを主人公にした少女漫画もあった。
---
アンジー。
これもどういうきっかけで聞くようになったのか覚えてないんだけど、
3枚目の「蝿の王様」が14歳の頃だった。
当時の青森では深夜に「なんだわけ天国」という番組をやっていて、
水戸華ノ介が準レギュラーであるかのように毎週出ていた。
※この番組にはレピッシュも時々出ていた。
確か最終回スペシャルってのがあって、青森の海辺でフロントの3人が
アコースティックな編成で「イージンサン」を演奏した。
この番組は当時の(青森からすれば)最先端なロックを紹介する番組で、
高校2年頃にフリッパーズギターの「恋とマシンガン」かなんかのビデオクリップを見て
(白い服を来て白いベレー帽をかぶった小柄な2人 キャンバスを脇に抱えて美術館を歩き回るやつ)
「なんだこりゃ」と思ったりした。
青森には「渋谷系」なんて言葉はリアルタイムに届かなかった。
非常に玄人向きなバンドなので
どうしてこれが売れた(そんなには売れてないか)のか不思議に思う。
中谷のブースカのギターや水戸華ノ介のキャラクターってナチュラルにキワモノで、だけどカリスマ的。
曲は非常によかった。
唯一無二の雰囲気があった。
1枚目の「溢れる人々」は構成に語り継がれるべき名盤だ。
日本のロックの中でも最も「やさしさ」「正直さ」に満ちたバンドだったと思う。
---
ユニコーンは夜中9時頃にラジオ番組があって毎日欠かさず聞いてた。
メンバーが日ごとに2人ずつ入れ替わり立ち代り出てきて喋るんだけど
奥田民生が出てくることはほとんどなかった。
J-WAVE だろうと FM 東京だろうと NHK FM だろうと
僕はラジオというものを普段聞くことはなく、
この30年の中でもラジオを聞くという行為が日常的だったのは14歳のこのときだけ。
ただそれだけでも、特異な時期だ。
「オールナイトニッポン」の影響を僕は受けていない。
高校では聞いてるやつもいたけど。
「大迷惑」にて一躍「なんだこりゃ?」的に有名となり、
「服部」というこれまた人を食ったようなタイトルのアルバムでブレイク。
坂上二郎と一緒に歌った「デーゲーム」というシングルがあったりして、
とにかくやることなすことハチャメチャだった。
そんな意味で中学生にとっては非常にとっつきやすいバンドだった。
その当時のイメージのままで僕の中でユニコーンはいったん止まってしまって、
その後高校生の僕は日本語のロックは聞かない洋楽の時代に突入する。
今思うと非常に残念ながら「ケダモノの嵐」のリアルタイムに聞いてない。
名作「ヒゲとボイン」も名曲「働く男」や「素晴らしい日々」の入った「スプリングマン」も。
大学生になって後追いで聞いて、僕は涙することになる。
---
筋肉少女帯も大槻ケンヂのラジオ番組を当時聞いてた。
かなりしょうもない内容だったなー。
弾けもしないのに毎回ギターを弾いて曲を作ってたり。
「Sister Strawberry」に収録された「キノコパワー」「マタンゴ」で
なんだこりゃ?と気になりだし、遡って「釈迦」の破天荒さで、
その次のアルバムの「日本印度化計画」の無茶苦茶さで、
僕の心をがっちりと掴んだ。
さらにその次の「サーカス団パノラマ島に帰る」に収録された
「元祖高木ブー伝説」はお茶の間にも浸透して、
いつのまにか筋少は(確か)武道館公演も行うほどのビッグネームに。
バンドブームってこともあったんだろうけど。
ナゴム時代の曲を集めたアルバム再発されないかなあ。
ケラの空手バカボンと一緒だったか、空手バカボンとしてやったやつ。
なんか今思い出したんだけど、
NHKにて「バンドスタンド」という番組があって
旬のバンドを集めて各地でライブをやるというイベントが
2年連続ぐらいで行われた。
あれってよかったなあ。
普段テレビで見ることの無いマイナーなバンドも出ていて。
この番組で初めて動く姿を見たバンドがたくさんあった。
筋肉少女帯もその1つ。
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この時期(89年前後)他に書いておくべきものとしては、イカ天がブームだったことと、
女子中学生の間では光GENJIの人気がとんでもないことになっていたということ。
ヤンキー系の女の子ですら「あっくんがぁ」とか一時期言ってた。
あれは凄かった。。。
今30前後の女性の皆さん、あなたは誰のファンでしたか?
僕が解説するまでも無いがイカ天は Flying Kids や青森出身の「人間椅子」に始まり、
「たま」や意外なところでは Blanky Jet City, BEGIN, Little Creatures を排出。
スイマーズやブラボー、宮尾すすむと日本の社長などユニークなバンドも数多く。
僕もかなり興味を持ったけど、リアルタイムに音を聞けたのは「たま」だけだった。
意外に GLAY や突然ダンボールなんかも出てたんですよね。
「天才たけしの元気が出るテレビ」に出ていた「AURA」とか。
(↑もちろん毎週見ていた)
今では割と悪く言われている「イカ天」やバンドブームであるが、
青森という地の果てにも様々なバンドの話が伝わるようになったので
僕からしてみればとてもいいものだった。
[1635] 僕の音楽遍歴 その4(中学校2年@) 2005-06-01 (Wed)どういうきっかけなのかは覚えてないが、ブルーハーツにはまる。
「Train Train」がテレビドラマの主題歌になったとき?
いや、もう少し前から名前だけは知っていたような気がする。
その頃には音楽雑誌を時々立ち読みするようになっていて
「チェルノブイリ」のシングルが話題になったことや
「リンダ・リンダ」の存在は既に知っていたと思う。
とにかく生活の全てがブルーハーツ一色に染まる。
寝ても冷めてもブルーハーツのことばかり考える。
「パンク」というものに、「パンク」という概念に憧れる。
安全ピンの刺さったTシャツに中指を立てるようなパンクもそうだが、
もっと、なんというか、行動理念としてのパンク。
アンチテーゼ。この世に対するあらゆる物事に対しての。
表立っては反抗期らしい反抗期の無い、大人しい14歳の僕は
思春期特有の鬱屈したモヤモヤした気持ちをぶつける先を求めていたのだと思う。
何かがうまくいかないのなら、また別な何かに対して「ノー」と言いたくなる。
その「ノー」を具体的な行動にしたり、
誰かに向かって声に出して突きつけることができないから
その屈折した気持ちは内へ内へと向かう。
部屋の中で音楽を聞くだけになる。
ブルーハーツさえあればいい。
「何かについておかしいと思って、否定すること」を、肯定すること。
この世界では何が正しくて何が正しくないのか、教えられたような気がした。
(そして今でもそのときの気持ちを引き摺って、僕は生きている)
「Train Train」に至るまでの3枚のアルバムを入手して聞いた。
語録集である「ドブネズミの詩」を買って貪るように読んだ。
中学は坊主の学校だったというのに、マーシーに憧れてバンダナを巻いた。
中学2年の冬、ブルーハーツのライブと言うかコンサートに行った。
自分の意志で行くコンサートはこれが初めてだった。
全国ツアーの一環として青森市文化会館で行われた。
当時の青森市では1番大きな会場ではないか。
「チェルノブイリ」は「六ヶ所村」と言い換えられて歌われた。
ヒロトは痙攣しているかのように奇妙に体をよじらせたり、飛び跳ねたりしながら、
時々音程を外しながら歌っていた。
僕にしてみれば生まれて初めて会う、神様だった。
等身大の、2階の後ろの席で見ればやけに小さな、神様だった。
クラスの友人と2人で見に行った。
終わった後で、2人でずっとバスにも乗らず興奮したまま歩き続けた。
その頃僕は詩の真似事を書き始めていて、その「パンク」な詩を披露した。
バス代が足りなくて、降りるときに運転手に怒られた。
「人にやさしく」「終わらない歌」「リンダ・リンダ」「キスしてほしい」
「英雄にあこがれて」「チェイン・ギャング」「僕の右手」「青空」・・・
正直な話、今となっては一切聞かない。
客観的になれないってこともそうなんだけど、
はっきり言って「痛い」んだよな。いろんな意味で。
2枚目の「Young & Pretty」のマーシーの曲は聴き返してみたいのだが、
まだ当分僕には無理そうだ。
3枚目の「Train Train」で出会って、そこで終わり。
4枚目の「Bust Waste Hip」からは聞かなくなった。
僕が行ったコンサートでも「Bust Waste Hip」からの曲は先行してやっていて、
アルバムが出たときにももちろん発売と同時に買ったのだが、
なんだか自分の中でブルーハーツは終わってしまったような気がした。
初期パンクの衝動だけで闇雲に拳を壁に叩きつけて
「チキショー!痛てーよ」と言ってるような若々しいブルーハーツはいなくなって、
グループサウンズ的パンク、歌謡曲的パンクとしての側面が強調されたように感じられた。
今思えば音楽的には面白いコトを試みていたのかもしれないが、
15歳の悩める少年にとっては全然必要なものではなかった。
「情熱の薔薇」は何がいいのかさっぱりわからなかった。
5枚目以後はアルバムを買うことも無くなった。
解散したと聞いても「・・・そうかあ」ぐらいにしか思わなかった。
The High-Rows も聞かない。
街でかかってて「この曲いいかも」と思うことはあっても、
怖くて手に取れない。
とは言っても、今でもカラオケに行ったら絶対ブルーハーツの曲を歌ってしまう。
歌うというよりは叫ぶというかがなるというか。
他の人が入れてたらマイクをうばって勝手に全部歌ってしまう。
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深夜に放送されていたレナウンのコマーシャルでブルーハーツの曲が使われていた。
「リンダ・リンダ」のバージョンと
「キスしてほしい」のバージョンとを見たことがある。
派手に着飾った女の子が何人か出てきて、音楽に合わせて踊るというものだ。
実際の曲の発表順とは逆に、「キスしてほしい」の方がコマーシャルでは先だったように思う。
僕のブルーハーツ初体験はこれ。
衝撃だった。ものすごくキュートだった。
そうだ、売れ始めのブルーハーツというのは何よりもキュートでキッチュな存在だった。
[1634] 僕の音楽遍歴 その3(中学校1年) 2005-05-31 (Tue)中学校に入った頃から、いわゆる歌謡曲からバンドものに興味を持つようになる。
そうは言っても青森市の北の外れに住んでいる少年の元には
そんなに多くの情報が集まってくることは無い。
結局はベストテンやトップテンが頼りとなる。
クラスの女の子の中には「明星」なんかを読んでる子もいたが、
さすがに男の子の僕がそういうのを読んだりはしない。
中1の冬、お年玉でカセットテープを買いに行ったことをよく覚えている。
雪が降っている寒い日だった。
青森市の駅前の商店街にある「成田本店」の地下にある
「PAX」という小さなミュージックショップ(今でもある)。
86年から87年にかけての頃。
CDはチラホラと出回り始めぐらいのものでしかなく、
レコードもまだ売られてはいたものの、当時はカセットテープ全盛時代。
壁一面がカセットテープが埋め尽くされていた。
これからはバンドの音楽を聞こうとして僕は何を買うか迷った。
長いことウロウロしてあれこれ考えた末に2つに絞られた。
・TM NETWORK「Self Control」
・レベッカ「Poison」
どちらも当時かなり話題になっていたと思う。
どちらを買うべきか本当に迷った。決め手に欠けていた。
結局買ったのはレベッカの方で、特に理由は無かったように思う。
強いて言えば「Self Control」には
一躍 TM NETWORK が有名になった「Get Wild」が入ってなくて、
知ってる曲がないというのは心細かったからではないか。
ステージの上にコンピューターやキーボードを山のように積んで
囲まれた中で演奏する小室哲也を見て「なんだこれは?」と度肝を抜かれた。
その頃僕が最も興味を持っていたものが
いわゆるマイコンとかパソコンとかだったからものすごく気になった。
それでいて「Get Wild」がコンピューター音楽っぽいものではなくて
肉体的で疾走感がありつつもシャープな楽曲だったからその落差が印象的だった。
コンピューターやキーボードを山のように積むというのは何も
小室哲也が初めて導入したことではなくて
Y.M.O. が既にやっていたことなんだけど、その当時の僕は Y.M.O. なんて知らなかった。
「Rydeen」ぐらいはは聞いたことあっただろうけどね。
(それにしてもその後の、90年代中頃の小室哲也の活躍には驚かされた。
「業界をサヴァイヴ」って感じで。最近見ないけどどうしているのだろう?
