[2422] 韓国焼肉ツアー その11 2007-07-30 (Mon)景福宮の外に出る。
この時点で18時ぐらいだったか。外はまだ明るい。
僕が行ってみたかったので、ロッテ百貨店に行くことにする。
歩いても行けなくもない距離だったけど、みんな疲れきっていたので地下鉄に乗っていく。
3号線の「景福宮」から2号線の「乙支路入口」まで。
駅に下りていく。券売機はすぐ見つかり、
料金が1000wだということはわかったものの、なぜかコインのみ。紙幣は使えず。
仕組みがよくわからず、窓口を探して買う。
地図で行き先を示して、指を3本立てて「スリー」と。
その後ずっとこの方式で切符を買う。
(こういう感じで、下手したら口を開くことすらなく物事を進めていく僕を見て、
先輩は「おまえすげえな。英語話せんじゃなかったの?」と感心する。
なんかもう切羽詰らないと英語で話そうという意欲が出てこないんですよね。
英語も日本語も使わずとも意思が通じるなら、話さなくてもええかという)
地下鉄は東京のと全く一緒。ハングルだっていうだけで。
たくさん走っててあちこちで乗換えができて。
ホームの雰囲気も、車両の雰囲気も。
そうだ。ロシアやメキシコで地下鉄に乗ったときに物売りがうるさかったけど、
ここソウルでも物売りが乗ってきた。ペットボトルのカバーみたいなのを売っていた。
こういうのないから、日本の地下鉄はいいなあと思う。
「乙支路3街」で2号線に乗り換える。
「乙支路入口」で降りると、出口がそのままロッテ百貨店となる。
ものすごく大きな百貨店。
でも日本にもこういうのたくさんあるし、目新しいもんでもなかったな。
上の階に免税店のフロアがあって、化粧品やバッグなど女性たちが群がっていた。
僕ら3人は興味全くなし。
下に下りていく途中でゴルフ用品の店に寄って行く
先輩も後輩もゴルフをやるので、お土産に何か買っていこうと。
ゴルフボールは高くてやめる。結局何も買わない。
暇だった僕は生まれて初めてドライバーってヤツを手に取ってみた。
思いの他軽くて「こんなんで人が殺せるの!?」と驚く。
安物の推理小説のネタでゴルフクラブを凶器にするってのがあるけど。
もっとずっしり重いもんだと思っていた。
夜はこの近くの焼肉屋と決めていたが、まだ19時で外も明るい。
それ以前に昼のバイキングで食べすぎた僕は全然腹が減っていない。
もっと歩いて腹を減らさないとってことで
明洞(ミョンドン)エリアの繁華街を歩いてみることにする。
ここは例えるなら原宿のよう。歌舞伎町のようでもある。
若者たちでとんでもない人込み。店も密集。
The Body Shop にオニツカタイガーにリーバイスにクリスピー・クリーム・ドーナツ。
マックにバーガーキングにピザハット。ABCマート。
若い女性向きの派手な衣類を売っている店の前で
店員の女性がまるでアジテーションのようにマイクで道行く人に語りかけている。
辻という辻では必ず屋台が出ていて、平べったい餅や煎餅みたいなのを売っていた。
女子大生?の集団がそれら餅の上に容器に入ったあれはハチミツなのかな、
文字を描こうとしてうまくいかなくて、はしゃいでいる。
お祈りを捧げて、踊っている集団を2箇所で見かけた。
写真入りの抗議文みたいなのを壁一面に張り出している。
漢字を読む限りでは中国共産党?が人権を無視して、
受刑者に対して暴行を加えたり、内臓を抜き取る手術まで行って
人々を廃人同様としているというものだった。
痣の浮かぶ手足を見せながら病院のベッドに横たわる人の写真、
以前はこれだけ若々しく美しかった女性が今は薬物の依存症となったという2枚の比較写真、
首や胸から腹にかけての切開手術とその乱雑な縫合跡を写した写真。
(目を閉じて、恐らく死んでいる)
余りのグロテスクさにぞっとした。
マイクを持って盛んに訴えかける政治活動家とその周りでひたすら祈りを捧げる人々。
宗教団体なのだろうか?この世の悪は祈りで全て清めていくというような。
すぐその脇では道端で小犬を売っていて、
若い人たちが「わーかわいい」って感じで群がっている。
帰りにこの集団の前に差し掛かったら、
彼らは鉦や太鼓を叩き、ハードコアなリズムを生み出していた。
はっとする。直情的で扇情的でかっこいいリズムだった。
韓国の民族芸能的な音楽なのだろうか?きっとそうなのだろう。
日本で探してみよう、と思った。
以前高円寺の阿波踊り大会ではぐれモノの若者たちの連が
奏でていたハードコアでアヴァンギャルドなリズムに通じるものがあった。
横道に入ったところでCDショップを見つける。入ってみる。
K-POPがあって、J-POPがあった。日本盤じゃなくて、韓国盤。
いわゆる J-POP では何があったか覚えてないが
(普段僕が聞くような類のものじゃなかったので)
僕の興味あるところでは
Pizzicato Five や Fantastic Plastic Machine や Paris Match を見かけた。
ジャケットはハングルで書かれている。
Paris Match は僕がずっと前から探していた「Volume One」の限定盤2枚組。
買おうかどうか迷って、結局やめた。日本盤を探そうと。
焼肉屋へ。「コムソッチプ」
http://www.seoulnavi.com/food/restaurant.php?id=49
日本語のできるオーナーのおばさんがいて、客は日本人ばっかりだったような。
肉はみな店員の方たちが焼いてくれる。
生ビールを飲みつつ
牛タン、味付けカルビ、骨付きカルビ、ロースのセットを3人前とユッケを食べた後は
マッコリを飲みながらプルコギ、さらにうどん入りのスープ。
死ぬほど食いまくって、1人1万ぐらいになったのかな。
うまかった。これが韓国の焼肉か。納得の味。
でも、日本で食べる高級店の方が感動したね、・・・やっぱり。
「叙々苑」とか「正泰苑」とか「巨牛荘」とか。
キムチにカクテキにナムルに、ポテトサラダに、サンチュ・・・
食ってて空くと次々に運んできてくれて「もう、食えない」ってとこまで来た。
貧乏性だから出されたものは全部食べなきゃと思うし、食べたら食べたでお代わりとなる。
なんか野菜だけで腹いっぱいになったような・・・
店の外にはこれまでに訪れた有名人ってことで
竹原慎二や大泉洋の写真を見つける。
閉店時間の22時ごろまで店の中にいただろうか?
その後ホテルの方まで歩いていって、近くの安い居酒屋で飲む。つぼ八みたいなところ。
オーナーは親切な人だったが韓国語しか話せず、意志の疎通が果たせない。メニューも全てハングル。
かろうじて生ビールは伝えられたものの、つまみはいかんともできず、
「チキン?」と聞かれて「オーイエー」みたいなことを言ったら出てきたのが
フライドチキンが10本以上。
「2?」と聞かれて「ノーノー、1」と答えていて、「2」だったら大変なことになっていた。
焼肉あれだけ食った後に、食いきれないよ。
ほとんど残してしまった。
辛口で結構うまかったんだけどね。
ピーナッツとポップコーンだったか、これはただみたいでお代わりをくれた。
これだけあったらよかったな・・・
合計1人1000円もしなかった。
ホテルに戻る。
入口前に建っていたタクシーの運転手に「夜の遊びいかがですか?」と声を掛けられる。
乗ってったら、どこに連れて行かれただろう?
シャワーを浴びて寝る。疲れきって熟睡。
[2421] 韓国焼肉ツアー その10 2007-07-29 (Sun)東和免税店で解散。午後3時。
これからどうする?ってことになって特に予定なし。
地図を見ると近くに「景福宮」があったので、そこ行ってみようかと決まる。
地球の歩き方を参照すると、
「景福宮は李王朝の創始者李成桂が1394年に建てた王宮」とある。
大通りを北へと歩いていく。スタバがあった。
とてつもなく大きな劇場と美術館が並んで建っていた。国立劇場みたいなもんか。
美術館ではモーツァルト展が開催されていた。
景福宮周辺は東京だと霞ヶ関や国会議事堂に当たるのだろうか。
中央省庁のオフィスが入っていると思われる高層ビルがちらほらと建っている。
有名な「光化門」は工事中。白いフェンスで覆われていた。
回り込んで中に入り、広大な敷地を朱塗りの門の方までいくと、
真っ赤な民族衣装を身にまとった兵士たちが列を成しているところへ
鮮やかな青の民族衣装をまとった兵士たちが同じく列を成して現われて交代の儀式を行う。
「守門将交代式」という。
兵士たちは房飾りのついた薙刀のようなものを手にしている。
位の高そうな人たちが大きな旗竿を抱えている。
太鼓が打ち鳴らされる。韓国語、英語、日本語で状況の説明がなされる。
交代の儀式を終えて、青の人たちが門の中に入っていく、赤の人たちが門の外へと去っていく。
見れてラッキー。タイミングがよかった。
門の中へ。
大勢の人たちが入っていく。
僕と後輩はまごまごしていたらいかにも旅行者っぽく、
入口に立っていた係切符切りのおじいさんに入場券を買って来いと促される。
先輩は韓国の人たちの群れの中にすーっとうまいこと紛れ込んでただで入れた。
入場券を買いに行く。4000w なので600円弱か。
景福宮について、詳しくは
http://www.seoulnavi.com/miru/miru.php?id=1
「勤政殿」「思政殿」「千秋殿」と御殿が果てしなく続く。
(勤政殿は韓国最古の木造建築であるという)
どれがどれだったかみな似たようなものでよくわからず・・・
幾多の門をくぐりぬけ、ふと振り帰ると王宮の建物とその背景にソウルの高層ビル群。
「守門将交代式」の続きなのか、××殿のどれだったかにて、
赤の衣装を身にまとった人たちがまた列を成して現われて
なんらかの儀式を執り行って去っていった。
××堂・××閣クラスの小さな建物となると
そのいくつかは中に入ることができて、靴を脱いでお堂の中に入っていく。
位の高い人たちが住んでいたのだろうか。
白い壁、真っ赤な座布団、香炉を乗せる台、花鳥風月を描いた屏風、文机。
ここは外国人の観光客が多く、
ツアーのガイドに説明を受けながら歩いている日本人の団体をたくさん見かけた。
無料の日本語ガイドの説明を聞いているグループと途中で一緒になると
僕らはその端っこに混ざって時々話を聞いた。
とにかく奥の方まで行ってみようということになって、ひたすら歩き続ける。
いくつかの箇所は工事中となっていた。
奥の奥の最後の方に「香遠亭」ってのがあって、池の上に建てられた楼閣。
穏やかな水面に映る香遠亭と遠くに見える山、島に掛けられた小さな橋。
ここがベストなビューポイントであるようで
大勢の(セミ)プロ?のカメラマンが三脚にカメラを固定して写真を撮っていた。
一番奥の「集玉斎」まで行って、引き返す。
この景福宮の敷地内には「国立民族博物館」ってのがあるってことで
近かったので入ってみることにした。
北東部分。この辺りから子供向けエリアみたいなのも兼ねているようで、
十二支の像が飾られている広場では子供たちが龍の像に群がっていた。
あと、なんなのかよくわからず恐らく民話に関するものなんだろうけど、
「地下将軍」「地下大将軍」「地下女将軍」と書かれた杭のてっぺんに顔をくっつけたもの
(韓国版トーテムポール?)が立っていたり、
水木しげるの描く人間のような像が何体かまとまってぬぼっと立っていたりした。
国立民族博物館の中に入って、まずはコーラを飲んで休憩。1000w
http://www.seoulnavi.com/miru/miru.php?id=12
民族舞踏か何かを披露する催し物がちょうど終わったところで、
ホールから年配の観光客?がたくさん出てきた。
ここは常設展が3つかな、あとは企画展。
「ハバクと百済陶器」というのをやっていた。
常設展は韓国で理想とされる有名な貴族の生涯を再現することで
どういう儀式や祭礼が執り行われたのかを展示していく、といったもの。
当時使用された器物の展示だけではなく、
ミニチュアの人形を多用していて、わかりやすい。
3つのうちの1つ、日々の衣食住のコーナーではキムチを作る人々のミニチュアや
キムチのあれこれを解説するコンピューターの端末であるとか。
キムチも地方によって材料や味付けが全然違うようで、なるほどねえと思う。
見てると食べたくなる。
今後の料理としての方向性としてキムチの巻き寿司や
キムチ・スパゲティー、キムチ・バーガー、キムチ・ケーキ(!)が紹介される。
キムチ・バーガーはパンじゃなくて、ライス。これ、うまそうだ。
[2420] 韓国焼肉ツアー その9 2007-07-28 (Sat)再度自由の家の中をくぐり抜けて
(なんかもう、繰り返しになるけど異次元のトンネルのようだ)
今度は軍事停戦委員会の会議場へ。1階建ての小さな建物。水色に塗られている。
室内のちょうど真ん中を軍事国境線が走っている。
建物脇の地面にそのラインを示す棒が敷かれている。
ここを走り出してまたいでしまうと北朝鮮に亡命したことになる(のだと思われる)。
北朝鮮側の「自由の家」に当たる「板門閣」が向かいに建っている。これもまた大きな建物。
この板門閣を睨みつけ威嚇するようにしてサングラスをした兵士が何人か立っている。
僕ら観光客が近付いても微動だにしない。マネキンのよう。
呼吸さえしていないのでは、と感嘆する。すげーの連発。
とてつもない意志の力と非常な訓練により感情と肉体を制御しているのか。
それとも単なる慣れなのか。
どっちにせよ真似できない。
サングラスをしているのはなぜかと言うと、「敵」に視線を読まれることを避けるため。
この兵士が会議場の中でも、軍事国境線を挟みこむように東西に向かい合って立っている。
椅子とテーブルが並ぶ。
これらのものに一切手を触れてはならないと何度も言われる。
しかし写真を撮るのは自由。またしても撮りまくる。
話しかけたり触れたりしなければ、兵士と一緒に撮ってもよいということで、みんなが写真を撮る。
軍事国境線を越えて、一瞬だけ、ほんのわずかの距離でしかないけど、僕らは北朝鮮側に入る。
足を踏み入れる。
そしてまた、A組・B組に分かれて記念撮影をした。
外に出て、再度自由の家をくぐり抜けて。反対側の外へ。
軍事国境線で警備しているのではない兵士は多少緊張がほどけていて、普通に歩いている。
ブリーフィングのときに説明を受けた(旧)ソ連人の亡命とその銃撃戦の跡地に出る。
小さな記念碑のようなものが建てられていた。
またバスに乗る。
少し走って、「第三警戒所」へ。森に囲まれた小高い丘の上にある。
ここからまた北朝鮮の村を眺める。
ここで同行の兵士より、「気に入った女性に腕章を授与する」の儀式が行われる。
兵役最終日に観光客の案内をした兵士は記念に、↑を行う慣習があるのだそうな。
見事射止められた若い女性が、腕章をもらってた。で、2人並んで写真を撮った。
彼の口元はわずかに微笑んでいた。嬉しそうだった。
「いい儀式だなあ」と思う。ほんわかとしてて。
軍事国境線、38度線の停戦ラインにて警備するエリートの兵士とはいえ、若者は若者なんだよね。
彼がガイドに語って曰く、ここで任務についていると
女性という存在がいかにありがたくて、素晴らしいものであるか、感謝するようになるという。
「スカートを履いているというだけで、全ての女性が美しく見える」とのこと。
バスに乗ってまた移動。
ポプラ事件のあった場所には小さな石碑のようなものが置かれていた。
お墓なのだろう。命日になると、ボニファス大尉の妻が毎年訪問するのだという。
その近くに「帰らざる橋」
ほんと小さな、なんでもない橋。しかし現在は使用されていなくて、
通行止めを表すのか、水色の杭が入口に打たれていた。
最後に、土産物屋みたいなところに入る。
高麗ニンジンや民族衣装をまとった人形、アメリカ軍のTシャツといった一般的な土産物に始まり、
軍事国境線沿いで使用されていた鉄条網の切れ端(買おうかどうかかなり迷った)や
北朝鮮製の酒(買ってくと話題としてかなりいいけど、見るからにまずそうだった・・・)
なんてのがあった。
板門店の絵葉書が2000wと民芸品(ミニチュアのうちわ2つ)が4000wと
「板門店 韓国民族分断の現場」という韓国で出版した日本語のガイドブックを買う。
これ読むと、北朝鮮に対するほのかな敵意が感じられて、
「ああ、まだ根深いしこりが残っているのだなあ」ということがわかる。
この土産物屋の周りは広場になっていて、恐らく兵士にとっても娯楽・息抜きの場なのだろう。
スピーカーからはカーペンターズの「Yesterday Once More」が流れていた。
ガイドの方が兵士の1人と話し込んでいる。
普段外に出ることの全くない兵士たちに、
ソウルではこういうのが流行っているとかそういったちょっとしたことを教えてあげると
とても喜ばれるのだそうだ。
元々乗ってきたバスに乗り変えて、胸に着けていた通行証を返して、板門店を後にする。
非武装地帯を出た辺りで、ガイドの方がこんなことを語る。
昨年、2006年、サッカーのワールドカップが行われていた頃、
キャンプボニファスの中で韓国人兵士が同僚7人を殺害するという事件が起きた。
年少の兵士が先輩たちを銃殺。
陰湿ないじめがあったのではないかと噂される。
その日先輩たちは試合を見ていて、年少の兵士は試合を見せてもらえなかった。
それが引き金になったようだ。
足を打たれて死亡した兵士の母親は
発見して手当てが早かったならば命が助かったはずだ、と抗議をした。
閉鎖的な環境であったため、救助に向けての初動が遅れ、
実際何がどうだったのか詳細な状況は明らかにされないままとなった。
再度最北端の村へ。(非武装地帯の中の「村」ではなくて)
ここには遊園地があって、ここで休憩。
「自由の橋」というのがある。朝鮮戦争の捕虜たちはこの橋を渡って自由の身となった。
「板門店」という歴史的、かつ現在もアクティブな意味を持つ場所の近くに
遊園地だなんていったいどういうことだと年配の方たちは憤慨するらしい。
しかし、今の若者たちはこういう施設がないことには
この近くまでわざわざ来ることがないのが実情のようだ。
バスを降りる。なんだか日本のどっかの地方の
ゆるーーーい(そして儲かってなさそうな)遊園地そのまんま。
橋のたもとでは兵士を3頭身にした人形がお出迎えしてたりする。
でも自由の橋そのものは様々な人の思いを綴った様々な布でフェンスが覆われていて、
悲痛な何かを感じた。なんだか生々しかった。
いや、ほんとこれがなんなのか僕にはわからなくて
もしかしたら神社の絵馬みたいなものだったのかもしれないけど。
日露戦争時代の鉄道が見つかって、
外れの方の建物で修復作業を行っているというので見に行ってみる。
残念ながら中には入れず。
ガラス越しに覗いて見るとものすごくさび付いた車両の残骸のようなものが。
バスに戻る。
この近くに、横田めぐみさんの旦那を拉致し、その後脱北した工作員が住んでいるのだという。
脱北者の話になる。
北朝鮮の人々の死因の多くが、「飢え」
内臓がくっつく病気となる。
病院で働いていたとある女性の体験談:
「病院の中は-30℃にもなるが、暖房設備が何もない。
手術中に手がかじかむため、患者の切り開いた腹の中に手を入れて温めた」
昼食はソウルに戻る途中の、レストランや民宿の寄り集まっているエリアで。
食堂みたいなところに入って、バイキングだった。
プルコギやキムチ・カクテキに始まり、コチジャンをかけた刺身もあれば
餃子やスパゲティー・ミートソースやピラフまであって、超なんでもあり。
もちろん、プルコギとキムチ以外は「うーん・・・」ってところ。
でも韓国来て初めての本格的な食事だったから張り切ってしまって、
「もうだめ!食えねえ」ってとこまで腹に詰め込んでしまった。
瓶ビール5000wも何本も飲んで。今回の旅行で一番後悔した。
それにしてもバイキングかぁ。
4月末にペルー行ったときもそうだったが、一番当たり外れないってことで仕方ないか。
申し込んだときに昼食ありと書かれているのを見て、
無難にピビンバとか冷麺かねえ?と思ったんだけど。
でも、40人もいたら「これ苦手」ってことでクレームつける人もいるだろうし。
難しいもんだ。
食堂の外にUFOキャッチャーがあって、どうせ小銭使う場所他にないだろうとやってみる。
日本では絶対やらないのに。ライターとかその手のものが景品。
200wで2回やって、ちっともうまくいかず。
その後ソウルではあちこちでUFOキャッチャーを見かけた。
田舎の雑貨屋でアイスを売ってるようなああいう背の低い平べったい台の形をしている。
板門店に同行していたカメラマンが撮った集合写真を3枚貼り付けた
板門店の薄っぺらいガイドブックがバスの中で販売される。
1冊24,000wもして、とても高い。日本円では3,500円なので足元見られてる。
でも、せっかくの記念だしってことで買うことにする。
こういう写真2度と撮れないわけだし。
ソウルに着くまでの間、眠くなって寝て過ごす。
ガイドの方が最後の挨拶で、言う。
「占領の時代があって両国の歴史には悲しいこともあったが、
私たちは日本人たちに常に感謝の気持ちを持っていることを忘れないでほしい」
「韓国と北朝鮮とが統一される日がいつか来るのだと誰もが思っているのだし、
その日が来たならば私たちは誇りを持って迎えたい、そう願っている」
[2419] 7月27日(金) 韓国焼肉ツアー その8 2007-07-27 (Fri)バスから降りて、各国の旗が集まる小さな広場にて記念撮影。
参加者40人をA組・B組と2つに分ける。
最前列の左端になった僕はしゃがんで横断幕を持つ。横断幕には
「The Joint Security Area(JSA)
板門店 共同警備区域 安保見学
"IN FRONT OF THEM ALL"」と書かれている。
旗は、朝鮮戦争に出兵した16カ国のもの。
カナダとイギリス、トルコの旗があったのを覚えている。
1950年のことなのでもちろん、日本の国旗はない。
小雨がまた降り出す。
軍の施設の中にてブリーフィング。歴史的背景の説明がなされる。
前方に演壇とスクリーンがあって、僕らはパイプ椅子に座る。
1人1つずつ、国連のマークの入ったオレンジ色の通行証を受け取って左胸につける。
誓約書にサインをする。
例えば、最初にこんなことが書かれている。
「1.板門店の総合警備区域の見物は、敵性の地域への立ち入りを伴わない。
敵の行動(活動)によっては危害を受ける又は死亡する可能性がある。
(中略)
また、事変・事件を予期することはできないので国連軍、アメリカ合衆国及び大韓民国は
訪問者の安全を保障することはできないし、敵の行う行動に対し、責任を負うことはできない」
つまり、ここであなたが銃で撃たれて死んだとしても誰も抗議しないよ、ということ。
ザラ紙にそっけなく黒のインクで印刷されているだけ。
荒涼とした気分になる。
以下、説明を聞いてて覚えていること、メモったこと:
・軍事境界線上に200mおきに白い杭が打たれていて、実に1292本にもなる。
・軍事境界線すれすれに北朝鮮側と韓国側ともに「村」がある。
北朝鮮側は「Village of Propaganda」
韓国側は 「Village of Freedom」と呼ばれている。
これらの村はそのまま国威の表れとなるため、両国常に競い合っている。
例えば、国旗をより大きなものとし、より高い位置へ掲げること。
北朝鮮側の国旗は160mの高さで、縦30m×横14m
韓国側の国旗は 100mの高さで、縦18m×横12m
・「斧殺害事件」(ポプラ殺害事件)1976年
共同警備区域内のポプラの木が大きくなりすぎて北朝鮮の監視の妨げになると、
韓国側立場の国連軍の兵士が伐採しようとしたところ、
北朝鮮の兵士が襲い掛かってきて斧を奪い取り、ボニファス大尉を殺害。
それまで北朝鮮側・韓国側共に共同警備区域内にて自由に行き来していたが、
この事件の後、軍事境界線を境にお互い足を踏み入れないこととなった。
(キャンプ・ボニファスの名前はここから付けられている)
・1984年、(旧)ソ連の特派員が写真撮影を装って北朝鮮側から韓国側へと軍事国境線を超え、
これをきっかけに銃撃戦となる。韓国側は4名の兵士が死亡。
・「帰らざる橋」軍事境界線上にある。
捕虜の交換を1953年の朝鮮戦争の休戦時に行う。
北から南へ、1万人。南から北へ、8万人。
どちらに帰るか決めて橋を渡った後は2度と戻れないことから、この名前がついた。
・今も週1回中立国スイス・スウェーデンの立会いの下、会談が行われる。
・見学の間、手荷物ことを許されるのはカメラと望遠鏡のみ、
ウェストポーチの類は武器を隠し持っている疑いがあるため不可。
指を差すという行為は一切禁止。攻撃行為と見なされる。
ポケットに手を入れることも禁止。
傘も武器となりえるため、手に持ってはならない。
土砂降りだろうと、傘を差してはならない。
ブリーフィングを終えて、外に出る。
ここまで乗ってきたバスを乗り換える。
1コースしかなくて周りにはまだ地雷が埋まっている可能性のある、
世界一危険なゴルフ場がブリーフィングを受けた施設の近くにあった。
バスから見えたのはグリーンだけで、もしかしたらパターしか使えないんじゃないの?と思う。
この辺りはまだ、国道1号線。
兵士の宿舎の合間に田んぼがあったりする。ここの「村」に暮らす人たちの食料用。
案内係の若い兵士が同行する。
彼はなんとこの日が兵役最後の日で、明日から民間人となる。
それもあって、この日の案内は多くの物事を大目に見てくれる特別なものとなった。
厳しい人ならばあれこれ禁止で注意されて
どこに入ってもすぐ次に移動となったり写真撮影禁止となるのが、
あちこちでゆっくり時間が取れたし、写真もたくさん撮れた。
非常に幸運なことだとガイドの方は言う。
向かったのはまず、「自由の家」
家とあるけど、モニュメントみたいな雰囲気の、灰色の、四角い大きな建物。
中に入ると近代的なデザインの吹き抜けの空間になっていて、塵一つなく、
ヒソヒソ話していても、吹き抜けの中に吸収されてしまう。圧倒的な静けさ。
僕ら観光客は2列になって階段を上り、通り抜ける。
思い浮かぶ言葉は「真空」とか「絶対零度」
歩いていると異次元に紛れ込んだかのよう。
何もない山の中に首都のビルを一瞬にして移し変えて、
僕らはその中に永遠に閉じ込められている・・・
そんな印象を受けた。
自由の家を通り抜けると、「沈公園」の小さな楼閣へ。2階に上がる。
写真を撮っていいというので、あちこち撮りまくる。
はるかかなた、森の向こうに北朝鮮側の「村」がある。
アパートというか市営住宅のような白い、そっけない建物がポツリポツリと建っている。
デジカメで目いっぱいズームすると例の旗が見えた。
「あれが北朝鮮か・・・」と思う。
あのアパートのような集合住宅の中に北朝鮮の人たちが実際に生きて、住んでいるわけだ。
しかしどんなにズームしたところで、人々の姿は見えない。
シンと静まり返った抜け殻のように感じられた。
何もかもが幻のような・・・
[2418] 韓国焼肉ツアー その7 2007-07-26 (Thu)途中、休憩所に寄る。
日本のパーキングエリアのよう。
衣類を売ってたり、安食堂があったり。
古びて色褪せたカセットテープやCDが店先で売られている。
買う人なんているのだろうか?と不思議に思った。
MP3のプレーヤーから鋸まで、工具をたくさんに積んで売っている屋台があった。
「自由路」というひとたび戦争となったならば滑走路として利用される高速道路を走る。
ひたすらまっすぐの道。北朝鮮へと通じている。国道1号線。なんだか意味深い。
若者たちは免許取立ての頃に練習のため、あるいはデートのため、ドライブにやってくる。
最近の若者たちはここが北朝鮮との国境に近いということに無頓着・無関心であるという。
韓国最北端の村へ。人口3万5000人。
北朝鮮の第3の都市「開城」(ケソン)まで線路が伸びている。
敷設したのはキム・デジュン大統領の時代なので、つい最近のこと。
この工事に先立って、北朝鮮に対して800億ウォンもの援助を行った。工事費ではなくて。
日本円にして実に100億以上ですよ・・・
しかし、この線路がいつか中国・ロシアまで繋がればユーラシア大陸を横断し、
韓国からフランスまで線路で結ばれるということも夢ではない。
「鉄のシルクロード」その経済効果は計り知れない。
板門店の近くまで到着し、検問所へ。
兵士たちが立っている。
職業軍人もいれば、徴兵制度による若い軍人もいる。
徴兵された軍人かどうかは(どこにだったか忘れたけど)横線が入っていることでわかる。
その横線の数で年数が判断できる。半年で1本ずつ増えていって、最大4本。
徴兵制度について。
よく知られていることであるが、韓国の男性は20歳から30歳までの間に2年間の兵役につく。
多くの人は大学1・2年の時期を選んで行く。
兵役を終えると誰もがたくましくなって戻ってくる。
角のあった性格も円くなる。子供っぽい部分も大人となって磨かれる。
(ついでに、テコンドーは二段ぐらいの腕前になる)
韓国の女性たちは兵役の終わっていない男性を将来を託す相手とは見なさないのだそうだ。
兵役について最初のうちは恋人から手紙が来るが、やがて途絶えるようになり、
横線3本の頃、たいがいは別れを迎える。
横線4本ともなると待っていてくれるのは家族だけ。そのことが身にしみるようになる。
なので韓国の若者は親孝行の気持ちを強く抱くようになる。
だいたいの人口に対するだいたいの兵士の数:
日本 1億の人口に対して、 67万人
韓国 4800万の人口に対して、 27万人
北朝鮮 2700万の人口に対して、100万人
バスに兵士が乗り込んできて、パスポートの確認を行う。
旅行会社の用意するリストを手に、パスポートの記載内容と顔写真をチェック。
検問所は軍隊のジープや旅行会社のバスだけではなく、普通のトラックも通っていく。
この非武装地帯の中に存在する「村」で生活している人々へ物資を運ぶためのもの。
検問を終えて「統一大橋」(という名前だったと思う)を渡る。
9年前に現代(ヒュンダイ)財閥の創始者である鄭周永がこの橋を渡った。
元々北側の貧しい農家の生まれで、
若い頃に仕事を求めて牛1頭だけを連れて南側へと向かった。
その時の「利息」として、1001頭の牛を北朝鮮に贈ったのだという。
次の検問所へ。
村の家々が寄り集まっている。普通の、小さな家。
ここの村に住む人々は徴兵も納税もなしと、特権有り。
ソウルより3倍の豊かさで暮らすことができる。
(停戦前から元々暮らしていた人たちなのか、
それともなんらかの事情があって選ばれてこの中で暮らしているのか、聞きそびれた)
2番目の検問所へ。もう1度パスポートのチェックが行われる。
1番目の検問所はまだのんびりとしたもんで兵士たちも余裕ありそうだったが、
ここからはもうピリピリとした緊張感が痛いぐらいに伝わってくる。
チェックする軍人が僕らを見る目つきが全然違う。
まさに軍事基地の中。
この中で勤務する兵隊はエリート、かつ、
北朝鮮に対して優位な立場を示すために容姿まで採用の基準とされている。
なので「かっこいい」兵隊しかいない。
さらにその中でも、軍事境界線上に位置する会談場の警備(北朝鮮の兵士と向かい合う)や
外国人観光客相手に説明を行う軍人はエリート中のエリートとなる。
ここで任務に就いたことを誰もが一生の誇りとする。
「外国人観光客相手に説明を行う軍人」ってのは韓国全土でたった10人しかいないそうだ。
北へ亡命することがあってはならない、というのが第一の条件となるため、
金持ちの子息であることも選定の理由になったりする。
日本人の僕からすると北に亡命?そんなのありえんの?と思ってしまうが、
韓国の軍隊は真剣にその懸念を危惧しているようだ。
「北に入れば向こうで英雄扱いされる」といったプロパガンダにかどかわされてしまうのか。
基地(キャンプボニファス)の中を進んでいく。
宿舎が並ぶ。アメリカの旗を見かける。米軍はその多くが撤収し、今は46人が残るのみ。
国連軍はまだ多くいるのかな。
なお、韓国人でここ板門店を訪問するのは原則不可。
政治家たちの表敬訪問であったとしても申請より許可が下りるまで1年半を要するという厳しさ。
あと、そうだ、ジーパンでも実はいいみたいね。
Wikipediaを見ると。穴が開いてたりしなきゃいいみたいで。
でもジーパンの人はいなかったな。サンダルもなし。
僕は綿パンにスニーカーで、上はTシャツに半袖のシャツ。
半袖のシャツは前を開けて裾を出していてまあラフといえばラフだったんだけど、
誰かに何かを注意されるということはなかった。
[2417] 韓国焼肉ツアー その6 2007-07-25 (Wed)免税店の前へと戻る。観光バスが停まっている。時間が来て、乗り込む。
ほぼ満席、みな日本人。ガイドの女性の方は日本語で話す。
板門店まではソウルから北へ40分の距離。
その間、ガイドの方の解説を聞く。
(メモを元に書いているけど、聞き間違いは多々あるかも・・・)
板門店とは南北朝鮮の停戦ライン上にある緩衝地帯。横800m、縦600mの広さ。
映画では例えば、「JSA」の舞台。JSAとは、Joint Security Area の略。
1910年より1945年の第二次大戦の集結まで36年間、朝鮮半島は日本の統治下にあった。
終戦(日本の終戦記念日は朝鮮の独立記念日と言える)を迎えてすぐ
米ソを中心とした信託統治となるが、
ソ連の支援を受けた北側は共産主義化して独立、アメリカの支援を受けた南側も独立、
朝鮮戦争全土を赤化せんとする北朝鮮側が奇襲攻撃を行うことで1950年に朝鮮戦争が勃発する。
南側は国連軍が味方につき、北側は中華民国の支援を受ける。
南北に分断された国家にて、映画「ブラザーフッド」で描かれたように
家族や親類同士が戦い合い、殺し合った。
押しつ押されつを繰り返すうちに膠着状態となり、
1953年にトルーマン大統領の指揮の下、停戦の合意がなされる。
「板門店」という居酒屋にてなされた会談は実に1076回にも及び、
その最後の会談はたった11分のみ。
しかし、この会談から先、今に至るまで南北は分断されたままとなる。
このときの停戦ラインがいわゆる「38度線」となる。
余りにも急に分断が決まったため東西ベルリンのように壁を建てることはかなわず、
一定の間隔で立て札を立てただけ。しかもその立て札も古びてしまった。
森と田畑が広がるだけ、その周りに村があるだけ。
このとき取り決めた非武装地帯のことを「DMZ」(DeMilitarized Zone)と呼ぶ。
朝鮮半島を人体に例えて上半身を北朝鮮、下半身を韓国としたとき、
「DMZ」いわゆる非武装地帯は腰に巻いたベルトに当たる。
しかしそのベルトは南北4km、東西に241kmに及ぶ。
非武装地帯のはずなのに、それは「人体に対する武装」との解釈で
北朝鮮も韓国も互いに地雷を埋めまくった。
よっていまだ地雷が無数に埋まったまま。
(そんな場所を、僕らは今バスに乗って向かっていたわけだ)
日本人による支配について、ガイドの方は
悲しいとか悔しいという以前に反省の気持ちを強く抱いていると語る。
当時行われたオリンピックで金メダルを取った選手がいたのだが、
それは記録上日本のメダルとなった。
日本人の苗字に変えさせられた。
「金」さんは「金田」となり、「林」さんは「小林」となる。
バスは漢江沿いを走る。
ソウル市郊外を過ぎた辺りだろうか、38度線に沿うように流れるイムジン河と合流する。
見ると川沿いに有刺鉄線が張られ、何百mかおきに見張り台が配置され、
拡声器や望遠鏡が設置されている。
川岸は草原か田畑となっていて建物が建っていることはない。草は短く刈り取られている。
北朝鮮から泳いで渡ってくるスパイがいないか、見張るため。
冬、雪が降るとこれら田畑・草原は軍隊の演習場となる。
ガイドの方の世代は北朝鮮の国民は人間ではない、「見分け方がある」と教えられて育ってきた。
「山から下りてきたおじいさんがキョロキョロしていて、靴が土で汚れている」
「タバコの値段がわからない」
「深夜にラジオを聴いている」
今はたぶん違うのだろうけど、昔はそういうことが、本気で教えられていたのだ。
子供たちは、北朝鮮の国民を「おばけ」のようなものだと思った。
離散家族の問題は解決されないまま。
ガイドの方の祖父も北朝鮮にて暮らしている「はず」だとのことだが、
どこに住んでいるのか、今も生きているのか、何も分からない。
「地球の反対側よりも遠いのです」
「イムジン河」のテープがかけられる。
フォーククルセダーズが歌ったのだったか。
発売されることのないまま、発禁扱いとなってしまった幻の歌。
僕は生まれて初めてこの曲を聞いた。
(映画「パッチギ」で重要なモチーフになってましたよね)
一部を引用します。
朴世永原詩・松山猛訳詞・高宗漢作曲
-------------------------------------
北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの
-------------------------------------
サビの部分で「イムジン河 水清く とうとうと流れる」と歌われる。
どこまでも果てしなく広がる灰色の川と、草原の緑色。
川の向こうは、北朝鮮。そう、すぐ向こうに。
野原と森の他にこれと言って何もない。遠くに村のようなものが見える。
この風景と一緒に聞くのならば、2度と忘れられない曲になる。
少なくとも、僕はそう。
一生、頭から離れないと思う。
全長256kmの長さ。そのうち2/3は北朝鮮を流れる。
人が立ち入ることがないため、魚や動植物の宝庫であるという。
その季節ともなると渡り鳥たちが無数に集まる。
[2416] 韓国焼肉ツアー その5 2007-07-24 (Tue)21日の土曜日。
先輩が携帯を目覚まし代わりにしたのか、6時に振動音が聞こえた。
7時に起きることになっている。ウトウトする。
僕が日本から持ってきた7時に鳴る。起き上がって寝ている後輩を起こす。
ベランダに出る。外はどんよりとした曇り空。
ソウルの夏の空はいつもこんななのだろうか?初めての朝なのでよくわからず。
先輩や後輩がシャワーを浴びている間、デジカメで撮った写真を整理する。
7時半に部屋を出る。
板門店観光。東和免税店に旅行会社のツアーデスクがあって、そこに集合することになっている。
地図を見るとなんとなく場所がわかったので、歩いていくことにする。
光化門の近く。30分もかからないだろう。
昨日の夜ホテルの周りを歩いてみたのでだいたいの土地勘がつかめた、・・・ように思った。
「乙司路」という大通りに出て、西の方角にまっすぐ歩いていくと有名なロッテ百貨店に出る。
明洞(ミョンドン)地区のこの界隈はソウルでも最もにぎわっているところだ。
そのまま進むとソウル広場とその奥に徳寿宮があって、ここで方角を変えて北へ。
西へ北へと15分ずつ歩く感じか。大通り沿いに行くのだから間違えるはずがない。
土曜の朝の早い時間。人通りはほとんどない。開いている店もない。