どうでもいいが、華原朋美が同い年だということを知って最近複雑な気持ちになった)
そんなわけでレベッカと出会った僕は「Poison」の世界にどっぷりと浸かった。
雪が降り積もり外に出ることの無い冬休み、毎日毎日繰り返し聞いていた。
あのアルバム独特の暗くて儚くて、だけどグラマラスな雰囲気ってのが
僕の音楽的趣味の方向性の確立に一役買っていたように今では思う。
「Time」や「Rebecca W」ではなくて、あくまで「Poison」
他のアルバムももちろんいいんだけど、
出会ったのが「W」だったらあれほどまで好きにならなかったと思う。
その後遡って昔のアルバムを聞いていった。
当時青森市の安方の方の商店街に、元々はレンタルの店なんだけど
カセットテープをテープ代込みで千円ぐらいでダビングしてくれる店があって、
気の利いた音楽(ロック)がたくさん並んでいた。
元のテープの表紙や背表紙もきれいにコピーしてくれる。
そこに行く度に僕はワクワクしていた。
レベッカの昔のはそこでダビングした。
ボウイや尾崎豊や大江千里なんかも一緒に。
ボウイはかっこいいと思ったものの、それほどはまらず。
「Marionette」も、それの入っていた「Psychopath」も気に入っていたんだけど
まあなんというか僕にはかっこよすぎたんだろうな。
カセットテープで買った「Last Gigs」は一頃愛聴していた。
中学校の友人たちに貸したら回り回ってなかなか返って来なかった。
(それにしても「Instant Love」って昔から手を変え品を変え再発されすぎだよな)
なお、尾崎豊はあんまりピンと来なかった。
周りでは好きな人が多かったけど。
---
当時レベッカ並みに聞いていたのがバービーボーイズ。
チェッカーズを聞いていた従姉妹が次にのめりこんだのがバービーだった。
当時青森でもものすごく人気があった。理由はよく分からない。
新聞に毎週青森市か青森県のシングルチャートが載っているのだが、
その年は1年間ほぼ1位をバービーボーイズが独占していた。
「なんだったんだ!?7 days」の次が「女ぎつね on the run 」で
さらにその次が「チャンス到来」入れ替わり立ち代り1位を奪取。
かっこよかったなあ。。。
時々僕は書くんだけど、バービーボーイズって日本語ロックの
ある意味頂点の1つのバンドだと思っている。
今でもそう思っている。
なんでもっと評価されないんだろう?
男女の色恋沙汰しか書かない歌詞って
あの頃はそれが当たり前のように思って聞いてたんだけど、
当時のロックでは他に無かったし、今に至るまでありそうでなかなかない。
あのレベルまで徹底したものは。
それにあのギターのフレーズ、楽曲のセンス。
(前にも書いたし、キリがないからこの辺でやめます)
ライブを見てみたかったバンドの1つだ。
「Break」「Listen !」と「Black List」は今でも普通に聞ける。
思い入れもたぶんに有るんだけど、
20年近く経った今でも全然色褪せてない。。。
それと同時に80年代後半の雰囲気も真空パックされている。
明日書くことになるブルーハーツの方がもっともっとのめりこんだんだけど、
今となっては聞くことがない。
だけどバービーなら普通に聞ける。
[1633] 僕の音楽遍歴 その2(小学校後半) 2005-05-30 (Mon)アニメの主題歌、というかアニメそのものへの興味がたぶん小学校5年生ぐらいに無くなる。
この頃「ベストテン」や「トップテン」といった番組を見始める。
こういうのって鶏が先か卵が先かという話に近い。
アニメに興味が無くなったから見始めたのか、
それとも歌番組に興味を持ち始めてアニメから卒業したのか。
見始めたきっかけはご多分に漏れず、クラスで話題になり始めたため。
今の小学生たちにとってはどうなのかわからないけど
歌番組を見るのが一般的になって、話題として大きな位置を示し始めるっていうのは
1つの境界線を超える行為だったように思う。
純朴な子供から、思春期への入口というか。
誰それが誰それのことを好きになってどうこうという1番の話題に双璧を為すものとして
歌や歌手、特にアイドル的な歌手・グループの話題があったように思う。
表裏一体。分析してみれば絡み合うものがあるはず。
(それはまた別途)
「トップテン」は日本テレビで月曜の午後8時から、
「ベストテン」はTBSで木曜の午後9時から。
「トップテン」は放送時間帯にリアルタイムに見ていて、「ベストテン」は見ていなかった。
たぶん9時にはベッドに入る健全な子供だったからだと思う。
(とにかく夜更かしさせない方針の家だったので今でも深夜は弱い)
中学校に入るか入らないかの頃にようやく我が家でもビデオを買ってからは
89年の放送終了まで欠かさず、録画した「ベストテン」を毎週見た。
確か「ベストテン」が終わった直後になぜか
「トップテン」の方も引き摺られるようにして放送終了したんだよな。
これはこれで1つの時代の終わりを表わしていたように思う。
この手のランキング形式の番組は例えば「カウントダウンTV」に引き継がれていったわけだけど
やはり何かが大きく違うと思う。
なんというかバブリーな盛り上げ方というか。やらせでもなんでもありの。
毎週が一種の祭りだったように今となっては感じられる。
受け取る側もそりゃ大変なもので、
今週の1位は○○だろうか、それとも××だろうかと結構ハラハラさせられていた。
4週連続1位とか5週連続1位の曲が出てくると「うわーすごいなー」と素直に感動していた。
そう言えばどちらの番組もランキングってのは実は厳密なものではなくて、
レコードの売上枚数や番組に寄せられたハガキの数や有線でのリクエストが元にはなっているものの
割と恣意的なものだったと解説されているのをつい2・3年前にどこかで読んで、
「そうだったのか・・・」とほろ苦い思いをしたことを覚えている。
一喜一憂していた僕ってなんだったのだろう。
小泉今日子の曲が1位に返り咲いて「すげー」と思ったとか、
光GENJIがそれまでほとんどなかった初登場1位を成し遂げたとか。
そんなわけで僕も歌番組を見始めたわけなのだが、
1番最初にはまったのは恥ずかしながら「C-C-B」
最初に買ったレコードというかカセットテープは「C-C-B」のアルバムで
「Romanticが止まらない」と「スクールガール」が入っているやつ。タイトルは「すてきなビート」
クリーム色がバックのジャケットでメンバー5人がなぜか組み体操をしているというもの。
ただ単純にきっかけは「ベストテン」を見始めたその日に
「Romanticが止まらない」が出てきたというだけのことなのだと思う。
卵から孵ったばかりのヒヨコが目の前に合ったものを親だと信じ込んでしまう
「刷り込み」のようなものか。
そこから先は寝ても冷めても「C-C-B」だったねえ。
「C-C-B」の新曲が何位になるかってのは一大事だった。
親戚に会った時にお小遣いやお年玉をもらったりすると即行で C-C-B のカセットテープを買いに行ってた。
(そんで親からも親戚からも呆れられていた)
写真集を買ったりもしたなあ。で、学校に持っていて女の子たちに見せて。
「Lucky Chanceをもう一度」「空想Kiss」とか
歌謡曲としてはなかなかよかったと思う。
ブレイクする前にロート製薬かどこかの目薬かなんかのコマーシャルで使われた「瞳少女」もいい。
「僕たち NO-NO-NO」って今聞いてもいいアルバムなのではないかと僕は思っていて、
「ジェラシー」という曲はシングルになってないけど名曲だと思う。
C-C-Bのラジオを当時聞いていたらファン投票で並み居るシングル曲を差し置いて1位になっていた。
「トップテン」に登場するたびに毎回その演奏をラジカセで録音していた。
こういう番組では口パクで実際には演奏してないどころか
歌ってもいないのが常識ということは露知らず・・・。
中学校に入った時にそのテープを友人に聞かれてしまって思いっきり笑われてしまった。
正月に親戚が集まっているときにテレビを見ていて、
C-C-B が出る番組があるとわかると泣いたり拗ねたりまでしてチャンネルを変えてもらった。
思い出したくないというか、思い出されたくない過去だ。
---
C-C-B 以外に当時を振り返って思い出すとなるとやっぱチェッカーズかな。
世を挙げて空前のチェッカーズ・ブームだった。
出すシングルは全て1位になって、主演映画が作られて。
1つ上の従姉妹が非常にはまっていた影響で
僕もそのアルバムを何枚かテープに落としてもらって聞いた。
親戚の家に行くともうそればかりかかっていた。
僕らの世代の人なら誰だってあの当時の曲はそらで歌えるはず。
この間もカラオケで「ジュリアに傷心」が大合唱になった。
後は中森明菜かなあ。
「飾りじゃないのよな涙は」「ミ・アモーレ」「Desire」とヒット曲を連発していた頃は
それこそ「歌姫」の称号にふさわしく、
それがその後ああいう、なんつうか有為転変を迎えるとは。
小学生の頃の僕には予想もつかなかった。
今の若い人には想像もつかないだろうな。絶頂期の中森明菜の凄さっていうのは。
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今、amazon で調べてみたら今から10年前にボーナストラック追加で再発されたCDが
中古でプレミアがついていて、
「すてきなビート」¥5,478
「僕たちNO-NO-NO」¥6,138
となっていた!
それにしても、ベストテンやトップテンではチェッカーズや中森明菜の陰に隠れていて
「あんまり売れてない」という印象を当時は持っていたけど、
あれだけ売れれば十分立派だよな。今思えば。
[1632] 僕の音楽遍歴 その1(幼年期編) 2005-05-29 (Sun)昨日、音楽系のライターをやっている大学の先輩とあれこれ1日かけて音楽のことを話した。
話していく中で僕のこれまでの人生において
どういうときにどういう音楽と出会って、どんなふうに興味を持って
どんなふうにその知識を深めていって、今それらの音楽についてどう思うか
辿っていくことになった。
せっかくの機会なのでそのことについて書いてみたいと思う。
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僕が小学校一年生のときに交通事故で亡くなった父親は音楽の好きな人だった。
音楽と言ってもクラシックではなく、ジャズやロックでもなく、
平たく言うと演歌だった。
コブシのきいたド演歌というよりは、歌謡曲よりの演歌だった。
フォークというのでもない。
うまく例は挙げられないが、八代亜紀とか小柳ルミ子とか寺尾聰とかその辺ではないだろうか。
世はカセットテープ全盛の時代で、
たくさんの色とりどりのカセットテープが父の机の上にはあったと思う。
歌うことが何よりも好きで、自分で歌ったのを吹き込んだテープもあったはず。
ギターも弾いていた。
父は新聞記者だった。
テニスも得意で家には会社の大会で優勝したときのトロフィーがたくさんあった。
父の使っていたギターとカメラとテニスラケットを僕は形見として持っている。
そのどれか1つでも興味を持てばよかったんだけど、
不思議なことにそういうことにはならなかった。
スポーツマンだったところは受け継がれず、歌のうまさも遺伝しなかった。
でも、まあ、音楽好きなところは何がしかの影響を受けているのだと思う。
よほど複雑な事情があって歪んだ家族に育ってない限り、
まだ幼い息子は「父の好きなもの」に対して何かしら興味を持つものである。
父は自分が歌手やカラオケのカセットテープを買うとき、
そこに僕や妹もいるならば時々
アニメの主題歌や童謡の入ったカセットテープを買ってくれた。
20何年も前の大型のラジカセで
(それは僕が中学生になってミニコンポを買う・買ってもらうまで10何年以上現役だった)
それらのテープを擦り切れるぐらいに聴いた。
たぶんこれが原体験なんだろうな。
外で遊ぶような活発な子供ではなく、家の中にいることを好んだ。
テレビでアニメがやっていない時間ならば
アニメの主題歌の入ったテープを聴いた。
どういうのが入ってたかはさすがに覚えていない。
アニメだったら「ボルテスX」「マジンガーZ」「ガッチャマン」とかその辺だと思う。
あるいは「花の子ルンルン」とか。「タイムボカン」シリーズとか。
75年頃から80年代初めまでのもの。
「ドラえもんの歌」や「ぼくドラえもん」、
「青い空はポケットさ」や「ポケットの中に」(名曲ですね)といった
ドラえもんの主題歌大全集みたいなのがあったのは確か。
後、ドラえもんで言ったら大長編の「のび太の宇宙開拓史」の音声部分を
そのまま収録したテープも買ってもらったことがある。
当時はビデオなんてものもなく、あったとしても買えるほど裕福な家庭ではなく、
このテープから流れてくるセリフや音楽や効果音を聞いて
実際の映画を思い浮かべたものだ。
武田鉄矢が作詞した主題歌「心ゆらして」もいい曲だった。
大長編ドラえもんに関するテレビ番組にて
「今度の主題歌はどういう感じにしましょうか?」というのをテーマに
藤子不二雄の2人が武田鉄矢と対談をしていたことを僕は今でも覚えている。
こういうテープを僕はいつまで聞いていただろうか?
青森市に住んでいた幼稚園の頃から
むつ市に引っ越した小学1年生の頃までは確実に聞いていた。
父が死んで青森市に戻ってからは聞かなくなったかもしれない。
ただ、アニメが好きなことには変わりはなく、
主題歌をテレビからラジカセで録音することは続けていたように思う。
いくつかのテープの中から
お気に入りの曲を集めたテープを作るようなこともしていたのではないか。
(そんな気がするのだが、そこまでしてないような気もする。正直分からない)
80年代半ば。「ボトムズ」とか「バイファム」とかその辺り。
トランスフォーマー系の変形ロボットが何よりも大好きで
おもちゃと言えばそういうのばかり欲しがった。
寝ても覚めても変形ロボットばかり考えていた。
デパートのおもちゃ売り場に連れて行ってもらうとずっとそればかり眺めていた。
小学4年ぐらいまでか。
ようやく買ってもらった小さなロボットを持ち込んでベッドの中で遊んでいた
パジャマ姿の僕はそのロボットに関する架空のアニメを想像し、
架空の主題歌を作っては真夜中に1人歌っていた。
(続く)
[1631] 銀座、晴海界隈で音楽を語りつくす 2005-05-29 (Sun)27日金曜日は仕事が割りと早めに終わると会社の人たちとカラオケに行った。
3時間か4時間か浜松町のビッグ・エコーにいた。
酔っ払った僕はいつどんなふうにしてカラオケボックスを出て電車に乗ったのか
その辺全然記憶なし。
眠りこけて目が覚めたときには中央線の終電で武蔵小金井だった。
愕然とする。
タクシー乗り場は長蛇の列。かなり長いこと待たされた。
荻窪までタクシーで引き返して4500円。
非常に無駄な出費で自己嫌悪。
下りて速攻で道端にゲロを吐く。
---
大学の先輩に音楽系のライターをやっている人がいて、
「自分に負けず劣らずCDを買っているオカムラに話を聞きたい」ということで
1日かけて銀座〜築地〜晴海〜月島をブラブラ歩きながら音楽の話をする。
先輩は「Music Magazine 増刊 ザ・ゴールデン 80's」というので
いくつかのバンドのディスクガイドを手がけ、
最近の仕事としては「別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評」のシリーズの1つ
サンボマスターにて原稿を書いている。
銀座山野楽器の前にて13時に待ち合わせをして、
札幌に本店を持つスープカレーの店「スパイスピエロ」にて食べながら話す。
黒カレーのスペシャルという骨付きチキン、牛タン、オクラ、茄子、ラビオリ
などが入ったカレーを食べる。割とうまい。
皮付きのジャガイモがゴロッと丸ごと入っている。
先輩は何か調査していることがあるようで、ノートを開き、
「14歳のときに何を聞いていたか?」と質問される。
88年から89年にかけて。
ブルーハーツに熱中してビートルズも聞き始めた頃。
世間的には暗黒の80年代が終わろうとしていて、
イギリスでは Second Summer of Love が到来、
アメリカでは Pixies が Sonic Youth が Dinosaur Jr. が・・・、とグランジの下地が作られ、
日本では空前のバンドブーム。イカ天なんかがあったり。
そんな世の中の流れが普通にテレビのニュースを見ているだけでは
一切伝わってこない青森市に住んでいた14歳の僕は
どこで音楽を聞いて、どんなふうにロックというものに興味を持ち詳しくなっていったか。
(この辺のことは書きだすとキリがないので明日改めて書こうと思う)
店を出て歩き始める。
銀座4丁目界隈は歩行者天国だった。
築地に向かって歩いていく。
ところどころ公園や川縁のベンチやデニーズで休みながら
勝鬨橋を渡り、晴海トリトンスクエアに入ってみたり、
火力発電所や緑地帯を眺めつつ晴海通りをぐるっと回って鉄橋を渡って月島へ。
(橋の上からは朝潮運河に浮かぶ古びた漁船や屋形船やボート、船着場の寂れた家々が見えた)
月島ではもんじゃ焼きは食べず、焼きトンの店を見つけてそこに入った。
「タマヤ」という名前の店で、なかなかよかった。
1日10本限定の豚トロの串焼き他、全種類の串焼きを食べた。
イカのゴロ焼きもおいしかったし、ホタテの山葵和えもおいしかった。また来るぞ。
そんな感じで1日を過ごし、店を出たら23時を過ぎていた。
実に10時間近く音楽の話をしていた。
会話を試しに(わかりやすいところで)いくつか再現、再構成してみる。
「Scritti Politti の1枚目ってCDになったんだっけ?」
「ついこの間『early』っていうのが出てましたよ」
「1枚目が出る出るって言って結局出なかったんだよな」
「『Cupid & Psyche 85』って80年代の音として完全無欠でしたね」
「日本のミュージシャンはみんな影響された。バンドものだけじゃなくて」
「歌謡曲が特にそうですよね。・・・あれだけ完璧なのを作ってしまったら
その後のアルバムがつまらなかったのも仕方ないですよね。
Miles Davis が吹いてるってのもあったのに」
「Steely Dan が一流のスタジオで一流のミュージシャンを雇ってやってたことを
Scritti Politti は手軽に自宅の一室でやってたというような雰囲気があって、
それがミュージシャンに受けたのかもしれない」
「そう言えば Steely Dan がアメリカで大受けしたのは
一見知的でクールで洗練されたゴージャスな音のようでいてジャズの影響が強いんですけど、
そのジャズって言うのも彼らが子供のときに見ていたテレビ番組でかかっていたような
B級のジャズの方で、なんてことを評論化が言ってて
一皮向くとそういうのが隠れてるってのがたまらないんでしょうね」
「昔のCDが再発されないってことで言えばまずは Virgin か。
Van Der Graaf Generator の国内盤って中古屋でも全然見かけないよな。
あと、A&M」
「Supertramp なんてのも A&M でしたよね」
「商売する気あるんだろうか。
Burt Bacharach と Carpenters がカタログにあればそれでいいんだろうか」
「Squeeze もそうですね。そういえば『リアリティ・バイツ』って映画あったじゃないですか、
あれで主人公たちが冒頭で車に乗って『Tempted』を歌ってて。
「『Tempted 』を?マジで?」
「要するに向こうでは、アメリカでもイギリスでもものすごい大物で。
一時代を象徴する。日本とは違って」
「もったいないよなー。日本盤が出ないのって。
今再発されてないのが最も多い時期ってのはCD出始めの頃の音源。
例えば町田町蔵で言うと、最初LPで出た INU の『メシ喰うな!』はCDで再発されるけど
80年代半ばぐらいのLP/CDの切り替えの時期に出たのって
なかなかCDで再発されない。日本のロックはそういうのばかり。
「『どてらいやつら』の辺りですね」
「まあ、町蔵のは最初宝島からカセットブックで出てたってのが状況を難しくしてるんだろうけど。
WAVEがレーベルやってた頃のも手に入らない。
Compact Organization のはみんな入手不可。Mari Wilson とか」
「Mari Wilson 僕すごい欲しくて探してるんですけど見つからないんですよ。どこ探しても」
「あー俺、WAVEで出たやつなら全部持ってるよ」
こんな話をずっとしてた。
デニーズで隣のテーブルに座った男性5人組は車のパーツのオタクの集まりだったようで
各自持ち寄ったファイルや昔のカタログを集めたバインダーを大事そうに広げていた。
「うわー・・・」とか思ったんだけど、
今考えてみたら僕らも同じようなものだった。
都内の中古CD屋で No.1 は中野ブロードウェイのレコミンツで意見が一致する。
(レコミンツに置かれた「裸のラリーズ」はさらなる高値をつけているという)
お薦めの中古CD屋を聞いたら、
明大前の「モダンミュージック」と神保町の「タクト」と「ジャニス」
その他、覚えている話。
・R.E.M. の音楽って捉えどころがなくて、何がどういいのか具体的に説明できない。
「Out Of Time」で91年にビルボードの1位になったけど、
その後ロックで1位になった作品が出て来るのは何年も後のこと。
そのとき1位になった作品っていったいなんだったろう?