のんびりとした気分で歩いていく。
中心部へと向かうに連れてモダンな高層建築が増える。たいがいは銀行のビル。
通りを挟んでロッテ百貨店の前に差し掛かる。
先輩がコーヒー買いたいと言うので、外資系のコーヒーショップへ。
僕らは中に入らず、外で待っている。
すると韓国人の、初老のがっしりとした体格の男性が近付いてきて
「日本人ですか?」と声を掛けてくる。
そうだと答えると、あれこれ話し始める。
昔は韓国からアメリカに旅行しようとしても当時のお金で 3000w
(3000 ドルだったか?全然違うけど)しか持ち出せず、
韓国の札はICチップが入っていたから検査で引っかかったけど
日本の札はICチップが入っていないので、足りない分はこっそり隠れて持ち出したもんだ。
そういう話。
「ふーん」と思って聞いていたら、
日本円でいくらいくらを韓国ウォンでいくらいくらで両替してあげよう、と切り出される。
海外旅行の鉄則として、こういう連中の交換レートはぼったくられるだけ。
「いらないです」と言って背を向ける。
しつこく食い下がってくるかなあと思っていたら、さっさと諦めてどこかに消えた。
ほっとする。世界のあちこちの国で、
こういうときってとにかくしつこかったよなあということを思い出す。
屈折してるけど、「韓国っていい国だなあ」と思った。
こういう輩に出会ったのは、結局このときだけだった。
そのとき僕らは周りを建物に囲まれたちょっとした広場のような場所にいて、
シーソーで遊ぶ子供たちの銅像が建っていた。
たまたま目の前に、ソウルナビで見つけて印刷した焼肉屋のうちの1つ、
「コムソッチプ」を見つける。夜はここまで戻って来て、この店にしようと決める。
向かいのロッテ百貨店側に渡りたいために、地下街へと下りていく。
ソウルって地下の街なんですね。地下鉄の駅だけじゃなく、
例えば僕らの泊まっていたホテルのすぐ近くにも小さな地下商店街があった。
履物など日用品の店や、安食堂など。
向かい側に出る。
真ん前で見るロッテ百貨店とロッテホテルはまるで聳え立つかのよう。とにかく大きかった。
この頃だろうか、雨が降り出した。まだ小雨。歩けなくもない。そのまま歩き続ける。
すぐにも、ソウル広場の前へ。
ここで問題が起こる。横断歩道を渡っていければよかったのだが、
工事中でいったん地下に下がらなくてはならなかった。
地下を歩いているうちに方向感覚がなくなり、たぶんこっちだろうという出口から地上に出る。
で、そのまま歩き続ける。おかしいと思い始める。
スタバがあったりトンカツの「さぼてん」があったり、こじゃれたオフィス街なんだけど
道が開けて「徳寿宮」に出そうな雰囲気がまるでない。
焦りだす。集合時間は8時20分。あと10分しかない。
雨も強くなり出す。
ギブアップしてタクシーを探す。
とりあえずロッテホテルの前まで戻る。
停まっていたタクシーに乗せてもらおうとする。
運転手が親切にも降りてくるので、地図を見せて東和免税店を指差すと、
「予約はあるか」みたいなことを聞かれた。
ないと答えると、ホテルの予約のある人専用で乗せられないと言われる。
困ったなあと思っていると、その運転手は走っていた普通のタクシーを呼び止めてくれた。
親切だなあと嬉しくなる。感謝。
タクシーに乗って走り出す。大通りを突き進む。
前の席に座った後輩は韓国語で話しかけられる。
何を言ってるのか3人ともわからず。それでも構わず運転手のおっさんが喋り続ける。
治安の悪い国だとこのままどっか連れてかれるんだよなあ、なんてことが怖くなるが、
タクシーは何事もなく東和免税店の前へ。初乗りとほとんど変わらない2700w、400円ぐらい。
近距離で安くてごめんなさいと思う。銀座から乗って日本橋までぐらいの距離か。
運転手のおっさんも一生懸命ソウルの観光案内みたいなことを語っていたんだろうな・・・
東和免税店の中へ。
すぐにもツアーデスク(というか机が出ているだけ)が見つかる。チケットをもらう。
出発は8時50分だった。なんだ、焦る必要はなかった。
時間が余ったので、近くのコーヒーショップへ。「HOLLYS COFFEE」ってとこ。
日本で見たことないけど、韓国版ドトールみたいなものか。
きれいな女性が1人でコーヒーを飲んでいたり、初老のビジネスマン2人が打ち合わせしていたりした。
コーヒーの入ったいろんな色のカップが
アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンのように
縦横並んでいるポスターが壁に貼ってあって、かっこよかった。
カプチーノを飲む。3050w(450円ってとこか)
トーストがセルフサービスで無料だったので、先輩が焼いて僕の分も持ってくる。
バターを塗って食べる。結構うまかった。
[2415] 韓国焼肉ツアー その4 2007-07-23 (Mon)無事到着して、空港の中を進んでいく。
入国審査はパスポートを出したら無言のまま終わった。楽だった。
手荷物受け取りのところの壁に巨大な、韓国風のうちわが飾られていた。
先輩の持っていたソフトバンクの携帯は電波が入るみたいで、
試しに会社に掛けてみたらつながった。素直に驚く。
特殊なサービス契約してるわけではない、普通の携帯。
昔は海外で使うには手続きしたり、そういう機種じゃなかったらいけなかったり、大変だったのに。
時代はここまで来たのか。
税関を出ると現地係員の女性の方がHISの札を掲げて待っていた。
他にも何組かまだのようで、しばらくの間到着ロビーで待った。
ふらっと外に出てみる。東京ほどじゃないにせよ、案外蒸し暑い。
これと言って「匂い」は感じない。その国特有の匂いってやつ。
僕は正直な話、キムチみたいなのを想像してた。そんなことはなかった。
バスに乗ってホテルへと向かう。
「漢江」という川に沿って高速道路が続く。
国会議事堂の大きな建物の側を通り過ぎる。
煌々と明かりの灯った街並みが果てしなく続く。
橋のイルミネーションがケバケバしい色使いだったりする。
橋を渡ってソウル中心部に入ると、途端に渋滞。
いつの間にか高速道路を降りていたようだ。
ノロノロノロノロとゆっくりとしか進んでいけない。
23時近く。こんな時間でも車に乗る人が大勢いるってことか。
ここもまた普通に、車社会。
現地係員の女性がオプショナル・ツアーのリストを配る。
どれか申し込みますかと聞かれて、どれもいらないと答える。
じゃあ明日の予定は?という話になって他の旅行会社で板門店を申し込んでいると言うと、
どうしてうちの旅行会社で申し込まない!?とブーブー言われた。
HISのサイトのオプショナル・ツアーの箇所を参照したら
土曜受け付けてないとあったから他を当たったのに・・・
東京で運営しているサイトと現地の現場とではあれこれ事情が異なるんだろうな。
それでも最後には、集合場所の東和免税店に行くには何時にタクシーで、みたいなことを教えてくれる。
(現地係員の人は恐らくHISにて雇われているのではなく、
提携している現地の旅行会社のスタッフなのだろう。
HISだけはなくて、maptourの札も持ってたし)
あと、射撃場や眼鏡屋のクーポン券が配られる。これもまた興味なし・・・
旅程表には、到着後お土産屋に案内するってあったんだけど、
時間が遅かったってことで今回はなし。助かった。
こんな夜遅くに着いて疲れてるのに
どっか連れ回されて物買わされそうになったらとんでもなく不機嫌になるよ。
遅くなのに空いている店が多い。
学生たちが歩いている。ダンキン・ドーナツの店舗を見つける。
その他日本にも進出しているチェーン店を多々見つけた。ドミノピザとかね。
「日本に進出している=韓国にも進出している」なのかもしれない。
店の外にテーブルと椅子を並べて、涼んでいるのか、
暗がりの中で酒を飲んだり話をしている人たちの姿をよく見かけた。
ホテル到着。
明洞(ミョンドン)地区の外れの、「豊田」(プンジョン)ってとこ。
外見が無茶苦茶古びていて、フロントも簡素で
「大丈夫か?ここ」と思ったのに、部屋に上がったらかなりきれいだった。
外壁は現在改装中であるという。
東京で申し込んだHISの方からは、
「最悪ツインベッドに追加の折り畳みのベッドの可能性もあります」って言われてたけど、
そんなことはなくてトリプルだった。よかった。
韓国のホテルは環境保護のため、他の国では使い捨てが普通のアメニティの数々が有料だったりする。
歯ブラシや歯磨き、剃刀、シャンプーとリンス。地球の歩き方に書かれている。
ここもまたそうだった。ご利用案内みたいなのを見てたら確か、書いてあった。
(さすがに石鹸は使いかけを他の客に回すわけには行かないので、使い捨てだった)
あと、ソウルがそうなのか韓国がそうなのか、
法律によって他所からホテル内への飲食物の持ちこみが禁止。
ルームサービス(の冷蔵庫)を積極的に利用してくれということか。
高いに決まってるから使いたくなくて近くのコンビニで買ってくることになるのを、ダメと言われている。
「ケチ!」と思う。
とりあえず外歩いてみっかってことになって、下りていく。
裏通りはほとんどが営業時間を過ぎて真っ暗だった。
ひっそりと、明かりの落ちた色とりどりの看板が並んでいる。
もちろん、ハングルで読めない。
だけど妙な親近感が自然と巻き上がってきて、
昭和の世界に迷い込んだようで、ほのかなノスタルジアを感じた。
いくつかの屋台はまだ開いていて、にぎやかにしていた。
卓を囲んでおでんのようなものを食べていた。
歩いているうちにファミリーマートを見つける。
(その後あちこちで見かけた。日本のコンビニだとセブンイレブンも多かった。
他のコンビニは目にしなかった。ローソンとか)
中に入って、ハングルの商品が並ぶ棚の間を歩く。
プリングルスやキシリトールなど日本でも見かける商品が多く、
だけどびっしりとあちこちハングルで書かれていて。
パラレルワールドってこんな感じなのか・・・
ミネラルウォーターを買う。600w なので100円以下。安いもんだ。
ホテルの人にばれないよう、無理やりポケットの中に押し込んでフロントの前を通った。
僕らの泊まっていたホテルの近くは印刷関係の小さな、カラフルな工房が多くて、
真夜中だというのに大型の工業用印刷機が稼動しているところが多かった。
日本の問屋街のようにジャンルごとに寄り集まっているのだろう。
(2日後、22日に東大門市場まで歩いていこうとしたら、
途中カーペットやタイルの問屋の集まっている地区に差し掛かった)
歩いていたら、酔っ払いが大声で喧嘩していて、それを警察が取り押さえようとしていた。
それを見て「ああ、韓国っぽい」と思ってしまった。
血気盛んな人たちってイメージがあるんですよね。
部屋に戻って、確かサッカーの試合をちらっと見た。
シャワーを浴びてベッドの中に入っていると眠くてしょうがない。
さっさと寝ることにする。
[2414] 韓国焼肉ツアー その3 2007-07-22 (Sun)ここから先は時系列に沿って、日記として書きます。
20日の金曜日。
ザックに荷物詰めて会社に出かけて、普通に仕事する。
(午前中お客さんのところに打ち合わせに行ったら、昼、うなぎをおごってもらった!ワーイ!!
子供みたいだけど、こういうの素直に嬉しい。夏はうなぎですよ)
午後は半ば上の空で仕事。
ソウルの情報を集めようとして、「ソウルナビ」見たり。
http://www.seoulnavi.com/
で、17時半の定時を待たずして17時前に会社を出た。
先輩・後輩とは浜松町で待ち合わせをして、モノレールに乗って、羽田へ。
第2ターミナルで降りて、国際線のターミナルに向かうためにシャトルバスに乗る。
すぐ隣なので時間はかからない。
国際線のターミナルはとても小さくて、
恐らく東京−ソウル(羽田−金浦)間しか就航してないのでは?
目につく航空会社はアシアナ航空、大韓航空、JALとANAだけ。
台湾や上海にも行ってんじゃないか?と勝手に思ってたけどどうやら違うようだ。
HISのカウンターで航空券を受け取って、搭乗手続き。
手荷物の検査を受けて出国手続き。
何もかもがこじんまりとしていて成田のミニチュアみたいだった。
出国待ちのロビーも免税店もほんと小さかった。
印象としては、成田の1/100のスケール。
搭乗口は2個のみ。
会社からそのまま出てきた僕らは何も食べていない。
どっかあるだろうと思って出国手続きをしたら、
あるのは小さなカウンター1つのコーヒースタンドのみ。
その前にテーブルと椅子がいくつか。
テーブルが1つ空いたタイミングを狙って席を確保すると生ビールを飲んだ。
つまみらしいものが他になかったので、ミックスナッツをつまみにして。
乾杯して、搭乗時間が来るまでひたすら与太話。ビールもお代わりして。
「会社から直、羽田」今から行くぞ!となるとテンションも上がってきて
もしかしたらこの時が一番楽しかったかもなー。
時間が来て飛行機に乗る。座席数2−3−2の中型のジャンボジェット。
以前ちらっと書いたようにHISのチャーター便と思ってたんだけど、
よくよく考えたらそんなわけはなくて、周りは普通のビジネスマンや普通の旅行者ばかり。
韓国系の人が半分ぐらいか。
金曜の夜のフライトってのが関係するのか、満席だった。
僕らが乗ったのはアシアナ航空、19:30の便。
機内食が出る。
プルコギとライス、キムチが出てきたあたりはさすが韓国。うまかった。
小さなチューブ入りのコチジャンをもらえるんですよね。これがとても嬉しい。
他にサラダと丸パンと小さなお饅頭。飲み物は普通に缶ビールがOKだった。
「hite」ってのと「cass」ってのがあるようで、僕は「hite」ってのを飲んだ。
うーん?水っぽいかな・・・
フライトは2時間弱、食べ終わってまったりしてるとすぐにも着いてしまう。
プリントアウトしたソウルナビのページや地球の歩き方、
後輩が空港で買ったガイドブックを読んでたらあっという間に着陸へ。
ちょっとだけ機内のゲームをやったかな。
例によって「MAGMA ZONE」ファミコンの「アルカノイド」そっくりな。
機内放送の音楽のところを見たら不思議なセレクションで驚く。
アルバムが聞けるみたいなんだけど、
Al Kooper 「Super Session」 (1968)
Alan Persons Project 「Eye in the Sky」 (1982)
Jimi Hendrix 「Are You Experienced ?」 (1967)
The Police 「Regatta de Blance」 (1979)
Neil Young 「Massay Hall」 (1971)
Beach Boys 「Surf's Up」 (1971)
なぜ Alan Persons Project が?韓国では人気なのだろうか??
それになぜビーチ・ボーイズが60年代の夏でビーチなアルバムじゃなく、
70年代の暗くて地味なアルバムを選ぶのだろう?
(重箱の隅を突付くようでアレだけど、「1971」とあるのは正確には間違い。
これはあくまで演奏された年であって発売されたのは今年であることに注意。
しかも「ビーチボイス」になってた・・・)
毎月レパートリーが変わってて、いろんなバリエーションが選ばれていった果てに
今はこうなったってだけなんだろうな。
でも、いきなり目にするとギョッとする。
僕みたいな人間からすれば気になって気になって気になって仕方がない。
「うーむ?」と思いながらあれこれコントローラーをいじくっていたら
画面がハングして黒の背景に「halted」の文字が。
再起動が始まる。ペンギンのキャラクターが出てきて、文字列がスクロールする。
OS が Linux だということがわかる。
そういえばユニセフの募金活動を機内で行っていて、
フライトアテンダントが袋を持って通路を歩く。
何人かの人が心優しくも袋の中にお金を入れた。
[2413] 韓国焼肉ツアー その2 2007-07-22 (Sun)韓国から戻ってきました。
遡って書いてるので話の流れがおかしいですが、気にしないで下さい。
とりあえず、旅のダイジェストとして3日間の支出を
覚えている限り、メモに取った限りでリストアップします。
これを読むと3日間がどんな感じだったのかだいたいわかるのでは。
ソウルの通貨は「ウォン」で略して記号で書くと「w」となる。
だいたい、日本円の7分の1に当たる。
なので以下、そういう計算で。
あと、「ソウルナビ」というサイトがあって、
今回の旅行であれこれ情報を集めるに当たってはここを参考にした。
焼肉屋のクーポンもあったり、とても便利だと思う。
このサイトの地図を参照すると、雰囲気が多少伝わるのでは。
■ソウルの地図
http://www.seoulnavi.com/map/allseoul.html
■ソウルの地下鉄の地図
http://www.seoulnavi.com/map/subway_l.html
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2007/7/20(Fri)
・ホテルの近くのファミリーマートで買った韓国メーカーのミネラルウォーター
600w
計600w(86円)
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2007/7/21(Sat)
・板門店ツアーの集合地である「東和免税店」まで行こうとして
道に迷い、ロッテ百貨店付近からタクシーに乗る
2700w
・東和免税店の近くのコーヒーショップ「HOLLYS COFFIE」にてカプチーノ
3050w
・板門店内の売店で買った絵葉書セット
2000w
・同じく、民芸品(ミニチュアのうちわ2つ)
4000w(2000w × 2)
・同じく、韓国の出版社の出している書籍「板門店 韓国民族分断の現場」
10000w
・板門店のお手軽なガイドブックに
板門店ツアー同行のカメラマンが撮影した写真を挟み込んだ冊子
24000w
・帰りに寄った旅行客用のレストランのバイキングにて飲んだビール
7000w(最初の1本は2000w分出して、2本目は全額5000w)
・このレストランの外にあったUFOキャッチャー
400w(200w × 2)
・「景福宮」の入場料
4000w
・景福宮内の「国立民族博物館」にて買った展示物の絵葉書3枚
1500w(500w × 3)
・国立民族博物館で飲んだコーラ
1000w
・地下鉄(3号線の「景福宮」から2号線の「乙支路入口」まで)
1000w
・明洞(ミョンドン)の焼肉屋「コムソッチプ」
66000w(198550wを3人で割る)
・ホテルの近くの安い居酒屋で生ビールを飲んで鳥の唐揚(韓国風に辛口)を食べた
6000w(確か生ビールが2000wで4杯飲んで、唐揚が10000wで計18000wとなり、これを3で割る)
計132,650w(18,950円)
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2007/7/22(Sun)
・東大門市場(トンデムンシジャン )のファッションビル
「ミリオレ」裏のコーヒーショップ「Seattle」で飲んだアイスコーヒー
5500w
・地下鉄(1号線の「東大門」から「鍾閣」まで)
1000w
・鍾路(チョンノ)の「韓国観光名品店」で買った、会社のお土産用に唐辛子入りチョコ
27000w(9000w × 3)
・同じく、韓国のお茶のセット(実家用、大家さん用)
6000w (3000w × 2)
・鍾路(チョンノ)の屋台で買った棒に差したチヂミみたいなやつ
1500w
・地下鉄(3号線の「安國」から「乙支路3街」まで)
1000w
・空港途中の日本人観光客向けのお土産屋で実家用に買った飴
4000w
・金浦空港のフードコートで食べたプルコギピビンバ
6000w
・同じく缶ビール「hite」
3000w
・金浦空港のギフトショップで買った韓国語版キシリトール
3000w(600x × 5)
・金浦空港の免税店で買った韓国産タバコ「This plus」
13740w
計71,740w(10,249円)
3日間合計204,990w(29,284円)
約4万円分両替して、290,000wとなる。
戻って来て再度両替したら、86,000w残ってて、11,170円となる。
なんか微妙に合わないんだけど、ま、いいか。
文字の後に「w」と書いていると、「笑う」みたいだ。
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一言で韓国の印象を語ると、細かな差は多々あれ、
日本と韓国というかもっと正確には東京とソウルはよく似ている。
外国にいるっていう気が余りしなかった。
ものすごく大雑把に言うと、左ハンドルで文字がハングルなだけ。
でもソウルの方が断然アジアっぽいエネルギーがあって、生々しい。
いる間ずっと腹いっぱいなのにさらに食おうとしてばかりで、確実に太った。
「これはうまい!すごい!」というものには出会わなかったけど、
水準が高くて機内食だろうと、空港のフードコートだろうと、それなりにうまかった。
韓国はおいしいね、やはり。
もっともっと食べたかった。
[2412] 韓国焼肉ツアー その1 2007-07-20 (Fri)今日の夕方、定時よりちょっと早く会社を抜け出して羽田からソウルへ。
海外行くっていうのに、あんまり実感がない。
5時起きで準備をする。
Karrimor のザックに着替えを詰めて、
あと持ってくのはシェーバーと目覚ましとデジカメ、パスポートぐらい?
地球の歩き方を読んだら韓国のホテルでは歯ブラシは有料とあったので
4月にペルー行ったときの歯磨きセットを探す。
2日分の着替えしかないようなものだから、荷物がえらく軽い。
国内旅行とたいして変わらない。
先週末HISから旅程表が送られてきて
(とは言ってもエアーとホテルだけなのでたいしたことは書かれていない)
昨日ギリギリで別の旅行会社から板門店ツアーの案内を受け取った。
一緒に行く先輩がパスポートの期限切れで再申請を行った都合上、
あれこれの手続きが遅れて、土壇場で間に合わせた。
ほんとならジーパンとサンダルでぶらっと行きたかったところなんだけど、
板門店訪問につき、ちゃんとスニーカーを履いて下は綿パン。
(まあ実際のところ日本人やアメリカ人はジーパンが多いらしくて、
このところ服装の規定は緩いらしいみたいね)
今日は上にポロシャツを着ていて、つまり襟付きのシャツってやつ。
これでポロシャツの裾を中に入れたら
会社のカジュアルデーのマニュアル通りの格好。僕にしては珍しく。
この格好で今、ゴルフだって行けるよ。
所持金は4万。羽田で両替。
ギャンブルや風俗に行くつもりはないから、実質2万も使わないんじゃないかね?
明日の夜、焼肉食べて飲んでっていうのにどれだけかかるか次第。
相変わらず自分にお土産って絵葉書ぐらいだろうし、会社や母にちょこっと買っていくぐらい。
会社にはゲテモノ系の食い物を買っていく予定。
結局韓国やソウルのことを調べてる暇はなく、
どういう観光地があるのかとかよくわかってないまま。
まあ繁華街をブラブラ歩いて終わるんだろうな・・・
1日しかいないようなもんだから、それでもいっか。
羽田発のフライトはHISのチャーター便らしく、
ってことは何十人と同じツアーってことになるんだろうな。
これはこれでこういうの初めてだよ。
お互い何の関係もない大勢の人たちを現地係員が世話するっていうのは。
HISから送られてきた注意事項を読んでたら
このところ空港までの送迎を利用しない人が多く、
混乱の元になっているみたいなことが書かれていた。
まあそういうものなんだろうね。
あー早く焼肉が食べたい。
果たしてソウルはどんな場所なのか?
今普通に会社にいて明日の昼は北朝鮮を垣間見るのかと思うと、
なんだか不思議な気分でいっぱい。
[2411] 中国という国 2007-07-19 (Thu)帰省した時に母と食べていると何度か、
「中国の食べ物は避けるようにしなさい」と言われた。
その度に僕は、「東京のスーパーは賢いから、この時期中国産の食べ物は売らないよ」と答えた。
ほんとかどうかわからないけど。
肉まんの材料にダンボールが使われていたという例の話題。
今日、電車の中吊り広告を見て、あれはやらせだったということがわかる。
北京のテレビ局による捏造。
驚く。これはいったいなんなのだろう?
どこにどういう目的や理由があって、こういうことをしたのだろう?
どこの誰にどんな得になるというのだろう?
珍奇なモノを報道して耳目を集めたかっただけ?
今更ながら、中国という国がよくわからない。
醤油の原料に髪の毛が使われていた。
子供たちを誘拐してレンガ工場で働かせていた。
支払われた給料がニセ札。それを指摘して抗議したらクビ。
ところ構わずツバを吐くなど、観光地でのマナーやモラルを問われる。
毎日のように中国に関する否定的なニュースを目にする。
そんなばかな!?という出来事ばかり。
来年には北京オリンピックが行われる。
数年前上海を訪れたときは、強い風が吹き付けるような発展のスピードに心奪われた。
貧しい人々が住む地域はすぐ隣り合わせていて、
壊れかけた家に住む人がすることもなく突っ立っていて、通りがかった僕を見つめていた。
僕の中の中国のイメージとはそういう映像だ。
中国と聞いて僕が真っ先に思い出すジョーク。
「60年代、東西冷戦のさなか、アメリカとソ連がどちらが先に月面に国旗を掲げるかしのぎを削っている。
そこに中国人が月に到着したというニュースが全世界に届く。
そんなはずはない、と両国首脳は驚く。だって奴らはロケットさえ飛ばせないじゃないか。
工学博士がインタビューに答えて曰く、『まずは1人が肩車して、さらにその上に肩車をする。
そこにもう1人、また1人。これを繰り返して、やがて・・・』」
例えば、こういうサイト。友人が mixi で紹介していた。
http://blog.livedoor.jp/safe_food_of_asia/archives/50010839.html
気の弱い人は絶対見ないように。
中のリンクは僕、怖くてクリックできない。
中国にとって人は使い捨てなのだろうか?
自分の利益のためなら、ちょっと離れたところにいる人のことはどうだっていいのだろうか?
言われてることのどこまでが真実なのだろう?
どこまでが嘘なのだろう?
「あれだけの人口を抱えていれば極端な人も出てくるよ」
ただそれだけのこと?
何がどうなっているのだろう?
いろんなことが不思議でならない。
[2410] 駅の宿ひらふ 2007-07-18 (Wed)青森に帰省したとき、母が先日泊まったという「駅の宿 ひらふ」の写真を見せてもらう。
ニセコにある。日本で唯一、かつての駅舎がそのまま民宿になっている。
ネットで調べてアクセス情報を見るとJR函館本線「比羅夫」駅から徒歩0分とある。
廃線になったとかそんなのじゃなくて、今も普通に利用されている駅。
夏はプラットホームでジンギスカンのバーベキューが楽しめる。
ログハウスや丸太風呂もある。
http://hirafu-eki.com/
いいねえ。行ってみたくなる。
北海道のこの時期、最高だろうな。
写真見てると周りは自然に囲まれているようで。
あー北海道に行きたくなってきた。
これまでに僕が北海道を訪れたのは思い出せる限りで3回か。
小学校の修学旅行で函館、同じ頃親戚たちと函館、
大学生最後の年の夏休みに(つまり、大学院で修士論文を書いていた夏に)小樽と札幌。
函館だったら青森に帰省したその足でふらっと行けそうなものなのに
なかなかそうもいかないもんで。
特急乗って青函トンネルをくぐることになるんだけど、
やっぱ海を越えるというのは心のどこかで1つ大きな壁になっていて。
「水曜どうでしょう」のDVDでカントリーサインの旅ってのを見て、
北海道って面白いところだなあと思う。
ペースとか尺度が東京や青森となんだか全然違う。一言で言うと「おおらか」
単なるイメージに過ぎないのかな。
(「水曜どうでしょう」のDVDをあれこれ借りてみた中で最も笑ったのが
僕の場合カントリーサインの旅の1回目のやつだったりする。
撮るものなくてずっと車内で喋ってるだけってのがよかった)
札幌は食べるものみなおいしかったなあ。
泊まってた友人の勤めている会社の寮の裏にあったラーメン屋。
あまりのおいしさに3回ぐらい食ったのではないか。
他を探して食べる必要性を感じなかった。
でも残念ながら店の場所と名前が思い出せない。
札幌市外の中心部からは結構離れてたんだけど。
ジンギスカンは有名な「だるま」で食べた。
小樽もいい町並みだよね。
時間がなかったのでちょっとしかいられなかった。
人生のどこかいつかで小樽で一泊と思いながらいまだ果たせずにいる。
オホーツクの流氷も見てみたいし、洞爺湖や釧路湿原・・・
よく晴れた日には竜飛岬から松前半島の山が見えた。
青森出身の僕にとって北海道はいつだって近くて、遠い場所だった。
[2409] 「蹴りたい背中」「リトル・バイ・リトル」 2007-07-17 (Tue)この3連休で青森帰るに当たって、最近の日本文学はどうなっているのだろう?
気になる作家の作品をまとめて読んでみよう、と思った。
選んだのはこの4冊。基本つまみ食いなので、薄さを基準とした。
綿矢りさ「蹴りたい背中」
島本理生「リトル・バイ・リトル」
舞城王太郎「みんな元気。」
中原昌也「あらゆる場所に花束が・・・」
結局のところ知りたかったのは
僕が書いてる小説はどの程度のものなのか?ということ。
足元にも及ばないのか?
それとも案外いけてるのか?
まあ結果としてはその中間のどこかってことで。
少なくとも、「論外」ではないなという自信はついた。
一番面白かったのは「蹴りたい背中」となる。
文体の瑞々しさ、そこに尽きる。
これは真似できないな、と感じたのは「蹴りたい背中」だけ。
他の3作は似て非なるものが出てくるとしても、近付いていくことは可能だと思った。
実として、「リトル・バイ・リトル」は書けないにしても
「みんな元気。」と「あらゆる場所に花束が・・・」は今の僕にも書けんじゃね?と。
傲慢不遜ですかね?
他の作品をすぐにも読んでみたいと思ったのは島本理生だけ。
この後の作品はいったいどうなったのだろう?
「生まれる森」や「ナラタージュ」など。
文学的な完成度・衝撃とは別にそのリズムが自分に合っていて
末永く読んでいけそうなのは僕の場合この人の文章ってことになるだろう。
逆に綿矢りさは「蹴りたい背中」だけ読めば後はいいかな、と思ってしまうところがある。
「夢を与える」を読みたいかっていうと、よっぽど暇なときに手元にあったらってとこかな。
書店でわざわざ探す気になれない。
なぜなのか?「蹴りたい背中」は作品世界としての(自己)完結度が高すぎて、隙がない。
他の作品を読むことでトータルな味わいとしての綿矢りさを知りたいという気にならない。
島本理生にはそれがある。
例えて言うならば「蹴りたい背中」は「天国への階段」の入っている Led Zeppelin の4枚目で、
「リトル・バイ・リトル」は The Who の「Sell Out」
舞城王太郎は最初「阿修羅ガール」を読んでみようとした。
本屋で手にとってパラパラめくったときにクライマックスの箇所なのだろう、
活字が無茶苦茶大きくて、叫んでる。なんだこりゃと思った。
もしこれが斬新だとか、若者文化を代表するなんとかみたいな扱われ方をされてるとしたら
よっぽど腐ってるんだな、と思った。日本文学界とかJ文学ってやつは。
めまいがした。もっと薄い「みんな元気。」を読むことにした。
面白言っちゃあ面白いが、
これでいいのなら純文学を書こうとしているいろんなひとの努力が無駄になるよ。
「面白くないなら、無駄じゃね?」っていうのは1つの答えだし正しいと思うが、
これはちょっと行き過ぎではないか・・・
ドナルド・バーセルミの文体の実験の方がラディカルで含蓄があったのではないか。
でもこの身軽さはいいよね。
書きたいことを書きたいように書く。そこに全力投球する。
この人の何がいいかって消える魔球みたいなのを「全力投球」してて
なぜかバッターを打ち取れるようなところじゃないか。
だけど試合がずっとそればかりだと野球って何?って話をしたくなるっていう。
・・・なんのかんの言いつつも、この人のを読むことで僕は最も考えた。
語られる「世界」を形作るルールとそれを語る言葉のルールが首尾一貫してれば
あとはアイデアとエネルギーだけなんだな、という教訓を得る。
最後、中原昌也。
僕は学生時代、暴力温泉芸者のアルバムを何枚か買って聞いた。
そのとき抱いた印象と全く同じものが、初めて読む「あらゆる場所に花束が・・・」にもあった。
手先の器用さとは別のところで不器用というか、
「コミュニケーション?どうでもいいよ」とうそぶいてるような。
悪趣味ではあるけど下品ではないが故の趣味のよさ、それをスノッブと感じるような。
うーんよくわからんが、「センスいい」「何かがある」と受け止めるべきなのだろうと思ってしまう。
文章を読んではっきり分かったけど、やはりこの人は、無茶苦茶センスのいい音痴であって、
それをアートの領域までもっていける稀有な人なのだ。業が深いとしか言いようがない。
面白いかどうかで言ったら、ちっとも面白くなかった。
目新しい何かってのも全くなかった。
町田康の「くっすん大黒」を読んだときのような衝撃はどこにもない。
すれてるだけ。あるいは、すねてるだけ。
世の中にはもっともっと支離滅裂なことやもっと暴力的なことを書いてる人は大勢いると思う。
世に出ることができなくてくすぶってるような連中で
もっと直観的に面白いことを書いてる人は星の数ほどいるのだと思う。
そういう名も無き人たちに思いを馳せながら読んだ。
早い話、これを読んだところで人を殺したくはならないし、ムカムカしても一瞬だけである。
だけど人の心の奥底で眠っている憎悪を掻き立てて
いてもたってもいられなくなるような文学はこの世の中には絶対あるのだし、
読むのならそういうのに出会いたい。
こういう言葉遊びじゃなく。
「センスいい」「何かがある」以上のものがどうしても出てこない。
・・・読み返してみて、ひどく偉そうだ。
書き直してもうちょっとやわらかくしようかと思ったけど、このままにしておくことにします。
[2408] 青森帰省 3/3 2007-07-16 (Mon)昨晩は寝る前に部屋の中の
ブラックジャックを読み返し始めたらやめられなくなり・・・
20巻台のを3冊読んだのかな。
こんな面白い漫画が世の中にあっていいのだろうか?
いくつかのエピソードでホロホロと泣きそうになった。
8時起き。
昨晩のカレーとサラダを食べる。
家中に掃除機をかけて、最終日恒例の部屋の拭き掃除。
家を出るまでの時間、「テヘランでロリータ・・・」を読む。
バス停まで見送りに行こうか?と母は言うが、「いいよ」と断る。
歩き方を気をつけるようにしなさいと言われる。
この3日間、一緒に歩いてていつも言われてた。
なんとなく歩くのではなく、
踵を地面にちゃんとつけて、足の指でしっかり地面を捕まえるように歩くといい、とのこと。
どっかで見た健康法なんだろうな。
「中国産の食べ物は絶対避けること」などなど3日間あれこれ忠告を受けるが、
この歩き方だけはせめて日頃から注意するようにしようと思う。
バスに乗って青森市中心部へ。
もしかして手持ちの本があっさり読み終わるかも、と成田本店で新書を買う。
今更だけど、SNSとはなんぞやみたいなやつ。
青森駅へ。
駅のお土産屋を見たら「田酒」も「豊盃」も売ってた。
田酒は1000円台の一番安いので
「わざわざ買って持って帰るほどのもんでもないなあ」
どうしようかなあと悩んでいたら
他の観光客の方に最後に残っていた1本をひょいともってかれてしまった。
豊盃は1000円台のと2000円台のと2種類あって、これも悩んでいるうちにやめた。
悩むぐらいなら買ってはならない。
特急はガラガラ。
新幹線も盛岡まではガラガラ。盛岡から人がどっと乗る。
家を出る直前に発生した新潟の地震の影響で
東北・上越新幹線のダイヤは大幅に乱れているという。
東北新幹線は直接の影響ないんじゃないの?と思うが、
同じJRだしホームも共有している。
それにしても台風がさったら地震か・・・
首相は参院選挙の応援演説なんてやってる場合ではないんじゃないか?
舞城王太郎の「みんな元気。」を読み終えて、
中原昌也の「あらゆる場所に花束が・・・」を読む。
東京着いて中央線の中でちょうど読み終える。
「テヘランでロリータ・・・」は今回全部読みきれなかった。
新幹線の車内販売の人が割りと好きなタイプで、
通路を通り過ぎて行って車両の外に出ると
僕は立ち上がって同じく車両の外に出た。
「あの」と声を掛ける。でも、言うべきことは何もない。
仕方なく、「牛タンあります?」と聞く。
ジャーキーとなんとかとかんとかがありますと言うので、
「じゃ、ジャーキーください」と言って買う。
300円。財布の中にちょうどあったけど、わざわざ1000円札で払う。
お釣りをもらう。手がちょっとだけ触れる。
こんなことしてるから僕は、リアルの世界でもてないのだ。
新幹線は上野駅で信号が停車となっているということで待たされる。
14分の遅れで東京駅到着。
東京は曇り空。蒸し暑かった。そんなに暑くはなかったはずなんだけど、
それまで青森に居た身としてはなんつうか澱んだ空気って感じで。
[2407] 青森帰省 2/3 2007-07-15 (Sun)7時半に目を覚ます。
一昨日の新聞(地元紙「東奥日報」)を読むとおととい、
13日は自民党阿部総理と民主党小沢代表がそれぞれ参院選の応援のため
青森を訪れたことになっている。
もちろん、たまたま。
小沢代表は本当は九州に向かうはずだったのが、台風の影響で急遽予定を変更した。
青森が今回の参院選で戦略上重要なエリアに該当してるとかそんなではない。
朝食。トマト、ブロッコリー、キャベツのサラダ。
ホタテをバターで焼いたやつ。前回冬に来た時に食べた鶏肉のハム。
食べ終わって家中に掃除機をかける。
午前中はずっと、「テヘランでロリータを読む」を読んでいる。
前から気になっていた本。ハードカバーで結構分厚い。今回帰省したときに読むつもりでいた。
なかなか面白い。70年代末のイラン革命から80年代のイラン・イラク戦争、そして90年代。
ナボコフ、フィツジェラルド、ヘンリー・ジェイムス。
禁じられた西欧諸国の小説を読むために集まる女性たち。その回想録。
いわゆるイスラム原理主義の支配する、男性原理の抑圧的な社会。
女性たちはみな黒いヴェールに身を包むことを強要される。
イスラムの教えに反するものは何であろうと徹底的に排除される。
アメリカは悪の手先以外の何物でもない。
そんな状況下において、大学で英文学を教えていた著者は
かつての教え子たち=女性たちを集めて週に1度の読書会を開く。
イスラムの教理に照らしたときに退廃的とされる登場人物が出てくる小説は、
それ自体が退廃的で忌むべきものなのか?