・90年代末に椎名林檎に夢中になった人って言うのは
80年代末に筋肉少女帯に夢中になった人と同じタイプではないか。
・The Cars のビデオクリップって質の良さで有名だけど、
あれはあくまで MTV 出始めの頃に斬新だったというだけで
今見るとそんなたいしたことはない。
・The Velvet Underground のアルバムではどれが好きですか?というので
その人の人間性が分かる。
「Sister Ray」が入っている2枚目と即答した僕は妙に納得された。
(ちなみに、1枚目の1曲目の「Sunday Morning」は新宿高島屋のエレベーターにて聞いたことがある。
67のリリース当時は見向きもされず、その後伝説化/神格化。そして今、ミューザックと化している。
1つの音楽の辿る足取りとしては相当不思議なものである)
・同じような話として、音楽には関係ないが、
ドラクエVIでビアンカとフローラのどっちと結婚したかでやはりその人の人間性が分かる。
そりゃもちろんビアンカだよなあという話になる。
が、ビアンカを選ぶ人は実生活で結婚が遅れる傾向にある。
フローラを選ぶ人は例えば、ドラクエで言うならば戦闘がうまかったりで、そつがない。
・僕の思い出。
中学校時代にヤンキー系の女の子の家に行ったら
部屋の中に置いてあった20枚ほどのCDの中に唯一あった洋楽は TOTO の「聖なる剣」
このエピソードだけで当時 TOTO がどれだけ売れていたのかよくわかる。
今日のお礼に、とお土産にもらったCDは Jackie Mittoo という人の
「Jackie Mittoo in London」というもの。
さすがにこの人のことは知らない。
(調べてみたらジャマイカのオルガンプレーヤーで有名な人だった)
Mari Wilson のアルバムと小沢健二の「壊れる前」のシングル(「ある光」など)を
譲ってもらう約束をする。マジで頼みます。
家に帰って、amazon で町田町蔵の「どてらいやつら」を中古で購入。
7000円という値段がついていた。。。
---
先輩はわざわざ僕のホームページの「購入したCDのリスト」を
最初から全てプリントアウトして持ってきていた。
「どうしてここでこの時期にこれを国内盤の新譜で買うかね!?」
などと「ヘタな小説を読むよりよほど面白い」とのお褒めの言葉を頂く。
[1630] ドイツ100枚の素晴らしいポスター展 2005-05-27 (Fri)丸ビルにて「ドイツ100枚の素晴らしいポスター展」というのが先週から開催されている。
入場無料だし、せっかく丸の内で仕事してるのだからと昼休みに見に行ってきた。
http://www.marunouchi.com/doitsu-poster
何か用があって丸ビルに足を踏み入れるのはこれが2回目だったりする。
これまでとんと縁が無かった。
1度目はもう2年か3年ぐらい前に展望台(?)に上ったとき。
ポスター展の会場は2階から4階のショッピングゾーンの中にあって、
この部分をウロウロするのはこれが初めて。
昼休みを過ごす会社員たちや観光客で賑わっている。
明るさとか知性とかクールな雰囲気とかそんなのがむせ返るぐらいに満ち満ちていて、
一言で言って活気がある。いいなあと思う。
僕もこのビルで働きたい。。。
ここで働いている人たちが素直にうらやましい。
3階に上がってみると「マルキューブ」というロの字型のアトリウムの壁に、
カラフルだったり構図が大胆だったりで人目を引くポスターがずらーっと並んでいた。
ドイツの現代のグラフィックデザインの秀作たち。
今年は「日本におけるドイツ年2005/2006」ということになってるようで
(なんか毎年毎年、フランスだったりイタリアだったりするものなんだなあ)
その一環として行われたようだ。
「物を書く」ことを日々続けていく中で
モチベーションやエネルギーを低下させない、
あるいはインスピレーションを得るという意味で
こういう展覧会にふらっと入って斬新なデザインを目にするのは非常に効果的。
あちこち出かけていろんなものを見たり聞いたりするのも大事だけど、
俗に言う「クリエイター」たちが生み出した優れた作品に触れるのは直接的な強い刺激になる。
仕事で疲れた心もリフレッシュされる。
図録が買いたかったんだけど、
ドイツのオリジナルの展覧会用に作成されたのを輸入した物で
1冊も5000円もするので諦めた。
というかこういうポスターのどれでもいいから、自分の部屋の中か会社の壁にでも貼りたい。
こういうものに囲まれる中で日々の生活を送りたい。
そう思う。
---
丸ビルというと、いつだったか
牛にまつわるオブジェが周辺にたくさん飾られているのを
たまたま通りがかったときに目にしたことがある。
あれも海外の名のあるアーティストの作品を集めたものだったように思う。
(わざわざ「牛をテーマに」ということで新規に作成させたものなのかもしれない)
---
丸ビルまで歩いていくとき、2階建てのバスの2階部分がルーフトップ
(こういう言い方するのだろうか?屋根が無いってことなんだけど)
となっているバスを見かけた。
今日みたいな天気のいい日に乗ってたら気持ちよさそうだった。
ポスター展の帰りに、丸ビルの隣の三菱ビルの1階が
ちょうどそのバス乗り場だということを知る。
パンフレットをもらう。
皇居を中心にぐるっと回って50分のコースらしい。
いつか天気のいい日に乗ってみたい。
[1629] 「29」社内上映会 2005-05-26 (Thu)昨日の夜、映画部の公式イベントとして「29」の社内上映会を行った。
映画部ということにはなっているが、
「29」は映画部結成前に作った僕の1人プロジェクトみたいなもの。
その辺ちょっと微妙なんだけど「ま、いいか」と思う。
上映にあたっては、本社1階のプレゼンルームという大きな会議室を借りた。
楕円形型に席が配置されていて、
5個のプロジェクターが5箇所にあるスクリーンに映像を映し出すという
正にプレゼン用の部屋。普段は社外の顧客を招いて、といった場合に使う。
「借りる」と書いたけど、これまでは社内制度上、業務でしかこういった会議室は利用できなかった。
それを今回僕はあちこちに問い合わせをして部活動でも借りられないか働きかけを行った。
結果として社内制度が変わった。
ほんのちょっとしたことでしかないが僕が社内の仕組み・ルールを
いい方に変革したわけで、なんかこういうのって気分がいい。
定時後、常駐先から竹芝本社に戻ってきて準備を始める。
プレゼンルームはAVシステムが完備されている。
1つのコンソールで全て集中的にコントロールできるようになっている。
スクリーンの上げ下げ、何種類かある照明の調整、上映ソースの切替などなど。
プロジェクターは5個、それぞれ全然別な映像を出力できるようになっていて
至れり尽せり。
ここに僕が持ってきたビデオカメラを接続する。
が、赤白黄色のコードを所定の外部入力の端子に繋いでも映像も音声も出てこない。
初心者でもすぐ利用できるようにマニュアルも用意されていて
あちこちコンソールをいじってみるもののうまくいかない。
設置されているビデオデッキの入力端子に差し込もうとしたら黄色の映像のが無くて、
映像のはSの端子か同軸ケーブルの端子しかない。
逆にビデオカメラにはSの端子がない。
試しに赤白の音声のケーブルをつないでみたら音だけは出てきた。
でもこれじゃ意味が無い。
結局全方位スクリーン5台上映を諦め、
大型のテレビの前にみんなでギュッと集まって鑑賞することになる。
せっかくのプレゼンルームがもったいない。
こんなことならビデオテープに落としたものも用意すればよかった。
予定より30分遅れで上映開始。
僕は一番後ろに座って、みんなどんな感じで見てるのだろうと気にしながら鑑賞する。
眠ってたり下を向いて暇そうにしているのを見かけるとやはり、
「ああ・・・」と侘しい気持ちになる。
個人的で暗くて取り止めが無くて抑揚に欠けて、何よりも長ったらしいから、
まあ多くの人にとっては面白いものではなかっただろうな。残念ながら。
次回作は「短くて明るくて笑えるもの」と思うが、果たして作れるだろうか・・・。
その後、中央線の終電ビッチリまで飲み続けた。
そういえばプレゼンルームを出るときに
スクリーンを上げ忘れて出しっぱなしで帰ってしまった。
怒られるのかな。
[1628] the end of the world / world's end 2005-05-25 (Wed)世界の終わりについて書きたくなった。
世界の終わり、世界の果て。
いつの頃からかわからないが、
僕はこの2つの概念にずっと魅了され続けてきた。
大学生の頃だっただろうか、それとも高校の時からか。
突き詰めると僕の書きたいものはこの2つでしかないのだと思う。
孤独。絶対的な孤独。
見方を変えるならばそういうことなのかもしれない。
誰もいない場所に、誰もいなくなった場所に、1人でポツンといること。
その光景。
耳を覆うような静けさ。
朝も昼も夜も無い。
そこは常に鈍い色の力の無い光で満たされている。
そして一日を通してその光に変化は無い。
時折、緩やかな風が吹いている。
そこはプラスチックとアルミニウムの混合体のような無機的な平原なのかもしれないし、
人気の無い砂浜なのかもしれない。
地平線の果てまで続く草原。
地平線の果てまで埋め尽くされた高層ビルの群。
僕は1人きりでただ、歩き続けるより他にない。
歩き続けて、疲れきって、ポケットに両手を突っ込んで、佇む。
この世界はある日突然終わってしまえばいいのだと思う。
生きている人々には何の苦しみも無く、プツッと途切れてしまうような。
その次の瞬間から何もかもが消えてなくなって、
無/虚無だけが広がっているというような。
(そもそも「無」というものに広がりはあるのだろうか?)
それでいいのだと思う。
そして。
今、自分のいる場所は常に、「世界の果て」なのだということ。
逆に自分のいる場所こそが常に「世界の中心」だと考えるような人もいるが、
そういう考えは僕に言わしてみればゾッとする。寒気がする。
疎外感?
ただ単にそういうことなのかもしれない。
あるいは、違和感。
この世界に対して本質的に抱く違和感。
誰もがそれを意識的に、無意識的に、感じているはずだ。
感じなければ、嘘だ。
正直な生き物として、誰だってそいつに対しては目を背けたくなる。
そしてそれゆえに
そいつに対していかに対峙したか、
しっかりと目を見開いてそこに何を見たか、
自分という存在の中に何を見出したかで
その人の価値が決まる。
僕はそう思っている。
違和感と、そこから派生的に生み出される孤独と。
孤独という名前の薄暗い何かが
古びた体にツタのように絡み合って覆い尽くそうとする。
僕らはいつだって、寄る辺ない気持ちで1人きり生きている。
この余りにも巨大な「世界」というものは
僕らを優しく、あるいは優しさの裏返しとして無関心を装いながら
そっと迎え入れているようなフリをしている。
そして僕らは喜んでそれに、そいつに、騙されようとする。
そんな世界は、なくなってしまえばいい。
いっそのこと僕1人だけになってしまって、
敗北者の烙印を押されて、罪人のように永遠に彷徨っていたい。
そういうこと。
そしてこの世界が終わることはない。
僕らは中途半端に生き続けて、
ある日突然中途半端に死んでしまう。
[1627] コード化、情報量、ネーミングルール 2005-05-24 (Tue)5月頭より、とある成長著しい勢いのある会社に常駐している。
オフィスは丸の内、東京国際フォーラムの裏のビル街の中にある。
ロの字型のフロアが細かく区切られてその中に企業がテナントとして入っている。
その区切られた中の1つの大部屋が
顧客の本社の会議室ルームということになっていて、
その中の最も大きな空間の1つを何ヶ月か借りきって仕事をしている。
会議室ルームには大小様々なミーティングスペースがあって、
それぞれ「丸6左4橙」「丸6右8緑」などと名前が付けられている。
(そんで僕らのいる部屋は「丸6右12」となっている)
ここで働き始めてからすぐ、「名前を表わしている」ということはわかったが
どういう意味なのかまでは完全に把握できなかった。
・「右」「左」は会議室ルームの入口から見たときの、そのミーティングスペースの位置を示す
・右端の「色」はそのミーティングスペースに設置された椅子やテーブルの色を示す
・その隣の数字は椅子の数を表わす
ここまではピンと来た。
だけど最初の2桁「丸6」がわからない。
どの会議室も固定で「丸6」で始まっているというところに着目したらすぐにわかったんだけど、
僕はずっとこの「丸」は椅子やテーブルの形のことなのではないかと思っていた。
正解は「丸の内の6階」ということになる。
この5桁のコードの意味がわかったとき、「はー、頭いいなあ」と感心させられた。
さすがは勢いのあるベンチャーだ。
普通会議室の名称なんてものは「5−3」などと付けられて
5階の3番会議室ってことなんだろうけど味も素っ気もない。
というか5階はよくても、3番目って何?どこ?何の3番目?ということになる。
その会議室を使い慣れてる人で無い限り具体的なイメージが湧かない。
しかも、仮に新宿と代々木にオフィスがあった場合、
「今日の会議は5−3です」
「どっちの?」
「新宿の方の5−3です」
というような会話になりかねない。なんか意味が無い。
つまり、全社標準的なコード化がなされてなくて
ネーミングが曖昧なものだったりする。
まあどの企業もこういう場合
「新宿の5−3」「代々木の5−3」と無意識のうちに使い分けて
暗黙的に、慣習的にコード化がなされてるんだろうけど。
「丸6左4橙」というふうに付けられていると
全体の中での位置関係の定義があり、それが細分化されていくことになる。
もっと特筆すべきはそれぞれのミーティングスペースの区別が
椅子の数や色でなされていることであって、
視覚で訴えるものをコード化していると普通とてもイメージしやすい。
感覚的に「あー、あれか」となる。
(1度行ってみないことにはどの部屋のことなのかわからないという欠点はあるが)
「頭のよさ」と一口に言ってもいろんなものがあるけど、
その1つとして例えばこういうことが成り立つと思う。
「大量の情報をコンパクトな形に圧縮し、受け手側にスムーズに伝達できること」
冗長なのは困る。
かと言ってなんでもかんでもコード化して短縮して詰め込めばいいってものでもない。
瞬時に理解できてこそ、意味のあるものになる。
その辺のバランス感覚の良さを僕は「丸6左4橙」のケースに感じた。
日々いろんな企業と接していく中で
こういう観点に限らず何らかの形で「やるなー」と感心させられたとき、
その企業からは多くを学んでみたいという気持ちになる。
今日は単に会議室のネーミングルールの話ってことになるんだけど
こういう工夫って案外どこでもやってんのかな。
うちの会社だけか?「5−3」なんて言ってるのは。
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話は全然変わるが、
同じフロアの別の会社では女子社員はみんな一昔前の事務職っぽい制服。
いい。とてもいい。
[1626] 追い詰める夢 2005-05-23 (Mon)こんな夢をよく見る。去年ぐらいから月に1度は見る。
僕は博士課程に進むか、編入試験を受けて大学に入り直している。
気がつくと月日が過ぎ去っていて、
僕は授業を1つも出ることの無いまま遊び呆けている。
そんな状態で夢がスタートする。
唖然とする。
履修登録の届けも出していない。
従って取得できる単位はゼロとなることが決まっている。
どうしよう・・・と思うが、夢の中の僕は具体的な行動に出ることは無い。
大学に掛け合うとか、講義に出てみるとか。そんなことはしない。
ただ、これまで通りダラダラとした日々を過ごすだけである。
それまでそこにあった何かしらの流れのようなものに引き摺られ、
夢の中の時間が過ぎていく。
(しばらくするとまた別の夢の中に入り込んでいく。
僕はそれまでと全然違う場所にいて、全然違う状況の中を生きる。
複数の夢と夢の間は続いているように感じられるが、
恐らく途切れ途切れになっていて途中には何もない暗闇が挟まっていて、
それを僕が経験するとき、濃縮されて継ぎ目の無いものに見えるのだろう。
だけどこれは別な話)
この「授業に出ていなくて履修登録してなくてこれからの半年なり1年を無駄にする夢」って
何を意味しているのだろう?
月に1度は見るってのは決して誇張ではなくて、
多ければ月に2回か3回は見ているかもしれない。
何かが気がかりで、何かを訴えかけたいはずなのであるが、
もう1人の自分(つまり、普段の起きているときの僕)はそれがなんなのかわからない。
心の中で何かがひっかかっているはずなのである。
なのにそれが何なのかわからない。
気持ち悪く思う。
不快だ、というのではなくて得体が知れない、という意味で。
僕は何か大事なことをするべきはずなのにそれを忘れてしまっている。
普通に解釈するとそういうことになる。
でもその大事なこと、大切なことっていったいなんなのだろう?
思い当たるフシが無い。
具体的なものではなくて、抽象的なものなのだろうか?
しかも今ここで為すべきという短期間のものではなくて、
もっと長い期間に関わるものだったりしないだろうか?
現実の世界でも僕はある日ふと、
取り返しのつかないことになってしまっていたことに気付かされて呆然としてしまう。
そう考えるとそれがなんなのか分かる気がする。
そのことに向けていろんな余計な物事を切り捨て始めているように
自分では思っていてもまだまだ足りないということだ。
土日に細々と小説を書いているだけでは追いつかない、辿り着かない。
持てるだけの全てをそこに注がなくてはならないのではないか?
今はそういう時期なのではないか?
・・・全然違ったりして。
[1625] Rip Rig & Panic 2005-05-22 (Sun)機体が右に大きく傾いた。
大きな、鈍い、くぐもった音がした。
続いて機内の後部では金属同士が派手にぶつかり合う音がした。
小型のコンテナがスチュワーデスの使うワゴンを通路にはじき出した。
隣の席の人たちと顔や頭がぶつかり合った。
他人の体がのしかかり、押しつぶされそうになった。
ほとんどの席で機内食のプレートがずり落ちてその中身が床や衣服へと広がった。
トマトソースのかけられたチキン。
パストラミソーセージとレタスのサラダ。
オレンジ色のチーズ。イチゴジャム。プラスチックのナイフ。
最初の悲鳴があがった。
その瞬間から、悲鳴が次々に広まっていった。
金切り声の連鎖がどんどんヒステリックさを増していく。
痛みを訴える声や周りの人々の安否を気遣う声も上がる。
機体はすぐにも水平に戻った。
束の間の静寂。安堵のため息が漏れる。
しかし、1、2、3・・・、3秒後にはまた機体が右に傾いた。
ただし、前ほど急な角度ではなかった。
立ち上がり、わめきだす初老の男性。
隣の席の子供をしっかりと抱き寄せ、凍り付いたまま顔を上げようとしない若い女性。
子供は怯えた声で泣きじゃくっている。
「見ろよ」と誰かが窓の外を指差す。
何人かがその声につられて、右側の窓の方を向いた。
何人かが下げられていた窓の覆いを上に押し上げた。
翼が白と灰色の混じり合った煙に包まれていた。
火のようなものがチラチラと揺らめいた。
回転音が下がっていく時の音が聞こえた。
「おい、どうなってんだよ?」
スチュワーデスがファーストクラスの方から現われ、
座席や天井のトランクにつかまりながらゆっくりと一歩ずつ前に進んだ。
スチュワーデスは自分に向かって噛み締めるように話した。
「乗客の皆様、どなたか、お医者様は、いらっしゃいませんか?」
もう1人のスチュワーデスが現われた。
「皆様、お怪我はありませんか?落ち着いて、自分の席に座るようにしてください」
パニックに駆られた、なじるような声が上がる。
スチュワーデスは深呼吸をして、もう一度口を開いた。
「今から、救命胴衣の身につけ方について説明、・・・」
スチュワーデスが突然倒れこんだ。すかさず悲鳴が上がった。
目の前の席に座っていた男性の乗客がにじり寄って助け起こそうとした。
揺さぶっても何の反応もない。男性は何度も何度も揺さぶった。
そのとき、ガクンと機体が下がった。
混乱した叫び声が一際大きくなった。
客席上部のモニターに映っていた映像がブツンと途切れて真っ暗になった。
天井のライトがいくつか消えた。
立ち上がっていた何人かがバランスを崩し、倒れこんだ。
何人かはまた立ち上がり、何人かは倒れたままとなった。
座っていた乗客のうちの何人かも力が抜けて、ねじ切れたようになって崩れた。
最初の方のスチュワーデスは慌てふためいたままファーストクラスの方に戻っていった。
中年の女性がふらふらと立ち上がり頭上のトランクを開けると
おぼつかない手つきでボストンバッグを引き摺り下ろそうとして、その中身をぶちまけた。
座席の下から救命胴衣を見つけた学生風の男性が必死になってそれを膨らませようとした。
いくつかの短い言葉のやり取りだけで自然発生的に
20代や30代の男性たちのグループができて、彼らは席を立って前の方に進んで行った。
キャビンの隅に男の子が1人、無邪気な顔をして立っていて、彼らのことをポカンと見つめていた。
彼らのうちの何人かが通路の途中で脱落した。
機内前方のビジネスクラス、ファーストクラスはひどい有様だった。全滅だった。
吐瀉物が撒き散らされ、窓には食べ物がぶつけられ、
大量の血を流してうずくまっている男性とも女性とも見分けのつかない乗客がいた。
3人の男が操縦室に入った。
スチュワーデスが2人、折り重なるように倒れていた。
操縦席では操縦士も副操縦士も2人とも操縦桿にもたれかかるようになって事切れていた。
いくつかのディスプレイでは冷静に数字が切り替わっていった。
ここで2人の男が倒れた。
最後の男が操縦席を出て、廃墟のようなファーストクラス、ビジネスクラスと引き返していって
よろめく足取りで、通路に倒れた人々を避けながら、機内後方のエコノミークラスへと向かった。
先ほどの小さな男の子が無邪気な表情のまま、
仰向けになって壁にぶつかってもたれたまま、倒れていた。
今ではもう誰も悲鳴を上げてはいなかった。どんな話し声も聞かれなくなっていた。
男がエコノミークラスに辿り着いたとき、通路は人々の体で足の踏み場もなかった。
緊急事態にあることを示す壊れかけのサイレンのような音が機内いっぱいに広がった。
男は空いている席の一つに座ろうとして、そのまま頭から崩折れていった。
飛行機は落下を始めた。
機首が下がって、重力に捉えられた。
操縦席のシールドからは山並みとその向こうに広がる地方都市が見えた。
テレビ搭が、野球場が、背の高いビルが、無数の家が見る見る間に近付いていった。
墜落する飛行機の姿を見つけ、逃げ惑う人々の姿はなかった。
地上でもまた大勢の人間が倒れていた。誰もが死んでしまっていた。
シンと静まり返った物音一つしない静かな町の中に、
つんざくような音を立てて飛行機が落ちていった。
[1624] 体調不良/昨日は発売日 2005-05-21 (Sat)今日は本当ならば会社の後輩たちと富士急ハイランドに行くことになっていたが、
ドタキャン者続出のため前日になって中止になった。
今日一日空いてしまった。
実はその方がありがたかったりする。僕の体にとっては。
5月から加わったプロジェクトは今月いっぱい、客先常駐。
丸の内にあるお客さんのオフィスの会議室を当面借り切って
その中にこもって設計書を書いているのだが、
こういうのってどうしても疲れる。
良くも悪くも常に気が抜けなくて肩が凝る。
先週末はあまりの具合の悪さに寝込んでしまった。
今日起きてみても、先週ほどじゃないにせよどことなくなんとなくだるい。
腹の調子がどうにも悪い。
先週買って、裾や袖を直してもらったスーツを池袋まで取りに行く。
その後池袋や新宿で店を回って何枚かCDを買った。
新宿のタワレコ7階のイベントスペースでは「TOrcH」という
ジャズのグループのインストアライブが行われていた。
当日配布されていたチラシにはこんなことが書かれている。
「スモーキー・ヴォイスの歌姫初来日。カフェ・ジャズ決定版!」
出てきたのはギター、ウッドベース、ドラムの3人の白人と、黒人のシンガー。
(今調べてみたら本当はメンバーにはトランペットとサックスもいるようだ)
なかなかいい演奏だった。
ふらっと入ったバーで彼らの演奏が聴けたら最高だろうな。
ドラムはインストアってこともあるのかバスドラとシンバルとスネアだけ。
そのスネアを手やマレットで叩いたりもするんだけど、ほとんどの曲でブラシ。
スネアの表面をこすったり、なでたり。うまいもんである。
ブラシで演奏するのって初めて見た。
スティックは使わない。そういうところ、妙にジャズっぽい。
---
昨日は「突然ですが、僕モロッコ行ってきます」発売日。
会社の近くの本屋に何冊か配本されていることを、出版社から教えてもらっている。
夜、会社の飲み会があったので常駐先から浜松町に戻って本屋に行ってみる。
旅行記のコーナーの棚のアフリカのところを見ても並んでなかった。がっかりする。
ま、仕方ないかと思う。
もしかして、と平積みになっている台の上を見てみたらなんとそこにあった。
「ひー」と思う。なんかこっぱずかしい。
自分の本が本屋にあって、その他の普通の本と一緒に扱われてるのを見たとき
初めて感じた感情が恥ずかしさ。
自分という人間の小ささを思い知る。
「すいません、いいんでしょうか?」と本屋の人に聞きたくなる。
恥ずかしさの次にやってくるのは感慨深さ。
店の中を意味もなくグルグルと回って感慨に浸る。そのまま本屋の外に出た。
今思うに「平積み」の現場を写真に撮っておけばよかった。
もったいないことをした。
あと2・3日もしないで平積みではなくなって棚の中に戻るか、返本か。
出版社から送られてきた配本先リストには入荷された数も記載されていて、
この書店に何冊送られてきたのか実は僕は知っていた。
平積みになっている数と入荷した数とが一緒だったので、
それって結局この書店ではまだ一冊も売れてないということ。
「あー、・・・誰も買ってくれてない」と侘しい気持ちになった。
それでも、飲み会に行ったら何人かの人から「買ったよ」と声を掛けられた。
(でもまだ届いた人はいないようだ)
買ってくれたみなさん、ありがとうございます。
[1623] 物流というもの 2005-05-20 (Fri)青森で過ごしたゴールデンウィーク。
友人とドライブをして津軽半島の先っぽから北海道を眺め、
その後青函トンネル記念館を訪れてトンネルの底へと降りていったときに
ふとこんなことを思った。
「北海道にはどうやって大量の物資を運んでいるのだろう?」
素朴な疑問。
普通に考えて、JR貨物で本州と北海道とを往復するか、フェリーで運ぶしかない。
津軽半島と松前半島の間には橋が架けられているわけでもないし、
青函トンネルはあくまで鉄道用である。
本州の中を駆け巡る長距離トラックにて日々たくさんの物資があちこちに運ばれているが、
果たして北海道にはどのように運んでいるのか?