イラン革命のさなか、著者は大学にて「華麗なるギャッツビー」を裁判にかける。
糾弾する男子学生と、擁護する女子学生と。
著者の主張は p185 に(恐らく)要約される。
「他者の経験のすべてを経験することは不可能ですが、
フィクションの中でなら、極悪非道な人間の心さえ理解できるのです。
いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、
すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。
この点で小説は民主的なものであるといえます。
民主主義を主張するからではなく、本質的に民主的なものなのです。
多くの優れた小説と同じように、『ギャッツビー』の核心にも共感があります。
他者の問題や苦痛に気付かないことこそが最大の罪なのです。
見ないというのはその存在を否定することです」
ここで言う「見ない」とは他者という存在の持つ多様性を否定することだけではなく、
(そこでは民衆とはイスラムの教えの受け皿に過ぎない)
具体的には女性たちをヴェールの陰に隠して、皆一様の黒子みたいな姿に変えてしまって、
1人の人間として「見ない」ことへの憤りが強く込められているのだろう。
---
午後、昼食のために母と外出する。
バスに乗って、沖館の森林博物館の向かいにある「津しま」という和食の店。
昔「芝楽」にいた料理人が開いた店だという。
天ぷらの定食と和牛の鉄板焼を食べる。
ペルーに行ったときの話をする。
食べ終えて外に出る。
この近くに「豊盃」と書くうまい日本酒を売っている店があるってことで行ってみたら日曜定休日。
田酒よりもうまいそうなのだが・・・
母とはそこで別れて、歩いて青森駅へ。橋を渡って新町へ。
LOVINA 一階のお土産屋とアスパムでその「豊杯」を探してみるが、見つからず。
昨日同様またブラブラする。岡田書店がオープン日だったので入ってみる。
ガラッと変わっている。昔の面影は一切ない。
この辺りはおしゃれに再開発されている。
その一方で新町の下っていったほうの寂れ具合はただものではなかった。
どこもかしこもシャッターが下りていてまるでゴーストタウン。
1年前よりも、半年前よりも、増えている。
モスバ−ガーとか民芸品の店だとか残されたところも時間の問題なのではないか・・・
周りがどこも営業してないのに、ポツンと HIS の店舗があったりして。痛ましい。
デパート「松木屋」の跡地が高層マンションになっていた。
東京並にモダンな建築なのに、目の前はシャッターが下りた死に掛けの町。
アンバランスにもほどがある不思議な光景だった。
入居率はどうなってるのだろうか?ってことが気になった。
昨日行くの忘れてた「EVIS」の店に寄ってバスに乗って帰る。
帰ってきてからはまた「テヘランでロリータを読む」の続きを。
銭湯に行く。小雨が振り出す。台風の影響か。
帰ってきてビール飲みながらテレビを見る。
たまたまつけたNHKが海外のトピックを紹介する番組だった。
・仕事を求めてイラクからイギリスへと渡った医師が、
テロの影響で最近軒並み資格を無効扱いとされ、職を無くしている。しかし帰る場所はない。
・フランスではワインを飲まない人の割合が40%にものぼり、
サルコジ大統領も酒が飲めないためイメージアップには繋がらない。
安いワインの台頭もあってワイン農家は苦戦している。
中国を新しい市場とできないか模索中。
母が先日行った羊蹄山近くの温泉宿の写真を見せてもらう。
駅舎が温泉宿になっているところと、「銀婚湯」ってのと。
その後、母の作ったカレーを食べながら「さんまのからくりTV」を見る。
昔は東京でも見てたけど、最近見なくなった。
また様変わりしてる。でも面白かった。
やたら日本に詳しい外国人の王座決定戦だとか。
演歌歌手を目指す高校生とか。
お父さんが娘に送るメールを添削するってのは前にも見た覚えがある。
ゲストが「タカ and トシ」で、
普段テレビを全く見ない僕は「欧米か」ってギャグを始めて目にした。
[2406] 青森帰省 1/3 2007-07-14 (Sat)この3連休は青森帰省。
特に用があるわけでもなく中途半端な時期なんだけど、
先月から始まったPJが少なくとも年明け3月までは忙しそうで、
顔出せるうちに顔出しておこうと。
例年通りお盆は帰れないだろうし、正月もどうなってることやら・・・
ほんとは連休の前後に休みをくっつけて4日間とすればそれなりの帰省になるのに、
スケジュールに余裕がなくなってきて断念。
そういえば去年もこの3連休に帰省したんだよな。
夏のボーナスが出た直後でお金に余裕があるってのが一番の理由となる。
青森もこの時期は涼しくて過ごしやすいし。
6時起き。7時に起きようと思ってたのが、目が覚めた。
テレビをつけると台風のニュースばかり。九州上陸かも、と。
東京は雨が降っている。
折り畳みの傘にしようかどうか迷って、ビニール傘にする。どっかで置いてこようと。
メキシコ行ったときから愛用している Karrimor のザックに
着替えと本とノートPCを詰めて外に出る。
9時16分東京駅発。
9時ちょっと前に着けばそれでいいのに、8時過ぎには東京駅にいた。
貧乏性かつ心配性でどうしても前倒ししてしまう。
することもなくて、コーヒーショップに入って暇をつぶしたり、
家の仏壇に供えるお菓子や道中で食べる駅弁を買おうと
東京駅の地下構内をひたすらグルグルと回ったりした。
家には生チョコを買って、保冷用のバッグにドライアイスを入れてもらう。
駅弁は、まあどこで買ってもだいたい一緒なんだけど、
プラプラと歩いているうちに地方の駅弁を週替わりで売ってる小さな店を見つける。
今週は仙台。牛タン弁当が目に留まって「おっ」と思い、今回はこれにする。
青森帰ろうと新幹線乗ってると、
仙台を過ぎた辺りから車内販売に牛タン弁当が出てくるんですよね。
食べたいなあと思いつつも、その時点で既に1個食べ終えているわけで。
いっつも仙台でハッとする。また忘れてた!と。
東京駅にいると東京駅で買える駅弁のことでどうにもこうにも頭がいっぱいなもんで。
崎陽軒のシウマイも買う。
駅弁を食って、シウマイでビールってのが自分の中で定着しつつあり。
新幹線に乗る。
3連休とはいえオフシーズンだからあんまり乗ってないなあと思ってたら
上野と大宮でたくさん乗ってきた。ほぼ満席になる。
なんか僕の周りはどこかの旅行会社の企画した
「初夏の青森ツアー」みたいなのの参加者ばかりだった。お年寄りばかり。
あちこちの旅行会社がこの時期企画してるみたいで、
添乗員のいるパッケージツアーの団体もいれば
切符と宿だけの簡素なツアーの人たちもいた。
さっそく牛タン弁当を食べる。
紐を引っ張るとホカホカになるというやつで、これ、とてもうまかった。
いや、ほんと。帰りもまた食いたいぐらい。
綿矢りさの「蹴りたい背中」を読んで、
その次は島本理生の「リトル・バイ・リトル」
さらに舞城王太郎の「みんな元気。」と次々に読み進んでいく。
どれも文庫で薄くて活字が大きいからすぐ読めてしまう。
八戸で乗り換え。
いつもは乗り換えの時間が10分もなくてダッシュなのに、今日はなぜか30分ほど開いていた。
車両に入っても他に乗客の姿はなし。ガラガラ。
こんなんでいいの?と思ってたらある瞬間、乗客がどっと押し寄せる。
どうも僕が乗ってた新幹線の次のに乗ってた人たちのようだ。
9時56分発。いつも帰るときはこれに乗ってた。
今回1本早くしてみたのだが、結局八戸で一緒になるのか・・・
東京→八戸の新幹線のそれぞれに青森行きの特急が接続してるのだと僕は思っていた。
そういうわけじゃないんですね。
というか、JRの緑の窓口の人もこうなるってこと教えてほしかった・・・
東京から降り続けていた雨は野辺地を過ぎていきなり晴天に。
山を越えると前々違ってくるもんだ。
青森に到着して駅を出ると日が出てて暑いぐらい。でも風は冷たい。
印象として、半年前に来たときよりもさらに寂れていたように思う。
夜店通りは活気がなくて、貸し店舗ばかりで、壊滅寸前・・・
僕が学生時代から社会人なり立ての頃は夜店通りの古着屋の集まりって
原宿や下北沢にも引けを取らないと思っていたのだが。
夜店通りじゃないけど、CONVOYにまずは入って、何も買わず。
かっこいいいい細身のシルエットで色褪せ具合もあいいジーパンがいくつかあったんだけど、
僕のサイズのウェストは全部売り切れ。
中途半端な時期にふらっと帰ってくるから、なんか最近いつもそう。
あと何軒か入って、「うーん」ってところ。
最後に「あれ?こんなとこにあったっけ?」ってな店に入る。
ロカビリー系。BGM も売ってるものも。
かっこいいネクタイが何本もショーケースの中に入っていて「いいじゃん」と思うものの
ネクタイだけあってもしょうがなし。
古着で1000円ちょっとのTシャツと半袖のシャツを買う。
いつも行く床屋は体調を崩して店を休んでいると母から聞いていた。
なので今回は行かない。入院しているってことで、ちょっと気になる。
成田本店で読む本を物色する。
中のレイアウトが変わって、今風の洗練された雰囲気になっていた。
改装中だった岡田書店はちょうど明日、オープン?
横の小さな広場にはステージができていて、ゆずみたいなギター弾き二人が歌っていた。
広場の一角に大戸屋が店を出していて、ついに青森まで来たか!と驚く。
(半年前来たときは「PRONTO」が駅前にあって、驚いた。さっさと閉店しなかったことに今回驚く・・・)
アウガのヴィレッジ・ヴァンガードとPAXに入る。
PAXで例によってCDを買う。
無性に聞きたくなった Eric Clapton 「461 Ocean Boulevard」と
初めて見た Modest Mouse 「The Fruit That Ate itself」の日本盤と
「スピリッツ 〜シンガーソングライターの軌跡〜」というオムニバス。
この「スピリッツ」ってのが非常に秀逸で、選曲を見てうなった。
John Sebastian 「Welcome Back」
Dan Fogelberg 「Longer」
Don McLean 「American Pie」
Gilbert O'Sullivan 「Alone Again」
Suzzanne Vega 「Luka」
Leon Russel 「A Song For You」
Nilsson 「Without You」
Todd Rundgren 「Hello It's Me」
Tom Waits 「Ol'55」
Randy Newman 「Sail Away」
他は J.D.Souther に Janis Ian に。
詳しくは、http://www.hmv.co.jp/product/detail/1287159
Carly Simon は「うつろな愛」(You're So Vain)の方がよかったなあ。だったら完璧。
レーベルの垣根があつから、James Taylor とか jackson Brown とか入れられなかったんだろうけど。
入ってたらもう言うことないね。
この手の曲は「70年代ヒッツ」みたいなオムニバスならよく見かけるけど、
これを「シンガーソングライター」って枠で集めたのがミソで。
非常に流れよく聞くことができる。
家で1人で聞いてもいいし、パーティーなんかでそのまま使ってもいいかもね。
なかなかの優れもの。
バスに乗って油川へ。
この日は家の近くの神社がちょうど夏祭りで、夜店が並んでいた。
開始の合図の花火が打ちあがる。
浴衣を着た女の子がグループになって歩いている。
ヤンキーとその予備軍みたいなティーンエイジャーが道端でたむろってる。
僕も小さい頃はこの神社の夜店でお好み焼きを買ったり、おもちゃの類を買ったもんだ。
とっても懐かしくなる。
いつもの銭湯に入りに行った後、母と「Adesso」へ。
これが2回目だろうか?それとも3回目?
東京に店を出してても全く遜色ないセンスいいイタリア料理屋。
前来たときから3年は経っているはずで、その間変わらず店を続けていたっていうのが偉い。
店の雰囲気も味もちゃんと水準をキープしていた。
最初ビールを飲んでて、ドリンクのメニューを見たら田酒があったので次はそっちにした。
田酒はやっぱうまいねえ。
銭湯の帰り、津軽線の線路の近くの名物的焼き鳥屋に「都合によりしばらく休みます」と張り紙が。
スーパー「福助屋」跡地も長年廃墟のようだったのがバスの車庫みたいになっていた。
以前は何かが建っていたはずの場所が更地になっている。
どんどんどんどんいろんなものが失われていく。
母の作るレバーの煮たやつを肴に缶ビールを飲んで、寝る。
[2405] 目が覚める 2007-07-13 (Fri)昨日の午後は普段のPJから離れて
事業部の「新規事業アイデア選考会」ってのに出席してた。
座って聞いてるのではなくて、どちらかと言えばスピーカーの側で。
本来の僕からすればこういうの「興味なし、素通り」だったんだろうけど、
先輩が一緒にやろうよと声を掛けてくれて、
5月に何回か打ち合わせしてパワーポイントの企画書を提出した。
ほぼ全部を先輩が書いて僕は多少意見を言うぐらいのもの。
それでも一応連名で提出することになった。
「WEB2.0時代におけるコラボレーションとはどういうものになるか?」ってのがテーマ。
部長たちが集まってプレゼンを聞いて、優秀賞ってのを1つ決めることになっていた。
僕らが出したのはとっぴな内容かつ
スケジュールも予算感も何もない夢だけの企画書だったので受賞には至らず。
賞を取った企画はその辺きちんとしてて、
市場動向の調査と今後の予測だとか
その業界で働いている人へのヒアリングだとかぬかりなかった。
そしてそれ以上に「これを実現させたい」という熱意があった。
他の人たちのプレゼンを聞くのは興味深かった。
久々に会社で、仕事絡みで、「面白いなあ」「楽しいなあ」という気分になった。
部会をさぼってばかり、出てもぼけーっと座ってて他の事を考えていたこの僕が
手を挙げて質問までしていた。何回も。
僕がやりたかったのはこういうことなのだ、というのがはっきりとわかった。
目が覚めた。ようやく。
下請けの保守開発ばかりやってて腐ってるだけの毎日。
「日銭を稼ぐために仕方なくやってまーす」っていう態度で。
こんな状態から脱却したい、変わりたいと本気で思った。
嫌だからこのPJやめたい、ではなく、
こういうことを将来的にしたいから今はこういう仕事がしたいと言えるようになって、
周りからも認めてもらえるようになりたい。
転機だ。遂に来た。
お客さんからこういうの作ってくれと言われて「はあ」と請け負うのではなく、
そしてその目先のスケジュールや仕様やコストに汲々としてるのではなく、
やはり僕は自分たちで何かを考え、生み出していく、それを世に問うということを望んでいるのだ。
授賞式があって、懇親会。
「何かをつくろうよ」「何かやろうよ」ってことで熱くなる。結局終電。
(酔ってたので中央線を御茶ノ水で下りたり、東中野で下りたりとほんとの最後の終電で帰ってきた)
いや、なんかさ、ほんとに目が覚めた。
催眠術にかかってたのを目の前でパンと手を叩かれたかのような。
IT業界に対する興味が復活した。
今やってるPJはウダウダやってないで日々さっさと片付けていく。そして時間を作る。
小説も書くよ。その土日のために当面生きていくのだと僕は思っていた。
そうじゃない。それだけだと人生がどんどんつまらないものになっていく。
書くものもつまらなくなっていく。
そう、僕は「生きていく」ということを、しっかりと取り戻すのだ。
[2404] 人類の進化の歴史について考える 2007-07-12 (Thu)4回目の氷河期の末期から今の姿に近い人類というかヒトが生まれて、
今までに1万年という時間が流れている。
これを長いと見るか、短いと見るか。
中学か高校のときに歴史の時間で習って以来ずっと忘れてたんだけど、
このことについて書かれているのを最近たまたま見かけて
「あ、そうだったのか」と再認識した。
「たった1万年なのか」と。
この年になってようやく、ピンと来た。
狩猟を中心とした生活から農耕や牧畜を中心とした生活へと移行し、
新石器時代が始まる。これが1万年前。
そして紀元前3000年頃から4大文明が形作られていく。
つまり、文明の端緒についてから今に至るまで最大でも5000年しか経過していない。
20歳を過ぎてからは1年なんてあっという間。
1年がこんなに短いのならば、5000年だって一瞬じゃないかと思う。
「ついこの間」ぐらいの。
地球が誕生してから46億年。そういうスケールで考え出すならばなおさら。
手塚治虫の「火の鳥」なんてのを読むともっとイメージが沸く。
そうだよなあ。
今ここでどれだけ悩んだり、喜んだりしたところで
一瞬の儚い出来事なんだよなあ。
自分の中ですら、儚い。
その日その日、その時々であれこれ感情を抱いたとしても
例えば1年という基準で考えればやはり、一瞬の出来事に過ぎない。
1万年なんて持ち出すまでもない。
一時の感情に左右されてせせこましく生きているよりは
もっとのんびりしたっていいはずなんだよな。
感情の起伏はあっても、いたずらに左右されない。
でも結局は「てめーむかつくわ」って心の中で悪態をついてばかり、
なかなかスケールのでかい人間にはなれない。
悪態をつくというだけで、
それを他者との関わりの中で具体的な改善へ導く行動に出ることもない。
口には出さず、顔にも出さず、そっと押し殺すだけ。
今から1万年前の人たちも
「てめーむかつくわ」って感情を時として持ったのだろうか?
嫉妬や殺意や得体の知れない憂鬱感を抱いたりしたのだろうか?
もし、こういうネガティブな感情を彼ら/彼女たちは持っていなかったというのなら、
今の人間たちがこういう感情に陥りやすいのはそれもまた1つの進化なのだろうか?
逆に考えた場合、もしかして今からさらに1万年後の人類の間において
僕らには想像もつかないような感情が生み出され、分類され、共有されているのではないか?
例えば、感情のそれぞれは脳内で分泌される
いくつかの化学物質の組み合わせの量に過ぎないとしたとする。
科学技術の発展によりその詳細なマッピングが可能となり、
その時点での人類が日常的に抱く素朴な感情というものは
マトリックスのうちの半分も使用してなくて、
残り半分を人工的に体験できるようになったとしたら。
それが身体的に心地よいものであるのならば安易なドラッグが出回ることになるだろう。
嫉妬や殺意や得体の知れない憂鬱感を一瞬にして消し去るような安定剤もすぐ手に入るのだろう。
なんか結局、なんとなく、
「てめーむかつくわ」って感情に陥ることがあほらしくなってくる。
どちらにせよ、人類の、あるいは個人の長い歴史の中では一瞬だけの出来事。
[2403] かなりどうでもいいが、前から割と気になっていたこと 2007-07-11 (Wed)かなりどうでもいいが、前から割と気になっていたこと。
僕が1日のうちで唯一テレビを見る時間帯、
朝5時半台のNHKのニュースでは「まちかど情報室」というコーナーがあって、
毎回テーマを決めて、世の中のちょっとしたニーズを満たすために
最近ちまたに出回っているちょっとした製品やサービスの紹介を行なっている。
覚えてるのでは「ユニークなマウスあれこれ」「夏を涼しく過ごすアイデア商品」とかそんな感じ。
6時台や7時台も繰り返し放送されていると思う。
今日の朝は「切る」道具ってことで
料理用の電動カッターみたいなのや幼児用に食べ物を小さく切る鋏が登場した。
http://www.nhk.or.jp/machikado/
商品の説明をするのだが、作ってる人や売ってる人が登場することよりも
実際に使ってる人というのが登場することが多い。
「東京都なんとか区にお住まいのなんとかさんのご家庭では・・・」っていうふうに。
で、気になってるわけですが。
この、「実際に使ってる人」ってのをどこでどうやって見つけているのだろう?
製造元や販売元が顧客のリストを持っていて、
それを参照しながら手当たり次第電話を掛けて出演交渉をする?
まさかそんなわけないだろう。
以前、銀座でランニング用品専門店が紹介されていて、
皇居のお堀を走る会員のために専用のロッカーやシャワールームが完備されていたり
専属のトレーナーが最新の機器を使ってランニングフォームの診断をしてくれる、というのがあった。
こういうときは取材がしやすい。そこに行って会員の人に出演交渉すればいいからだ。
しかし、そのとき紹介したい料理用の電動カッターを持っている家庭を探すって
いったいどういう方法になるのだろう?
番組モニターに呼びかけて持っている人を探すのだろうか?
それとも逆の発想で、ある種の「モデル」的職業の人に
その製品を日々使ってるフリをしてもらってるのだろうか?
(まあ後者はないか。ヤラセが散々問題視されたこのご時世に)
出てくる家庭はみなそれなりにきれいできちんとしたところが多いんだよね。
整然としたキッチン、ゆとりのあるリビング。明るさ、清潔感。
しかも撮影のために片付けたような慌しさはなくて、元々からそうだというような。
ここのところに何か手がかりがありそうなんだけどなあ・・・
あれこれ可能性を考える。
・その製品の製造元や販売元の家庭が代表として紹介されている。だったら持っててもおかしくない。
・自分はユニークな器具を持っているという人がNHKに手紙とかメールを送って取り上げてもらう。
同じような方向性の製品がいくつか集まったらテーマを決めて特集とする。
・出てくるのはなにかしらNHKの職員の家庭だったりする。
・家と思っていたのは実はセットで、紹介されている製品も小道具扱い。
その中に抽選か何かで選ばれた素人の家族が登場している。
・全部合成。道具を写すときはアップで、手が別人のものとなっている。
つまり、利用している家庭の撮影と利用イメージの撮影が全く別。
たぶんどれも違うんだろうな。
この世の中は真剣に考えてみてもわからないことばかりである。
[2402] どぉなっちゃってんだよ 2007-07-10 (Tue)昨日、会社の健康診断があった。
体重を量った。
春先、これじゃヤバイ、痩せようと思って
食べる量を減らしてみることにした。
常に腹いっぱい押し込むのではなく、
ちょっとでも「食べた」という感触さえあれば
食わなきゃ食わないでいいってことがわかった。
社食のご飯は少なめとし、休みの日は夜、炭水化物は取らない。
冷奴にキムチだけとか。昔からそうだけど、朝はヨーグルトだけ。
昼食べたら夜はちょっとあればいい。1日1.5食。
いい感じに胃袋が小さくなってきた。
腹の贅肉が少しずつ減っていくのがわかる。
成果が見え出すとやる気になる。
もう、大食いなんて脱却ですよ。
いい年した大人がやることじゃない。
ムフフって感じで、体重計に乗った。
去年より2kg増えてた
どーいうことよ?
ま、秋から冬にかけて無茶苦茶太ってて
それがようやく元に戻りつつあるってことなんだろうけど。
でもさあ、なんかもう、がっかりだよ。
自分自身にがっかり。
ここ5年間で一番痩せてんじゃないか!?ぐらいに思ってたのに。
なんかどうでもよくなった。
今日から大食いに戻ります。
チキショー。食ってやる。
とりあえずさ、マヨネーズはカロリーゼロとか
そういうのじゃなくてレギュラーのヤツ。
買いに行く。かけまくってやる。
---
って昨晩 mixi に書いたら、
高校の同級生がたった一言、「太ってもええけど、体には気をつけてや」
はあ・・・
故郷の友人の言うことはほんと身に染みるね・・・
[2401] 20歳のときに書いた作品 2007-07-09 (Mon)ふと、学生時代に書いた小説のことを思い出し、読み返してみたくなった。
プリントアウトしたのが「作品集」ってことで分厚いチューブファイルに挟んである。
すぐにも見つかる。
読んでみて驚いた。
・・・あまりの文章の下手さに。
下手、なんてもんじゃない。これはいったいなんだ!?
その作品は生まれて初めて書いたものではなく、100枚以上の作品としては3作目に当たる。
大学3年生の夏休みに一気に書いたものだ。今から12年前。僕は20歳だった。
書いてる間に手応えを感じて、「これだ!」と1人興奮していたことを今でもよく覚えている。
あのときの心の高まり。この世界に対して抱いた気持ち。
ようやく自分の望むものが書けたという喜び。
それがひたすら美化されていって今に至り、いつしか青春時代の美しい思い出になっていた。
はあ。「こんなだったんだねえ・・・」と落胆することしきり。
開けなきゃよかった。そしたらいつまでも輝かしい青春の1ページだったのに。
よくもまあこんなのを周りの人に配って歩いたもんだと恥ずかしくなった。
思いあがりもはなはだしいよ。
「人としてどうよ?」と殺意すら感じる。
それにしても。
この僕も文章がうまくなったもんだなあと今回の一件でしみじみ思った。
あの頃と比べて。
文体にリズムがないし、余計な、どうでもいいことばかり書いている。
文学的だと錯覚した、気取った表現ばかり。
そもそも自分の文体というものがない。そういうものが必要だとも感じてない。拙くて幼いだけ。
若さゆえの勘違いばかりダラダラ渦巻いている。
この頃にしか持ち得ない強烈なパッションやリビドーに満ち溢れているとか、そんなでもない。
せめてそれがあったなら救われたのに。
要するに僕は生まれてこの方、才能なんてなかったわけだ。よくわかった。
それでもあきらめるわけにいかないから、努力してみた。
そういうこと。
少なくとも「うまく」はなった。自分の中では。
この作品、電子データが昔のマックにしかないので、
5月6月の休みに少しずつ打ち直した。
ほぼ全体的に書き直しているのでものすごく時間がかかっている。
なんでそんなことするのか?
12年前の自分との「対話」とかコラボレーションとかそういうきれいごとじゃなくて。
というかそんなのが成立するレベルじゃなくて。
ただただ、あの頃の自分に腹が立ってるだけ。
でも、作品そのものには罪が無いからかわいそうになっただけ。
アップデートさせてやりたくなった。
今の自分の言葉で書き直したところでたいした完成度にはならない。
物語そのものの枠組みの大きさや方向性は変えようが無いから。
でも、やんなきゃいけないと思った。
応募したり、他の人に見せたりはしない。よほどひらめいて大化けしない限り。
たぶん、使えそうな部分を別の小説にリサイクルさせるんじゃないかな・・・
などなど否定的に書いてきたけど、
実はなにげにこの書き直しの作業はなかなか楽しいもんであって。
作品と向かい合ってる時間は割と幸福だったりした。
[2400] 欲情の対象 2007-07-08 (Sun)家の近くの小学校でママさんバレーの練習が行われている。
会社から帰ってきてタイミングが合うと、
練習が終わって学校の外に集まっている彼女たちに出くわす。
小学校にはシャワーなんてものがないので、
汗だくになってもTシャツとか簡単に着替えるだけ。
僕はその側を通り過ぎる。
中にはきれいな人もいる。
子供が小学校に上がって、手がかからなくなったので
地域のママさんバレーボールチームに入る。
恐らく僕と同じぐらいの年、あるいはちょっと上ぐらいか。
パッと見、そういう層が多いように思う。
どこかのアパート、マンション、一戸建ての家の中で日々続く家庭生活、
夫がいて、子供がいて、朝起きて家事をして、掃除して、朝昼夜と食べて、
買い物に出かけて、知人や友人とばったり会って話し込んで。
という姿を勝手に想像する。
特定の曜日になるとユニフォームや着替えなど準備をして小学校の体育館へと向かう。
「○○さん、久し振り」とかそういう挨拶をして、
ウォーミングアップの体操を行った後、コーチの指導の下、トスやレシーヴの練習か。
人数が集まったときには2組に分けて、後半の時間は試合をするかもしれない。
体育館を借りていた時間が終わって、外に出る。
コーチが「××さん、トスを上げたときのポジションの戻りを素早く」などと語っていたり、
メンバー同士でたわいのない世間話をする。どこそこにできた店のなんとかが、とか。
そこに僕が通りがかる。何の接点もない。
僕はただ、通り過ぎるというだけ。
それぞれの家に帰っていく。
シャワーを浴びるか風呂に入る。
子供を寝かしつける。旦那と話をする。
夜も深まって寝室へと向かう。1人で、あるいは、2人で。
中にはきれいな人もいる。
---
話は全然変わって、コーラの色がなぜ黒いのかってことを考える。
コーラという飲み物が20世紀を通じて
全世界規模で爆発的に普及した最大の理由は色が黒かったからではないか?
最近僕の中でそういう結論に達した。
子供にとってファンシーなようにオレンジ色や黄緑色だったら
いくら同じ味だったとしても絶対ああはならなかったはずだ。
黒だからこそ、子供たちだけじゃなく、大人たちも飲んだ。
大人が手にしてておかしくない色ってことで白だったり無色だったりしても、
うまく行かなかったと思う。黒であることに、意味がある。
人によってはそこにダークな印象を受けるかもしれない。
年端の行かない子供たちは大人っぽい飲み物への憧れを抱くし、
大人としても今手にしているのは「ガキの飲み物じゃない」と無意識のうちに受け入れる。
黒は大人の色。
実際にはカラメルが入ってるからああいう色なんでしょうけど。
泡が茶色くなるというのも、渋い。
---
昨日、冷やして飲もうと缶のコーラを冷凍庫に入れたら、
冷やしすぎて半ば凍ってしまった。
半分は液体のまま。
炭酸がほぼ抜けてしまって、ただの甘い液体となる。
僕は理系じゃないんで仕組みがよくわからないんだけど、
なぜ炭酸飲料を凍らせると炭酸が抜けてしまうのか??
知ってる人がいたら教えてください。
[2399] no where 2007-07-07 (Sat)ここはどこなのだろう?ということばかり考えている。
住んでいる場所は東京都杉並区で職場は東京都港区だ。
だけどそれは一定の基準に基づいて便宜的に割り当てられただけの名前でしかない。
他の人たちが別のルールでつけた名前が他に無いから、それが使われている。
ただそれだけのことなのかもしれない。
いや、緯度経度といった寄り無味乾燥なマッピングのルールもあるし、
「住所」には採用されたなかったが地域住民が昔から採用している地名もあるだろう。
江戸時代から続いた由緒正しい隠語的地名のようなやつ。
あるいは、「あいつんちの公園の近く」みたいな2・3人しかわからないのも無数にあるはずで。
「住所」と「駅名」が微妙に一致していないことも多々ある。
例えば僕は学生時代中央線の国立駅の北口を出てすぐの場所に住んでいた。
でもこれは住所上は国分寺市の一部だったりする。
そうなってても僕は住んでる場所を国分寺とは言わない。言わなかった。
それはまた別の2駅先であって、
通常「国分寺」と聞いて人がイメージする場所はそっちだからである。
僕の住んでいる場所は国分寺市であっても「国立」だった。
いや、僕が今言いたかったのはそういうことではない。
ただ単純に、「ここはどこなのか?」ということ。
空間の感覚とその広がりはどれだけの意味を持つのか?ということ。
考えていくとパラノイア的になってしまういくつか。
1.
この世界は僕が今視界に見えている範囲までしか実は存在しない。
その周辺はぼやけていて、ラインを超えてしまうとそこから先は無だ。
そして僕が移動するとその都度周辺部分が新しく形作られていく。
もしかしたら目の前の事物もみな、
その瞬間ごとに破壊され再生されているのかもしれない。
2.
僕が今いる場所、歩いて、走って、座って、立っている場所が世界の中心なのか。
裏返すと、世界の中心というものがどこか別の場所にあるというとき、
僕の今いる場所は世界の果て、その最果てなのかもしれない。
3.
僕という存在、それを中心に据えた意識と
空間認識能力との間で不整合が起きたとき、
今、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。理解できなくなる。
何か大きなものから切り離されて、
僕の意識は何事に対してもリアルさを感じ取れなくなる。
外界・他者とインタフェースの取れない、
コミュニケーションを取ることのできない自我は急速に後退していって
やがて崩壊へと至るだろう。
(自我というものは1人きり自分で生み出すものではなく、
周囲との関係性により編み出されていく)
---
ここはどこなんだろう?
って最近思ってばかりで、なにがなんだかよくわからなくなっている。
「失見当識」のごく軽い状態のようなもの?
物理的なのではなく、精神的なめまいが時々、ふらっと。
あるような、ないような。
気のせい、なのだと思う。
[2398] 青空シンフォニア 2007-07-06 (Fri)屋上に上った。柵にもたれた。
僕以外に誰もいなかった、青空の他に何もなかった。
煙草を吸った。ゆっくりと煙を吐き出した。
遠くにビルが見える。低い町並みが広がっている。
車の走り去る音。かすかに喧騒が聞こえる。
目を閉じて10数える。目を開ける。
この世界は何も失われていなかった。
10秒前とそっくりそのままだった。
いや、違う。
屋上の反対側の端に女の子が立っていた。
女子高生。制服を着ている。
柵に寄りかかって、こちらに背を向けている。
長い髪がふんわりと風になびく。
この世界を眺めているのだろう。
屋上に上って、足元に広がる町並み、
遠くまで続くこの都市の風景を見つめながらでないと
想うことのできない物事をそっと抱えている。
僕はこの屋上は初めてだったけど、彼女はいつも来ているのかもしれない。
自分だけの秘密の場所を邪魔されたようで、今、むっとしているかもしれない。
そんなことを考える。
かといってここから立ち去る気にはなれない。僕としてもまだ来たばかりだ。
2本目の煙草を吸った。両腕を柵の上に伸ばして、それとなく彼女を眺めた。
以前の恋人のことを思い出した。
特に理由はない。どこでどうしているのだろうと思う。
知りたいか?と聞かれたらそうでもない。
偶然どこかで耳にするのならばいいけど、わざわざ探したいとは思わない。
この果てしなく広がる世界のどこかにいるのだろう。
もしかしたら海の向こうかもしれない。
今目の前にいる女の子とは、外見的に似ているところは何もない。
いや、顔を見たわけではないので確かなことは言えない。
振り向かないかな、と思う。
声を掛ければ振り向いてくれるだろうか?
だとしたら何て言えばいいだろう?
ねえ、とかそんなのでいいように思う。
だけどそれだと気付いてくれないかもしれない。
3本目の煙草を吸う。結局のところ、どうだっていい。
僕は声を掛けることはない。
いや、問題はそういうことじゃない。
声を掛けた先、何をどうする?
僕は、何を、どうしたい?
目を閉じて10数える。目を開ける。
予想していた通り、女の子はいなくなっていた。消えてしまった。
遠くにビルが見えた。低い町並みが広がっていた。
車の走り去る音。かすかに喧騒が聞こえた。
そしてこの世界から、あの女の子だけが失われてしまった。
両腕を柵の上に伸ばして、空を仰ぎ見る。
青空。眩しいほどの青空。
そして静けさ。
僕は目を閉じる。
ずっとこのまま、開けなくてたっていいと思う。
そよいだ風を体に感じて。
僕の側を通り過ぎて。
[2397] 丸川珠代についてちょっと考える 2007-07-05 (Thu)先日、mixiにこういうことを書く。
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今日の朝荻窪駅前に丸川珠代が立っていた。
白のスーツ、左胸に赤いバラ。
「TVタックル」って
僕が見てた数少ないテレビ番組の1つだったので、
丸川珠代は僕が覚えている
数少ないアナウンサーのうちの1人。
ちっちゃい人でした。
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そうすると、コメントにて、
「あの人の写真はどれ見ても虚ろな目をしてますよね。
何かを抱えてそうですよね」
とあって、なるほどと思う。
画像を検索してみる。
笑顔だろうと何だろうと確かに虚ろな目をしてる。そこに何も映ってないかのよう。
シルベスター・スタローンみたい。
昔とある映画評論家が言ってたけど、
ランボーだろうとロッキーだろうと彼はいつも目が虚ろ。同じ目をしている。
丸川珠代についてはロボットというかマシーンという印象を僕は前、持っていた。
TVタックルでビートたけしの言うことを全て受け流す役どころから来てただけなんだろうけど。
目から何も読み取れない、というのは人として武器となるか、それとも損なだけなのか。
目の前の出来事とは何か別なところに意識というか魂がある状態。
一歩引いた場所でものすごい速さで状況を判断して計算をしているようでもあり、
ただ単に「あー、この人興味がないんだ、ポーズだけなんだ」と思われるだけでもあり。
それ以前に何を考えているかわからないという不気味さだけがまず、印象として飛び込んでくる。
どれだけ態度や口調に柔らかさ・誠実さがあったとしても、どこか一点留保してしまうところがある。
これって、政治の世界にて長いキャリアを積んだ果てに獲得した「智恵」ならばいいんだけどね。
清濁併せ呑むって感じで、大物感があって。
だけど今から初めて立候補しますって人ならばかなりなところ不利なのではないか?
虚ろな目をしているというのは、
あるいは、「何か」を奥底に抱えこんでいて壊れてしまいそうになる寸前の人だったりする。
ほんと、今回、何が彼女を決意させたのだろう?