例えば北海道全体に無数のコンビニがあって、その中では無数の商品が売られている。
これらの商品はいつどのようにして運ばれるものなのか。
トラックごとフェリーで運ぶのだろうか?
青森−北海道間を結ぶフェリーにはいくつかルートがあるが、
どれもそんなに大きなものではない。
それに本数もそんなにあるわけではない。
旅行客には知らされることの無い荷物運搬用の船はありそうだけど
それで送れる量には限りがあるのではないか。
JR貨物にしたってそう。
僕は津軽半島を縦断する線路の割と近くに住んでいて
貨物列車を目にするのは普通のことだったけど、そんなしょっちゅう見かけたわけではない。
とにかく、途切れなく常に大量の物資を運び続けないことには
北海道全土にまで行き渡らないのではないか。
これって小学校の社会の時間で習いそうなことだ。
なんか授業に出てきたような気もするし、
NHK教育テレビでトラックの走っている姿を見たことがあるような気もする。
だけど、実際にはどんな仕組みになっているのか、あんまりピンと来ない。
世の中全般のいろんなインフラストラクチャの仕組みについて
僕らは知らないことばかりである。
そしていろんなことを知らないまま、日々暮らしていけている。
離島の生活について考える。
確かに、大都市並みに様々な物品が溢れているということはない。
定期船など何かしらの手間暇かかる手段で限られたものが運ばれている。
もっとスケールを大きくして沖縄ではどうか。
やはり船なのだろうか。
あらゆるものが、コンテナに詰められて、船で運ばれるのだろうか。
さらにスケールを大きくして四国や九州ではどうか。
大型貨物船?いや、四国や九州は大きな橋が掛けられている。
これらの橋の存在はその地域に住む人たちにとって大動脈のようなものなのだろう。
もしかして北海道の中を走っている長距離トラックは
ひたすら北海道の中だけをぐるぐると回っているのだろうか。
あるいは、実は、北海道の中では
大型の長距離トラックというものは走っていないのかもしれない。
何がどうなっているのだろう。
気になって仕方がないんだけど、
どういう本を読んだりどういうサイトを見たらいいのかがわからない。
結局行き着く先は小学校の社会科の教科書となるのだろうか。
それはそれで何かが少しばかり変な気がする。
大人向けに社会のハードウェア的な仕組みを解説するものがない。
あるのかもしれないけど、少なくとも僕は知らない。
[1622] その他の雑酒A 2005-05-19 (Thu)昨年より「その他の雑酒A」が世の中でちょっとしたブーム。
かなり売れてるらしい。
だけど僕は全然ダメ。
サッポロの「ドラフトワン」を発売当初に
「どんなもんだろ?」と飲んでみたら「なんだこりゃ?」と顔をしかめてしまった。
先日、キリン「のどごし<生>」とアサヒ「新生」も飲んでみたが、やっぱダメ。
まずくて飲めたもんじゃない。
苦味のある炭酸系清涼飲料水にアルコールが入ってるだけの
それこそ「雑」な酒に思える。
いくら安くてもこんなもの飲めない。
そもそも僕は発泡酒も認めない。
ビールが飲みたいけれども節約のため気分だけ浸りたいというときに仕方なく選択するもの。
好き好んで買ったりはしない。
とあるおしゃれな店に入ったとき、メニューに
「ビール(発泡酒です」)と書かれていてムッとしたことがある。
店のモラルを疑いそうになった。
発泡酒はビールにあらず。ビールは発泡酒にあらず。
ビールとだけ書いていて発泡酒を出しているような安っぽい店より100倍マシだけど。
---
以下、最近ビール関連で思ったこと。
「その他の雑酒A」の原料は麦ではなく、例えば
ドラフトワンでは「エンドウたんぱく」となっている。
こんなのを原料としているとビールじゃない、
麦でなければビールじゃない、
思わずそんなふうに言いそうになる。
だけど昔は麦以外の原料からも作られていたんですよね。
とうもろこしとか。(コロナは確か副原料がとうもろこしだったんじゃないか)
エジプトやメソポタミアの古代文明でも
様々な原料によるビールの原型のようなものを飲んでたようだ。
いろんなものから作られていた時代から「ビールは麦だ」の時代になって、
また21世紀になって元に戻ったということか。
そう考えると無下に「その他の雑酒A」の存在を否定できない。
調べてみると1516年にバイエルン侯ヴィルヘルム4世が発令した「ビール純粋令」により、
ビールの原料とは「大麦、水、ホップだけ」とすると法律として決められたとのこと。
(後にこの酵母が加えられ、4つとなる)
これが今に至るまでドイツ国内で守られ続け、
ドイツのビールの品質は自然と高いものとして保たれていく。
そして他の国でもこの基準に自然と従うようになった。
なんとビールの原料はこの4つである、というのはかのワイマール憲法でも謳われていたという。
(参照 http://www.asahibeer.co.jp/library/beer_century/europe/german4.html
ビールの歴史がこと細かく記述されていて、なかなかためになる)
---
あと気になるのは地ビールか。
これ、行った先々で見かけると必ず飲んでみるけど、
正直な話「これはうまい!」「買って帰りたい!」と思うものに出会ったことが無い。
その土地で取れるものを副原料としてみんな工夫してるんだけど
ビールそのもののシュワッとした爽快な味わいを持ってるものって少ない。
水っぽかったり、ベタッとしていたり。
ビールとは別な苦さがあったり、なんとなく酸っぱかったり。
---
ビール工場見学もしくは酒蔵見学に1度は行ってみたいと言い続けてるけどいまだ実行できず。
調べてみたらキリンの工場が横浜にあって、
サントリーの武蔵野工場が府中にあるらしい。府中なら気軽に行けそうだ。
でもキリンのだとビール作りが体験できるらしい。
できたてを飲むのっておいしいんだろうなー。
[1621] 本を出します その14 2005-05-18 (Wed)発売日まであとわずか。
amazon では4月末から予約・注文可能で、
セブンアンドワイで注文した後輩は先週末の時点で本が届いていた。
クリス君初め、何人かが amazon のアフィリエイトで
僕の本を扱ってくれるというので、僕自身もアフィリエイトプログラムに登録した。
リンクをクリックされた回数や実際に購入に至った件数が表示され、
著者としては気になって仕方ないので毎日毎日確認してしまう。
あと、amazon だと売り上げランキング。
恥ずかしながら1日に何度も見てしまう。
そして「あー、また下がっている・・・」と。
このところ 100,000 番台近辺をさまよっているが、
先週一時、8,000 番台にまで上昇して、昨日も 6,000 番台まで上がった。
このときは「おー!!」と思った。さすがに。
でもどうも1冊売れるだけでこれぐらい跳ね上がるものらしい。
それにしても 100,000番台って何冊売れたことになるのだろう?
100番台ともなるとどれだけ売れてることになるのだろう?
なんにしても amazon で買ってくれた方々、ありがとうございます。
もう届きましたか?
先週いきなり amazon での表示が「在庫切れ」になって、
「そんなあ」と思った僕はなんとかならないかと出版社に問い合わせをしてみた。
なんかの手違いだったようで出版社を通じて amazon にデータの修正(?)をしてもらった。
そこそこ売れて当初の amazon 用販売部数(というものがあるかどうか知らんが)を
売り切ったがゆえの在庫切れとは到底思えず。問い合わせてよかった。
売れるに越したことがない。販売ルートは切らさないこと。
でも半年後に amazon で「在庫切れ」になっていたら
これは本当に売れなくて絶版なんだろうな。
---
出版社から手紙が来て、毎日新聞の5月22日か29日の広告に僕の本も載るとのこと。
他の5月の新刊と一緒に1行割り当てられることになる。
こういうのって母親が喜びそうだ。
母親ってことで思い出したが、
できたばかりの本が出版社から4月後半に送られてきたときに、
さっそく母親にも送っといた。
毎日少しずつ読み進めたようで、
ゴールデンウィークに青森に来たときには半分ぐらいまで来ていた。
こんなことを言われた。
「母親からしてみれば、この本を読むことはサスペンスに近いものだ。
次はどんな危険な目に合うのだろうと。
トヨヒコはもうとっくの昔に日本に帰ってきているのだし
なんともなかったんだろうけど、母親からしてみれば怖くて仕方がない」
---
先週は親戚や大学でお世話になった方たちに手紙を添えて本を送った。
厚手の封筒に1冊ずつ詰めて、大きな紙袋に放り込んで会社まで運んで、
昼休みに郵便局へと持っていった。
「書籍小包」という制度をよく知らずに普通で出そうとしていた僕に対し、
郵便局の人は親切にも書籍小包扱いにしてくれた。
---
先日出版社から「ここの本屋に配本しました」というリストが送られてきた。
それぞれ若干数配本されたようだ。
【都内】
・ブックストア談 浜松町店
・阪急ブックファースト お台場店
・三省堂書店 八王子店
・八重洲ブックセンター 荻窪ルミネ店
・ブックファースト ルミネ新宿1店
・リブロ 吉祥寺店
・井荻書店
・高円寺文庫センター
【関西】
・ジュンク堂書店 三宮駅前店
・ジュンク堂書店 三宮店
・旭屋書店 なんばCITY店
今度の土日にこっそり見に行って「おお、ある!」と感動に浸ってこようかと思う。
配本されたけど棚には並んでいなかったら、ショックだな・・・。
[1620] 「ボーン・スプレマシー」 2005-05-17 (Tue)昨日に引き続き、「ボーン・スプレマシー」
マット・デイモン扮する記憶を無くしたCIAのトップ・エージェント、
ジェイソン・ボーンを主人公としたシリーズの2作目。
1作目「ボーン・アイデンティティー」は残念ながら見ていない。
マット・デイモンには興味があっても、作品そのものにあんまり興味がわかなかった。
でも2作目の方はなぜか見に行きたくなった。特に理由はない。
新聞の映画評にて好意的に書かれていたからだろうか。
面白い映画だと思う。よくできている。
でも体力的につらかった僕は前半うつらうつらしてばかりだった。
声を大にして言うけど、これは作品が面白くなかったからではなくて
あくまで僕が疲れきっていて睡眠不足だったため。
そんで「ターミナル」を見て乏しい体力を使い切ったため。
ゴア、ナポリ、ベルリン、アムステルダム、ニューヨーク、モスクワと
世界中で展開するストーリーの豪華さ。
そしてトップクラスの技量を持つスパイによるアクションと駆け引き。
まさに「007」シリーズのよう。
最近の「007」シリーズは学生時代に1本劇場で見ただけだが、
非常に軟弱なものだった。はっきり言ってつまらなかった。
この「ジェイソン・ボーン」シリーズがそのまま「007」となって、
マット・デイモンが第何代目かのジェームズ・ボンドになればいいのに。
でも、いかんせんマット・デイモンは
女にもててもてて困るというキャラではないんだよな。うーん、無理か。
最後のカーアクションが手に汗握る。秀逸。
モスクワのシーンで、ということになっているけど
本当にモスクワで撮影したのだろうか、というのが気になった。
よく見るとモスクワの名所が映っている。インツーリストホテルとか。
普通に走っている部分や単に風景をインサートした部分はモスクワで、
派手に車がぶつかって大変なことになる部分はアメリカかどっかで撮影して、
それを合成したのだろうか。
見てて何の違和感もない。たいしたもんだ。映画技術はここまで来たのか。
それにしても苦悩する天才役をやらしたら
マット・デイモンの右に出るものがいないのは何なのか。
というか何に出ているのを見ても苦悩する天才に見えてしまう。
例えば「オーシャンズ12」を見ていても、
こいつ役柄としてはかなりしょぼいけど実は天才という設定になってるのだろうか?
なんて勘ぐってしまう。
こういうのって損なのか得なのか。
---
土曜の初回だというのに、新文芸座は混んでいた。
「ボーン・アイデンティティー」は満席に近かった。
映画ファンにとって新文芸座の存在は大変ありがたい。
先日亡くなられた岡本喜八の回顧上映もあるようだ。
ちょっと前の新作を公開ということで、新池袋文芸座では今後
「Ray」「ブリジットジョーンズ きれそうなわたしの12か月」
「きみに読む物語」「ネヴァーランド」
「パッチギ」「モーターサイクルダイアリーズ」
といった2本立てがあるようだ。
どれも見逃していたから、なんとかして見に行きたい。
「モーターサイクルダイアリーズ」は特に。
---
土曜は見終わった後、3人で午後3時から居酒屋で飲む。
こんな時間に開いてるのもすごいが、酒もつまみも格安だからか、繁盛している。
学生っぽい人たちはほぼ皆無。中高年サラリーマンか、熟年夫婦ばかりだった。
その後僕は池袋で買い物。夏用のスーツを買う。
RECOfan と DiskUnion に立ち寄る。
帰って来るとものすごく具合悪くなっていた。
ジョッキでビールを飲んだ後に日本酒をグイグイ飲んでいたからか、
肩凝りが一向に治らず、疲れが取れないからか。
風呂を沸かして入ったらすぐにも眠り込んでしまった。
これではいかんと9時には布団に入った。
眠り続けて目が覚めたのは日曜の午前9時。12時間以上寝た。
さすがに肩の痛みはだいぶ治まった。
日曜は小説の続きを書いた。
最近の土日はコツコツと小説を書いている。
[1619] 「ターミナル」 2005-05-16 (Mon)14日の土曜に映画部の第2回映画鑑賞会を行う。
この週は新しいプロジェクトでの仕事が本格的に忙しくなってきて
週の後半は毎日、常駐先のビルを出るのが23時。
そんなわけで無茶苦茶疲れていた。
金曜はずっと肩凝りがして、土曜にはそれがひどくなっていた。
(僕は体質的にめったに肩凝りにならない)
今回は集まるメンバーも少ないし、やめようかなあとも思うが、
「火を絶やしてはならない」という気持ちも強くあって、予定通り見に行くことにした。
ただ、見に行くものは直前になって変えた。
5月は「交渉人 真下正義」にしますと前々から言ってたんだけど、
かなり混んでそうだったのでまたの機会に。
池袋の新文芸座にて「ターミナル」「ボーン・スプレマシー」の2本立てを
やってるということがわかって「見てー!」と部長権限でそっちにする。
どっちも1月2月の「地獄」の時期だったので思いっきり見逃した。
顧客の新システムが稼動開始直後。
あれやこれやの対応で死にそうに忙しく、
時間をやりくりして見に行けたところでたぶんずっと寝てた。
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「ターミナル」
トム・ハンクス扮する、東欧の小さな国からニューヨークに来た主人公が
祖国のクーデターの関係でパスポートもヴィザも無効になって入国できなくなり、
空港から出られなくなったまま空港の暮らし始める。
最初はあれやこれやトラブル続きだったのが空港職員の友達も増えて
その生活も楽しくて前向きなものになる、という話。
やろうと思えば空港から脱出したり亡命もできたはずなのに、
みんなにそのことを勧められるのに、
「自分には約束がある」「そのためには待たなくてはならない」と主人公は一歩も譲らない。
ヴィザが下りる日のことをひたすら待ち続ける。
恥ずかしながら泣いてしまいました。
(20代後半から涙腺が緩くなって、30代に入ってさらに緩くなった)
主人公ビクターが「ピーナッツの缶の中身」、ニューヨークまで来た理由を
キャサリン・ゼタ・ジョーンズ扮する恋多きスチュワーデスに説明する部分。
「そりゃ待つよ!」と思ってしまう。
泣ける映画かというとそういうわけではなく、どっちかというと圧倒的にコメディー。
大人が見て十分に笑えるコメディー。
トム・ハンクスの演技もいいんだけど(「レディ・キラーズ」なんかよりはよっぽどいい)
これって監督のスピルバーグの仕事が素晴らしいんだろうな。
この人はある意味映画界の長嶋茂雄みたいなもんだから
作ってる自分がワクワクした気持ちで撮っていたら
出来上がった作品にもワクワクした温かい気持ちが宿ってしまう。
そのキラキラした感覚がフィルムのあちこちで光っていて心地よく映画が見れてしまう。
今回の映画では実際の空港での撮影が困難なため、空港そのものをセットで作成して
その中にマクドナルドや yoshinoya や Hugo Boss などの本物の店舗を出店させたのだという。
なのでどこからどう見ても空港そのもの。
ものすごく大きなおもちゃを与えられてニコニコした気持ちでいっぱいのスピルバーグ。
それがスクリーンを通して伝わってくる。見てるこっちもニコニコしてくる。
こういうのが何の臆面もなく撮れるというところにスピルバーグの天才を感じる。
70年代から00年代に至るまで、フィルムにマジックを宿らせる才能、
映画というものに夢中になれる才能はスピルバーグがずっとナンバーワンだったのだと思う。
今、最も信頼できる監督なのではないか?
「稀代のフィルムメーカー」という呼び名は今でこそふさわしい。
同じくトム・ハンクスが出演した「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」も面白かった。
ものすごく面白かった。
スピルバーグは今が旬?そう言われてみるとずっと旬だった。
プロデュースした作品のことを考慮すると特にそう思う。
60近い今に至ってもずっとその勢い衰えないのには舌を巻くより他にない。
劇場で観ることができてよかった。
思う存分楽しい気持ちに浸ることができた。
今回見ていて気が付いたのは、
良質な映画となるキーポイントの1つに「小道具の活かし方」というものがあるんだなと。
役者とその背景だけではなくて、
スクリーンに持ちこめるもの全てに意味とこだわりを与える、考えてみるのだということ。
粋な小道具はストーリー展開にちょっとしたひねりを、ユーモアを、もたらす。
「ターミナル」で言えば、トム・ハンクスの手形のコピーであるとか。
こういうのがサラリと書けるようになったら、脚本家として一人前なんだろうな。
[1618] カレーの会「マジックスパイス」 2005-05-15 (Sun)(いまだにゴールデンウィークの話を引っ張ってるのもなんですが・・・)
ゴールデンウィーク5日の木曜日、
久し振りのカレーの会ということで下北沢の「マジックスパイス」に行ってきた。
今話題のスープカレーの店。
北海道で人気に火がついて、今いくつかの店が全国展開している。
「マジックスパイス」はその1つ、というよりは先駆けの店のようだ。
夕方17時集合。
僕はその前に来て、中古CD屋と古着屋を回った後で、店の下見をする。
「混んでる、行列ができてる」と事前に聞いてて、行ってみると確かに店の外に人が溢れていた。
でもまあ先日行った宇都宮の餃子ほどではない。
後で大学の先輩たちを引き連れてもう一度来ると混雑は多少ましになっていた。
中に入ってレジにて名前を書くとポケベルを渡される。
外で待っていて順番が来たら鳴らしてくれるというわけだ。
店内はスパイスの香りというか匂いがそこはかとなく漂い、
ここはヴィレッジヴァンガードかと疑いたくなるぐらい、
装飾品がごちゃごちゃしていた。
(人によってはこれだけで拒否反応を示すのではないかと思われる)
外で20分ほど待つ。
「スープカレーってどんなんだろう?」という話になる。
3人いて3人とも実はどんなもんかよくわかっていない。
話には聞くが実物を雑誌やテレビで見たことがない。
「サラサラの薄めのカレーとどうちがうんだ?」
「もしかして透明?」
「ご飯はつかなくてあくまでスープとして食べる?」
正解は「透明」見た目はスープそのものだった。
スープというよりは冷麺に近い。
チキン、ビーフ、ポーク角煮、シーフード、ベジビーン、キーマなどがある。
それに辛さが下から 覚醒/瞑想/悶絶/涅槃/極楽/天空/虚空 と選べる。
(スパイスは別料金で、上に上がるほど高くなる)
トッピングもいろいろあって、
舞茸、キクラゲ、山くらげ、もち、などなど普通カレーに入れないものが多い。
激辛好きの先輩がチキンの虚空、
もう1人の先輩がベジビーンの悶絶(普通の辛口ぐらい)、
僕はチキンの瞑想(中辛ぐらい)にチーズを追加で頼んだ。
あと、モモと呼ばれるネパール風水餃子も。
マジックスパイスはインドネシア風のスープカレーということになっているが、
赤を基調とした内装はなんか東南アジアのごった煮のよう。
雑貨を販売しているコーナーもある。
店員同士はインドネシア語なのかベトナム語となのかタイ語なのか
オーダーを伝え合うとき、わざわざどこかの国の言葉を使っていた。
日本人でも日本語は話さず。
壁や柱には「マジックスパイス」紹介の新聞記事の切抜きが至るところに貼られている。
僕の座っていた席の近くに貼られていたのは
自伝も出した名物社長下村氏のインタービューだった。
東京の医大を中退した後故郷の札幌に戻り、飲食店を経営。
子供のとき医者である父に連れられてインドネシアを旅行したことが
スープカレーを生み出すヒントとなる。
それまでの店を畳み、人生を賭けてスープカレーに一本化したところ大当たり。
今の夢はニューヨークに店を出すことであるという。
なお、今調べていたら分かったのだが、
最近話題の女性シンガー「一十三十一」はこの下村氏の長女だった。
チキンカレーが運ばれてくる。カレーじゃなくてどう見てもスープ。
だけどこれがうまい。
なんか悔しいけどうまい。チキンも柔らかい。
サフランライスにかけてガツガツ食べた後、スープは全部グブグビと飲み干してしまった。
でもこれをカレーと呼ぶべきかどうかは迷ってしまう。
カレーではあるが、カレーライスではないよな。絶対。
カレーのいとこ、みたいな感じ。
スパイスなのかなあ、やっぱり。
気になったのはジャガイモを使ってないこと。
北海道でカレーに絡みそうな食材といえばジャガイモが真っ先に思い浮かぶのに、
ベジビーンには入ってなかったし、トッピングにもなかった。
キクラゲはあるのに、ジャガイモがない。
煮崩れすると味をぼやかしてしまうからか。
外で食べるカレーにジャガイモが使われることってあんまりないから、
欧風でもインド風でも使わないから、ってただそれだけのことなのかもしれないけど。
そういえばニンジンもなかったような気がする。
激辛好きの先輩は最上級の辛さ「涅槃」をスイスイと食べきる。
「食えない辛さじゃないね」と一刀両断。
昨年「大沢食堂」にて食べた激辛の足元にも及ばない。
2軒目は普通に飲もうということになって下北沢をブラブラ歩いて沖縄料理の店に入る。
もう1人の先輩とその奥さんがここで合流。
カレーの話をする。
下北沢でスープカレーといえば「カレー食堂 心」というのも有名らしい。
これまた北海道に本店がある。
渋谷センター街の入口にできたカレー屋も(名前は Little Spoon だったか)
ここの系列らしい。
あと、渋谷といえば「ムルギー」
カレーの会を主宰しておきながらここに行ったことのない僕は「バカモン!!」と怒られた。
次回は、夏になるのかな、ここ「ムルギー」か横浜のカレーミュージアムへ遠征か。
去年の夏に行った柏「ボンベイ」はビルの建替えのため来年の1月まで休業中。
再開したらまたすぐにでも行きたい。
休業期間中、「ボンベイ」の料理人はどこで何をしているのだろう?