もう何年も昔、TVタックルを見ていた頃は
「きれいな人だなあ、いいなあ」と単純に思っていて、
ぼけーっと見てたから目が虚ろかどうかなんて気付きもしなかった。
きれいな人のままでいてほしいもんだけど・・・
[2396] Au Revoir Simone Japan Tour 2007 2007-07-04 (Wed)デラ君の告知で Au Revoir Simone というグループの日本公演のことを知る。
ニューヨーク出身の3人組。ジャンルはかなり強いて言えばエレクトロニカ。
3人とも楽器はキーボードで、ヴォーカルも取る。
僕はそれまで知らなかったんだけど、なんかピンと来るものがあって見に行くことにした。
2日月曜の夜、場所は渋谷の O-NEST。
出は4組(Yacht / Montag / The Vivians / Au Revoir Simone)で、
フロアとラウンジで DJ もあり。デラ君は DJ として参加していた(ようだ。結局見れなかった)
■Yacht:
マックのラップトップで曲を流して、
後はマイクで1人きり歌うという唖然とするぐらい簡素なステージで
歌い、叫び、マイクを振り回し、飛び跳ね、踊る。全くオリジナルな振り付けで。
たぶんベッドルームで毎晩練習しているような、10歳の子供がMTVを見て真似しているような。
曲は宅録系エレクトロ・ディスコ・ポップ。
これがなかなかわかりやすくピコピコしていたりキャッチーでベタベタ。
最初キワモノ?と思ったんだけど、笑っていいのかどうかわからない。
周りの観客もキョトンとしていた。熱唱しすぎて痛々しい雰囲気も漂い・・・
だけど曲が進んでいくうちに、自然と暖かいムードで受け入れられていったように思う。
フロアに出てミラーボールに向かって念じたら、回転し始めたってところが最高でした。
(ま、ただ単にライブハウスの人が気を利かせて回しただけだけど)
アメリカの宅録系ってこんなのばかりなんだろうか?
実は結構いたりして。
ピコピコした音を作って部屋の中で一人でシャウトして飛び跳ねてる。
■Montag:
この人も1人。だけど楽器が増えた。
ちっちゃいキーボード2つにタンバリンにシンバルにバイオリンに、その他様々なガジェット。
曲も歌もポジティブでピースフルな感じ。
楽器の編成からして分かるようにカラフルでドリーミーなおもちゃ箱ひっくり返し系。
■The Vivians:
3ピースの純然たるロックバンド。
ギターをジャキジャキ鳴らしててそこだけいいとこ行ってんだけど、
それ以上のものはなかったな・・・
やむにやまれぬ理由があってロックを聴き続けている
32歳のおじさんの心にはこういうの響かないわけですよ。
当たり前すぎて。イージーで。
女性の熱狂的なファンが多かった。
The Vivians だけを見て帰っていく着飾った女性たちがチラホラといた。
(彼女たちは公演終了後、バックステージに呼ばれて消えていった)
雑誌の取材なのか、写真を取っている人たちも何人か陣取ってて。
恐らく Vivian と思われる女性のモノクロの写真を
ドラムセットの周りやスピーカーに貼る、というのがセンスいいと思われるのかもしれない。
あるいは、ギターの無口でワイルドそうな長髪がセクシーなのだろう。
ギター以外の演奏はたいしたことないな。
最初の方、ギターがモニターから聞こえなかったようで曲の途中からギターを弾くのやめて
シールドの交換をした。このときのベースとドラムの演奏の張りのなさと言ったら。
ギターがまだ来てないんで2人だけでスタジオで練習してます、って感じの。
きれいな女の人たちに受けてるからやっかんでると言われたらそれまでですが。
■Au Revoir Simone
http://www.jetsetrecords.net/columns/interview/71
http://aurevoirsimone.com/
O-NESTに入ったらラウンジがあって、物販コーナーとなっていた。
Au Revoir Simone の CD も売られていて、店番として座ってたのはなんとメンバーの2人。
この前出たセカンドを買ってサインしてもらった。
3人全員じゃなくて ERIKA だけだったけど。
(ANNIE はサインしてもらおうとした瞬間、ふらっといなくなった)
演奏は3人だけ。ステージ右側から順番に、
ERIKA キーボード2台とタンバリン
ANNIE キーボード2台+もう1台小さいやつ、おもちゃのマラカス
HEATHER キーボードとドラムマシーン、おもちゃのグロッケン
HEATHER が操作するドラムマシーンでバックのリズムをコントロール、
そこに3人のキーボードとヴォーカルを加えていく。
メインのヴォーカルは ANNIE と HEATHER で、メインのキーボードが ERIKA となる。
サウンドの鍵は HEATHER が握っているように思う。
音も曲も佇まいもとにかく、キュート。
曲の間に「キャーどうしよー」系のたわいもないおしゃべりをしたり、
たどたどしい日本語を話したり。
3人の衣装はサマードレスというのかな、夏の木陰でバスケット広げてるような普段着。
落ち着いた色使いの。清楚で慎み深いっていうか。
若草物語の少女たちがそのまま大人になったような感じ。
曲の雰囲気は
ソフィア・コッポラの「ヴァージン・スーサイズ」の世界を音にしたような、
どの曲もそのままサントラに使えそうな。
フレンチポップ、テクノポップ、ソフトロックなどなどいろんな要素を
カラフルなマーブルチョコにして弾いているような。
爪の先までとことん、ガーリー。
今年32のおじさんからすればほんとたまんないねえ。
そういうミモフタモナイ感想が真っ先に出てくるよ。
「女の子」という存在の持つきれいさ、かわいらしさ、美しさの「幻想」を 100% 体現してる。
夢のような時間でした。
アンコールの2曲目は僕が最も好きな「Hurricanes」だったのもまた、嬉しく。
アンコールでは「そうだ、おもいついた!」って感じで ERIKA が、
The Vivians がステージに残していったドラムセットからシンバルを HEATHER のところに運んで、
HEATHER がそのシンバルを曲の要所要所で叩いて。
メンバー3人とも気に入ったようで、次のツアーからはいくつか叩き物が増えてるかもね。
最後に。
メンバー3人とも背が高くて、
ERIKA と ANNIE は僕よりも高くて、180cm 超えてるんじゃないか?
そこのところが不思議な魅力を生み出しているように思う。
いい意味での、近寄りがたさというか。
本人たちはおもちゃのようなかわいらしいものが好きでも、
本人たちそのものはおもちゃではないんだよね。
[2395] マーケットプレイス 2007-07-03 (Tue)こういうことがあった。
amazon のマーケットプレイスで中古 CD や古本を買うことが僕はとても多い。
先日もとある古本屋の在庫にあった、とある本を注文した。
が、いつまでたっても届かない。
6月の10日頃に注文して、月末になっても届かない。
注文先のアドレスにメールを送っても返事が返ってこない。
「いったいどうなってんだ?」「いい加減な仕事してるなー」と思う。
amazon にクレーム送信の機能があったので、利用する。
怒ってるわけではないが、商品が届かないのであればきちんと返金してほしい。
そしたら、すぐにも注文先の古本屋からメールが届いて、
商品はすぐ送ります、今回の件については返金もしますとあった。
こういうことだったようだ。
僕が注文したその日はどうも、amazon でメール関係の障害が起きていて、
amazon から各マーケットプレイス参加の業者へのメールがうまく送れていなかった。
後日届いたりしたらしい。
(確かに、僕はその日別な古本屋で別な CD を注文したけど、
「注文ありがとうございます、発送しました」みたいなメールが届いたのは1週間遅れだった)
このことでかなり混乱が発生して、煩雑な業務となり、僕の注文が見過ごされたと。
なるほどな、と思う。
そういうこともあるのかと。
こういうとき、この返金分を amazon にて負担してくれることはないんだろうな。たぶん。
その古本屋がどういう業務フローになってるかってのもあるんだけど、
古本屋によっては今回のこういう障害で
1件や2件で済まない損失だったところもあるんだろうな。
返金したとかしないとかいうレベル以前のことでも、例えば、
単に amazon 側障害に振り回されてあれこれ対応するのに時間がかかったとかさ。
amazon と契約している日本中の古本屋で大変な目に遭ったことと思われる。
人によっては撤退も考えただろうね。実害そのものからではなく、気分的に。
でも僕みたいにIT業界で働いてたりすると、
どっちかっつうとシステムの裏側を担当することも多いから
今回みたいなメールが送れないという障害も
どういう事象が発生して、現場でどういう指示が出されどういう作業がなされて、
お客さん(amazon)に対してシステムを担当する会社のしかるべき立場の人が謝りに行く、
という情景がリアルに思い浮かんだりして。
そのとき提示する報告書の内容まではっきりと。経緯とか原因の調査結果とか今後の対策案とか。
こういう障害はね、やっぱ起きちゃうんですよ。どこでも。誰がやってても。
起きて当たり前、とは言わない。
でも、結局人間がやってることだからどこかしらに知らず知らず落とし穴が作られて、
誰かがそこにある日突然落ちてしまう。
僕みたいなエンドユーザーからすれば気楽なもんで
クレームを送ってみたら返金されたし、商品も送ってもらえることになったってわけで。
得したといえば得したんだけど、なんとなくちょっと後味が悪い。
どこに対して何を思うべきなのかよくわからないけど。
[2394] 「Long Season」「リバーズ・エッジ」 2007-07-02 (Mon)昨日の夜、フィッシュマンズの新装再発された「SEASON」のシングルを聞いていた。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1395043
こんなことを思う。
フィッシュマンズの「Long Season」って僕らの世代、
90年代半ばぐらいに学生時代を過ごした世代にとって、
当時を代表する音楽なのではないか?
最も売れたとか、耳にされた、歌われた、という意味ではなくて、
時代の空気を切り取ったものとして。
僕らの毎日の日々は実際にはこんなかっこよくはなかったけど、
この空気に憧れたってことで。
漫画で言ったら岡崎京子の「リバーズ・エッジ」だな、とすぐ思い浮かぶ。
(昔からよく言うように僕は「Pink」の方が好きだけど)
一言で言えば「伝説になった作品」ということになる。
何がリアルなのか?
リアルなものにはどんな意味があるのか?
じゃあリアルじゃないものにはどんな価値があるのか?
そういうことを、いろんな人が問いかけ、答えを探していたように思う。
そして「Long Season」と「リバーズ・エッジ」はその最も的確な答えとなった。
この世界とはどんな場所なのか、僕らはそこで何を思うべきなのか?
発せられた答えは単純明確なものではない。
一言ではうまく言えない。そこが1つポイントなのだろう。
その作品の中に埋め込まれた感触や手触りのようなもの、としか言いようがない。
映画では何がそれに該当するだろう?
今のところ僕は思いつけないでいる。
「パルプ・フィクション」?「トレインスポッティング」?
違うだろう。むしろそれは「ファイト・クラブ」の方が近い。
だけど、「ファイト・クラブ」もまた、違うと思う。
強いて言えばウォン・カーウァイの「恋する惑星」だろうか。
日本、特に渋谷を中心とした東京での受け入れられ方を含めて。
文学だと?
もっと分からない。
「ねじまき鳥クロニクル」?まさか、そんなわけない。
とにかく、誰もが納得する「代表する作品」というのはなかったように思う。
僕がもの知らないだけかもしれないけど、
漫画や音楽ではすぐ思いついて、映画や文学ではそうではないのって、
それってそのままこの国でのそれらのジャンルの
「時代との添い寝感」とでも言うべきものの成熟度に直結しているのではないか?
映画や文学は皮膚感覚で僕らの時代を描くことができなかった。
自主映画にはあったのかもしれないけど、実際あったはずなんだけど、不幸にして僕は知らない。
97年に PFF のグランプリを取った「シンク」を初めて見たとき、ものすごく興奮したことを覚えている。
だけど「Long Season」と「リバーズ・エッジ」に並ぶかというとそうでもないし、
そもそもそんな多くの人が見てるものでもない。共有されていない。
演劇やアートやその他サブカルチャーには当時何があっただろう?
僕らの時代の、あの空気を体現できたものはあっただろうか?
などなど。
僕らより1つか2つ下の世代だったら、何が該当するんだろうね。
[2393] 「気になる女の子」 2007-07-01 (Sun)床屋で髪を切っていたらラジオがかかってて
ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」がリクエストされてた。
「あ、この曲なのか!」と新鮮な感動が。知ってるようで、知らなかった。
いい曲だなあと思う。
すっごい簡素なトラックをバックに(ベースと効果音だけ、ぐらいに聞こえる)
あのキャッチーなメロディーラインを歌う。
聞きたくて CD を探す。
ミッシェル・ポルナレフのベストを買ってもいいんだけど、
たぶん「シェリーに口づけ」しか聞かないんだろうなあと思い、
(ファンの人には悪いのですが、この曲だけの一発屋なんじゃないかと・・・)
洋楽ヒット曲のオムニバスみたいなのがいいんじゃないかと、物色してみる。
そんで見つけたのが、これ。
「洋楽ベストヒット 100」
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1204238&track=1
5枚組みで \3980
すげー安い。この手のものでは最終兵器か?
100曲も「日本で愛された」洋楽が詰め込まれてるわけですよ。
一気に聞いたらものすごくお腹いっぱいになった。
物心ついてから今まで、よく耳にしてたのに
曲名も歌ってる人も知らないままでいた曲ってのがいくつか、今回の CD ではっきりした。
*グロリア・ゲイナー「恋のサヴァイヴァル」
*スティーブン・ビショップ「オン・アンド・オン」
*リタ・クーリッジ「ウィアー・オール・アローン」
*ダイアナ・ロス「マホガニーのテーマ」
*スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ「涙のクラウン」
*リップス「ファンキータウン」
などなど。
「マホガニーのテーマ」なんて知ってる人からしたら常識だし、
ちゃんとよく聞けば「ダイアナ・ロス」じゃないの?とわかりそうなもんだ。
まだまだ勉強が足りないなあと思った。全然足りない。
そんな中、今回最大の収穫が
メッセンジャーズ「気になる女の子」
1971年のヒット曲ってことになってんだけど、マジで知らなかった。このグループ。
典型的な一発屋らしい。
でもこの「気になる女の子」って最近 CM で使われてたみたいで、
確かにどっか聞き覚えがあるんですよね。
5枚組みの中では「シェリーに口づけ」の次だったから
この曲を聞くたびにその次の「気になる女の子」を聞くことになり、
それが耳から離れなくなり、やがてこの2曲だけを毎日朝晩繰り返し聞くことになった。
もうこの2曲と出会えただけでも \3980 は僕にとって安かった。
女性コーラスが「アハーンアハーンアーハハンハーン」と非常に印象的なイントロを歌って、
そこに男性ボーカルが同じく「アハーンアハーンアーハハンハーン」と重なっていく。
この出だしだけで最高。あとはノリと勢いだけで3分間歌って、潔く終わる。
これぞポップ・ミュージックだ、と僕は興奮した。
日常生活を3分間だけ切り取って、どっか別な場所に連れてってくれる。
僕たちの知らなかったどこかカラフルで楽しい場所へと。
この曲だけで終わった一発屋ってのがまたいいんだよね。
その後彼らがどうしたのか、誰も知らない。この曲だけが何十年と生き続けている。
これまでずっといろんな洋楽を聞いてきて
2周も3周もグルングルンと回っているうちに
今、こういう曲が最もラジカルなように思えてくる。
完璧なポップ・ソングをただ1曲だけ残して、この世から消えていく。
ものすごくラジカルで、ものすごくかっこいい。
---
最近の CD の中で、「おっ」と思ったのが、Joni Mitchell のトリビュート。
メンツが超豪華。全員大御所級。
「Tribute To Joni Mitchell」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2538887
Sufjan Stevens と Caetano Veloso と Sarah McLachlan が1つに並ぶか・・・
1. FREE MAN IN PARIS - Sufjan Stevens
2. THE BOHO DANCE - Bjork
3. DREAMLAND - Caetano Veloso
4. DON'T INTERRUPT THE SORROW - Brad Mehldau
5. FOR THE ROSES - Cassandra Wilson
6. A CASE OF YOU - Prince
7. BLUE - Sarah McLachlan
8. LADIES OF THE CANYON - Annie Lennox
9. MAGDALENA LAUNDRIES - Emmylou Harris
10. EDITH AND THE KINGPIN - Elvis Costello
11. HELP ME - k.d. lang
12. RIVER - James Taylor
これもミュージシャンたちの間では最大級の賛辞を集める
Joni Mitchellだからこそなせる業か。
普通、この手のトリビュートものだったら目玉が3人ぐらいいて、
他はよくしらない新人が混ざっていたりするじゃないですか。
レコード会社主体の企画だったりすると特に。新人の紹介の意味も込めて。
これ、そういうのが全くなくて嬉しい。聞きごたえありすぎ。
ここまで大物たちばかりだと、カバーのなんたるかってのがよくわかる。
コピーに終わってるようなのあるわけないんですよ。
曲を完全に自分のマナーに合わせてしまっているか、
原曲からかけ離れて「これってジョニ・ミッチェルだったっけ?オリジナル?」と思わせてしまう。
Sufjan Stevens や Prince が前者で、Bjork とか Caetano Veloso が後者。
これらの人たちの個性の強さってのはオリジナルを聞いててもあんまり意識することはなくて
こういうカバー集の中で並んでみて初めて、わかるという。
それにしても、Annie Lennox の声は Joni Mitchell そっくりだ。
カバーなので似せようとしているのか。
選ばれた曲はワーナー70年代半ばの名作群
「BLUE」「Court and Spark」「夏草の誘い」といった辺りが多い。
その後のゲフィン時代は数えるほど。
なるほどね、と思う。
---
と、ここまで HMV のサイトを参照しながら書いていたら「New Order 解散発表」のニュースが。
http://www.hmv.co.jp/news/article/706280107
そうか・・・
90年代以後はのんびりとした活動だったので
グループというよりはプロジェクトみたいなものだったけど、
この世でも最も好きなバンドなので、ちょっと寂しい。
[2392] 中央線の午後 2007-06-30 (Sat)中央線に乗った。
メカニカルな新しい車両になったけど、
僕は昔のオレンジ色の車両の方が好きだ。素朴な味わいの。
これってデザインの良し悪し以前のものがあるんだろうな、と思った。
18歳で上京してきて、都心に向かうときはいつも中央線に乗った。
その時のいろんな思い出のせいか、
中央線はあののっぺりとしたオレンジ色の車両というイメージが強い。
朴訥とした雰囲気が僕を含めた大勢の地方出身者を乗せているようで。
18・19・20という
人生でも最も素晴らしいとされる時期に出会ったあれこれは
僕の価値観として強く滲みこんでいる。
---
本当は今日の夜、高校の友人たちと飲むことになっていたのだが、
人数が揃わなくて中止となったようだ。
今日は予定はそれだけ。それもなくなってしまった。
ふと思い立ち、国立に行ってスタ丼を食べる。
国立の駅が変わっていて驚いた。
〜〜これまで〜〜
ホ線 線ホ
| |
ム路 路ム
〜〜 現在 〜〜
線ホ ホ線
| |
路ム ム路
駅の入口の場所も変わったのかな。
僕が学生時代バイトしていたポポロも4階は女性専用の岩盤浴となったようだ。
駅に貼られていた広告で知った。
帰りは吉祥寺のタワレコに寄っていこうとしたのだが、移転のため閉店となっていた。
次のPJが本格的に始まって、忙しくなりつつある。
今日はなんだかぐったりと疲れ切っている。
何もする気になれない。
仕事の疲れもあるし、夏の暑さで夜ぐっすり眠れないというのもある。
昼まで寝ていたくても暑くて目が覚めてしまう。
小説も一段落したので、今日は完全にオフ。
何もしないぞ。音楽聞いて本を読むだけ。
---
昨日は事業部に配属された新人たちのチーム発表をたまたま見る機会があった。
その後夜は映画部の新人歓迎会。
駅でばったり昔の同期に会って、有楽町で一杯だけ飲んで帰る。
[2391] 家カレーと外カレー 2007-06-29 (Fri)積年の疑問。
家で作るカレーライスにはにんじん・じゃがいもが入っているのに、
なぜ外で食べるカレーには入っていないのか?
欧風カレーだとかインドカレーだとかはっきりしている店ならばいい。
そういうメニューなのだから。
意志があって、にんじんもじゃがいもも入っていない。
そうじゃなくて、喫茶店なんかでなんとなくメニューにカレーがある場合。
あるいは、松屋や吉野家みたいなファーストフード。
にんじんやじゃがいも入ってないですよね。
にんじんはたまに見かけるけど、じゃがいものはかなり少ない。
でも、家庭の手料理のカレーってじゃがいもマストじゃないですか。
あれってなんなんだろうなあ??
以前どっかで理由が書かれているのを読んで
「なるほど」と思ったことがあるんだけど、内容が思い出せない。
今検索しようとしたけど、どういうキーワードの組み合わせで答えが見つかるか検討もつかない。
いくつか試してみたものの、全然だめだった。
あー、もどかしい。
僕は何の変哲もない、ご飯としての家庭のカレーが大好きなので
じゃがいも入ってるととても嬉しい。
ホクホク・ホロホロした、煮崩れ寸前のとろっとしたじゃがいも。
(同じ理屈で肉じゃがも大好き)
いや、まてよ。僕はそもそもジャガイモ料理全般が好きなんだろうな。
マッシュポテトにポテトフライにジャーマンポテト・・・
話がそれた。
店で食べるときも、メニューに「田舎風カレー」ってのがあると
ごろっとしたじゃがいもやにんじんが入っていたりする。
そういうのを何回か見かけたことがある。
じゃがいもやにんじんが入っていないのは都会風のカレーなのか?
オシャレで気取って洗練されたカレーなのか?
でもなんとなく、そういうニュアンスを多少感じる。
レストラン系のカレーが正にそうで、
下々のカレーも「なんかそういうものみたいだから」って追随しているような。
---
そういえば最近カレー屋巡りしてないなあ。
開拓してないなあ。非常にいかん。
去年・一昨年とめぼしいところあれこれ行っちゃったからなあ。
大学の先輩とのカレーの会も最近とんとご無沙汰。
武蔵小金井の「プーさん」だとか町田の「アサノ」とかもう1度行きたい店はあるが、
新規で「ここに行ってみたい」というカレー屋も都内では思いつかない。
カレー力が落ちまくってるよ。
こんなんでいいのか、俺?
そもそも荻窪の「トマト」で感激して「毎月通おう!!」と思ったのに
その後1度も行ってない。なんだよ、この体たらく。
そうだ。ボーナス出たら行こう。まずはそこからだ。
「もうやん」とか「まんてん」とか
当時開拓した店のいくつかは結構な割合で通うようになったけどね。
[2390] 韓国弾丸ツアー 2007-06-28 (Thu)来月は3連休に青森帰って、その次の週は生まれて初めての韓国。
金曜の夜定時ダッシュで会社出て羽田へ。
帰ってくるのは日曜の夜。
ほんとはソウルで焼肉食って土曜の昼帰ってくる
弾丸ツアーのつもりだったんだけど、
せっかくだからと2泊することにした。
「焼肉食いてーな」
「じゃ、韓国行くか」
「ハハハ、それいいね」
「あ、俺も行く。その日開いてっから」
そんなノリ。会社の後輩と先輩と3人。
昨日の夜、会社帰りに HIS 行ってきた。
エアーとホテルだけのつもりだったんだけど
同じ日程ならツアーの方が格段に安かったのでそっちにした。
2泊3日で6万4000円かな。
7月の後半で。隣国は安いもんだ。
空港税、オイルサーチャージ込みで。
ホテルはソウル中心部にしたかったので5000円UPしたけど。
ツアーはこれ↓
http://www.his-j.com/tyo/tour/4kor/o-kor100-m1.htm
とにかく、食って食って食いまくって来るわ。
プルコギ!ビビンバ!骨付きカルビ!
朝は市場に行って食べるってのもいいね。
ちなみに僕は韓国ドラマって全く見たことない。
オプショナルツアーの定番
「冬のソナタ」や「チャングムの誓い」のゆかりの地を回るってのは興味なし。
(今も韓流おばさんたちは冬ソナに心ときめかせているのだろうか?)
行けるなら板門店に行ってみたいけどねえ。
もっと時間があるなら是非ってとこか。
今見たら「統一展望台と自由の橋観光」ってのがあって、
ソウルから20kmのところなんだけど、北朝鮮の町が肉眼で見れるようだ。
ソウルのこと、ほとんど何も知らない。
どういう観光名所があるのか、ピンと来てない。
東京タワーや上海のテレビ塔のようにソウルタワーみたいなのがあったりするんだろうか?
とりあえず、たぶん南大門とか東大門とか見に行くんだろうな。
これはかろうじて僕も知ってる。
---
4月にペルー行って来たばかりだし、
それでまた海外となると優雅な感じだけど。
新しいPJが始まって、これがまた普通に忙しい。
これまでの自分の平均値ぐらい。
業務ロジック的にはかなり難解なんだけど
僕が割りとよく知ってる、かつ、体空いてたってことで。
とにかく、今年度いっぱい忙しい。これは確か。
なので今のうちに、遊んでおくわけですよ。
---
青森は次いつ帰れるかわからなくなったので顔見せるだけ。
本読んでるだけかな。
[2389] 0/1/-1 2007-06-27 (Wed)最近また「死」について考えている。
僕が生きる/死ぬってことではなくて、抽象的な、世間一般的な概念として。
---
生を「1」と捉えるとき、死は「0」なのか「-1」なのか。
死は無であるのか、それとも生の裏返しなのか。
---
儀式としてのカニバリズム。食人。そのありえる姿。
例えば火葬場で焼いた後の灰を列席者にごく少量ずつ配って、
口に含んでもらい、水で流し込む。
その人の魂なのか肉体なのかわからないが、
常に我々と供にありますよという意思表示となる。
禁忌。タブー。
動物たちが通常、自らの群れの死体を食べないのと同様に、
人間たちも通常、身近な死体を食べることはない。
同属の肉を食べることにより DNA が云々かんぬんという話はよく聞く。
人間は進化の果てに知性を得て、
共に殺し合ってはならないという制限を排除した生き物であるのなら、
なぜ共にその肉を食ってはならないという制限の方は保ち続けたのだろう?
それは理性の問題なのか?
不慮の事故で恋人を失った若者は両親の承諾を得て、その体のひとかけらをもらう。
偉大なる指導者を失った組織にて、「私の体を分け与えよ」との指示が残されていた。
××の国の××には既に、行方不明の子供の××が××っているのかもしれない。
---
なぜ「死」を扱うビジネスがもっと大々的に展開されないのか?
後ろめたいからか?慎みの問題なのか?イメージがよくないのか?
人生設計の延長線上に、誰にでも等しく訪れるじゃないですか。
身近な人の死や、自分の死というものは。
このご時世、その人のライフプランニングに合わせて手軽にスマートに
葬儀の手配や墓地の購入や戒名などあれこれが
オールインワンに手配できてしかるべきではないか。
つまり、そういうポータルサイト。そういうコンサル業者。
あるのかもしれないけど、まだまだ一般的ではないように思う。
表立って活動しないのか。
身の回りの死に関する様々な手続きが
依然地味なままで人と人との直接のやりとりを要する。
ここに何か暗示的なものがあるように感じられる。
生の様々な局面がどんどんデジタル化されていってるのに、
なぜ「死」だけがアナログで語られなければならないのだろう?
人は結局そこに戻っていく、立ち返っていくからなのか。
結局のところ人の生き死には「0」や「1」のようなデジタルでは表せない。
そういうことなのか。
---
はっきりとした白も黒で割り切ることができないのならば、
生を表す色は灰色ということになり、死もまた灰色ということになる。
[2388] 刑罰 2007-06-26 (Tue)暇なときにこんなことを考えていた。
※気持ち悪い話になってくるので、苦手な人は続きを読まないように。
題して、「こういう刑罰があったらつらいな」
縦1m×横1m×奥行き2mの空間というか穴に押し込まれて、身動きが取れなくなる。
もちろん、永遠に出られない。
(食事は、えーと、口元まで伸びたチューブで流動物をチューチュー吸うってことで。
排泄物は・・・)
罰が重くなればなるほど、穴が小さくなる。寝返りすらままならない。
起き上がることができない。
「行動の自由を奪われる」どころの話じゃない。
奪うにしても抽象的なレベルではなく、物理的なレベルでそれはなされる。
この現実的な圧迫感。
閉所恐怖症じゃなかったとしても、すぐ、閉所恐怖症になってしまうと思う。
というか、3日で発狂する。
その後、衰弱死。
このバリエーションとして、縦穴にするというのもある。
縦0.5m×横0.5m×高さ3mの穴に突っ込まれて外に出られない。
しゃがんだり、座ったりできない。
永遠に。
この肉体的苦痛を思うと、気が遠くなる。
インドだったかチベットだったかの行者で
もう何十年と地面に立ちっぱなしの人がいるというのを読んだことがあるが
(たぶん、ロバート・リプリーの「信じようと信じまいと」だと思う)
こんなの普通の人にできるわけがない。
この刑罰を受ける人たちの入る「独房」が集まった巨大な空間、
その中に響き渡るうめき声。
疲弊しきって、泣き喚いて、気狂いたちが異言を唱える。
死をもって刑罰は完了し、独房の中が入れ替えられる。
人口の過密化が極端に進んだ未来の全体主義的社会において
1人の人間に与えられる居住空間は縦2m×横2m×高さ2mに制限される。
そういうブロックというかコンテナが
地上100階、地下30階に至るまでびっしりと隙間なく詰め込まれている。
その周りに果てしなく巡らされた通路という通路。
そこを大勢の未来人たちが無言で行き交う。
言動は常に監視されている。
多くの人間は太陽も空も見ることなく、一生を終える。
そういう社会というか時代の刑務所。
恐らく「人道」がヒステリックかつグロテスクに、
極端なまでに声高に主張されているだろうから、死刑そのものは廃止されている。
しかし、罪を犯した人を一般人から隔離する施設は必要になってくる。
そこでは「収容」以外の機能を持たない。持ちようがない。
それでも人間たちは虫けらのように繁殖を繰り返し・・・
[2387] Madonna, Sean And Me 2007-06-25 (Mon)これまで僕はたくさんのアーティストのライブを見てきた。
ストーンズも見た。レディオヘッドも見た。サマソニでガンズも見た。
見たかったものはたいがい見た。
そんな僕が「ああ、これは死ぬまでに何とかして見に行きたいなあ」と思う
アーティストのリストを作ったとき、トップに来るのはマドンナだったりする。
今、一番見たいのはマドンナ。
これはもう、何年もそう。
チケット取れないんですよね。即完売。
ぴあとか e+ のサイトを普段見ないので、
会員限定の先行予約がいつ行われるのか押さえてない。
(習慣的に見ていたら確実にあれも行きたいこれも行きたいとなってしまう・・・)
ファンクラブにでも入るべきなんかねえ。
でも、さすがにそこまでする気はない。
そもそもあるのかな、日本に。ないかなあ。
今探してみたら公認のが2つあった。しかし、どちらもアメリカのだった。
http://www.iconmadonna.com/index
http://www.madonnafanclub.com/
ストーンズもそうだけど、マドンナはここ何作か
アルバム発売後の大規模な世界ツアーを DVD 化するだけでなく、
ライブアルバムを出している。
DVD だけだと普段は買わないんだけど、
マドンナの場合 CD + DVD というフォーマットが続いていて、
そういうのってついつい買ってしまう。
これが CD のおまけレベルの DVD ではなくて、非常に豪華。
普通、ライブの DVD って見てて飽きてきて途中からなんか他の事し始めちゃうんですよね。
カメラをたくさん導入してアングルが豊富だったり、編集であれこれ凝ってたとしても。
でも、マドンナの場合それがない。
これってただ単に元々のショーが
エンターテイメントとしてとんでもない完成度にあるからなのだと思う。
こんなに手間暇掛かってるツアーって他にないんじゃないの?
全く持って非常に正しい金の掛け方。
ダンサーがたくさん出てきて、ストーリーを演じる。
このレベルがただものではない。これは生で見たいよね。
ただ優雅に一糸乱れず踊ってるだけじゃなくて、
最新作の Confessions Tour の DVD なんてもうアスリートの域ですよ。
世界中の夢見る若者たちの中でも最も才能と根性のあるヤツを集めてる、
というか集まってるのがよくわかる。
このオーディションすごいんだろうな。
潜在的なワナビーを含めて採用されるのは1000人に1人の規模じゃないか。
その前の「I'm Going To Tell You A Secret」はドキュメンタリー形式で、
ライブ・パフォーマンスとその舞台裏が半々。
これがドキュメンタリーとしてよくできていて、こちらもお薦め。
---
80年代半ばに「Like A Virgin」が大ヒットして一躍時代の寵児となったとき、
誰が今のマドンナを予想しただろうか?
けばけばしいキワモノというか、時代のあだ花というか。
一発屋で終わると思った人も多かったのではないか。
フィジカル面をハンパなく強化して、その知性を前面に打ち出して、
90年代をサヴァイヴするどころか
いつのまにか人気だけじゃなく実力で世界の頂点に立っていた。
アンテナを磨く。意見を言う。とにかく、努力する。
尊敬に値する人ってのはこういう人のことを言うのではないか、と僕は思う。
---
前にもどっかで書いたように思うけど、
80年代のマドンナが出てた三菱電機の CM をもう1度見たい。
あの CM のシリーズはとてもクオリティが高かった。
椅子相手にマドンナが踊ってるだけなんだけどね。
どっかに集めたものはないのだろうか。
You Tube で探したら見つかるかな。
---
もし誰かコネがあって
マドンナのツアーのチケットが手に入りそうな人がいたら、僕も誘ってください。
まじで。お願いします。
[2386] 「ボラット」「大日本人」 2007-06-24 (Sun)この前の木曜、例によって会社を休んだ。
(週休3日〜4日の天国の日々も先週が最後か・・・)
休みの日はずっと小説の作業が続いていたけど、
それも休みたくなり、映画を見に行くことにする。
「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」と「大日本人」
http://movies.foxjapan.com/borat/
http://www.dainipponjin.com/
「監督ばんざい!」と「ゾディアック」と計4本で悩んだ結果、
「監督ばんざい!」がつまんなくて一番がっかりしそうで、
「ゾディアック」は当分やってるだろうという理由で排除。
見たのは渋谷。Q-AXとシネ・アミューズだったので近かった。
---
「ボラット」はつまらんかった。
キャラクターそのものはいいんだけど、
映画がなにしろ貧相で。金かかってないんだなあ。
もっとハチャメチャなものを僕は期待してた。期待し過ぎてた。
もっと下品で悪趣味なんじゃないか・・・
以外と上品だよね、これ。
バラエティー番組であれこれやり過ぎてるのを見慣れてる
今の日本人には、かなり物足りないと思う。
素人どっきりものなら、日本の方が質が高いんじゃない?
というか英語がネイティブじゃないと面白さが半減するのかな。
いや、それだけじゃない。
この映画にはパワーが足りない。勢いが足りない。絶対そうだ。
そりゃもちろんところどころケラケラ笑ったけどね。
一番面白かったのは、冒頭のカザフスタンのシーン。
後は、ひたすら地味。
この映画が社会現象になるアメリカってよくわからない。
文化の違いですか?ああ、そうですか。
---
「大日本人」は全く期待してなかったので、むしろそれが幸いした。
今、あちこちの映画評でみんなよってたかって
「つまらなかった」って書いてるじゃないですか。
僕にとってはそんなひどいもんじゃなかったですよ。
でも、あんなふうに書きたくなる気持ちもよくわかる。
@映画=芸術、ないしは映画=娯楽の二元論でモノを語る人
A松本人志が作るのだから、腹よじれるほど笑えて当然と思ってる人
Bよくわからんがハヤリのものなので押さえておかなきゃという人
ってとこなのかな。
少なくとも@Aについては今回さらっと裏切って見せたわけで。
まあ、いいんじゃない?ああいうのもありだと思うよ。映画=表現ってことで言えばね。
でも他の人があの撮り方やスタンスを真似したら、「オマエ馬鹿じゃないの?」と思う。
映画ってつくづく枠組みってものが
きっちり決まっている表現形態なのだなということを再認識させられた。
例えばマイケル・ムーアが過激だ、としても
その作品はちゃんとドキュメンタリー映画の枠内にすっぽり入っている。
映画で何を語れるか?についてはこれからも追い続けるんだろうけど、
どう語れるか?についてはたぶん革新を求めてない。
自分自身の撮り方も固まっただろうし。
そんな中、この「大日本人」は逸脱しまくってて。
これ、松本人志が一人でカメラも照明もやってたらもっとトンチンカンな映画になったはず。
日本映画界で日々仕事しているスタッフたちが集まって手伝ったから、
土台の部分では可もなく不可もない、何の変哲もない映画に仕上がった。
だけど、そこに乗っかる上物の語り方がやはりペース崩してて、不自然。
そこのところが全体的にアンバランス。
そういうのひっくるめて松本人志の味ととるか、どうか。
・・・僕は単純に松本人志は映画音痴なのだと捉える。
(学生時代の僕もそうなので、偉そうなこと言えませんが)
はっきり言って才能はないと思う。
でも、もし松本人志が撮るってことで出資してくれる人が出てきて
2作目や3作目がありえるのなら、是非とも撮ってほしいし、僕は見に行く。
音痴ではあっても運動は特異だとかさ、人の魅力はいろいろあるわけで。
そこのところうまく引っかかる「何か」ってのが松本人志の映画にはあるんだよね。
少なくともクスクス笑えるだろうし。
腹抱えて笑うことは一切なかったけど、僕は終始クスクス笑ってた。
あれでいいよ。
僕の隣に座ってたいかにも渋谷なヒップホップで肌露出過剰なカップルは
僕なんかより素直に、ゲラゲラ笑ってた。
---
話は変わって。
木曜は会社休んで渋谷で映画を見た後、
会社の人たちと銀座松坂屋の屋上のビヤガーデンでジンギスカン食い放題。
たらふく食った。頑張ればもっと食えたけど、時間切れ。
ダーツやってカラオケ行って、終電逃した・・・
[2385] 炎天下 2007-06-23 (Sat)少し前に「ティッシュ配りは大変だなあ」みたいなことを書いたが、
今日もっと大変な仕事を見かける。
それは、あれ。あれですよ。
この炎天下にマンションだの分譲住宅の展示場の
「こちら ⇒」って書いたプラカードを持って立ってる人たち。
できねえな。あれだけは。しかも今日みたいな日は。
東京は30℃越え。どこが梅雨だ?
天気予報では今日、雨ってことになってたぞ?梅雨はどこに行った?
バイトの学生みたいな女の子が1人(パイプ椅子支給あり)と
バイトの学生みたいな男の子が1人(パイプ椅子支給なし)が家の近所に。
何回か通りがかったんだけど、男の子はあまりの暑さに日陰でへたり込んでいたよ。
いったいいくらもらえんのかねえ。
バイトだとお金もらえるだろうからいいだろうけど、
住宅販売会社の社員が借り出されて立たされてることもあるんだろうな。
しかも下手したらこのご時世、休日出勤の手当ても補助もなく、サービス労働的に。
そういう会社に勤めてなくてよかったと思う。
体を動かして汗をかくのはいいけど、
ただ座ってるだけで汗をかくってのは誰しも嫌なもんであって。
しかもスーツ着てなきゃいけないし。ひどい、と思う。
この炎天下にスーツ着て立ってたら
その企業に対して高感度が上がるってことはなく、
むしろ立ってる人が気の毒でネガティブな気持ちを抱く。僕なんかはね。
涼しげな格好をして、涼しげな雰囲気で過ごしてる方がイメージいいんじゃないの?
---
話は変わって。
今日・明日は特にどこか行くことはなく、ひたすら小説の推敲を。
先日の「ミカリン」を最後もう一度読み直して、応募用に表紙とかつけたりする。
あと、昨年正月から延々書き続けてきた「お茶漬けとマシンガン(仮)」が
あーでもないこーでもないといじり続けてるうちに300枚を超え、
いつまでたっても日の目を見ない可能性が高くなってきたので
100枚ぐらいずつ切り出して
「第一部」「第二部」「第三部」という形で段階的に完成させることにした。
その「第一部」が出来上がったので、同じように置いておきます。
http://briefcase.yahoo.co.jp/bc/tokamura2001/lst?&.dir=/eda6&.src=bc&.view=l
こっちの方が「ミカリン」の100倍面白いと思う。
普通の人にとっては。
---
7月の3連休に青森帰るべきかどうか、それとも韓国や台湾に行くべきか、悩んでいる。
韓国は3連休じゃなくてもいいんだけどね。
金曜の夜に行って焼き肉食ってホテルに泊まって起きて焼き肉食って帰ってくるようなやつ。
[2384] マトリックス 2007-06-22 (Fri)去年から関わっているPJはお客さんが頭のいい人たちで、
システム部門なんだけどたぶんみんな理系。
理論的に説明しないと納得しない。
「そういうのって理屈じゃなくて、たいがいこういうもんでしょうが」
ってな持っていき方を最初にしてしまうと怒られる。
よく求められるのはマトリックスの図。
問題となる事象を2次元の表で書き表してみる。
何を縦軸に取るべきか。そのとき横軸はどうするか。
まずはその見極めが大事。
縦横埋めて仮に出来上がったとしても
「この表は全ての事象を網羅しているか?」って精査が始まって
これができてなかったりすると「君ら何やってんだ?」ってことになる。
お客さんのオフィスではあちこちでこの2次元の表を目にする。
ありとあらゆる物事がこの表のバリエーションで評価されている。
ツールとして確立されていて、
入社してからずっとこれで考える訓練を積んでいるのだろう。
客観的に考えてこの手法は正しい。
・何よりもまず、網羅性の確認になる。
・問題となるポイントの1つ1つをマッピングして図式化することで
問題を把握/共有しやすくなるということ。
・縦と横で単純に現せないのならば
それはそもそもの整理の仕方に誤りがあって、
もう一段間に入れる必要がある、といった筋道の立て方。
などなど。
でも、そもそも理系じゃないし数学に弱い僕としては、こういうのとても苦手。
数学の時間の論理式とかあるじゃないですか。
あれ、皮膚感覚で理解できなかった。意味が全然分からなかった。
じゃあ書けないかっていうとそういうわけではない。
書けますよ、そりゃ。
だけど毎回毎回ものすごく苦労するんですよね・・・
常に違和感を抱きつつ、「こんなんかねえ」と悩みながら完成させる。
頭の中でこういうマトリックスで考える習慣は今さら身につかない。
日本語で最初文章を考えてから、英語にイチイチ翻訳するような感じ。
最初から英語で考えるのではなく。
文系の中でもその際たるものである文学系の僕は
頭の中での物事の整理の仕方について
全然別の方法を取っているのだということを最近になって認識する。
それはひどく単純な方法で、
日誌のような扱いのノートに常に起きたことの全てを書き綴っていくようなものだ。
そして何か質問を受けると、インデックスを辿っていく。
あの頃のノートのあのページに書いたことだな、みたいな。
そのインデックスの群れは宙にモヤモヤと浮いていて、
自分の中ではどこに何があるか明確だが、他人には説明できないし、共有もできない。
コタツの周りにあれこれ散らばっている光景を思い浮かべて欲しい。
それは何もかもが僕の手に届くところにあるが、
他人から見てどこに何があるのか法則性が導き出せない。
一部分であれ、それを図示するのはいつも一苦労だ。
マッピングの作業にかなりの労力を要する。
僕に子供がいたら、理系的な感性を身に着けさせたいよ。
詩人の感性も必要だけどさ。
それって実生活に潤いはもたらすけど、具体的な役には立たないわけで。
話は変わるが、文系の夫に理系の妻、理系の夫に文系の妻ってうまくいくのだろうか?
関係ないのだろうか?
文系同士、理系同士の組み合わせよりもうまくいく・いかないの統計ってどこかにないだろうか?
文系か理系かってのはその人の性質・性格に
多大な影響を与えていると僕は常日頃思ってるんだけど。
[2383] (untitled) plus 2007-06-20 (Wed)昨日の夜、mixiに書いたこと。
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今の僕にとって、
むしろ仕事の方が現実逃避なのかもしれない。
もっともっと大きなものから逃れたくて、
目の前の仕事に忙しいフリをしている。
日々の仕事に疲れ切ったら、他に何も考えなくていい。
「うぜー」だの「だりー」だのグチを言ってればいい。
そんなんでお金をもらえたりするから、たちが悪い。
「ああ、そうだよ?金のためだよ?何が悪い?」って
自分を肯定してしまえる。
仕事が暇な今、帰って来てもすることが無いから、
起きている間ずっと酒を飲んでいる。
酔っ払う以外にない。そんで、さっさと寝る。
仕事が忙しくなって
他に何もできなくなることを願っている。
今まさに、そういう時間を過ごしている。
日々をやり過ごす。
ただそのためだけに生きている。
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昨日の夜はペルーの蒸留酒ピスコを飲みながら
することもなくマドンナのライブ DVD を眺めた。
見終わるとロフトに上がって布団の中へ。
先月か先々月の Rockin'on JAPAN を読む。
Beat Crusadersとマキシマム ザ ホルモンが対談してた。
寝る。
4時前に暑くて目が覚める。
下りていってエアコンのリモコンを探す。
そこから先、眠れなくなる。
よせばいいのに、いろんなことを考えて、眠れなくなる。
明け方、空が白み始めてようやく寝付いた頃、目覚まし時計が鳴る。
起き上がり、冷蔵庫を開けて
青森から送られてきたリンゴジュースを飲んで、会社へと出かける。
そして今に至る。
長くて長くて短くて短い、1日の始まり。
道端にゲロが広がっていた。
羽田へと向かうモノレールが、羽田からのモノレールとすれ違う。
歩いているとレインボーブリッジの前に差し掛かる。
信号待ち。青空。
[2382] 産業スパイもの 2007-06-19 (Tue)金曜に映画部の後輩と飲んでるときに思いついた企画。
試しに脚本を書いてみる。
「寒い国から帰ってきた、愛の家のスパイ vs スパイ」(仮)
■舞台
情報産業大手であるT社
■主な登場人物
X:男性)T社の社員ということになっているが、実はA社の産業スパイ
Y:女性)T社の社員ということになっているが、実はB社の産業スパイ
Z:男性)T社の社員にして、実は経営層から特命を受けた産業スパイハンター
XとYは恋人同士なのであるが、お互いが産業スパイであることを、
しかも敵対する会社から派遣されたライバルであることを知らずにいる。
ZはYに恋をする。もちろん、Yが産業スパイであり、
長い間追っていたターゲットだったということを知らずにいる。
3人とも裏の世界では超エリートなのであるが、
T社では目立つことの無いよう、グータラ社員を装っている。
■その他登場人物
・X、Y、ZそれぞれのT社における上司と同僚社員
・X、Y、Zそれぞれの本来の上司
□Scene 1(T社会議室)
X、Y、Zとその同僚たちが会議が始まるのを待っている。
だらだら、だらだらとした雰囲気。
それぞれの前にA4サイズの資料。ボールペンとか、筆記用具。
お茶のペットボトルや缶コーヒーなど。
同僚1「なんかさ、知ってる?産業スパイってのがいるらしいよ」
同僚2「どこに?そりゃ、ロケットとか原子力に関わってるところにはいるんじゃないの?」
同僚1「いや、そうじゃなくて。うちの会社に」
Y 「ばっかみたい。今時そんなのいるわけないじゃない?」
X 「うちの会社のどこに、秘密があるわけよ?思わずほしくなるような」
Z 「ドラマとか漫画の見すぎだよな。そんな職業あったら、俺だってなりてえよ」
※XYZそれぞれのセリフのときにクローズアップ。あるいはカットを割る。
別な話題に移って、またダラダラと。
ノックの音。
部屋の中に上司が2人入ってきて、ピリッとした雰囲気となる。
会議が始まる。
□Scene 2(喫茶店)
Xが、A社の上司と密会。
上司A「この前の報告書、あれはなんだ?ちゃんと仕事してるのか・・・?」
X 「会社に持ちこむ私物や備品の取締りが厳しくなって、
以前のようには七つ道具を使えないんです」
上司A「それをどうにかするのが、君の仕事だろうが」
□Scene 3(公園)
Yが、B社の上司と密会。ベンチに座っている。
上司B「最近なんだかうまくいってないようだが。状況に変化は?」
Y 「情報セキュリティに関する監査が入ることになって、
機密事項への取り扱いが厳しくなっています」
上司B「それをどうにかするのが、君の仕事だろうが」
□Scene 4(役員室)
Zが、T社の役員と密会。
役員 「まだ見つからないのか?」(机を叩く)「何やってんだ!」
「バカモン!今、こうしてる間にもどんどんわが社の機密事項が盗まれておる!!」
Z 「なかなか尻尾出さないんです。どうしたら判別できるのか・・・?」
役員 「それをどうにかするのが、君の仕事だろうが」
などなど書いてみたが、全然つまらん。
たぶん、こういうふうに撮ることはない。
どうするか?
とある会社に映画部ってのがある。でも、作品が作れない。
産業スパイものってのを思いつく。
とりあえず出演者のX・Y・Zをみつくろって、
最後までたどり着いた脚本もなく、それでもとりあえず撮影に入る。
シチュエーションだけ与えて「即興でやってよ」ってことを試みるが、
そりゃやっぱうまくいかない。
そんなこんなでダラダラした日常が続いていく。
ってのをドキュメンタリーで。
・・・昔「29」ってのを撮ったけど、その続編の「32」になりそうな。
[2381] 新作が完成、旧作の整理 2007-06-18 (Mon)最近、休みの日は昔書いた小説や詩の整理や手直しの作業にかなりの時間を割いている。
思い立って始めたはいいけどとんでもない作業量。全然終わりが見えない・・・
それはさておき、どっか WEB 上に公開できるといいなあと探しているうちに、
Google Docs & Spreadsheets を思い出す。
http://docs.google.com/
以前映画部の新歓用のチラシをつくるに当たって、
Google の達人クリス君が教えてくれて、これで作りましょうってことになった。
文書の編集は Wiki みたいな感じなんだけど、
共同編集者としてのユーザー指定と、閲覧範囲の指定が行える。
ブログへの投稿もボタン1つでできる。
Googleのブログサイト「Blogger」がデフォルトなんだけど、
他のサイトを指定することもできるようだ。
それで日曜の昼、1時間ぐらいで出来上がったサイトがこれ。
http://okmrtyhk.blogspot.com/
先日、ユーザーが寄り集まって小説を書くサイトがあったらいいなあって書いたけど、
既にして Google が実現しつつある。
僕が思い描いていたのとは全然違ったけど、共同編集と公開の仕組みは既にして用意されたわけだ。
(Google だから API が用意されてるだろうし、これをなんかに発展できそうだ)
---
今月・来月、いやーたぶん夏いっぱいかかりそうだな。
自宅の PC で昔の小説や詩の手直しをして、なんか完成するたびに
Google Docs に文章をアップロードして、Blogger で公開することにします。
ブログとして読むのならば長いのは読むのに大変なので、50枚ぐらいまでの短編を中心に。
(ちなみに、250枚のを公開しようとしたら、
Google Docs にはアップロードできたけど、Blogger の方でエラーになった)
WORD のファイルそのものを置けたらいいんだけどね。
ブログ形式だとどうしても横書きになってしまうけど、ほんとは縦書きで読んでほしいし。
そんなわけで、Yahoo ! のブリーフケースにファイルを置いておくことにした。
http://briefcase.yahoo.co.jp/bc/tokamura2001/lst?.dir=/eda6&src=bc&view=
こっちが正で、Blogger はショーケースだね。
---
常日頃思うけど、Google の進歩・進化には驚かされてばかり。
「Picasa」をこの前使ってみて、便利だった。
そうだ。ペルー行ったときの写真をここで公開しようとして途中までやりかけで忘れてた。
---
それにしても、この Blogger ってどれぐらい利用されてるものなんだろう。
身の回りでブログ書くのに利用してるって人聞いたことがない。
デザインはいいんだけど、なんか微妙に使いにくい。慣れの問題か?
あれこれ簡素だし、エラーも出たし、ベータ版を使ってるような感じがした。
アクセス数がわからなかったり、機能も少ないんだけどこれって今後拡張されるのだろうか?
---
最後に。5月・6月と書いていた新作「ミカリン」が完成したので、
Yahoo ! のブリーフケースに置いておきます。
原稿用紙にして100枚の長さです。
[2380] 「A」「A2」 2007-06-17 (Sun)映画部の後輩が「A」「A2」のDVDを持っていると聞いて、貸してもらった。
さっそく見てみた。
オウム真理教を題材としたドキュメンタリーと、その続編。
山形国際ドキュメンタリー映画祭や世界各地の映画祭で上映された。
「A」は地下鉄サリン事件を起こした95年から約1年掛けて撮影され、
荒木広報副部長を主たる被写体として据えていたが、
それから4年後、「アレフ」と改称した99年に撮影された「A2」には
これと言って主人公はいない。日本各地の教団施設を巡っている。
当時ひたすらマスコミのカメラが教団に対して向けられていたが、
それはあくまで外からの視点によるもの。
この作品を監督した森達也の視点は一貫して内側にあるところがポイント。
かと言って教団の教えに共鳴するところがあって教団よりの立場に立つのではなく、
あくまで中立の立場であろうとする。
ただ単純に「ここでは何が起こっているのだろう?」という素朴なジャーナリズム。
というかテレビ制作会社的・自主映画的、淡々とした好奇心。
出来事に翻弄されて追いついていくだけで精一杯だったのかもしれないけど
(でもまあ日々接しているうちに、個々の信者に対しては同情的になってるようには思う。
オウム真理教という教団に対してではなくね)
で、見たわけですが。
この作品ってなんか物言うのほんと難しいね。
言ってることが難解なのではない。むしろ、非常にわかりやすい。
でもね、受け取ったことをそのままポンと言ってみたり、
ちょっと考えて意見を右に倒しても左に倒してもどこかの誰かの気分を害しそうで。
中性的なこと、というか中途半端な当たり障りのないことしか言えない。
(僕も肝っ玉が小さいな・・・)
例えば、「オウムの信者たちもそれぞれは、まあ、普通の人間なんだなぁ」
とかって安易に片付けるわけには行かないのですよ。
「普通の人間がああいう凶悪な事件を巻き起こすわけ無いだろうが」
「今も後遺症に苦しんでいる人が大勢いるっていうのに」
「自分の町に来てみろ。嫌に決まっているだろうか」
といった反論が容易に思い浮かぶ。
なんか一つ言えるのは、この作品は、
映画として、ドキュメンタリーとして、技術的に高いことは一切求めず、
非常に素人っぽく「とにかく回す」って姿勢に基づいて
オウムの中にいた人と外にいた人を
なんでもかんでも並列に撮って並列につなげることで
「日本人とはどういうものなのか?」ってのが素のままで提示されたように思う。
これを見るとどういう生き物なのか非常によくわかる。
「オウムの信者たちもそれぞれは、まあ、普通の人間なんだなぁ」というのと同じように
「取り巻いていた人たちも、まあ、普通の人間なんだなぁ」ってことが浮き彫りになってきて。
地域の住民ってのがあちこちに出てくる。
最初のうちはオウムが来たって言うととにかく集団になって「出てけ」「出てけ」と糾弾する。
なのに月日が流れ教団施設を交代で見張っていくうちに信者と個人的に仲良くなっていく。
出て行く日には名残惜しそうにする人たちもいる。
「脱会したらまた遊びにおいでよ」みたいな和気あいあいとした雰囲気で。記念撮影もする。
マスコミも右翼も自分たちの欲求を声高に主張してみたり、
その裏ではいろいろな余談があったり。妙に人間くさい。
---
森達也としての主張は「A2」の最後の箇所に込められている。
オウム事件から5年、日本はおかしな方向に進んでいると思った森達也は
荒木浩に対して、こんなことを言う。
「信者たちがあの事件に対してどう思ったのか。
うまくまとめられないまま、消えてしまっていくのではないか。
アレフに改称したり、被害者への賠償責任について語るようになり、
地域に受け入れられ共生することを求めるようになり、
最近のオウムは変わってきているが、それは何かがずれているように思う。
かと言ってじゃあどうあるべきなのかは私にもわからない」
荒木浩も、概ね同意する。
そして、日本中の多くの人たちが我々に対して「消えてくれ」と思ってるだろうと語る。
しかし、消えていくことはできない。どこにも行き場所が無い。
永遠の異物として、残り続けていく。
僕が思うにオウムとその周りの社会の受け止め方というのは
この国独自のものであって、他の国ならば全然違っていたのではないか。
信者を機械的に一切隔離して排除するような社会だってあっただろう。
しかし日本という国ではそうしなかった。そうはできなかった。
いろんなメカニズムが働いて。
それがいいことなのか、悪いことなのかよくわからない。
僕には。正直言って。
オウムの信者にとってそれはなんだったのか、
周りの人々にとってなんだったのか。
じゃあどうすべきだったのか?
この問いかけに対する答えは100年・200年という長い年月の果てに
ようやく評価される類のものなのだと思う。
個々の問題を切り分けていって、今すぐにでも解決すべきことはいくらでもある。
しかし、本質的な部分において割り切れない特異な問いかけが、残されてしまったのだ。
---
同じような質感を感じた作品として、平野勝之の諸作を思い出した。
「由美香」「流れ者図鑑」「白 THE WHITE」
対象との距離感。
どうしていいかわからず悩みながらも、撮るしかないんだと裸一貫カメラを回すところ。
だけど崖っぷちにいるわけではない、というところ。
[2379] 川口浩探検隊 / Matthew Barney 「The Order」 2007-06-16 (Sat)昨日の夜は映画部の社内鑑賞会。2本立て。
・「川口浩探検隊」のDVD全集のうち、『原始猿人バーゴン』の回
・「The Order from Matthew Barney's Cremaster 3」
この2つ、考えられる限り最高に正反対の組み合わせ。
マシュー・バーニーってあれですよ。今のビョークの旦那。
(正しくは結婚してないかもしれない。「パートナー」という言い方はよくわからない)
こっちは僕が持ってったんだけど、川口浩は映画部の後輩が是非見ましょうと。
川口浩の探検隊って当時青森で放送されていただろうか?
というそもそも水曜スペシャルが。記憶に無いんだよなあ。
当時青森にテレ朝系列の局がなかったから放送されてなかったかもしれない。
とにかく、生まれて初めて見た。こういうものだったのか。
Wikipedia を参照すると、タイトルは
「謎の原始猿人バーゴンは実在した!パラワン島奥地絶壁洞穴に黒い野人を追え! 」
となっていて、放送日は1982年6月9日。
フィリピンの奥地までテレ朝のクルーと現地の人たちと総勢40名で探検するわけです。
で、川を上ったり罠に掛かったり、洞窟の中で岩が崩れたり、
上半身裸で水浴びする女族にいちいち遭遇しながら
最後はバーゴンを無事発見・捕獲してめでたし、めでたし。
最近の臨場感溢れるカメラぶれまくりで出演者叫びまくりのドキュメンタリーとは違って、
セリフは棒読み、だけどカメラは三脚に固定されていてきちんとカットが割られている。
ある意味見やすく、とても懐かしい。
無駄に上っ面のリアルさを追い求める今の映画やテレビは
何か大事なものを置き忘れてしまったのではないか?なーんて思った。
Wikipedia を見たら「やらせ問題」が発覚して終了みたいなことが書かれていたけど、
どこどう見たって終始やらせじゃん。これって。
目くじら立てることは無かったと思うけど。これ、教育上よくないんだろうか?
「奥地には未開人がいる」とかいうのが。しかもそれ、やらせでやってるっていうの。
でも、今時のバラエティー番組よりよっぽど健全だと思うよ。
現代に復活して、しょーもない特番を毎月繰り広げて欲しいものだ。一応ちゃんと嘘と銘打って。
隊長はピエール瀧がいいね。
あ、でも今調べたら藤岡弘で復活してた。
マシュー・バーニーは、ようわからんです。
センスいい芸術作品なのは嫌というほどよくわかるのですが、それ以上のことはお手上げです。
見ててずっと「いやーきれいな映像だねえ」と感心して、終わり。
グッゲンハイム美術館の螺旋状になった5階建ての各階を
独特の衣装に身を包んだマシュー・バーニーがよじ登っていく。
1階はアメリカ人のバニーガールたち。
2階は Agnostic Front と Murphy's Law 両ハードコアバンドの演奏と
パンクなオーディエンスとセキュリティ・スタッフ。
3階は両足が義足の女性ランナーが花嫁衣裳みたいなの着ていたり、豹に扮したり。
4階は象牙のような質感の大きな彫像と柱が転がっている。
5階はリチャード・セラという彫刻家が通路にワセリンを流している。
地階にビキニの下を履いて上は乳首を隠しただけの女性たちが泡風呂。
今書いていて「だから何よ?」って気がした。
言葉でなんか書いててもこれ、何にも伝わらない。
見てて、「これはこういうことを表しているのではないか?」と一応考えるんだけど、
わかりそうで全然わからない。
解釈不能、というか解釈不要。
詳しくは↓参照。
http://www.walkerplus.com/movie/report/report4386.html
これが現代アートの最前線なのか。
まいりました。
[2378] 昨日、関東地方が梅雨入り 2007-06-15 (Fri)昨日、関東地方が梅雨入り。
昨日もまた会社を休んで小説を書いていた。一日中雨が降っていたように思う。
朝、7時に起きて「こんなに早く起きる必要はなかったなあ」と二度寝する。
窓を開けていたので、ウツラウツラしている間、外の物音が聞こえてきた。
小学校に行く前に、子供たちが縄跳びをしている。
二重跳び。縄がヒュンヒュン唸る。
介護施設の出迎え。狭い路地にライトバンがゆっくりゆっくりとバックで入ってくる。
施設の方と家族の方が挨拶をする。短いやりとりがなされる。
そういった音の風景を、布団の上に横たわって聞く。
平日の午前中にすることもなく、半ば眠りながらそういうのを聞いてるのって心地よい。
夜は雨の音を聞きながら眠る。
今夜は寝付けないかもなと思っていた日でも
雨が降っている音に耳を傾けているといつのまにか眠っている。
凝り固まっている意識が自然と解き放たれるのだろう。
雨粒の一つ一つに溶け込んで同化するような・・・
---
雨は嫌いじゃないので梅雨入りしてもユウウツじゃないんだけど、
スーツが汚れるのは嫌なんだよなー。
この季節だけジーパンで出社ありにならないものか。
荻窪の駅からアパートまでの途中、とある箇所で道路が窪んでて
大雨になると水たまりどころの騒ぎじゃないぐらいにジャバジャバしたことになって、
裾がびしょ濡れで革靴が水浸しになる。
年度末に道路工事をよくしてるけど、だったらこういうのこそ改善してほしい。
なんてことを考える。
[2377] ジャズを聞きにいく 2007-06-14 (Thu)昨日の夜は、会社の先輩に誘われてジャズを聞きに行った。
ジャズバーやライブハウスではなく、恵比寿の「叶家」という越後のそばと酒の店。
http://www.kanou-ya.com/news/index.html
演奏が行われるくらいなのだから
ホールみたいになってるのだろうか?と思っていたのだが、違ってた。
コの字型の店内は厨房を挟んで部屋が二つ。
このうちの小さな方がライブスペースとなった。
何も特別な設備はなし。それでも音はそんなに悪くは無かった。
HMV やタワレコの店内イベントみたいなもんかな。
酒は飲み放題で、新潟といえば「八海山」
それにサントリーが協賛していることもあって山崎の12年とプレミアム・モルツ。
料金が8380円と高かったんだけど、
山崎を何杯か飲んでるだけで元を取ったような気分になる。
料理もうまかった。
先輩がよく行くバーのマスターとその友人の方と4人でテーブルを囲んだ。
肝心のジャズ。
日本人のベースとサックス、アメリカ人のドラムとピアノという編成。
なんつうのかねえ。
伝統芸能としてはなかなかよかった。
Blue Note でも演奏してる人たちみたいだし、腕はなかなか。
だけど、ジャズってのは50年代・60年代をピークにして、
そこから先それを複製して洗練させていくだけのものになっちゃったのかもな、とも思った。
テーマを演奏して、ソロに入って、時々熱くなって。その繰り返し。
確立されつくした、ジャズのイディオムに基づいて。
「その先にある新しい何かを追い求める」っていう姿勢は全く感じられなかった。
そこのところが僕としては、ものすごく物足りなかった。
ジャズを専門とするハコじゃなくて、あくまでイベントなのだから、
ジャズに詳しい人ばかりでもないし間口を広くして
ショーケース的にさらっとやることを心がけただけなのかもしれない。
でもねえ。なーんかなあ。
魂はそこに込められてなかったんだよね。偉そうなこと言うみたいで申し訳ないけど。
ピアノは Jutta Hipp そのまんまだし、
ドラムはいつもの演奏を規定通り楽々こなしましたって感じだったし。
ピアノが一曲だけ日本人の男性に代わったとき、
うまいんだかへたなんだか分からないけど次に何が出てくるかわかんなくてスリリングだった。
こういうの、聞きたかったんだよね。
ジャズってどうしちゃったんだろ?
もっと他のを生で聞いてから、こういうこと言うべきだろうか?
[2376] ティッシュを配る 2007-06-13 (Wed)自分にはこれはできないなあという職業やバイトが世の中にはたくさんある。
(数えたことがあるわけではないけど、
挙げていってみたらどれもこれもなんだかんだダメ出しすると思う)
そのうちの1つがティッシュ配り。
あれは辛いね。
道行く人に配っても、みんな「あえて」無視していくでしょう。
ただ突っ立ってティッシュをちょろっと差し出してダラダラやってる人も多いけど、
ムリに笑顔を作ってでも明るい雰囲気を醸し出して、
「よろしくお願いしまーす!」と元気に声をかけたり一生懸命にやってる人も結構いるもんで。
なのに、それでも、無視して受け取らない。
「がんばってるなあ」と思ったところでいらないものはいらないわけであって。
花粉症の季節でもない限り。
ひたすら無視され続けるというのは人としてとても辛い。
これができる人、割と長い間経験した人は、かなりタフだと思う。感心する。
電話してマンションの販売をするなんてのも同様だ。
職業というものは「拒絶」という観点から分類できるのではないか。
・ティッシュ配りは不特定多数の人から
即座に「無視される」という小レベルの拒絶を受ける。
どれだけ無視されても、一定量のティッシュさえ配れれば仕事は終了する。
また、場所/範囲は今、自分が立っている一箇所だけとなる。
・ある地域を担当する飛び込みのセールスマンは
より狭い集合に属する人たちから「買ってくれない」=営業ノルマに達しない
というより高いレベルの拒絶を受ける。
ノルマは個人のものだから、自分の任されたエリアの中を売れるまで回り続けなくてはならない。
・国内メーカーのマーケティング担当や広告担当は投入した製品について
各地域ごとの売上状況の報告を受ける。
今回こういうことを試みたが、これだけしか売れなかった。
全国規模となるので範囲だけ見るととてつもなく広いが、売れなかったところで即座にクビはない。
横軸にどれだけの範囲の人から拒絶を受けるか。
時間当たりの人数とカバーする面積の掛け合わせ、つまりなんらかの密度みたいなものとなると思う。
縦軸にその人が負うことになる傷の度合い。
単純にこれは共通のルールでストレスチェックを行なうでいいと思う。
これでプロットすることにより、その職業は
・・・なんてことを今考えていたが、「だからなんだ」って話ですよね。
でもこれ、就職活動のときにあったら「参考意見」としては便利じゃないか。
各座標(その職業が具体的にプロットされた地点)における
具体的な給与水準も図示できたら面白いはず。
「ああ、××って縦も横もとんでもないところにあるから、こんなに給料が高いんだなぁ」みたいな。
まあたいがいの学生は金よりもストレスの少なさを基準にするんだろうけど。
僕も、そう。
今思うと「拒絶の少なさ」を基準にこの業界を選んだのではないか?無意識のうちに。
IT業界だとお客さんの会社から
「この見積もりは高すぎる」「この設計は要件を満たしてない」と言われるか
下請けの会社からブーブー言われるぐらいのもんで。
あるいはコンピューターから「プログラムがいけてない」と拒絶されるか・・・
ECサイトを構築したところでエンドユーザーが不特定多数過ぎて抽象度高いし。
ユーザーサポートで電話対応窓口だったら大変だけど。
とはいえ、それなりにこの業界も
「拒絶」「断絶」「ディスコミュニケーション」なんてはのざらにあるもんで。
意見の食い違いとかね。それの調整ばっかりなんじゃないかな。
SEともなると仕事の大半は。あらゆる意味での、「意見」の食い違い。
生き残れる人、出世する人ってのはそういう「拒絶」に強い人ってことになる。
あるいはヒューマンな「拒絶」をとことん避けて、先端技術のスペシャリストとなるか。
僕もほんとは後者になるつもりだったんだけどそういう素養はなく、
日々ちょこちょこと打たれていくうちにそこそこの大人になった。
そんなことを考えると、別にIT業界じゃなくてもよかったんじゃないかと思う。
[2375] 新・世界の七不思議 2007-06-12 (Tue)昨日の昼、会社の人たちと外で食べていたら世界の七不思議の話になった。
「ストーンヘンジが入ってるはずだ」「万里の長城は違うだろ?」
戻って来てさっそく調べる。Wikipediaを参照する。
僕がイメージしていたのは中世の七不思議だった。
・ローマのコロッセウム
・アレクサンドリアのカタコンベ
・万里の長城
・ストーンヘンジ
・ピサの斜塔
・南京の陶塔
・イスタンブールの聖ソフィア大聖堂
ストーンヘンジも万里の長城も入っているが、ピラミッドは入っていない。
ピラミッドは古代の七不思議の方に入っていた。
・ギザの大ピラミッド
・バビロンの空中庭園
・エフェソスのアルテミス神殿
・オリンピアのゼウス像
・ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
・ロードス島の巨像
・アレクサンドリアの大灯台
解説を読んでいると、
2007年7月7日に「新・世界の七不思議」が制定されることになっていて、
その投票が行われているという。
あ、そういえば4月末にペルーに行ったとき、マチュピチュで投票が行われてた。
マチュピチュが選ばれるように、みんなで一票入れましょうと。
詳しくは↓参照。
http://www.new7wonders.com/index.php?id=315&L=8
候補地は21箇所。
よく見ると不思議でもなんでもないばかり。
アメリカが自由の女神、ロシアがクレムリンと赤の広場、フランスがエッフェル塔。
「どこが七不思議だよ!!」と突っ込みを入れたくなる。
これってよく言われることだけど、
英語の「wonder」を「不思議」と訳してしまったのが定着したから。
ほんとは「見るに値するすごいもの」ってことなんだろうな。
オーストラリアにいたってはオペラハウス。
歴史的意義?いやーもうただの観光名所だよ。
ネット上で投票できるのでさっそく僕も投票した。以下の7つ。
ギリシャもローマもピラミッドももういいでしょうってのと
黙っても票が入るから西欧諸国ははずしてやれってのと
古代文明絡みのものを中心に。
・チチェン・イツァのピラミッド(メキシコ)
・イースター島のモアイ(チリ)
・マチュ・ピチュ(ペルー)
・ペトラ(ヨルダン)
・アンコール・ワット(カンボジア)
・タージ・マハル(インド)
・トンブクトゥ(マリ)
これらはまだちょっと「不思議」のニュアンスを残しているでしょう?
自分の行ったことのある場所ってことで赤の広場も入れたかったけど、
「不思議」ではないんだよねえ。
日本の候補は清水寺。これも「うーん。なんか違う」って感じがして入れたくなかった。
今頃清水寺では盛んに投票を呼びかけているのだろうか?
果たして7月7日、何が選ばれるのか?
僕が選んだのは入っているだろうか?
(たぶん、ペトラとトンブクトゥはないな)
僕が予想するに、こういう結果となる。
・アクロポリス(ギリシア・アテネ)
・コロッセオ(イタリア・ローマ)
・エッフェル塔(フランス・パリ)
・万里の長城(中国)
・ストーンヘンジ(イギリス)
・自由の女神像(アメリカ・ニューヨーク)
・ギザのピラミッド(エジプト)
先進国の人たちがネットでバンバン自国の観光名所に入れて、
後は歴史好きな人の素直な票がアクロポリスとピラミッドに流れる。
結局ね、「政治」が絡んでくるんですよ。こういうのも。
選ばれたら大々的に謳って観光資源としてフル活用できるだろうし。
[2374] 「インド ベンガルの吟遊詩人 バウルの唄」 2007-06-11 (Mon)会社の先輩がインドに旅行したときに出会った人たちが
日本に来て演奏をするということで、誘われて見に行ってきた。
「インド ベンガルの吟遊詩人 バウルの唄」
■日本公演に関して
http://orange.ap.teacup.com/baul2007/
■そのチラシ
http://kikorirecords.at.infoseek.co.jp/baul2007flyer.pdf
「バウル」について説明が載っているので、興味のある人はここを参照してください。
今月に入って何回か演奏が行なわれているが、僕が行ったのは昨日の夜。
場所は稲荷町の本覚寺というところ。
名前の通りお寺であって、その本堂にて行なわれる。なかなかないロケーション。
この本覚寺ではよくコンサートが開かれているようで、
今試しに検索してみたら最近の日付では「アルゼンチン・タンゴの夕べ」とか
ブレヒトの「マリー・Aの記憶」といった催しがヒットした。
もっとあさっていくと落語や三味線の会ってのも出てくる。
僕はよくわからないけど、「ベーゼンドルファー」という有名なピアノが置かれているみたいね。
だけどそもそもこのお寺は「蟇大明神」として有名なようだ。
http://www.kerokerodan.com/kaerutabi/039kaerutabi.html
小さなお堂があって、わさわさと溢れんばかりの蛙の置物が!
蛙の神様に願い事をした人があちこちから集まってきて、ここに奉納しているのだろう。
本堂の中へ。思ってたよりも小さくてこじんまりとしていた。
ほんのりとお香のにおいがする。
菩薩?をかたどったステンドグラスが壁に嵌められていて、
天井には昭和モダンなシャンデリアが吊り下げられている。
全体的にシックな雰囲気。
住職の方たちがお経を唱える場所よりも一段下がったところに
敷物を敷いてタブラなどセッティングされていて、
本堂の後方、ご本尊と向かい合うように椅子が並べられ客席が作られていた。
客層は若者から年配の方まで老若男女幅広く、
その格好からしてインドが好きそうな人たちが多かった、というか目立っていたように思う。
でもわかりやすく上っ面のインドって感じでもなく、
なんつうか生活のどこかに深くインドと触れ合ってるというか。
ベンガル地方の音楽が演奏されると聞きつけて、集まってきたんだろうな。
17時過ぎに、開演。
メンバーは1人都合により来日できず、当初聞いていた5人から1人減って4人となる。
それまで韓国で公演していたのだが、インドに戻ったのだそうだ。
*ショッタナンダ・ダス
歌、エクターラというドローン系の1弦琴と、ドゥギという小さな太鼓
*タロック・ダス・バウル
歌、ドータラという5弦の三味線みたいな楽器、カマックという小さな太鼓から伸びた弦をはじく楽器
*シュクマール・マリック
タブラ、コール(まあ要するにパーカッションですね)
*ホリ・ダシ
マンディーラというとても小さなシンバル
いつもこのメンバーということではなく、会社の先輩曰く、その時々によって変わるようだ。
「バウル」という集団があって、その中で音楽を中心とした修行をしている人たちが何人かいて、
世界の各地で流動的に演奏活動を行なっているということか。
ホリ・ダシは日本人の女性で、ショッタナンダ・ダスと結婚してインドで修行中なのだという。
演奏と演奏の合間には、小型ラジオみたいなのを操作してウィーーーーンと音を出していた。
携帯ドローン発生器なのだろうか?
インド音楽、インド文化に詳しくないので、その辺のことはよくわからず・・・
最初は4人が座って演奏。弦をはじいて、太鼓を叩いて。
僕としては「ふーむ・・・」ぐらいの感想。
「詳しくない」ってさっき書いたけど、実は僕、インドに対する興味ってほとんどない。
海外旅行は好きだけどインドは行ったことないし、
これから先行きたいかっていうと他の国・地域よりは格段に優先順位が下がる。
インド音楽のこともよくわかってない。たぶんCDは1枚も持ってない。
思い浮かぶのは「ムトゥ 踊るマハラジャ」のバックで流れるようなこってりしたやつと
60年代後半にジョージ・ハリソン初めロック・ミュージシャンがこぞって夢中になった
ラビ・シャンカールのシタール。それぐらい。
それがどこの地方にルーツを持つもので、とか全然知らない。
人生のある時期まで、ガムランはインドのものだと勘違いしていた。
そんな僕が、ショッタナンダ・ダスとタロック・ダス・バウルの2人が
立って演奏し始めた辺りから「おっ」と思い出す。
演奏に迫力が生まれる。
ショッタナンダ・ダスは凛として立ち、タロック・ダス・バウルは熱を込めてドータラを弾く。
歌いながら踊り、踊りながら歌う。
2人の足首にはグングルという鈴が括り付けられ、足を振ったり跳ねたりでシャリシャリと鳴る。
なんといっても、声。強くて張りのある歌声。
「よく伸びる」とか「声量豊か」とかそういうレベルじゃないんですよ。
思わず聞き惚れる。
これか!と思う。
声を声として捧げる行為。歌という表現。ここまでしてこそのものなのだ。
これは目の前で聞いてみないことには、わからない。
いくら言葉で書いたって何も伝わらないだろう。
じゃあこの声で何を歌っているのか?