まさかインドに行ってたりしないか。
[1617] 宇都宮餃子ツアー 4/4 2005-05-14 (Sat)16時を過ぎて、さて、では「正嗣 宮島本店」で食べてしめるかと
並んで座っていた階段からよっころしょと立ち上がる。
宇都宮市街をテクテクと歩いてパルコのある大通りまで戻る。
「正嗣 宮島本店」は相も変わらず長い長い行列ができている。
並ばないことには何も始まらず、最後尾に加わるより他にない。
ぼけーっと与太話をしながら並ぶのであるが、
10分・20分経過してもちっとも先に進んだ気がしない。
僕は別に行列が嫌いな方ではなく、
おいしいものが食べられるのならばいくらでも並ぶが、
聞いてみると後輩たちは皆普段行列に並んでまでして食べたりはしないという。
まあまた次の機会に、と別な店に行ってしまう。
今日並んでいるのはわざわざ宇都宮まで来たから特別であるとのこと。
「本店」ということは「支店」があるのかと僕が素朴な質問をすると
後輩の誰かが駅で配ってた宇都宮地図を取り出して、しばらく探して、
駅の反対側のかなり外れの方にもう一軒あるようですよと言う。
暇を持て余していた僕は今日2回目の偵察に出かけることにする。
どんどん動いてカロリーを消費しないことには餃子がおいしく食べられない。
というか何もせず立ったりしゃがんだりして同じ場所で待っている方が疲れが出そうだった。
駅に向かって宇都宮の大通りをモソモソと歩く。
夕暮れ時で街がオレンジ色に染まっている。
たいした距離ではないはずなのに、やけに時間がかかる。
駅の構内をくぐりぬけて駅の反対側に出る。
こっちはもっと閑散としている。
地図に書いてある通りに線路に沿って歩いていく。
まあそのうち着くかなと思っていたらこれがまた間違いで、
なかなか目の前の道路を渡れず地下道をくぐったり歩道橋を渡ったり、小さな大冒険となる。
さらに歩く。また次の歩道橋を上って下りる。
完全に住宅地の中。
本当にあるのかと疑い始めたところに、それはあった。
確かにあった。でもそれは、・・・。
携帯で報告する。
「ハロー、ハロー」と後輩が言う。僕は
「・・・(小声で)もしもし、もしもし」
「どうでしたか!」
「・・・(ごにょごにょ)」
「聞こえないですよ?」
「・・・持ち帰り専門店だった」
携帯の向こうで爆笑してるのが聞こえた。
並んで持ち帰りで買ってる人たちはいたのに、店内で食べている人たちはいなかった。
住宅地の中ってことは、今晩のおかずとして買っていく人のためなんだろうな。家で焼いて食べる。
落胆して肩を落として、来た道を引き返す。
ここが中で食べられるとしても僕が辿ってきた大冒険を
携帯で説明して後輩たちに来てもらうのは至難の業だ。
時間だけが無駄にかかって道に迷って、どっちも疲れきってしまう。
30分かかってここまで歩いてきて、30分かかってもとの宮島本店へと戻る。
完全に夕暮。
最後尾がまた延びている。
その最後尾近辺に金属の棒を三角形に組み合わせたものを左右に配して
「CLOSED」と書かれた金属の板を取り付けたものが置かれている。
今日はここまでということか。
後輩たちのところに戻って話を聞いてみると
この「CLOSED」を無視して列に加わっている人も若干いるという。
17時ぐらいに店のおばちゃんが今日はここまでと「CLOSED」を置きに来た。
なのに時々見に来ては列がまた増えている。
そのたびにプリプリと怒って店の中に消えていく。
「CLOSED」の辺りでその日の分の餃子がなくなるのだろうか?と僕は思った。
それもあるけど、正しくはそうではなくて、
20時が閉店の時間だとすると、
路地裏にある店から通りの端まで並んでそこから更にはみ出して大通りに折れ曲がって、
というのが3時間待ちだとして、
逆算して17時にその日の行列の終わりを宣言したということ。
3時間待ち。
実際僕らも16時半に並び始めて、餃子にありつけたのは19時半だった。
食べ物でここまで並んだことはない。
与太話をずっと続けて、僕らは立ったり座ったり、足裏マッサージの話をしたり、
携帯でゲームをやったり、パルコで暇をつぶしたりしながら、
そして前の人が残り20人になったとこっそり数えて
そこから先が登山の9合目のように辛い思いをしながら、
隣の隣ぐらいにある、同じく宇都宮餃子会の店なのに
さっきは客がいなくてガラガラだったのを見て不憫に思ったのに、
今は満席になっていてささやかながら行列ができているというのを見かけて
「ああ、よかったよかった」と胸をなでおろしたりしながら、
ひたすら3時間耐えて、ようやく「正嗣 本店」の餃子にありついた。
店のおばちゃんはひたすら電話を取って、
「並んでる人たちの分だけです。すいません」とか
列に並ばずに入ってきて「持ち帰りできますか?」と聞いてくる観光客に対してやはり同じように
「並んでる人たちの分だけです。すいません」と言い続けだった。
店はこのおばちゃんと餃子を焼くおじいさんの2人だけで切り盛りしていた。
おじいさんは円い鉄板が2つと水餃子の入った鍋の前でひたすら餃子を焼き続け、
おばちゃんはカウンターを片付けたり、冷凍の餃子をお土産様用に箱に詰めたりしていた。
(その間時々外に出て「ああまた列が伸びてる」とプリプリしていた)
休む暇なし。カウンターで15・6人入れるかどうかの小さな店。これが限界か。
「注文は?」と聞かれる。「いくつ?」と。
メニューは焼き餃子と水餃子が170円、冷凍の餃子が160円。これだけしかない。
「ライスもビールも置いていません」と貼り紙してある。
「これだけ待ってそりゃないよー」
「餃子にライス、餃子にビールって最高の組み合わせなのにー」と思う。
でもこの店が餃子を味わうというただその一点にのみ存在するのならばそれも正しいか、と思う。
それにただでさえ行列が長いのにライスやビールで長居されたら回転が更に遅くなる。
行列の後ろの方にいるとちっとも減ってるように見えなかったのに、
中で何モタモタ食べてるのだろうと思ったのに、いざ中に入ると
皆焼きあがった餃子を食べてすぐにも出て行くだけなのでかなりの回転スピードだった。
これだけの速さであれだけ並んで、それをずっと捌いているのか。これは大変だ。
僕は焼き餃子と水餃子をそれぞれ1つずつ頼む。
おじいさんは円い鉄板の蓋を開けると油を
ティッシュペーパーのようなもので真っ黒になるまで吸い取らせ、
鉄板をきれいにすると油を注いでそこに餃子を、注文があった分だけ無造作に並べた。
そしてすぐ、水餃子の鍋から取ったと思われるお湯を鉄板の中にジャボーッとかけて蓋をした。
水餃子の鍋の中は白濁したお湯が入っているだけで、
ラーメン屋の大鍋のように野菜や鶏がらが入っていてダシを取っているということはなかった。
鍋がふきこぼれると蓋を開けて驚いたことに水道水をこれまた無造作にドボーッと入れた。
そしてまた蓋をした。
見ていて分かることは、ここには何の秘密もない。特別なことは何もしていない。
あるとしたら朝か昼に仕込む餃子そのものの味わいと、
おじいさんの絶対的な焼き加減と茹で加減である。
出来上がった餃子がカウンターの上に置かれる。
僕は事前に小皿にしょうゆ、ラー油、酢で作ったタレにくっつきあった餃子を切り離して
(ベタついてないので箸を入れると餃子と餃子がすっと離れる。もちろん皮もはがれない)
きつね色にこんがりと焼けた、トーストのような餃子を口に運ぶ。
野菜の旨み、口の中でほのかにはじける肉汁がラー油と混じり合い、
そしてホクホクとした、
・・・ああ!もうこれ以上何も書きたくない。
これを炊き立ての白いご飯と一緒に食べられないのは犯罪だ。
「輝楽」の餃子は確かにおいしかった。十分すぎるぐらいうまかった。
だけど「正嗣」まで来るとこれはもう芸術だ。
余計なものが何もなく、あっさりとその頂点を極めている。
続いて水餃子。
これはもうお湯に餃子が入っているだけ。茹でてるだけ。
なのにそのスープを飲むとなんだか芳醇なスープを飲んでるような気になってくるのはなぜだ!?
そんで最後は焼き餃子のタレを入れてスープを飲み干した。
あー、贅沢・・・。
なのにこの2つを食べてもたった340円。ありえない!!
ありえないよ・・・。
「追加注文は忙しい場合にはお断りすることもあります」と貼り紙がされていたが、
これは追加する側にとっても断る側にとっても、今となってはよくわかる話。
僕だって、もう1皿焼き餃子を食べたかった。
おばちゃんがしきりに、今日並んでいる人の分が足りるかどうかわからないと言っていた。
それでも後輩たちは家のお土産用に冷凍のや、焼きあがったばかりのを買うことができた。
「正嗣」で食べることができて宇都宮まではるばる来た甲斐があった。