僕はそれが気になった。
神々への畏敬の気持ちなのか、下世話な恋愛ごとなのか、村での日常生活なのか。
後半の方で1曲だけショッタナンダ・ダスが解説した。
「私の体という寺の中で、お香は炊かれたが、灯明はまだ灯されてない」
なるほど、と思う。だいたいの位置づけがわかった。
終わってから買った韓国公演のCDに曲名が書かれていた。抜粋する。
「グルよ、無知の暗黒をなくして、智恵の光を目に与えてください」
「神に私の中の神を伝えます」
「サドゥーと供に過ごすのは偉大な悦び」
「しばらくの間、クリシュナの愛を心の中に秘密にしておきなさい」
何も知らずに読むとギョッとする。敬遠したくなる。
だけど実際の歌を聞いてしまった後では、「ああ、そういうものなのだ」と納得する。
宗教的と言うとこのご時世、政治的な匂いがするから
人々の暮らしに密接に結びついた信仰というものを皆で大事にする気持ちとでも呼ぶべきか。
歌も踊りも楽器の演奏も神々への捧げ物であって、
その喜びを人々に語り継ぐための行為なのだ。
歌い終えて、ショッタナンダ・ダスたちは深く深く祈りを捧げ、
本堂のご本尊に対しても手を合わせた。
その姿が、とても印象的だった。
終わったら20時を過ぎていた。
途中休憩を挟んだものの、3時間近く演奏していたことになる。
え、そんなにやってたの?と驚く。
また何年か後に日本に来ることがあったら、是非見てみたいと思う。
そのときは別のメンバー構成となっているだろうし、今回とは違う経験が得られるのではないか。
新しい発見が、得られるのではないか。
この日、浅草のこの界隈はお祭りが行なわれていたようだ。
昼間神輿を担いだのか、白や黒のはっぴを着た人たちが
町内のあちこちで集まってにぎやかにしていた。
[2373] 書き終わった 2007-06-10 (Sun)4月のペルー旅行の最大の成果は、マチュピチュが見れたとか
仕事が殺人的に忙しかった後でリフレッシュできたとかそういうことじゃなくて、
「書こう」という意思を強く持てたことにある、と1ヵ月半近く経過した今、強く思う。
32歳にして小説家という夢をいまだ持ち続けてて、それでいいのだろうか?
そろそろ諦めることを考えたっていいんじゃないか?
ツアーの前はそんなことばかり考えていた。
トラブル対応に明け暮れてぐったりした気持ちのまま帰る地下鉄やタクシーの中で。
そんで、まあ、旅の間に今後の身の振り方をゆっくり考えようと。
このままSEとして働いて、CDをたくさん買いつつ映画見たりしながら
年に一度の長期の休みで海外に出る。
そんな一生でもいいじゃないか。
そう思いかけていた。
遠い異国の地で、日常生活からすっかり身を解き放して
思ったことはやはり「書きたい」ということだった。
ここまで続けてきたのだから、もう少しがんばってみようと。
諦めて投げ出すのは1日でできるから、あと1年か2年、辛くても続けてみようと。
つうかそれ以前に、ただ単に欲望として、「書きたい」
これは僕の場合、一生このままなのだと思う。
帰ってきてからは旅日記をガーッと書きまくって、
それが一段落するとそれを旅行記っぽく改作してみたりした。
昔書いた作品のリライトも始めた。トレーニングだと思って。
土日だけじゃなく、朝早く起きて出社の前に。あるいは、会社休んで。
2・3週間やってたけど「これじゃいけないだろう」とモヤモヤしたものが高まってくる。
旅行記もリライトも、新作を書いてることにはならない。
出来上がったところで、それが勝負に出る作品かというと違う。
もっとガツンと行かなきゃ、時間がもったいないじゃないか!
気分が盛りあがってる時ってのは不思議な力が出るもので、
これまで逆さに振っても出てこなかった新作のアイデアがひょいと出てくる。
それが5月の20日過ぎか。
いつも通り、始まりと終わりだけ思いつくと、後はなんとかなるさと書き始めた。
PJが暇なのをいいことに、何の臆面もなく「明日休むんで」と言いのけて
次の日は朝からガリガリ書き続けた。仕事のことなんて頭の中に全くない。
もちろん土日も予定を入れず、入れてても早起きしてそれまでに書き上げる。
これまで、2日とおかずに書いたことになる。集中していた。一気に書いた。
それが今日、書きあがったわけですよ。第一稿完成。
日曜だというのに7時に起きて。先ほど、11時に。
こんな嬉しいことはない。
やればできるんだなあと自分で自分に感心した。
どこに応募してもいいように枚数は100枚と決めていた。
オーバーしたけど、だいたいそれぐらいになった。
100枚なのでストーリーは単純。
いかにストレートに書き通すかが問題。
ごちゃごちゃと余計なものは持ち込まない。
複雑なことにトライしない。
あちこちかなり無駄が多くて、削ぎ落とさなくてはならない箇所がたくさんある。
ここから先は完成稿に向けてひたすら手直し。大幅に書きかえると思う。
まだまだ気は抜けないが、とにかく峠は越えた。
この1ヵ月、とても充実していた。
そう言い切れる。
外は大雨、雷が鳴っている。
でもこれから、ライブに出かける。
[2372] Second Life をやってみた 2007-06-09 (Sat)会社が暇なので(というか勝手にそう思いこんでいるだけなのだが・・・)
昨日も会社を休んだ。
午前中は小説を書いて午後はずっと「水曜どうでしょう」のDVDを見て(「サイコロ3」のやつ)、
夕方から Date Course Pentagon Royal Garden の昔のライブのを見て、
DVDにも疲れてきた頃、ふと「今話題の Second Life ってどんなもんだろう?」ってことを思った。
大きな本屋のコンピューターのコーナー行けば
最近は Second Life が結構大きくフィーチャーされてますよ。
図解式のカラーの入門書みたいなのがもう何冊も出てる。
新書もあった。その出てきた背景や意義を語るようなやつ。
招待制じゃないっていうから誰でも登録できるだろう、
そう考えて日本語版のサイトを検索して見つけてユーザー登録してみた。
専用のアプリをインストールするまでは簡単だった。
問題はそこから先。
日本語版のチュートリアルの島みたいなところから始まるんだけど、悪戦苦闘・四苦八苦の連続。
普段ゲームを全然やらない僕からすれば 3-D で
キャラクターを動かすってのはなかなか慣れないものであって。
スクリーンの上にメニュー、下にボタンがずらっと並んでて
「こんなん使いこなせるんやろか・・・」と不安になる。
というか、早い話めんどくさくなる。
「専用のコントローラーが欲しいなあ」とか「攻略本が欲しいなあ」なんてことを思った。
とにかく、あの島から出る方法が分からなくて、
出ないことには何も始まらないなんだろうなーと悩んで
あちこち動き回っているうちに飽きてやめた。
恐竜のアバターをただでくれる場所があって、それを買ってその場で着せてみたら
なんかイマイチで、でもそれを元に戻すにはどうしたらいいかわかんなかったり。
3-D のロールプレイングゲームをやってるようなもんですが。
往年の MSX を思わせるグラフィックで(もうちょっとマシか)
「えー?この中に新しい経済圏が生まれる?企業が進出するそりゃ嘘だろう?」って思ってしまった。
使いこなせない、楽しめない人間のひがみといえばそれまでだけど。
いやー、当分先じゃない?少なくとも今年ブレイクするようなもんじゃないだろう。
ログインして最初入った部屋にチュートリアル用のでっかいボードがあって、
何をどう操作すべきかごく基本的な動作が日本語で書かれている。
それに従って建物の中を進んでいく。
その最初の部屋に女の人が立っていて、
「なんだろう?」「バーチャルなインストラクター?」と思ってその人のところまでいく。
「話しかけてきたりするんだろうか?」とぴったりくっついてみるのだが、
その女の人はウントモスントモ言わない。
やがて、あたふたと逃げ出す。
取り残された僕は「あ、他のユーザーなんだ」ということに気付く。
いきなり恥ずかしいことをしてしまった。
ストーカーみたいで後味悪い思いをした。
まあそんな感じですよ。
僕としてはもうちょっと普及してから再度トライってとこかねえ。
リアルな世界にはもっともっとやるべきことがあるし。
---
僕がコンピューターというものに出会った、
パソコンというものが普及し始めた80年代後半、
3-D のバーチャル・リアリティーの世界の中で人々が生活を始める
という未来予想図が盛んに語られていた。
小さかった頃の僕はその実現を熱心に待ち望んでいた。
その後実験段階が繰り返され、何度かサービス化されたが、消えていった。
(消えずに残っているかもしれないけど、正直僕には分からない)
Second Life は初めて、商用ベースで軌道に乗りそうな成功事例になりつつあって。
実現まで実に20年かかったわけだ。
それを長いと見るか、短いと見るか。
SNS の発展系、というか延長線上にあるんだよな。進化の系統をたどっていくと。
単なる 3-D のバーチャル・リアリティーという視覚的技術じゃなくて、
SNS って要素が核として必要だった。
結局 Second Life もその目的はネット上で友人同士になって
情報交換のためにコミュニティーを作るってことだし。
3-D はプレゼンテーション(見せ方)の手段でしかなかった。
そう考えるとものすごく興味深いんだよな。SNSってやつが。
20年前の人々で SNS の存在を予見していた人は果たしているだろうか?
インターネットが爆発的に普及し始めた10年前ですら、いなかったはずだ。
自然発生的に生まれ、多くの人々の潜在的な欲求に刺激されて
どんどん進化していく、その方向性が定まっていく。
たった数年の間に今や進化の最前線に到達した。
結局、人という生き物はネット上であろうとなかろうと、他の人々との結びつきを常に求めている。
テクノロジーの発展がもたらすものとは、極端に言うとその手段と見せ方の多様化でしかない。
そこのところを賢く具現化したものが SNS なのだと僕は思う。
[2371] 今年上半期の音楽を振り返る 2007-06-08 (Fri)早いもんで今年も半分近く過ぎてしまった。
早い。早すぎる。まだ、何にもしてない。ペルー行っただけ?
それはさておき、今年上半期ってまだ残りあるけど、振り返ってみた。音楽のこと。
以下、かなりとりとめなく。
---
いいと思って繰り返し聞いたのは Damien Rice だけ。
しかも、今年出た新譜「9」ではなく
その4年前に出たデビューアルバム「O」とその後出た「b-sides」ばっかり。
アイルランド出身のシンガーソングライター。
「O」に収録された3曲目「the blower's daughter」が映画「Closer」で使用されて注目を浴びる。
(ジュード・ロウやナタリー・ポートマンが主演)
アルバムの冒頭「delicate」「volcano」「the blower's ...」とつながる流れがほんと、いい。
さりげなく始まりつつも「おっ」と思わせて
聞く人の心をつかんで、「the blower's ...」で最初の盛り上がりへ。
「そうだよなあ。アルバムを聞くってこういうことだよなあ」としみじみした気持ちになる。
日本に見に来たら是非とも行きたいんだけど、その声に触れてみたいんだけど、
今のところ来日はフジロックだけみたいなんだよね。残念なこと極まりない。
今更行けねえよ、そんなとこ。
---
もう1個気になる存在は Antibalas というニューヨークでアフロ・ビートな音楽を演奏する集団。
これも今年「Security」という新譜が出た。プロデュースはかの John McEntire が担当。
アフロって言うと Fela Kuti がまず思い浮かぶっていうか
正直僕はそれしか知らないんだけど、正にその21世紀ニューヨーク版というか。
安直な例えすぎてすみません。
あの反復するリズムはどっちかっていうと Can かな。
以前は Antibalas Beat Orchestra と名乗ってただけあって、大所帯っぽい。
これはライブ凄いだろうね。絶対。渋さ知らズみたいなことになるのかな。
---
それぐらいなんだよねえ。耳に残ったのは。
例えば今年のビッグな新譜として
Nine Inch Nails も Maroon 5 も Linkin Park も発売してすぐ買って聞いたんだけど
「あ、そう」ってなもんで。
Bjork もよくわからず。
Patti Smith も Fountains of Waine もまあまあってとこ。
Arctic Monkeys は絶対1枚目のほうがいい。
Bright Eyes と Joss Stone ぐらいかなあ。「おっ」というレベルまで来たのは。
Elliot Smith の新譜がとてもよかったけど、あれは初期の未発表曲だしなあ。
そうだ。純然たる新譜じゃないけど、
Neil Young のこれまで未発表だった70年代初めのライブアルバムのシリーズ。
あれはいいね。現時点での 2007 No.1 は「Live at Massey Hall 1971」かもしれない。
---
何の脈絡もなくはまって集めだしたものとして、
Sublime, Braian Jonestown Massacre, The Black Crowes
Shed Seven, Six. By Seven, Feeder, The Delgados
The Delgados 「Great Eastern」や
Six. By Seven のメジャーから切られた後の後期の諸作は今年の拾い物。
The Black Crowes 「Lost Crowes」は昨年発売されたアルバムの中ではベストだと思う。
あと、エモとポスト・パンクの間のバンドのをいつもよりたくさん買っている。
+ / - , Versus , The Promise Ring , Euphone , rainer maria , Cursiveなど。
---
紙ジャケ再発ものも相変わらずたくさん買ってる。というか買わされてる。
Paul Simon, Everthing But The Girl は昨年から引き続き。
最近だと、Squeeze と Sly & The Family Stone か。「暴動」はほんま素晴らしいね。
これから先としては Little Feat , Ry Cooder , Billy Bragg を買わなきゃと思ってる。
売れ残ってる Wishbone Ash も探して主なところは買い揃えたい。
あーいつもこんな感じだと金がいくらあっても足りない。
あれは去年だったか?
Fairport Convention の紙ジャケで探していた
「Liege And Lief」「Unhalfbricking」がようやく見つかったのは嬉しいところ。
どっちも5000円ぐらいした。仕方ない。
Marc Benno の「雑魚」もつい最近意外なところであっさり見つかった。
紙ジャケじゃないけど、Rhino から出た
The Doors のリマスター盤はボーナスが出たら全部買うつもり。
---
Lloyd Cole の新譜がとてもよかった!とほんとは書きたかったんだけど、
よく見たら発売は昨年だった。それを最近になってようやく知ってる買ってるというテイタラク。
Lloyd Cole はシンガーとして、ソングライターとして、
というかつまりシンガーソングライターとして(でもこの呼び方は違和感あり)
今はその長い音楽人生の中でも何度目かの長い長い旬の状態あるのではないだろうか。
地味で最近省みられないけど、幸福な円熟の仕方だと思う。
---
日本は相変わらず聞いてなくて、
最近気になるのは The Band Apart と Bennie K ぐらい。
Grapevine の新譜がとてもよかった。
着々とスケールが大きくなって、王道ロックを名乗って恥ずかしくなくなってきた。素晴らしい。
[2370] ツアーでペルー、その後 2007-06-07 (Thu)あれからもう1ヶ月以上経つわけですね。早いもんだ。
なんだか遠い世界の出来事のように思えるよ。
記憶は徐々に薄まりつつある。
以下、バラバラと。
修理に出したデジカメは保証書があったのでただで修理できた。助かった。
撮ってから2週間遅れで見た写真は相変わらず右側に傾いていて、がっかり。
お土産で会社に配ったインカ・チョコは意外に好評だった。
Britt のチョコレートは何種類か買ったうちの1つを自分でも食べてみた。おいしいと思う。
F君と写真の交換をする。
それ以外の人たちとはその後何もなし。
どっかで誰かがペルーのことを書いてないかなと
mixi など探してみたが、見つからず。
ツアーに参加するってことを例えるならば
マックにみんなで入ったら席が決まっていて
食べるものも決まっているという状況に近い。
それを「なんだかもどかしい」と思うか「楽チン」と思うか。
またツアーで行きたいか?と聞かれたら
まあ当たり前だけど場所によるってことで。
知らない人と行くツアーは総じて寂しいもんだよね。1人で参加するのは。
2人で参加するぐらいなら、その人とだけで旅行する方が絶対いい。
昔からの友人・知人が集まって団体で行くのならば
それは絶対楽しいので、「あり」だな。
またいつかそういう機会はないか・・・
日本に戻ってきてみるとPJはかなり暇になっていて、
5月はたいした仕事をしていない。
早く帰ったり平日休んだりしている。
そんで旅行記を小説に仕立てる作業に5月前半は没頭。
昔書いた小説や詩をまとめたりしているうちに
新しい作品のアイデアが生まれ、後半以後はそれにかかりきり。
今とても創作的な時期。土日もほとんど書いてばかり。
充実してると言っていいだろう。
なんか今、そのために生きてるって感じ。
会社の仕事は頭にない。全くない。
新規事業の提案書を手伝って、それぐらいかな。興味があったのは。
ここから先の仕事として食っていくための提案書の方は一切関わらず。
いいのだろうか?と思うが、ま、いいのだろう。
「The World Is Mine」というマンガがあって、
大学の先輩が絶賛してて、前から気になっていた。
ゴールデンウィークの終わり頃本屋で見かけて、
ピンと来るものがあって買って読んでみた。
これ、とんでもなく面白い。
これを読み始めたらやめられなくて
新装版はかなり分厚く、1日1冊ずつ買って読んだ。
「AKIRA」には遠く及ばないけど、「AKIRA」以来の衝撃だった。
総理ユリカンや青森県警の塩見課長、
秋田県警の須賀原本部長、ハンター飯島猛など脇役も超個性的で魅力的。
いろんな人にお薦めしたい。
[2369] ツアーでペルー その39(4月28日) 2007-06-06 (Wed)眠ってて、到着寸前になって目を覚ます。
空は紺色。
正にあと数分で夜明けを迎えようとするヒューストンの街並み。
入国審査は長蛇の列。
朝6時という時間のせいか、開いている窓口が少ない。
外国人用の窓口は2個だけ。途中からアメリカ人用の窓口も開放される。そちらに並ぶ。
係員は怖そうなあんちゃんで、どこで教えられたのか
「コニチハ」「サイナラ」とくだけた日本語で挨拶してくる。
夫婦で席が離れすぎたということで
熟年夫婦と席の交換をお願いされ搭乗券の交換をするが、
添乗員のKさんより搭乗券そのものの交換はしない方がいい、
免税店で購入するとき搭乗券の提示を求められることもあるから、と聞いて元に戻す。
2人はコンチネンタルの窓口に向かい、交換してもらおうとしたがうまくいっただろうか。
入国手続きをしたばかりだというのに、またセキュリティ・チェック。
終わって成田行きの出発を待つ。3時間先。
見たい店があるわけでもなく、搭乗ゲートの座席に座って本を読んで待つ。
コーラを買う。1.49ドルに TAX で1.62ドル。
昨年オハイオに旅行したときに余ったクォーターを使う。
1人参加のおばさんが隣に座ってきて、とりとめもなく世間話をする。
ロビーは空調が効き過ぎで寒い。手荷物で持っていたセーターを着る。
白人の男性が空港施設の改善の目的に使用されるというアンケートを
座っている人たちに配っていて、僕も鉛筆とシートを受け取る。
英語のページの後に、日本語のページ。
質問の内容としては、今回の旅行の目的、使用した金額、空港や旅行会社の評価など。
だいぶ待たされた末にようやく飛行機の中へ。
両隣は日本人となるが、ツアーの人ではない。
機内食はサーモンのソテーに付け合せにライス。サラダ、パン。
行きにならって書き写すならば、
「鮭のアジア風ソース いろどり野菜とご飯をそえて」ってことになる。
グレイス・ペイリーの「最後の瞬間のすごく大きな変化」を読み終えた後は
疲れ切って寝て過ごす。
13時間半のフライトのうち、実に10時間は寝てたんじゃないだろうか。
途中の軽食がチキンバーガー。目を覚ます。
デザートはやたらめったら固いアイス。ハーゲンダッツのバニラ。
到着前の食事は照り焼きチキンとライス。
フルーツはオレンジとブドウ。
アーモンド入りクッキー。
機内のモニターでは「今、ここを飛んでます」ってのが表示されてるんだけど、
なぜか英語では「SAPPORO」なのに、漢字では「丘珠」となっている。
どう間違えたらこんなことになるのだろう?
と思って今調べてみたら、「札幌丘珠空港」なんですね。知らなかった。
北海道に飛行機で行ったことないからなあ。
何事もなく、成田到着。
検疫所に差し掛かると質問票の提出が必要な国のところにペルーが入っていたけど、
添乗員のKさんもそのことは言ってなかったし、誰も話題にしないので素通り。
入国審査を受け、あとはスーツケースの受け取り。
ここで腹の調子が悪くなって、トイレに駆け込む。
旅行中は気が張ってたのか大丈夫だったけど、帰国して体が「もういいや」と思ったのか。
その後何日かずっと、腹の調子はよくなかった。
スーツケースを受け取る。
熟年夫婦のおばさんの方から「あら、もう出て来たの?いいわね」と言われる。
僕はニコッと頷く。
税関へ。「団体ですか?」と聞かれて頷くと、
「申告するものはありますか」「ないです」これで終わり。
外に出る。これでツアーとしては完全に終了。
両替をする。393ドル残ってて、4万5902円となる。
持ってたのが10万だから、やっぱあんまり使ってなかった。
新婚の夫婦と会って「あ、どうも」って感じで挨拶。
「もう集合することってないですよね?」と聞いて
「あーないですよね」と返される。
これがツアーの人たちとの最後の会話となる。
エスカレーターで降りて、京成線のホームへ。
ちょうど出発する直前のがあって乗り込む。
周りにはツアーの人がいることもなく、1人きり。
周りは日本人ばかり。そして1人きり。
1時間余りの間、サキの短編集を読む。
日暮里で降りて、山手線に乗り換え。
腹がまた痛くなりだして、東京駅で降りる。トイレを探す。
中央線で荻窪へ。
部屋に帰り着く。
新聞は大家さんに毎日ポストから取ってもらっていた。
お土産のチョコとお茶を渡しに行ったついでに受けとる。
母に電話する。
スーツケースを開けて洗濯物を出して、洗濯機にかける。
あれこれ旅行の荷物を片付ける。
スーツケースをトランクルームまで運ぶ。
その足で新宿へと向かう。
ペルーで買ったショッピングバッグを手に、
日が暮れて肌寒かったのでアルパカのセーターを着て。
西口のヨドバシカメラにデジカメの修理を出す。
保証書の有効期間内だったので無料だと思うけど、
よく読んだら「砂に落とした場合は不可」とある。
もしかしたら修理代を請求されるかもしれない。
ヨドバシカメラの近くの、たまたま目に留まったラーメン屋に入る。
パーコーメンと餃子とビール。
食べててようやく「ああ、日本に帰ってきたんだなあ」と思う。
帰りはタワレコに寄って、フォルクローレの CD を探した。
[2368] ツアーでペルー その38(4月27日) 2007-06-05 (Tue)ミラフローレス地区へ。
坂道を登っていく。
道路はアスファルトではなく、丸石で舗装されている。
洗練された繁華街に入る。デパート並みに大きな「RIPLAY」の店舗。
公園には大勢の人々がいて、夜を涼んでいた。
「PERU ROCK OPERA」と書かれた看板を見かける。
夕食の日本食のレストランへ。
看板には「Tokyo Salon Cafe 108」と書かれていた。
入口に白い提灯が掲げられ、漢字で「営業中」と書かれた看板が。
ミニチュアの添水もあった。
オーナーは日本人で、奥さんがペルー人。
その奥さんがお出迎え。「いらっしゃいませ」と。
まるで演歌歌手のような貫禄あり。
日本人形や竹細工といった日本的なオブジェが並ぶが、
店の一角にはマンガも置いてあった。
「ゴルゴ13」「サバイバル」「山口六平太」「上がってナンボ」「名探偵コナン」
食べたのは「寿司・海老弁当」
・鯛とヒラメの握り寿司
・エビフライ
・煮物
・煮豆
・ほうれん草のおひたし
・鯛の潮汁
・メロン
ビールを飲む。クスケーニャ。2ドル。これが本当に最後。
醤油はよく見たら中国製。ソースはかもめソース。
テーブルで一緒になった人たちと
会社へのお土産に何を買いましたか?という話をする。
僕も含めて、みなチョコレートばかり。
結局これと言って他にないんですよね・・・
この店の他のメニューとしては、巻物だと例えば
・Inka Roll
・Tokyo Roll
・Ebima Roll
どれもだいたい10ソルから20ソルぐらいだったから、
日本円だと500円から800円となるか。
F君とはここでお別れ。
リマでさらに4泊するのだという。突然言われて驚く。
写真を交換しましょうってことで僕のメールアドレスを伝える。
握手でさよなら。
普通ツアーに参加したら仲良くなった人とアドレスの交換をして
日本に戻ってきてから写真を見せ合ったりするのかな。
そういうことしたの、僕はF君とだけだった。
レストランを出る。
籠の中に口直しの飴と
アンデスの男女を象った小さな人形を台詞に貼ったものが入っている。
僕は人形をもらう。
空港へ。
車内の静けさ。
疲れによるものなのか、旅の終わりの寂しさによるものなのか。
僕もまたどことなく感傷的な気持ちになる。
こんなとき、1人で参加しているとつらい。
2人で参加しているなら、これまで通り話していればいい。
でも1人だと、話す相手がいない。
そりゃ、いるにはいるけど
こんなところでまで上っ面だけの話ってしたくないし。
旅の終わりってただでさえ寂しいもののに、
ツアーだと余計寂しくなってしまう。
それまでどこかに所属している中の1人だったのが、
たった1人、1人きりに戻ってしまう。
この頃から僕は必要に迫られない限り、誰とも話さなくなる。殻にこもる。
これから先のフライトスケジュールと
成田での税関の申告の話をした後で
(「ツアーだとだいたい、フリーパスになります」)
添乗員のKさんがここで締めの挨拶をする。
ここから先、帰るだけ。
ホルヘ・チャべス国際空港。
各自チェックイン手続きを行う。
列に並ぶ。スーツケースは1個23キロまで、
オーバーすると1キロごとに3000円支払う。
そう聞いたすぐ目の前に体重計が。何人かが慌てて量ってみる。
オーバーしてるかもってことで
急遽スーツケースを開けて手荷物を増やしたり、大騒動となる。
僕はピスコのボトル以外に重そうなものはスーツケースに入れてなかったし、
これまでの海外旅行でも重量オーバーで引っかかったことないので、
今回もないだろうと決め込む。結果、その通り。
フライトはヒューストン行き CO519 23:40発、6:15着。
4時間半開いて、CO007は成田まで13時間半。
ソルからドルへ両替をする。
15ソルぐらい残っていただろうか。
硬貨も全て渡してちょうど5ドルになる。
全員チェックインしたところで、2階へ。
添乗員のKさんがまとめて空港税を支払いに行く。
戻ってきて、ここでガイドのAさんとお別れ。
KさんはAさんとうまが合ったのか、泣きそうな表情を一瞬見せた。
日本からのお土産なのか、絵葉書を2枚渡していた。
出国審査の列に並ぶ。
僕の並んだところはえらく遅かった。
係員の女性が何をするにも非常にゆっくり。
マウスを操作するのも、パスポートをめくるのも、スタンプを押すのも。
セキュリティ・チェックを受ける頃には僕が最後の最後になって、
ツアーの人は周りに誰もいなくなっていた。
搭乗ゲートへ。搭乗手続きをしたらロビーから出られなくなる。
混雑している。空いている席を各自見つけて座る。
この辺りからツアーとしての集団行動ではなくなってくる。
ヒューストン行きに乗る。
両隣とも白人男性。左隣の若者はずっと寝てた。
右隣の大柄なおじさんは
ドリンクサービスが来ると「飲み物を頼みなよ」と声をかけてきたり、親切だった。
機内食のビーフステーキが異常に固かった。ありえない・・・
こんなことならチキンにすればよかったと後悔する。
付け合わせはポテト。パンと、サラダ。
デザートのケーキは残した。僕としたことが。このツアーで唯一食えなかったもの。
映画は 007 の新作らしきもの。
ほとんどの時間を眠って過ごす。
到着前の機内食はマフィン。水をもらって飲む。
アメリカの出入国カード(I94-W)と関税申告書を記入する。
あと、旅行会社のアンケート。
今回のツアーはどうだったか?といったようなこと。
いくつかの項目について採点していく。
僕の場合概ね「ま、いいんじゃない」って結果になる。
苦言を呈するならばビュッフェ多すぎってとこか。
ビュッフェだと「○○が出たけど苦手だったので食べられなかった」なんてことはなく、
選ぶのはその人の好みに基づくものだから文句のつけようがない。
でもその場にいる人の最大公約数を満たすためのものだから、
食べててなんか今ひとつな気分になるんだよなあ。
[2367] ツアーでペルー その37(4月27日) 2007-06-04 (Mon)バスに乗って、ホテルに戻る。
鍵を受け取って、部屋でシャワーを浴びる。Tシャツを別なのに着替える。
部屋の外に出て、誰も見てないのを確かめてから、下はトランクス一枚になって
カーゴパンツのポケットの中に入り込んだ砂を払い落とす。
太股に大きくポケットがあったりするので、無駄にたくさん砂が入り込む。
スニーカーや靴下の中も砂まみれ。朝替えたばかりなのに。
Tシャツや靴下を余分に持ってきていてよかった。
出発の時間まで、中庭に面した回廊の揺り椅子に揺られて過ごす。
冷たい風が吹きつけてきて、心地よい。
中庭には鳥を飼っている大きな檻や、
何の用途のためのものなのか分からないが
大きな甕がいくつもいくつも転がっていた。
バスに乗ってリマへと向かう。
グレイス・ペイリー「最後の瞬間のすごく大きな変化」を読む。
アメリカの伝説的な女性作家ってことになってるけど
僕はこの人のこと全然知らなくて、
翻訳が村上春樹だからというだけの理由で手に取った。
・・・すごいものを読んでしまったと思う。
こんな文体初めて。「なんじゃこりゃ!」って気分。
村上春樹が訳したくなったのもよくわかる。
文学を文学足らしめるとてつもなく大きな力が漲っている。有無を言わせない。
旅先で読むには荷が重いなー。
でも面白いから風景そっちのけで読んでしまう。
バスはリゾートホテルの敷地の中へと入っていく。
昼食。ここもまたビュッフェ・・・
クスケーニャ2本。4ドル。
最後の食事から2回目。そろそろクスケーニャも飲み納めかもと。
テーブルは若いカップルと一緒になる。
イカのサンドバギーにて無くしたと思ったデジカメのメモリーが見つかって、喜ぶ。
地上絵を見終わってホテルで気付いたのだろうか、
添乗員のKさんに伝えたところガイドのAさんがイカの飛行場に連絡して、
イカのサンドバギーのドライバーがこのホテルまで届けてくれたのだそうな。
チップを受け取ることもなくドライバーはすぐにも帰ってしまった。
ラッキーというか、それ以前にペルーの人は親切だなあ。
それまでに撮った写真がなくなってしまうなんて、デジカメが壊れるより悲惨だ。
僕の場合、それまでに撮った写真自体は無傷だからな・・・
ここはほんと、超がつくぐらいリゾートなホテルだった。
プールは青いタイルが貼られて水が鮮やかな青に見えるようになっている。
その周りを取り囲むデッキチェアにはビキニの女性が横たわる。
昼食後中を歩き回ってみる。
客室はコテージ形式。プールにはバスケットゴール。
芝生は回転するスプリンクラーで水がまかれ、
従業員が優雅にカートで食器を運んでいる。
ジムにサウナに子供用の映画館、プラネタリウムまであった。
(「The Nazca Lines」というプログラムを上映)
チェス盤を模した庭があって、白と黒の大きな駒が並べられていた。
賑やかな音楽があちこちで聞こえる。
プールの周りで子供と遊んでいた若い女性が
僕らのいたテーブルに話しかけてきた。
ペルーの人なんだけど、日本人男性と結婚して
一時期日本にいたことがあるということで流暢な日本語を話した。
リマへの移動、再開。
運転席がパワーショベルのブースみたいになっていて、
後輪がトラクター用の巨大なもの、前輪がその何分の一かの小さいやつ、
というなかなか不思議な形をした車を見かける。
本を読んでいたら、みんなが騒ぎ出すのが聞こえて本を閉じた。
事故。バスにトラックが突っ込んでいる。トラックは運転席大破。
バスの乗客なのだろう、途方にくれた人々、途方にくれるでもない人々。
その中の1人が売り物のパンをぶら下げた女性と話し込んでいる。
遊んでいる子供たち。救急車が停車している。
バスは砂漠を走る。相変わらず日差しが強い。カーテンを閉める。
平屋のブロックのような家が続く。白い壁、薄茶色の屋根。この付近の砂の色。
バスの運転手に携帯がかかってきて、万国共通の単調なメロディーが流れる。
話し始める。「シ、シ、シ、シ、シ・・・」
シは「Yes」を表す。Yes 言い過ぎだよなと思うが
日本語でも「はい、はい、はい、はい、はい」って答えてることあるよな、と思い直す。
人々が道端に立って何かを待ち受けている。
バスが来るのを待っているのか。
海。太平洋。
空も海も、わずかばかり水色の混ざった白。
島が見える。植物の生えている様子はなし。土くれだけの小高い丘。
トイレ休憩で民芸品の店に入る。
このお土産屋はしゃれたものばかりでよかった。値段も高くない。
ケーナやネックレスからインカ・コーラのTシャツまで
ペルー土産はバリエーションとして大体なんでもあったように思う。
お茶とコーヒーの無料サービスあり。
ここでもまた、クラブツーリズムの団体と一緒になる。添乗員同士話をする。
フェルトっぽい記事のオレンジ色のカバン18ドル。
Kさんに「お土産ですか?」と聞かれて、「や、自分のです」と答える。
「きれいな色が好きなんですね。いつもきれいな色の服ばかり着てましたよね」
その他買ったものとして、
手作りの、写真じゃない工芸品としての絵葉書が4ドルが2枚と2ドルが1枚。
本を読むのに疲れて、窓の外の景色を眺める。
これでペルーの風景も見納め。
真っ赤な夕日が太平洋に沈んでいく。
灰色の雲の影に隠れる。わずかに黒ずんだ水色の空に紅色の雲。
空の全てが雲に覆われ、町に灯がともされる。夜。
オレンジの灯がまたたいて、行く手にリマの街並みが広がる。
区域によって違いを持たせているのだろうか、街灯の色が白くなる。
そしてまたしばらく行くとオレンジ色に戻る。
バスの反対側を見ると、工業地帯。コンビナート。
僕は日本に帰ってから書きたいと思った小説のことを考える。
学生時代に思いついたアイデアがようやく作品にまとまりそうだ。
遠い未来を舞台にしたSF。
[2366] ホームパーティー 2007-06-03 (Sun)会社の先輩が新居を購入したってことでホームパーティー。
僕はギャートルズの「その肉」が1本冷凍庫に眠っていたので持っていった。
前回もうまくいかなかったけど、これ、オーブンで焼くのほんと難しい。
片面5分ずつ焼いて肉がジュージュー言ってて、
いい感じになったかなー、と思って切り開いていったら中はまだ冷たいまま。
これをまた切り分けて、骨から外して、再度オーブンで焼いた。
実を取るならば、正解は、
焼く前からいくつかのパーツに分けてしまうことではないだろうか?
「すげー。ギャートルズの肉だ」と見た目を楽しむのは、焼く前まで。
バーベキューのコンロではきちんと焼けるのだろうか??
遠火でじっくり焼いたら中までこんがりいきそうだけど、やたら時間がかかりそうだ。
「ビリーズ・ブートキャンプ」ってやつを DVD で見た。
全米で大人気、セレブ御用達のエクササイズ。
7日間で集中的に痩せるってことになってて、
途中をすっ飛ばして最終日のプログラムだけ見たらとんでもなかった。
上級者が大勢集まって一糸乱れず、ビリーの指示に従って、前後左右に蹴り上げたり、パンチしたり。
しかもとんでもない速さで、リズミカルに。
インストラクターの女性までヘロヘロになっていた。
元はアメリカ陸軍向けのプログラム。
こんなの素人にできるかよ!ってなもんだ。
とんでもねぇよ、これ。まじめに毎日やってたらそりゃさすがに痩せるよ。
見てるとトレーナーのビリーには確かにカリスマ性があって、人をその気にさせるものがある。
売れて当然だ。
↓映像をちょっと見れる。
https://www.shopjapan.co.jp/disp/CSjUnitGoodsTop.jsp?dispNo=002008001&RedirectYn=true&GOODS_NO=65381
「時効警察」見て、ダーツやって、
缶ビールをそこにあるの全部飲みまくって、最後はテキーラ。
さすがに最後は酔っ払った。
昼から始まって、まだ明るいうちに家帰ってきて、余りの眠さに8時には寝てしまった。
今日朝起きて8時。12時間寝た。
いまだ腹いっぱい。今日は一日何も食べなくていいだろうな。
[2365] ニュー・オーダーとジョナサン・デミ 2007-06-02 (Sat)ゴールデン・ウィークの明けた頃、神保町の JANIS2 に行ったら
発売当時からずっと探していたニュー・オーダーのDVD2巻組を見つける。
クリップ集とヒストリーもの。
ジャケットに問題ありということで即廃盤となったのだそうな。
よーやくですよ。もちろん買った。5000円は安かった。
(ちなみに、この日見つけたもう1つが「断絶」のコレクターズ・エディション)
どっちも2時間半近くあって、
休みを取った一昨日の木曜と、定時で帰った昨日の金曜にそれぞれ1本ずつ見た。
クリップ集で最もよかったのは「The Perfect Kiss」
80年代の中では唯一と言ってもよい。
ビデオクリップ史の歴史に残ると思う。
(「Round & Round」もオルタネイトのバージョンは素晴らしいけどね。
正式版?では女性が何人も出てきて切り替わるけど、もう1つのバージョンは1人だけ。
その笑ったり退屈そうにしている表情を追い続ける)
スタジオでライブ演奏を行うニュー・オーダー。
メンバーそれぞれの顔と楽器を演奏する手元を静止したフレームで淡々と切り取る。
ただ、それだけ。
なのにニュー・オーダーの何たるかを、その魂を、その存在感を、
(その演奏の壊滅的な下手さまで含めて)映像に焼き付けているように思う。
10分近い長さがあるのに、次の日見たヒストリーの方でもほぼ全部引用されていた。
やはりそれだけの意味のあるクリップなのだろう。
2回目なのに、見入ってしまった。
吸い込まれるような「何か」がある。
調べて見たら監督はジョナサン・デミ。
「羊たちの沈黙」の。
というよりも Talking Heads の「Stop Making Sense」の。
言われて見ればよく似ている。ものすごく、よく似ている。
固定のフレームなのに、奇妙な熱気を帯びているところ。
ミュージシャンの内面をえぐりだそうとする、ある種解剖学的な作品となっているところ。
(「Stop Making Sense」はライブの模様を収録したものなのに、
観客の姿は一切映さず、ステージの上だけに焦点を絞ったことで当時は画期的な作品とされた。
熱狂的になったファンの姿を映すのが常識とされていたのを
あっさりと切り捨てることで逆に生々しい臨場感を生み出した)
YouTubeにあったので、気になった人は見てみてね。
http://www.youtube.com/watch?v=sWn0FjYSazU
あと、21世紀に入ってからの2枚のアルバムのクリップはなかなかいい出来で
(ファクトリーを離れて、メジャーに移ったからか・・・?
今やロック界の生きる伝説、大御所扱いだからか?)
特にこの「Krafty」と
http://www.youtube.com/watch?v=BsOuNNP6wLA
突然変異的にアップデイト(世代交代)された「Crystal」
http://www.youtube.com/watch?v=ipbobacFiUY
「Krafty」はもう、見てて涙がダーダーダーと。
(って言うのは言葉の綾で、さすがに泣きはしないけど)
こういう青春に憧れてたのに、そういうの一瞬たりとも、実現しなかったから。
今、自分で書いていてなんだけど、
「こういう青春に憧れてたのに、そういうの一瞬たりとも、実現しなかったから」
ってフレーズ、ニュー・オーダーの本質を突いてないっすかね。
[2364] ツアーでペルー その36(4月27日) 2007-06-01 (Fri)休憩所の中では添乗員のKさんが待っていて、
「ホテルに戻れることになりましたよ」と吉報。
じゃあ、バギー乗れるじゃんと盛り上がる。勢いで申し込んでしまう。
新婚夫婦と熟年夫婦は残って、F君と若い夫婦、それにKさんの5人で。
飛行場の駐車場に黄色と赤の派手なバギーが何台か停まっていて、
そのうちの1つに僕らは乗り込む。かなりきついシートベルトをする。
運転手が1人と、控えの運転手なのだろうか、助手席にもう1人。
目を保護するためのものなのだろう、黄色いゴーグルをかける。
出発前にゴーグルをかけた写真を撮ってくれる。
飛行場の外に出て、すぐ裏に広がっていた砂漠へ。
走ってしばらくは道があったけど、途中門があってそれを抜けると完全にオフロード。
砂の上を縦横無尽に走り出す。
ガタガタ揺れる。揺れるどころの騒ぎじゃない。右に左に車体が傾く。
山を勢いよく登っていって、一瞬車体が浮く。そして急降下。
ジェットコースターに乗っているかのよう。
「アーハッハッハ」「ハハハハハ」僕ら4人は笑いが止まらない。
「楽しーっ!」「サイコーッ!」の連発。
Kさんはこういうの苦手なのか、「キャーッ!!」「怖いーっ!!」と終始絶叫。
幾多の丘を超え、バギーはどこまでも突き進んでいく。
「どこまで行くんだよーっ!?」「いいじゃん、アハハーッ!」
このツアーの中で最初で最後の、我を忘れてみなハイとなった瞬間。
まず間違いなく、最終日のこのときが一番楽しかった。まじで。
とある丘の上に着いて、バギーから降りる。
サンドボード・タイム。1人1人ボードを渡される。
白い無地のボードの上には金具こそないものの、足を固定するマジックテープが。
しかし、立って乗るのではなく腹ばいになってボードの上に寝そべる。
ボード先端部に括り付けられた左右の太い紐をぎゅっと握る。
1人ずつ砂の山から下っていく。「イエーッ!!」とか叫びながら。
僕の番になる。バギーのドライバーが手を離すとスルスルと滑り始めて、加速が始まる。
砂煙巻き上げて滑走。っつうか疾走、いや、爆走。
重力がかかって身動きもままならぬほどのスピードになる。
腹ばいになって滑るわけだからすぐ目の前に砂、砂、砂。
その臨場感たるやただものじゃない。
最高っすわ。
斜面の底で「もう1回やりたいね!」と言い合っていたら、
バギーで迎えに来て2回目に。
若夫婦の嫁さんが最初に滑ることになってデジカメを預ける。
下から、滑ってる僕らを1人ずつ撮ってもらった。
いやー、楽しかった。これは心の底から楽しかった。
「ペルーと言ったらサンドバギー」そんな標語があってもいいね。
隠れた穴場。ナスカの地上絵を見に行く若い人みなにお薦めする。
バギーは帰り道も跳んだり跳ねたりサービス満点。
そして次は、遂にナスカの地上絵。
・・・事件はここで起こる。
デジカメの電源を入れると、シャッターが開いて
ウィーンとレンズが前に出てくるもののすぐに閉じて電源オフとなってしまう。
砂がどこかに入ったようだ。
でもそれがどこなのかわからない。
次のセスナに乗り込む3組目の8人総出で、あーでもないこーでもないと試してみる。
砂の挟まってそうな箇所に息を吹きかけてみたり、逆さにして振ってみたり、
バッテリーを抜いてみたり。
若夫婦の嫁さんは自分のものでもないのに、泣きそうになる。
「ごめんなさい」と何回も謝られる。
でもまあしょうがないじゃん、としか言いようがない。
「もう1度だけ電源抜いてみるってどうですか?」「・・・それ、やってみたよ」
F君は「残り10枚しかないですけど、僕のデジカメで撮ってもいいですよ」とオファー。
でも、それもなんだか悪いし、いいよいいよと断る。
最終日だったので諦めがついた。
地上絵も素人が写真撮るの難しいみたいだし・・・
セスナに乗る時間となる。
12人乗りで残り4人は別なツアーの人たち。
3人は日本人でもう1人はアメリカ人っぽかった。
セスナに乗る。ものすごく狭い。
身をかがめて入って、座席まで身をよじらせながら進んでいく。
操縦士は正副2人。
日本人観光客をこれまで多く乗せてきたからか、片言の日本語を話す。
操縦席には「Chips Welcome」「ちっぷ ありがとうございます」
と書かれた紙がぶら下がっていた。
セスナが離陸する。
ナスカまでは20分。イカの上空を飛ぶ。
砂漠、おもちゃのような市街地(砂色の町、ポツポツと植えられた木々)、
無数の小さな山脈(チョコアイスのような色をしている)、
涸れて白い筋だけが残った川、まっすぐに走るパンアメリカン・ハイウェイ。
まだかなまだかなとドキドキしながら眺める。
僕の隣に座っていた白人男性は
操縦士にビデオカメラを渡して景色を撮ってもらっていた。
やがて高度が多少下がって、
副操縦士によるアナウンスとともに、地上絵観覧の始まり。
英語で説明した後、日本語でも。
「ツギ、イヌ、ヒダリ、チョットマッテ」
右に旋回して地上絵が大きく見えるように近づいて、次は回りこんで左から旋回。
左右両側に座った人どちらも写真が撮れるように。
日本語に堪能なわけではないので、
右に旋回して英語では「on the right side」って言ったりするのに、
日本語では間違えて「ヒダリ」と言ったりする。なんだかちょっとお茶目。
地上絵の数々:
宇宙飛行士、犬、猿、手、木、コンドル、蜘蛛、ハチドリ、サギ、オウム、星、家族。
たくさん見ました。見れるものは全部見たっつうか。
しかも非常にきれいに。
操縦士も「Super Clear Day」って言ってた。ついてる。
そんで地上絵について考える。
いやー・・・
これってなんなんだろうね。不思議としか言いようがないよ。
月並みな感想だけど、
ほんと、いったいなんのために、誰のためにこんな巨大な図形を描いたんだろう?
天文カレンダー?宇宙人へのメッセージ?古代の飛行場?
あと、どうやってこれを描いたのか?
なんらかのコミュニケーション。
現代の我々にとっては規格外のコミュニケーション・・・
ナスカの大地に非常に分かりやすく地上絵が描かれているわけではない。
幾何学模様みたいなのはその周りにいくらでも散らばっている。
地上絵と同じ時代のものなのか、
それとも20世紀以後なんらか刻まれたものなのかよくわからず。
道路も普通に近くを走っている。
「手」や「木」の近くの道路脇に見晴台のようなものが立っている。
地上絵の研究に生涯を捧げたマリア・ライへの名前が付けられた観測塔。
もしまたいつかペルーに来ることがあったら、
今度は地上から眺めてみたいよ。
そしたらその大きさがまた別の側面から体感できて、感激も深まるだろうね。
地上絵の真似したくなる人ってのもやはりいるようで、
ナスカの大地に地上絵クラスのでかさで自分の名前を彫った人がいた。
確か「DANIEL ANTONIO」
おまけ。Google Map でナスカの地上絵を見るサイトを発見。
http://www.drk7.jp/MT/archives/000858.html
セスナが飛行場に降り立つ。
あっという間のフライト。束の間の夢のよう。
これでこのツアーの観光は全て終了・・・
書き忘れてた。サンドバギーから降りて今からサンドボードだというとき、
僕は前の晩に空けたピスコのミニボトルを取り出して、
そこにナスカの(というかイカの)砂漠の砂を詰めた。
日本に持って帰って、机の上に飾ろうと。サハラ砂漠の砂と並べて。
[2363] ツアーでペルー その35(4月27日) 2007-05-31 (Thu)バスに乗ってイカの飛行場へ。たいした距離ではなくて、すぐ到着する。
砂漠の町っぽい通りの外れにある。
乗ってる間、ナスカの地上絵を見たという証明書に載せる名前のチェック。
全員の名前のチェックではなくて、新婚の夫婦のうち、
ツアー申し込み時点では苗字が変わってなかった女性を対象として。
(前にも書いたけど、何組か新婚旅行としてペルーに来ていた)
添乗員のKさんとガイドのAさんが手続きをしている間、ツアーの一行は待ち時間。
休憩所では飲み物が売られていた。
クスコやマチュピチュの写真が壁に架けられ、
ガラスのケースに収められたナスカの地表の模型も置かれていた。
ハチドリはどこだろう、宇宙人はどれだろうと探してみるが見つけられず。
止まってる模型で難しいのだから、
セスナに乗ったらさらに難しいんじゃないの?と誰もが思う。
隣にはセスナの手入れをするガレージがあって、
ここでみなセスナと一緒の写真を撮る。
僕も写真を撮ってもらう。
そのとき着ていた★がプリントされたTシャツが
セスナとマッチしてかっこいいと言われる。思わず照れ笑い。
周り込んでガレージ奥深くまで入り込んでいたら、ここから先は立ち入り禁止と注意される。
スペイン語だったので何を言ってるのか分からなかったけど、表情と身振りでわかった。
30人のツアーメンバーがセスナ3機に分かれて搭乗することになった。
最初に12人、次に10人、3番目が8人。
最初と2番目が今から、8時53分と8時58分に出発。すぐにも搭乗口へ。
僕ら3番目は10時過ぎに出発と時間が分かれた。
それまでの間、1時間半の暇ができる。
僕とF君、若い夫婦と新婚の夫婦と6人で飛行場裏手の動物園へと入ってみる。
3ドルで1ドリンクつき。
この1ドリンクはビールでもいいと言うので、
セスナで酔うかもしれないという可能性をものともせず、
男性陣は迷わずクスケーニャ。
動物園と言っても小さなもので、名物はコンドルの「ペペ」
もうこのためだけにあると言っていい。
別の白人旅行者たちが芝生の上でぺぺと戯れていて、
僕らが行くとペペは直径5mぐらいの大きな円形の檻の中に戻される。
この中で1人ずつ記念撮影。
飼育係の男性が嘴を押さえて、もう1人がカメラで撮ってくれる。
押さえられてモゾモゾするのか、時々ペペがバサッと羽根を広げる。
一同オオーッと歓声を上げる。
そんなこんなで写真を撮って外に出たら
カメラ係のおっさんが1人1ドルとチップを要求する。
そうかあ。たった3ドルでビールまでついて安いなあと思っていたら
そんなうまい話があるわけがないってことか。
僕らはちょっと憤慨する。せめて先に言ってくれよと。
そこから先、なんかされたら1ドル払うことになるんじゃないかと僕らはビクビクしっ放し。
ペルーで気軽にコンドルが見れるのもここだけか。
そういえばマチュピチュ行きの列車の中で出会ったカナダ人の女性が
3ヶ月いたけど野生のコンドルを見る機会は1度もなかったと言ってたことを思い出す。
噴水に羽根を広げたコンドルの模型。
檻の中にリャマ(アルパカ?)がいて、ストレスによるものなのか毛が抜けてかわいそうだった。
奥の方には4頭の馬がいた。僕らが柵に近づくと近寄ってくる。
餌用の草が積み重ねてあって、拾い上げると口元に運ぶとものすごい勢いで食べる。
餌もらってないのかなあ・・・
飛行場に向かうバスの中で、アトラクションとしてサンドバギーがあると聞かされていた。
砂漠を走って、スノーボードならぬサンドボードに乗る。25ドル。
「楽しいのでお薦めです、でも全身砂まみれになります」
まだ時間あるし、これ乗ろうぜって話になる。
誰かが言い出して、その場では僕が最も乗り気に。
だけど砂まみれになって、その後ホテルに戻れないのならば
そのまま帰りの飛行機に乗って成田まで行くことになる。
それでもサンドバギーにトライするべきか・・・
最初のセスナが飛び立つ頃になって、動物園から滑走路の方へ。
ドアが開いていて、「勝手に出入りしていいのかな」と言いつつも、「ま、いいか」と。
ちょうどセスナに乗り込むところだった。
この日もまたよく晴れていて日差しが強く、真っ白な滑走路が眩しかった。
5分ぐらいしてセスナが動き出した。セスナの中と見送る僕らと、手を振り合った。
滑走路を駆け抜けてセスナが離陸する。一直線になって空のかなたへ消えていく。
「写真を撮って、1枚1ドルで売りつけるか」と誰かが言って、みなで笑う。
2機目が飛ぶ前だっただろうか、飛行場の職員の女性がやってきて、
ここは立ち入り禁止みたいなことを言われる。あっちに戻りなさいと休憩所を指差す。
僕らはおとなしく言われた通りにする。
(その後ガイドのAさんから、勝手に立ち入ったとブーブー言われた)
[2362] ツアーでペルー その34(4月27日) 2007-05-30 (Wed)5時起き。
空はまだ薄暗い。
前の晩中庭の隅で見かけた自転車に乗ってみる。ホテルの外に出る。
扉は閉まっていたが、勝手に開ける。
旅行者だろうか、モコモコと着込んだ白人の男性を見かける。
どこかで梟が鳴いている。
オアシスへと出て、Uの字の右側の小道を自転車に乗る。
体を動かすのは気持ちよくて、思わずフフーンと鼻歌も出る。
・・・が、端の方まで行って砂漠の近くまで来たら突然、
池のほとりから階段を上ってきた犬の群れが!
黒いペルー犬ばかり5匹はいただろうか、盛んに吠え立てて追いかけてくる。
パニック。まじでびびる。ツアーの最初の方にリマで聞いた狂犬病のことを思い出す。
こういうとき、スピードを上げて逃げようとしたら逆効果で
さらに激しく追い立ててくるのではないか。
そう考えた僕は思いきって自転車から降りて、押しながら歩き出す。
心臓がドキドキ鳴る中、ゆっくり歩く。
しばらく歩いていたら犬たちは1匹また1匹と消えていった・・・
自転車はもうこりごりとホテルに返しに行く。
僕が近づくと先ほどの男性が鍵を取り出してカチャカチャやって開ける。
この人はいったいなんだったのだろう?従業員じゃなさそうだけど。
空が明るくなってきて、もう一度外に出る。
F君と会ったので、一緒にオアシスを見に行った。犬の話をしたら笑われる。
池のほとりまで下りていく。
池はオアシスの天然の泉ではなくて、プールのように端の方から水をどんどん足していた。
こういうホテルの中にあるのだから当たり前か。
池は木々に囲まれていて、ボートが浮かんでいた。
砂漠まで歩いていく。
1人参加の初老の男性と3人で砂漠の山を登る。
僕が先頭に立ってヒョイヒョイと。
何の目的のためにあるのかわからないけど円形の建物があって、そこまで行って満足する。
その向こうはどこまでも砂漠。
振り返ってホテルの方を見る。かろうじてイカの街並みが遠くに見える。
こんな本格的な砂漠があるなんて・・・
サハラ砂漠の赤い砂とは違って、ここの砂は白っぽい茶色。
砂鉄を含んでところどころ紋様のように黒い線が浮き上がっている。
ふと見るとかなりはなれたところをツアーで一緒の女性の方が1人で砂山を上っていた。
(プーノのホテルで酸素を吸って、翌朝湖畔を1人で歩いているのを見かけた人です。
この人もまた体力と好奇心がすごかった。この日、なんと3方向の山を往復したという・・・)
もう1人別の女性が現われて大声で何かを言い合って笑った後、2人でまた登り始めた。
オアシス沿いの別のホテルの壁に白いペンキで「オサマ・ビン・ラディン」の文字が。
観光客のいたずらなんだろな。消せばいいのに・・・
僕らはホテルに引き返し、僕は朝食のため食堂へ。
空いている席を見つけてツアーの居合わせた人たちに
砂漠を見てきた話をすると、みんな見に行きたがった。
人によってはもったいなことにオアシスの存在すら気付いていなかった!
ここのビュッフェのメニューには焼きそばがあって、
太くてふやけた麺で日本で食べたらNGなんだけど
こういう異国の地で久々に食べると妙においしかった。
この焼きそばばかり何回もお代わりして食べた。
テラスがあったので、外に出て、オアシスを眺めながらコーヒーを飲んだ。
見ると朝食を終えた人たちがどんどんオアシスから砂漠へと向かっている。
はしゃいで、写真を撮り合って。
ホテルの従業員が朝早くから掃除をしていた。
箒かと思ったら、なんかの木の枝に細い葉っぱが残っていたものだった。
食べ終えて、部屋の前のロッキンチェアーに座って靴と靴下を脱ぐ。
砂まみれ、砂だらけ。床の上にかなりの量の砂になった。
F君が隣の部屋で、角部屋。なんとスイートだった。中を見せてくれた。
寝室とは別の部屋があってとにかく広い。
部屋が足りなかったからかな。いいなあ。
荷物の整理をする。
余ったミネラルウォーターは部屋の中に進呈してきた。
ちょっとでも身軽になろうとあれこれ捨てる。
イスラ・エステベスから持ってきたスリッパも捨ててくる。
スーツケースを部屋の中に置いて、鞄を背負って、フロントに鍵を預ける。
[2361] ツアーでペルー その33(4月26日) 2007-05-29 (Tue)ホテルに戻ることはなく、プーノの港へ。
プーノは位置づけとしてはリゾートに近いものがあるので、
港にはボートやクルーザーがたくさん並んでいた。
観光用のだけじゃなくて個人所有のもあったのだと思う。
桟橋を歩く。桟橋の先頭は船を待つ人々なのか、人々が集まっていた。
日差しが強く、眩しい。
バスに乗ってプーノの町の中へ。
グラウンドが見えたのか、Dさんがサッカーの話をする。
「ペルーでは女性の間でもサッカーが人気です。スカートを履いてプレイします」
人でごった返す繁華街でバスを降りる。
昼ということもあって狭い通りを大勢の人が歩いている。
旅行者の姿は少ない。
世界遺産となったリマやクスコのどこか落ち着いた街並みとは違って、
人々がリアルに生活している雰囲気があって、活気がある。
所狭しと店が並ぶ。雑貨屋。携帯電話の店。食堂。
「BCP」銀行の支店。インターネット屋。薬屋。
「DirecTV」の看板をよく見かける。道端でも清涼飲料水など、売っている。
レストランの中へ。
白い壁がへにょっと傾いていて、無数の古いアイロンが飾られているという変わった店。
壁にはミシンや蓄音機まであった。宗教画も並んでいる。
キヌアのスープ、アルパカのステーキ。
アルパカはちょっと固かったものの、あっさりとした味だった。
ここでもまたビールを飲む。2ドル。
食後はバスで、昨日昼食を取った隣の町フリアカの空港へ。
飛行機に乗って出発地点リマに戻る。
(プーノには空港がないんですね)
「international」とは名づけられているが、とても小さな空港。
国内線だけじゃないのかな。ゲートは2つのみ。
搭乗までの間、時間があって土産物屋を見て回る。
僕はアンデスの女性をかたどった人形を買う。
背中に子供を背負って、胸元にも1人抱えている。10ソーレス。
昨日フリアカのホテルで買ったリャマの人形とセットで飾ろうと。
つうか、こういうの見てるとついつい情にほだされる。
搭乗ゲートなんてものはなく、
普通に空港の外に出て、地面を歩いて飛行機に乗る。
機体は横6人掛け。リマ−クスコ間と同じ。
フリアカ−アルキパ−リマというフライト。所要時間2時間だったか。
そのうちアルキパまでは30分もかからなかったのではないか。
フリアカで若干あった空席もアルキパで埋まる。
飲み物のサービスがあって、コーラを飲む。
機内食はあったようなないような。あったとしたらチキンバーガーだったような。
(この日、全然メモを取っていない)
この飛行機は前から乗り降りできるだけじゃなく、後ろからも乗り降りできた。
僕は後ろの方の座席だったので、後ろから降りてみた。
リマの空港でもまた、地面を歩いて到着口へ。
Baggage Claim にてポーターがスーツケースをピックアップして運ぶ。
この待ちの間、ツアーで一緒の初老の男性から
魚の腐ったような匂いがしないか、と言われる。
クンクンと匂いをかいでみると確かに、そう。
ヒューストンから来たときには全然気がつかなかったのに。
みな口々にこの匂いのことを語りだす。
リマって海が近くて、ペルーが漁業の盛んな国だから、こういう匂いとなるのか。
ここからガイドは日系人と思われるAさん。
バスに乗って5時間近くひたすら走ってナスカの近くのイカまで。
斜め後ろの席に座っていた熟年夫婦の旦那に
僕が持っていたミネラルウォーターのペットボトルを指摘される。
見るとベコベコになっている。
これまで高地にいて気圧の関係でパンパンに膨らんでいたのが
今度は逆にしぼんだのだ。
改めて自分たちが、これまですごいところにいたのだということを思い知らされる。
バスの長旅。夕食としておにぎり弁当を配られる。
途中でレストランに寄ることはない。
サケのほぐした身の入ったおにぎりが2つと輪切りの太巻きが2つ。
コロッケ、煮物(しいたけ・にんじん・ゴボウなど)、玉子焼き、
かき揚げ付きのうどん。
窓の向こうにリマの市街。
「CHIFA」と書かれた看板の店が多い。チャイナ、中華料理のこと。
3・4軒挟んでまた中華、ってぐらいに驚くほどたくさんの店があった。
しかも街並みに溶け込んでいる。
ペルーでも人気なのか、というか
地球の裏側もものともしない中国人のこのパワー。恐れ入る。
太平洋岸を走る。初日に「恋人たちの公園」を訪れたミラフローレス地区。
何かを記念しているのか、「CHORRILLOSA」と大きく書かれた、
細長くてモダンな広場が印象に残った。
大理石の噴水。夢を誓いあう男女の像。
真っ白なトンネルのような歩道橋が架けられている。
ひたすらP・K・ディックの「スキャナー・ダークリー」を読む。
疲れて眠る人ばかりなのかバスの中は照明が落とされて真っ暗になる。僕は読書灯をつける。
読み終える寸前まで来て、眠くなってやめる。
起こされて、イカに到着している。
ホテルの中へ。1階建ての平べったいホテル。
ロの字型。中庭あり。その周りが回廊となっている。
ロビーはないが、集会所みたいな部屋があった。前方に舞台。何に使うのだろう?
若い夫婦の旦那と話すと、「学芸会じゃないの?」
明日、最終日の予定が発表される。
イカの最高気温は27℃。暑くなりそうだ。
ナスカの遊覧飛行はセスナがそのときにならないと
6・8・12、何人乗りになるのかわからないとのこと。
また、搭乗までに酔い止めが配られる。
(セスナの飛行は不安定で、すぐにも酔って、
地上絵を見てるどころじゃないという噂が僕らの間で流れる)
モーニングコールは5時45分、6時半より朝食、7時40分出発。
8時にはイカの空港へ。
ホテルは13時まで利用可であるが、
フライトの都合上戻ってこれるかどうかわからないため、
スーツケースを部屋の中に置いておく。外には出さない。
戻ってこれないようならばガイドのAさんがバスでスーツケースを取りに行く。
外は真っ暗、ホテルの周りもシンと静まり返っている。
ホテルの外に出て別棟に入るとリゾートっぽいプールがあった。
デッキチェアが周りを取り囲んでいる。
ホテルの従業員が鍵をかけて閉めるところだった。
オアシスへと下りていく。
大きな池があって、Uの字型に取り囲むようにして他のホテルが建っている。
Uの開いている部分は砂漠。かなりの高さの砂山が聳え立つ。
全てが眠りについている。
リゾートならば夜更けまで賑やかにしていてもおかしくはないのに。
僕らが到着した時刻が遅くて、既に終わってしまっているのか。
22時頃だったか。
疲れ切って、眠くなって、ピスコをぐいっと飲んでさっさと寝る。
どうでもいいことだが、
ペルーで泊まったホテルのどこもドライヤーが備え付けで置いてあったが、
Aクラスのリマ・シェラトンやプーノのイスラ・エステベスだろうと、
Cクラスのクスコのサヴォイだろうと
どれも「First Class」というブランドだった。
ペルーで幅を利かせててアメニティのドライヤーとしては独占状態?
[2360] ツアーでペルー その32(4月26日) 2007-05-28 (Mon)ホテルを出て、湖のほとりまで歩いていって船着場へ。
待っていたモーターボートに乗り込んでウロス島へと出発。
この日もまた天気がとてもいい。快晴。
昨日天気が悪くて、前の晩「明日降るのかなあ」って話してたんだけど。
俺ってほんと晴れ男だねえ。
昨日は移動日で、かつシルスタニ遺跡っていうマイナーな目的地だったから
ついつい気を緩めてしまったわけだ。
ボートは1階のキャビンと2階というか屋根の上に設けられた席に分かれる。
もちろん僕は2階席に。風を切って進むのが気持ちいい。
自然発生的に生まれたトトラ(葦)の小さな浮島の間を
ボートはまっすぐまっすぐに進んでいく。その立てる波で葦が揺れる。
静かな水面に浮島や遠くの山が映っている。
藻なのだろうか、鮮やかな黄緑色の膜が葦の周りを覆っている。
(船着場付近はこの黄緑色がかなりの範囲で広がっていた)
20分ほどして、大きな浮島が寄り集まっている区域に。
最初の島に「KAMISARAKI」と看板が掲げられている。
アイマラ語(ペルー・ボリビアのチチカカ湖周辺で使用される)で
「こんにちは」の意味。返す言葉としては「WAREKI」となる。
バルサというトトラを編んでつくった舟が大小様々浮かんでいる。
舟の前面は必ずニョキッと突き出た顔の形になっていて、
あれは確かピューマだっただろうか。
そこからまた先に進んで、サンタ・マリア島へ。
浮島のうち人の住む大きなものは名前がついているようだ。
(ウロス島というのはその総称となる)
上陸して、人々の生活についてレクチャーを受ける。
島は定期的に古いトトラの上に新しいトトラを積み重ねていくことで作られる。
「アンカ」と呼ばれる杭(英語から来ているのだろう)を打つことで
湖の底に固定して流されないようにする。
トトラでできた家の屋根は1年しかもたなくて、そのたびに作り直す。
土台は2年。家を持ち上げてトトラを積み上げる。
家そのものの枠組みは木で作られている。
家の中にはテレビもラジオもあって、その電気は太陽発電にて生み出している。
なので各家の脇には家庭用の小さな太陽電池を棒の上に括りつけたものが設置されている。
これらの仕組みはフジモリ大統領時代にエジプトから導入。
サンタ・マリア島は7家族が暮らしていて、子供たちは他の島の学校に通っている。
島々の中には学校や教会がある。しかし病院はない。
(虫歯になっても困るので、子供たちには飴をあげないことと注意される)
観光が主な収入源となるが、もう1つの柱は漁業。
チチカカ湖ではマス、ナマズ、鰯など様々な魚が獲れる。
貨幣経済ではなくて、基本的には物々交換。
僕らのためにそのデモンストレーションが行われた。
のこっち側、プーノから来た人たちと反対側から来た人たちとって感じで。
さばいたアヒルや干した魚、ジャガイモや穀物など
それぞれが持ち寄ったものをたくさん広げて盛んにやりとりする。
「もっとまけてよ」的なことも言う。そういうときは量をふやすわけだ。
アイマラの女性たちは丸い顔にぷくっとしたほっぺ、低い鼻が特徴。
物々交換のときに登場した女性は
編んだ長い髪の先にアルパカの付け毛をくっつけていた。
島も家も舟もみなトトラで作られるが、なんと食べ物にもなる。
新鮮な刈り取ったばかりのトトラが回される。みんなで食べてみる。
味のないサトウキビってとこかな。
デモ用に煮炊き用の炊事道具も置かれていて、
ガイドのDさんが小麦粉みたいなものを練って手頃なサイズにすると、
熱した油でいっぱいの中華鍋に入れて揚げパンのようなものを作った。
残念ながら食べ損ねた。
島を歩くとブヨブヨとした踏み心地。
湖の水が染み出るってことはないが、触ると水分を含んでいるように感じられる。
島の人たちはそれぞれ家の前で敷物を広げてその上で土産物を売る。
魚の描かれた深皿やバルサのミニチュア(もちろんトトラで作る)、
敷物、小銭入れみたいなもの、陶器の人形、バルサのモビールなどなど。
皿は迷ったけど、結局買わない。
島の奥の方でクイの飼育が行われていた。
七面鳥のような鳥も放し飼いされていた。
家の中を覗いても何も言われない。
壁に衣類が掛けられ、ボンベにガスコンロ。確かにテレビが置かれていた。
見晴台があって、上って写真を撮る。
次の島へ。2ドルでバルサに乗れるというので、みなそちらにする。
ボートに残ったのは2組の夫婦。
熟年夫婦はキャビンの中だったが、
若い方の夫婦が2人きりで屋上に出てくつろいでいる様子を見ると、
そしてそれがかなりのスピードを出して僕らの乗ったバルサを追い越していくのを見ると、
まるでボートをチャーターしているみたいでうらやましかった。
追い越すとき2人は僕らに向かって満面の笑みを浮かべて、得意げに両手を振った。
2階部分が輿のようになって大勢乗れる舟だった。僕は2階へ上がる。
バルサが湖の上をゆっくりゆっくりと進んでいく。
前で2人男女が漕いで、後ろで1人女性が漕いだ。
途中まで来ると一人乗りのボート(こちらは普通の手漕ぎボート)に乗った女性が
「援軍」に駆けつけて、バルサの後ろについて漕いだ。
旅行者を乗せて、湖の上を様々な大きさ・形のバルサが行き交う。
僕らのような大型の舟や、旅行者2人だけで漕ぎ手が先頭に1人だけの小さな舟。
島もまた大きいのがあったり、小さいのがあったり。
とある島には幼稚園だったのか、小屋から大勢の子供たちが出てきて外で遊んでいた。
小学校のある島へ。
部屋が1つだけの小さな学校。
子供たちが出てきてサッカーをする。ボールが転がって湖の中へ。
岸辺に停まっていたボートに乗り込んでボールを拾う。またサッカーを再開する。
教室の中に入ると日本語で書かれた習字が壁に飾られていた。
日本人の名前で「夢と希望」「共に学ぶ」
ここに住んでいるとは思えない。日本から送られてきたのだろうか?
それとも日本人学校の生徒が書いたのか。
ここにもまた見晴台があって上る。
ハシゴを降りるときに足を滑らせて下の段に思い切りぶつける。
夜、イカのホテルに到着してカーゴパンツを脱いだとき、
派手に傷ができていて血が出ていたことを知る。
この島では無料でアンデスの民族衣装を貸してくれるサービスあり。
女性たちが我も我もとこぞって着替えて写真を撮る。
最後に女性たちの集合写真。
男性用の衣装は一着だけでジャケットと帽子だけ。新婚夫婦の旦那が着る。
僕が写真を撮っていると添乗員のKさんから
「オカムラさん、着てみませんか!?」と声を掛けられる。
「いやーいいっすよ」と最初断ったんだけど、「お願いしますよ」と再度頼まれる。
(僕が1人で行動していることが多かったから、交流の場を、と思われたのか・・・)
ジャケットを着て帽子をかぶって、女性たちの真ん中で写真を撮る。
僕もデジカメを渡して撮ってもらう。
「似合ってますよ」といろんな人から言われる。
いい思い出になった・・・
ジャケットは丈夫なもので、着てると暑かった。
ウロス島には余り知られてないがホテルもあると聞く。
10ドルで泊まれる。風呂はないが、食事はあり。
島を出る。
島の女性たちが集まって列になって声を合わせて「サヨナラァ」と大きく手を振る。
そして「アメアメフレフレカアサンガァ」と日本の歌を歌う。
ボートに乗る。帰りは心なしかスピードが速い。
オレンジ色の救命胴衣を1人1つ配られる。
そんな危険には思えなかったけど。
着たら着たでみんな写真を撮り合う。ある種のサービス??
後で地図を見たら僕らはチチカカ湖のほんの端の方をボートでうろちょろしただけだった。
琵琶湖の十二倍の広さは、体感できず。ツアーだと仕方ないか。
[2359] 「バカの壁」の読み方 2007-05-27 (Sun)本屋で「バカの壁」を見かける。
去年か一昨年か、ベストセラーだったので僕も読んだ。
どういう内容だったか?
・・・全然思い出せない。
たった3時間で読めちゃう本だからな。忘れるのもそれに比例して早い。
結局のところこれってただの「読み物なんだな」そう思った。
「いや、違う」とその後考えた。
ベストセラーでみんなが読んでるから僕も読んでみるか
そんな「読み物」として手に取って読んだからこそ、
無機的に字面を追って、無意識のうちに読み飛ばして、
その文章が何を伝えようとするために書かれたのかに思いを馳せることがなく、
それゆえに何も残らなかった。
僕が欲しかったのは、「みんなに遅れまいという自己満足」
そういうことなのだ。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」もそうだな。
この本と会計学と何の関係があったのか思い出せない。
さおだけ屋では竿しか売ってないわけじゃなくて・・・、
ってツカミの部分だけかろうじて覚えてる。
何章かに分かれていたけど、他に何が書かれていたっけ?
会計学に興味があったのではない。
ただ単にベストセラーでみんなが読んでいたから
僕も読んでみたというただそれだけなのだ。
---
話は全然変わって。
そういえば会社員になってからシャーペンって使ってないなってことに気付く。
シャーペンですら使ってないのだから鉛筆などもってのほか。
会社では見かけることもない。
絶滅したのではないか、とすら思う。
小学校や中学校ではまだ健在なのかな。そうであることを願う。
鉛筆やシャーペンを使わないってことは消しゴムも使わない。
メッシュのペンケースを会社カバンの中に入れているが、消しゴムは大学時代のもの。
もう何年も使ってない。
そもそもこのペンケースに入っている文房具ですら使わない。
会社の、文房具を集めたロッカーの中に仕舞ってある大量購入の赤や黒のボールペンを
まとめて持ってきて、机の上に何本も置いて、カバンの中に何本も忍ばせて、
ものを書くときに手近にあったのを使うだけ。
もうこの年になるとファンシーな文房具は邪魔なだけだし、
センスのいいかっこいい文房具(というかステーショナリー)も興味がなくなる。
興味以前に、なくすから。消耗品は。
せっかく高いの買ってもそういうのに限ってどっか行っちゃうから。
書ければいい。
50円以下のボールペンだろうと3000円以上したのだろうと
赤のインクは赤のインクである。
読んだ人にとって「赤で書いたんだね」以外の情報は伝わらない。
・・・なんか力説しちゃったけど、
書いてて自分の生活がいかに味気ないかってことを思い知らされて
ちょっとだけ寂しくなった。
[2358] 平日の荻窪 2007-05-26 (Sat)5月に入ってから毎週木曜会社を休みとしている。
深い事情があってのことではなく、ただ単にプロジェクトが暇な時期に入ったから。
また来月にも忙しくなるかもしれず、谷間の間は休んだもん勝ちだよなと。
休んで何してるかって言うと、小説を書いてばかり。朝起きて夕方まで。
とても生産的。メリメリ書いている。
4月末のペルー旅行以来滅多にない創作のビッグウェーブ到来で、日々果敢にダイブ。
今この季節を逃したらまたいつ書けなくなるか分かったもんじゃない。
そんなわけで会社休めるのは好都合。
もちろん、土日も書いてますよ。
書くと決めた日はずっと部屋に閉じこもってるのではなくて、
もちろんところどころ外に出たりする。
昼を食べに行ったり、夜食べるものを買いに行ったり。
平日の荻窪を歩いていて気付いたんだけど
高齢者介護の施設のライトバンをとてもよく見かける。
あちこちの地域にあれこれの目的のための施設があって、
そこを利用するお年寄りの送り迎えで住宅地を走り回っている。
平日会社で働いていると「高齢化社会」って言われてもピンとこない。
でも、こんなふうに平日休んで近所を歩いていると
それはもうかなり身近なものなのだと思い知らされる。
今年還暦の母のことを思うこともあれば、
「ああ、これってとてつもない規模の産業として急成長してるんだろうな」って考えることも。
サラリーマンとして働いている世代の人たちの全くいない、
そして中学生や高校生も学校で授業を受けている時間帯の住宅地を歩いていると
「ここって過疎の村?」という錯覚に陥る。
・・・ってのはさすがに言いすぎか。
話は変わるが、この前の木曜は歩いていたら
ウーと低くて長い音でサイレンみたいなのが鳴って、
「杉並区に光化学スモッグ警報が発令しました」と放送が。
初めて聞いた。青森にそんなものはない。
光化学スモッグの発生している状況に居合わせたのなんて生まれて初めて。
いや、たぶん今までもあったんだろうけど気がつかなかっただけで。
日常生活としては、何も変わらない。
空を見てもいつも通りの、ところどころ雲に覆われた青空。
ああ、この中で長時間運動していたら、例えば走っていたりしたら、
具合が悪くなって倒れたりするのだろうか?
光化学スモッグについてはこれまで
「社会の時間に習う公害の1つ」ぐらいの知識しかなかった。
実際に存在するわけだ。不思議な気持ちになった。
[2357] ツアーでペルー その31(4月26日) 2007-05-25 (Fri)22時に眠って、午前1時半に目が覚める。
頭が割れるように痛い。
スーツケースの中から頭痛薬を取り出して飲む。
クローゼットから毛布を取り出して上に掛けてもう一度寝る。
明日もこんな調子だったらやばいなあ・・・、なんて思いながら。
5時半に起きると、体調はかなりよくなっている。
頭痛は少しばかり。観光に支障を来たすほどでもない。
助かった!
カーテンの向こうがうっすらと明るくなっていることに気付く。
チチカカ湖が夜明けの光でオレンジ色に染まっている。
神秘的な美しさ・・・
もしこの世に夜明けの美を司る女神がいるとしたら
世界中の人々から捧げられてもおかしくはないような、
そんなパーフェクトな夜明け。
カメラを引っつかんで慌てて部屋を出る。
しかし正面の玄関はバーでロックされていて、宿泊客はホテルの外に出られないようになっている。
どうしたもんか?
湖にそっと寄り添う光のヴェールに、もっと近づきたいのに・・・
あの夜明けはこの世界でたった一度きりで、今にも消えてしまうかもしれないのに・・・
「うー」と歯軋りしながら仕方なくレストランへ。
ビュッフェで食事。
夜明けを眺めながら、太陽が少しずつ少しずつ昇っていって
オレンジ色が薄くなっていくのを眺めながら、食事をする。
こんな優雅な朝食はこれからの人生でもそうそうないだろう。
温かなコーヒーカップを手にして、いつまでも眺めた。
食べ終わった頃、もう一度玄関に行くと
6時を過ぎていたからだろうか、今度は開いていた。
元気になって体調のいいF君とばったり会って、
2人で歩いてホテルの裏側の展望台へと向かった。
小さな丘になっていて、野原の道があるようなないようなところを少しずつ登っていく。
登りきって丘の上から、はるか下、目の前に広がるチチカカ湖を眺めた。
陽の光を浴びてサラサラと輝いている。
頂上には昨日見たシルスタニ遺跡のトカゲのチュルパのレプリカと、オベリスクが建っていた。
さらに道なき道を進んで、ホテルの反対側へ。
向こうに小さく、白いバルコニーのようなものが見える。
ろくに道もない場所を「こっちかな」とか言い合いながら歩き、
足場のないところを下りてみたり、
小学生が裏山で冒険しているかのような懐かしさがあった。
歩いてる場所が客室の真ん前だったので、カーテンの空いた部屋の中が覗けたり。
丘の上からふと下の方を見ると、昨日一緒に酸素部屋を探した女の人も
朝早くから湖のほとりを1人テクテクと歩いていた。散策しているのだろう。
「おーい!」と声を掛けようかとも思ったけど、
ホテル中に聞こえたらさすがに恥ずかしいよなーとやめといた。
バルコニーにたどり着く。
ホテルの建っている湖に突き出た小さな半島の、その突端部分に当たる。
ぐるりと見渡すとどちらを向いても湖。
ニヤニヤ笑い出すと止まらなくなった。
F君が写真を撮ってくれと言うので、カメラを受け取ってシャッターを押した。
だったら僕も、と写真を撮ってもらう。
珍しく自分の写った写真を自分のカメラで撮ったことになる。
僕は旅行に行ってる間、自分の写真を撮ることは全くない。
自分の写っている写真ってのは後から見てなんだか居心地が悪い。
それに写っている自分の顔がさえないことがほとんどだし。
そのとき自分の見た風景だけがあればいい。
ツアーの間、夫婦やカップルで来ているのであっても友人同士であっても、
とにかくみな互いに写真を撮りあっていた。
あるいは誰かにシャッターを押してもらって2人で。
新婚旅行が多かったからだろうか、夫婦の人たちは特に。ポーズを取って。
僕は1人で風景ばかり撮っていて、「撮りましょうか?」と言われても
「いや、いいです」と断り続けていた。
「変わってる人」と思われていただろうな・・・
バルコニーからはホテルのバーへと続く道が伸びていた。
そこから中に入ってF君とはそこで別れる。
僕はまた外に出て、湖のほとりまで下りていって、
そこから先しばらくの間、湖に沿って岸を歩いてみた。
聞こえてくるのは鳥の鳴き声だけ。
鴨の群れが泳いでいる。
葦の間を老人が1人ボートを漕いで、消えていく。
太陽は既に高く昇り始めていて、湖面にキラキラと反射して眩しい。
それが行く手を遮るような形になったので、僕は引き返すことにした。
部屋で荷造りをしてスーツケースを外に出す。
テレビをつける。CNNを見て、その後 MTV にチャンネルを回す。
ミュージック・クリップを見る。
- Maroon 5 「Makes Me Wonder」
- My Chemical Romance 「Famous Last Words」
- Good Charlotte 「Keep Your Hands Off My Girl」
- Pepe Alva 「Huellas」
- Justin Timberlake「My Love」
Good Charlotteって案外いいかもね、と思う。
チェックアウトして、出発待ち。
暇を持て余しているうちに目が留まって
ホテルの中の高級アルパカ製品のブティック「Alpaca 111」にふらっと入ってみる。
リマの空港にもあったかな。
http://www.alpaca111.com/
ここでとてもかっこいいセーターを見つけて即買い。
285ソルだったから日本円にしてだいたい1万円。
たぶん日本で買ったら倍ぐらいの値段がするんじゃないかな。
手触りがふんわりとしてとてもいいんですよ。
デザイン飽きの来ないものだし、一生着ると思う。40になっても全然着れる。
ペルーでみんなアルパカと言ってるのもよくわかる。
寒色系の色使いがとてもきれいなマフラーも気になったけど、我慢する。
急に体調が悪くなった人が出てきて、
医者に見てもらうために、本来の集合時間よりも30分遅れとなる。
「バタバタと倒れる」ってほどでもないが、
クスコに来てから毎日誰かしら、慣れない高地の環境に体調を崩している。
男女関係なし。年齢も関係ない。
50代以上と思われる人たちが
今回何人か参加していたけどなんともなかったようで、
やられてたのは20代・30代と思われる人たち。
見た目からすれば、日本では元気に生活してそうな。
高地の観光は侮れない。
[2356] ツアーでペルー その30(4月25日) 2007-05-24 (Thu)プーノへ。チチカカ湖湖畔の町。
チチカカとはケチュア語で「ピューマの石」を表す。
琵琶湖の実に12倍もの広さ。8562平方キロメートル、湖周415km、標高3809m。
ボリビアと湖を分かち合っている。
バスはプーノの町に入る。
夕暮。雨が降っているので、夕日の沈むチチカカ湖は見れず。
どこかの雑貨屋の壁にコカ・コーラの大きな手書きの看板が
掛けられていたのがなぜか印象に残っている。
そういえば、ペルーではペプシを見かけることはなく、コカ・コーラばかり。
たまたまなのだろうか?それともコカ・コーラがペルーないしは南米に強い?
あるいはペプシがペルーないしは南米に弱い?
あと、どこかで「Coca-Cola Zero」というのを見かけた。
北米や中南米だけの製品?
(今調べてみたらダイエットコークの一種とわかる)
ホテルはチチカカ湖に面した「リベルタドール・イスラ・エステベス」
エステベス島の上に建てられている。
道路が敷設されて、プーノとつながっている。
シェラトンもそうだったけど、5つ星のホテル。
シェラトンはどこが??って感じだったけど、こちらは文句なく5つ星。
(何をもってして5つ星とするか僕はよくわかってないけど)
格調ある、落ち着いた、美しいホテル。
僕がこれまでの人生で泊まったホテルの中では最もよかったと思う。
1人部屋も手頃なサイズ。
ああ、何もせずこういうホテルに泊まってゆっくり過ごしたいものだ・・・
コカ茶がフリーだったのでそれを飲みながら宿泊手続きをする。
鍵を受け取って、部屋へ。
夕食までに少しばかり時間が余って、ホテルの中をブラブラする。
ツアーで一緒の女の人にばったり会う。酸素室の場所を知らないかって聞かれる。
フロントに問い合わせるとすぐ隣だという。
高級なホテルなので、具合の悪くなった人用に酸素吸入できる部屋が用意されている。
その人が酸素を吸うと言うので、暇だった僕もベッドの横に座って酸素を吸った。
吸入用のプラスチックのマスクをかけて、
ホテルの人がボンベのバルブをひねって圧力など調整する。
僕の方は圧力が強すぎたのか勢い余った水分がマスクの中でピチャピチャと跳ねた。
吸入は5分。果たして効いたのかどうか。首を傾げる。
効いたようには思えなかった。何も変わらず。
呼吸の仕方がよくなかったのだろうか?
ちゃんと腹式呼吸していたつもりだったんだけど。
ホテルのレストランでビュッフェ。
またか・・・、と思うがここのはなかなかうまかった。
飲み物は白ワインをグラスで。
食べてると病院でもらった薬を抱えたF君が。
僕のスーツケースがF君の部屋の前に届いたと教えてもらう。
食べ終わった後、テーブルで一緒だった人が抜けてF君と2人だけで話す。
このツアーで唯一、個人的なことを話した時間。
どういう選択を経て今この職業についているのか、
将来はどういうことを望んでいるのか、といったこと。
F君の人生は僕の人生と割とよく似ていた。
ツアーの会話ってのは「シャッター押してもらっていいですか?」に始まり、
その時々で見聞きしているもの、味わっているものについて
月並みなな感想を述べ合うという形の表面的なコミュニケーションばかり。
会話の糸口となる質問として、
どこに住んでますか?どんな職業に就いてますか?
これまでどこの国に行ったことありますか?
(ペルーに来るだけあって、たいがいの人は何カ国も回っている。
最初の海外旅行がペルーって人はそうそういないと思う)
といったような質問をよくする。
食事のときにたまたまテーブルが一緒になった場合など。
答えが返ってきて「ああ、僕もロス行ったことありますよ」
「エジプトは僕もいつか行ってみたいと思ってるんです」
みたいなところから会話が続いていく。
だけどその会話も、あるレベルから先、決して踏み込むことがない。
このツアーが終わったらそれぞれの生活に戻って行って、二度と交わることはない。
それゆえにお互いの人生に深入りするような
立ち入ったことを言ったり聞いたりするとやっかいなことになる。
結果、その旅行を楽しい思い出として保つために、お互い楽しいことしか言おうとしない。
ある種取り繕った言葉となったところで全然構わない。
そんな暗黙のルールがあったように思う。
ツアーの団体とは1人だったり、友人同士だったり、夫婦だったりといった参加単位の
無作為の寄り集まり、偶然の産物であってそれ以上でもそれ以下でもない。
そのときたまたま一緒になって、観光の名の下に淡くて脆い何かを共有しているだけ。
孤独な人は孤独なまま、ツアーを終える。
このツアーがたまたまそうだったと言うだけかもしれない。
同じ旅行会社であっても他の時期のツアーならば
もっと普通に和気あいあいやっていたかもしれない。
いや、ただ単に僕がやはり社交性に欠けるというだけの話なのかもしれない。
人見知りな僕は慣れるまで時間がかかって、
慣れた頃にはツアーが終わってしまっていた。
食事を終えて19時頃だったか。
ここから先、することがなくなる。
雨が上がっていたので、とりあえずホテルの外に出てみる。既に暗くなっている。
チチカカ湖のほとりまで降りて行ってみる。
照明が据え付けられていて、ぼんやりと明るい。
写真を何枚か撮って引き返す。
部屋には上がらず、ラウンジでコカ茶を飲んで過ごす。
ソファーに沈み込んでデジカメの写真を整理していると、
添乗員のKさんから「具合が悪いんですか?」と話しかけられる。
慌てて否定する。
部屋に戻る。
先ほど否定したばかりなのに、実はこの頃体調がかなり悪かった。
動悸がして、頭痛とめまいがする。息苦しさもある。
ここに来て高山病か?
標高3800mと、今回のツアーでは最も高い場所に位置するホテル。
ワインを飲んだせいだろうか。
湖から戻ってくるとき、階段を駆け上がったからだろうか?
HIS から事前にもらった注意事項でも、
クスコやマチュピチュでは症状が出なくて
大丈夫だと思った人が油断してプーノで症状が出ることもある、と書かれていた。
正にそのケースじゃん・・・
具合の悪さに動けなくなり、ベッドに横たわっているうちに眠ってしまう。
目が覚める。
症状によくないと知りつつ、寒気がして浴槽にお湯を入れて入る。
出てきてすぐ眠る。22時頃だっただろうか。
これだけ時間があったら誰かを誘って飲みたいところだったのだが・・・
このツアーは周りに何もないか体調を崩しそうな場所に限って時間があって、
体調がよかったり周りにどこか飲めそうな場所があるときは時間がない。
こんなこともあって、僕はツアーの人たちとそれほど仲良くはならなかった。なれなかった。
飲めば話せても、シラフだと人見知りなままだからね。
とにかく、この日の夜が最も時間があったのに、
僕はこのツアーで唯一の「酒なんて見たくもない!」という時間を過ごしていた。
[2355] ツアーでペルー その29(4月25日) 2007-05-23 (Wed)次の町へ。フリアカ。かなり大きな町。
隣のプーノが観光がメインの町だとしたら、
こちらは補完する形で商業・工業の町。
三輪の自転車が町の中を走っている。前輪が2つ。
屋根がかかっているものもある。
これはタクシーで、町の中だったらどこまで走っても1ソル。
客待ちの運転手がすることもなく、町行く人を眺めている。
ここのホテルで昼食。
乾燥ジャガイモの入ったチャイロというスープと焼いたマス。
(地球の歩き方を見るとマスの塩焼きは
「トゥルーチャ・ア・ラ・プランチャ」とある。これですね)
乾燥ジャガイモは作るのに手間がかかるため、こちらでは高級食材となる。
見せてもらう。白くて小さなジャガイモ。豆大福みたい。
中の水分を取り除いた後に凍らせ、
零下15度から20度という冷たいチチカカ湖の水の中で保存する。
マスは「アヒ」という香辛料の入ったサルサソースをかけたらおいしかった。
デザートに3色のアイス。
頭痛にはレモネードがいいということで、
ここのレストランのメニューにあったので何人か飲む。
この日は寒かったので、誰もビールを飲まなかった。
食べている間に雨が降り出す。かなり強く降っている。
これまでずっと晴れが続いてきたのに。ついに雨に追いつかれたか。
ここのお土産屋にて、なんとなく目に留まったリャマの人形を買う。1ドル。
バスに戻る。
「こちらの女性は太った人が多いように思う」という意見が出てきて、
違います、とガイドのDさんに訂正される。
スカートを2重・3重に履くからそのように見えるのだと。
話のついでにDさんが祭りのときに着た民族衣装の写真が参考のため回される。
天気の悪いまま、シルスタニ遺跡に到着する。
空は灰色。雨はポツリポツリという程度だが、降っている。
ものすごく寒い。セーターの上に登山用のヤッケを羽織って外に出る。
シルスタニ遺跡はプーノから35kmの距離。
紀元後1000年頃のチュラホン文化の墳墓(チュルパ)が並ぶ。
チュルパとは石を積み上げて作られた墓。貴族のミイラが埋まっていた。
小さければ小さいほど、時代が古い。
かつては100以上あった墳墓もスペイン人が破壊し、現在は6基が残るのみ。
湖に面している。
ただでさえ雨が降っているため、雰囲気は寂しげ。というか荒涼としている。
静謐な空気が漂っている。
避雷針が立てられていて、雷が落ちた。
小さな円形の敷石の塊(ストーン・サークル?)が2つ残っていて、
それぞれ太陽の神殿と月の神殿と呼ばれる。
太陽は男性を、月は女性を表す。
また、太陽の神殿はインカ時代のもの、月の神殿はプレ・インカ時代のものとなる。
砂利道を歩く。坂道になっている。
歩いていると向こうからアルパカを連れた子供たちが。
写真を撮ると、「金くれ」とせがまれる。仕方なく1ドル渡す。
憎らしいことに最初1ソルって言ってたのを、
言い間違えたのかカモだと思われたのか1ドルと言い直した。
この子供たちは墳墓の並ぶ丘の上までしつこくくっついてきた。
何もしない子供たちならばかわいいもんだけど、
金をせびるためという意図が分かった途端うとましくなる。
ガイドのDさんがほら、と地面を指差す。人骨のかけら。
今も普通に散らばっている。
丘の上にて、最も大きなトカゲのチュルパを見る。
トカゲは尻尾を切ってもまた伸びてくることから、生命の象徴であった。
僕は見逃したけど、トカゲの絵が描かれてあるのだそうだ。
(他にコンドルのシンボル、蛇のシンボルというのもある)
小石混じりの地面には「キリストの涙」という名前の白い草が
肩寄せ合うように寄り固まって生えていた。
丘の外れまで歩く。
湖が大きく、大きく広がっている。
「パノラマ!」とDさんが感極まったように言う。
確かに、そう。僕がこのペルーで見た壮大な景色のうちの1つ。
(ロックに詳しい人は Roxy Music の「Avalon」のジャケットを思い浮かべてほしい)
デジカメで写真を撮ったんだけど、
後で見てみたらその美しさが全然捉えきれてない。
デジカメってほんとだめだよなあ。
湖の中に東京ドーム1個分ぐらいの大きさの島が浮かんでいた。
そこには1家族だけ住んでいて、
アルパカの最高品種ピクーニャの飼育をしている。
雨が強くなってきて、慌ててバスに戻る。
下り坂を走る。息が切れる。
走ったせいか、頭が痛くなり出す。
高地では絶対走っちゃいけないと言われていたのに・・・
[2354] ツアーでペルー その28(4月25日) 2007-05-22 (Tue)また小さな町にさしかかり、休憩。標高3479m。
名前は忘れたが、金や銀の彫金で有名な町。
とある広い敷地の建物の中にバスが入ると、扉が閉じて入口が塞がれる。
休憩所兼土産物屋。1階建ての部屋を繋いで、ロの字型となっている。
中庭は草地となっていて、リャマに餌となる草を与えることができる。
トイレチップが0.5ソルで、
僕は飲まなかったがコカ茶を飲んだら「気持ち」として1ソル。
ここで先ほどの町で買ったパンを切って、食べる。
トウモロコシの風味の聞いた、モチモチとしたパン。おいしかった。
トイレは片側一列に女性用ばかり6個もあって男性用は1個だけ。
団体で行動しているときの
女性用トイレの少なさから生じる弊害をよくわかっている。
それまでのその後もトイレが1つしかなくて
女の人たちが根気よく並んでいるのに何度も出くわした。
ここの施設はトイレに力を入れているのか、向かい側の列にさらにトイレを作っていた。
工事現場のラジオからは大きな音でアメリカンなハードロック。
見晴台なのか、小さな塔が立っている。上って写真を撮る。
クイを飼育する部屋があった。
中は暗くて、檻がいくつかった。
クイはその名の通り「クイ」というかキュイーンと鳴く。
そこにはたくさんのクイがいて、キュイーンという音が重なり合うと
なんらかの電子機器が稼動しているかのように聞こえた。
銀の指輪、ペンダントなどアクセサリーが数多く売られていた。
まあ僕はそういうの興味があるわけではなく・・・
10ソル紙幣をくずしたくて、
クスコの街並みを写した絵葉書と
リャマをいろんな種類のリャマを16種類写した絵葉書の2枚を買う。
それぞれ1ソル。
店の人が慌てて奥の事務所に両替しに行く。
なかなか戻ってこない。悪いことをした。
バスが走り出す。
最後尾に座っていた人が、後ろのトランクが空いていると
慌てて駆け寄って最前列に座っていた添乗員のKさんに報告する。
しかしこれはわざと開けたものだと説明がなされる。
高地山岳地帯を走るとき、エンジンに空気を送る目的で。
この辺りの山は活火山であるため温泉が多く、
露天風呂や公衆浴場が点在している。
ゴツゴツした黒っぽい岩肌に白で「ALAN」と大きく書かれている。
どこかの若い旅行者が残したものか。
本に没頭しているうちにララヤ峠に着く。
すぐ目の前に聳え立つのはチンボヤ山。
頂上付近は雪に覆われている。
しかし地球温暖化により、ここも雪が減ってきているという・・・
昔はもっともっと雪に覆われていたそうだ。
ここでまたトイレ休憩。
道路沿いにアンデスの人たちが敷物を敷いて
代わり映えのしないお土産の数々を広げている。
ここが今回の旅の最高到達地点となる。
なんたって4300mだもんなー。
これより高い場所を訪れることはこれから先の人生でたぶんないだろうな。
心なしか荒涼としていて、
自然の寡黙さみたいなのが立ち込めているように思える。
ガイドのDさんが食べ物の話をする。
クスコの主食はとうもろこしであるが、プーノはキヌア。
キヌアはビタミンやプロテインが豊富に含まれている。
気がつくと道路の側を線路が走っている。
どこまでもまっすぐな線路。
広々とした草原を貫いている。
草原の真ん中に研究施設みたいなのが建っていて、
クスコ大学のアルパカ研究所。
野生のアルパカがこの辺りでは大勢群れている。
Dさんがリャマとアルパカの見分け方について語る。
僕も含めてツアーの大勢の人がそれまでリャマとアルパカの違いが曖昧だった。
どちらもよく似ている。
尻尾が立っているのがリャマ。
尻尾が下がっていてお尻を隠しているのがアルパカ。
なお、アルパカは食べるとなかなかいけるが、リャマは肉が固いとのこと。
アルパカの写真を撮るためにバスが止まる。
野生のアルパカが道路に飛び出さないように、道路沿いにフェンスが貼られている。
「八百春清瀬支店」と書かれた車が走っていて、
中にはアンデスの女性たちが乗っていた。
線路を向こうから青い列車が近づいてくる。
ファーストクラスありの豪華な観光用鉄道。
「オリエント・エキスプレス」という名前。
3日に1度しか走らないようで、見れてラッキー。
リマとプーノの間を走っていて、10時間かかる。
ウトウトして目が覚めると、
これまで平行に走っていたはずの線路がいつのまにか横切る形に。
線路の上をアンデスの女性が1人きりポツンと立っていた。
(「メルガール」とメモにあったが、何のことか思い出せず。
通りがかった村や町の名前だろうか?
「メルガール」を検索するとペールのサッカーチームだったり
詩人の名前や詩のタイトルなどいくつかヒットする)
プカラという村に差し掛かる。ケチュア語で「赤い土」の意味。
これまでクスコ近辺のあちこちの屋根の上で見かけた
瀬戸物の魔よけの牛はここで作られる。
埃っぽい通り。物乞いをする老婆。
ここでもまたトイレ休憩。小さな雑貨屋の奥にあるトイレを借りる。
ここはトイレの水を自分でバケツで汲んで流さなくてはならなかった。
この村を出てから先、一時的に道路の舗装が悪くなる。
前方の雲行きが怪しくなる。
山の向こうで雨が降っているのが見える。
[2353] ギャートルズの肉を食べる 2007-05-21 (Mon)19日の土曜日、会社の人たちとバーベキューをやることになった。
どこの公園で?とか誰がバーベキューセット持ってる?とか
計画を練っているうちに「あ、そういえば」と思い出す。
「ギャートルズの『あの肉』を食べてみたい!!」
その場で「いいね」ってことになって、言い出した僕がさっそく予約する。
店は阿佐ヶ谷のパールセンターの中にある「吉澤精肉店」
アド街ック天国で紹介されたりで前から知っていて、ずっと気になっていた。
バーベキューは諸般の事情により中止になりかけたり、復活してみたり、
あ−でもないこーでもないと議論が続いた結果一応「決行!」となったものの
結局この日は朝から雨でバーベキューそのものは中止。
ホームパーティー形式に変更となる。
(ほんとは延期でもよかったんだけど、
僕が肉を予約してしまったためこの日にやらざるを得なくなり・・・)
吉澤精肉店は年配のご主人が1人で切り盛りしているようだ。
予約しようと店に電話してみたときは結構緊張した。
「『あの肉』って言うんですか、それを予約したいんですけど」
って電話口で言うのはなんつうか、間が抜けている。
僕が予約したのは「あの肉」をオーダー可能な4日前ギリギリの15日。
おっかなびっくり電話してみたら開口一番
「18日?ああ、だめだね。間に合わない」と一蹴される。
「ドイツ行ってたもんでさあ。材料が今週ないんだよ」
がっかり。もっと前に電話しておけばよかった・・・
僕がどうしたもんか?と思い悩んでる間にご主人の話は1人でどんどん先に進んでた。
「今は『その肉』ってのもあるんだよね。
『あの肉』が骨が片側に突き出したもんだとしたら、『その肉』は両側に突き出してる。
あと、『あの肉』は大きなソーセージみたいなもんだけど
『その肉』はベーコンとかいろいろ巻いたもんで」
などなど事細かな説明に入る。
「お」と思った僕は間に割って入る「『その肉』だったら間に合いますか?」
「いや、『あの肉』と一緒。間に合わないものは間に合わない」
だったら一生懸命説明してくれなくたっていいじゃん・・・
18日に間に合うもので他に名物はないですか?って聞いたら
『とんかばぶう』ってのがあると言われる。
元ネタはもちろんシシカバブ。これを小さくして串に刺したもの。
豚肉のつくねみたいなもんか。
これだったらいいよってことで1本220円のを10本予約する。
「こいつはね、ほら、誰だったっけ?有名人の、この近くに住んでる」
なんとかって芸能人もよく買いに来るそうだ。
でも思い出した名前を聞いても僕にはわからず・・・
そのまま際限なくどこまでも話が続きそうになったのを
とりあえずやんわりと遮って、予約成立。電話を切る。
ま、この『とんかばぶう』10本でもいいか。
そう思いながら歩いていたらふと気付く。
さっき18日って言ったけど、19日の間違いじゃん。
電話をかけなおす。「すいません、先ほどの予約ですが・・・」
19日と伝えたら、「ああ、もしかしたら『その肉』の方ならいけるかもなあ」
チャンス!と思った僕はグイと引き寄せる。
「なんとかお願いします」と頼み込む。
僕にしては珍しく、交渉の場で粘りを発揮する。
何本?1本でいい?と聞かれて「2本で」とさらに強気モード。
これでようやくギャートルズの肉を食べる会、成立まで漕ぎ付けることができた。
ほっとする。
「何時に取りに来る?」と聞かれて、バーベキューが昼なので
「店が開いたらすぐ伺います」と答える。
あちこち見て調べたオープン時間である「11時でよろしいでしょうか?」
「ああー。最近夜遅いから11時に開くことないんだよねえ」
これまた頼み込むことになる。「11時でお願いします」
「そお?じゃ、頑張って店開けるようにするよ」
ってことで19日当日。
11時に行ってみたら案の定開いてない。シャッターが下りている。開く気配なし。
裏に回って覗き込むと店の中が真っ暗。
しょうがねーなーと思いつつ20分時間をつぶしてまた来てみても状況は変わらず。
仕方なく電話してみる。
「予約のオカムラですが・・・」
「あ、もう店の前?ああ、じゃあそろそろ店開けますね」
このアバウトさ。自営業にはかなわん・・・
阿佐ヶ谷らしいというか、中央線っぽいというか。
このオヤジのおおらかさというか、自由人としての生き方が
ギャートルズに出てくる『あの肉』や『その肉』を作ってみてえなと思い立ち、
実現へと向かわせるだけの力を生み出したのだろう。
ま、ありと言っちゃありだよね。
ようやく店が開く。ショーケースの上にちょこんと
『あの肉』『その肉』の手書きのポップが置いてあった。
「フランクフルトで開催された IFFA 2007コンテストで金賞受賞」って書かれていた。
今調べたら食肉見本市のこと。ドイツ行ってたってのはこのことだったのか。
ギャートルズの肉は今や海を越え、世界が認める味となったってわけだ。恐るべし。
肉は真空パックしてもらう。
『その肉』2本と『とんかばぶう』10本、ゆっくり丁寧にパックしてくれる。
店の壁には予約の伝票替わりの手書きのメモが所狭しとあちこちに貼られている。
その中にはテレビ局の取材のもあって、すげーなと思う。
一時的な町の話題じゃなくて、定期的に取り上げられているわけで。
ショーケースの中のコンビーフのソーセージとわさび味のソーセージがうまそうだったので
それもついでに100gずつもらう。
ソーセージって書いてあるけど、サイズとしてはハム。スライスしてくれる。
『とんかばぶう』220円×10本、『その肉』3150円×2本、
ソーセージが100g315円で200g。
合計は9000円ちょっとだったかな。
両手にズシリと重く、かなりの量となる。
で、ホームパーティー。
オーブンで『その肉』を焼く。油が染み出て、ジュージューとおいしそうな音を立てる。
焼きあがって、肉を切り分ける。
骨の周りにスパイスの振られたベーコン、燻製の豚肉、ソーセージが巻きつけられていたのかな。
とにかく、肉。これでもかこれでもかと肉、肉、肉。豪快この上なし。すごかった・・・
焼きたてのスパイスの効いた肉をハフハフと頬張るとさすがにうまい。
大人数のパーティーで出てくると盛り上がるね、絶対。
でも想像以上の肉の量に僕ら5人でも1本食べるのは苦労した。
もう1本は焼かずに持ち帰った。
目安として7〜8人で1本あって、ちょっと足りなくなるぐらいがちょうどいいと思う。
さすがに肉ばかりは食えないし。
骨を持ってがぶりとかぶりつく写真を撮りたかったけど
骨が熱過ぎて手で持つことができず、撮影できなかったのが心残り。
『とんかばぶう』はスパイスの振られた串焼きのソーセージ。
シシカバブの正にミニチュア。
こっちは手軽に食べれて、普通においしかった。
『その肉』か『あの肉』と『とんかばぶう』人数分という組み合わせがいいんじゃないかな。
今度は『あの肉』を是非とも食べてみたいね。
[2352] 「断絶」「フランドル」 2007-05-20 (Sun)この前の金曜、映画部の社内鑑賞会で「断絶」という映画を見た。
社内鑑賞会って言ってもこの日見たの僕だけ。
なので、DVD を買ったばかりで自分が見たかったのを流した。
プレゼンルームの大きなスクリーンを独り占め。ホームシアター状態。
こんなことしてるのも僕だけだろうな・・・
「断絶」とは71年のアメリカ映画。
いわゆるアメリカン・ニューシネマの系譜に属して語られる。
見たところ全くもって、そう。それ以外の何者でもない。
でもアメリカン・ニューシネマの定義って難しいんだよなあ。
何を持ってそう呼ぶか?
60年後半以後のカウンターカルチャーを反映した、新しい世代の若者たちを描いた映画?
そういうことにしておく。
でも大事なのは内容じゃなくて
フィルムに焼き付けられて残された独特の雰囲気というか空気なんですよね。
あの乾いた、そしてどことなくピュアな。
生き急いでるのに気怠るくて、どこか不安げな。
大人びた子供が本物の大人の社会を垣間見るときのような、あの感覚。
「断絶」が今も語られてるのって、この空気の捉え方がうまかったからなのだと思う。
「ああ、この時代ってこうだったんだなあ」ってのが。
それは結局のところ虚構なのかもしれない。映画が生み出した虚構。
実際の71年のアメリカの本質はもっと別のところにあったのだと思う。
だけどそれはそれでいいんですよね。
本当の姿がカウンターカルチャーが生み出した幻想・神話に置き換えられてしまったとしても。
それこそが映画、ひいては「文化」というものなのではないか。
作品としてはひどく単純。
2人の若者が55年型のシボレーに乗って、賭けレースで金を稼ぎながらアメリカを東へと横断する。
その途中でヒッチハイクをしている若い女を拾う。
黄色の最新型 GTO に乗った中年の、人生の敗残者らしき男と出会い、
どちらが先にワシントンDCまで到着するか互いの車を賭けた競争となる。
しかし彼らの間には「賭け」以外なの何か別の行動原理が働き、
(恐らくここがアメリカン・ニューシネマの傑作として長く議論のポイントとなっている箇所なのだろう)
当てのない旅のような様相を呈し始める。
しかしこれと言って心の交流があるわけでもなく、ただただ車を走らせ続けるだけ。
4人は出会ったときと同様、何の理由もなく突然別れの時を迎え、
2人の若者はそれまでの日々がそうであったように、賭けレースが行われている場所を探す。
全編に渡って、からっからに乾いた虚無感に包まれている。
そこには絶望はない。感情というものが一切ない。
単純な言葉のやり取りを交わした後は
車を運転するという行為とそこから見えてくる光景だけ。
アメリカン・ニューシネマの極北。
「イージー・ライダー」の時代感も
「バニシング・ポイント」のけれん味もない。
シンガーソングライターとして当時絶大な人気を誇っていた
ジェームス・テイラーが「ドライバー」役として出演、
ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンが「メカニック」
「ワイルドバンチ」に出演していたウォーレン・オーツが「GTO」
それぞれ名前がない。名前で呼ばれることのないまま、映画が終わる。
スクリーンに現われては消えていくだけの、束の間の儚い存在ってことなんだろうな。
口数少なく、終始何かに憑りつかれたかのような顔つきをしてみせる
ジェームス・テイラーがこの虚無感を体現していてとてもいい。
映画というものは饒舌に何かを語っていればいいのではない。
ただそこに「ある」というだけでも優れた作品ならば表現として成立するのだ、ということ。
そしてそういう言葉にならない何かを光景と音で描くのがそもそも映画なのだ、ということ。
アメリカという国に見果てぬ荒野を夢見る。
ひどく単純化するならばここにあるものもまた、カウボーイの神話である。
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今日は「フランドル」という映画を見てきた。
場所は渋谷のユーロスペース。
(ここんところずっとご無沙汰で、移転してからは初めて)
http://www.flandres-movie.com/
昨年のカンヌでグランプリ。
以前「ユマニテ」という作品もグランプリを獲得している。
僕はこれまで見たことないんだけど、
もしかしたらこのデュモンという監督は
映画の新しい在り方を提示してくれるかもと期待して見に行った。
結果、よく分からず。
ここまでよく分からない映画も久し振りだ。なんなんだろ?
映画が描けるもの、描くべきもの、描けないもの、描くべきではないもの。
その組み合わせ方が普通の映画(ゴダールからブラッカイマーまで)とあべこべになっているようで、
僕は終始違和感を感じた。
新しい文法を生み出してて、僕がまだそれを「理解」できてないだけ?
なんでも出尽くしたこのご時世に
これだけの異物を生み出せるってことがそもそも凄いのかもしれないけど。
結局「何が」起こったのかよく分からない。
見方によっては非常に普通の映画。淡々としてて。
伝えたかったのはものすごく単純なことなのだと思う。
でもそれってわざわざ90分かける必要があっただろうか?
長すぎないか?もったいつけてないか?
少なくともこれはキャッチにあるような「愛の寓話」ではない。
「愛の寓話」以外の何かだ。あれが愛?あれが寓話?
気になって仕方が無いから amazon で「ユマニテ」のDVDをオーダーしてしまった。
監督の思うツボである。
[2351] ツアーでペルー その27(4月25日) 2007-05-19 (Sat)5時起き。トイレに入っているとモーニングコールの電話がかかる。
出る。「Hello ?」と言ってみるが向こうは何も言わない。切る。
こういうのって機械が自動的にやってるのだろうか。
1階で食事。あんまり腹が減っている気がせず、少しだけ。
ソーセージとスクランブルエッグぐらい。
というかビュッフェに相当飽きが来ている。
部屋に戻って荷造りして、スーツケースを外に出す。
ポーターが運んでいく音がする。
チェックアウト。
冷蔵庫も電話も利用せず、鍵を返すだけ。
ガイドのMさんの姿が見える。
が、今日からは別の方がガイドとなる。
ペルー人のDさん。
1999年に紀宮様が個人的に(と言っても警備の人が大勢いたわけだが)
ペルーを旅行されたときにクスコ−プール間のガイドを担当したのだそうな。
紀宮様は英語もスペイン語も堪能で通訳は不要だったとのこと。
ホテルの外はアンデスの物売りたちが待ち構えていた。
チャランゴ、ケーナ、縦笛を売る人。
ガイドブックや写真の束を売る人。
もちろんセーターを売る人もいる。
昨日マチュピチュでいつのまにか撮られていた写真を
クスコの空港に降り立ったときのように絵葉書にしたものを
人数分用意して売る男性。バスの中まで入ってきて写真を見せる。
僕の分が見つからなかったので買わず。
こういうのって現地旅行会社の手配・手引によるものなのだろうか?
バスに乗って出発。
添乗員のKさんより今日の日程の説明を受ける。
基本的に移動日。
クスコからチチカカ湖湖畔の町プーノへ。バスで380kmも走る。6時間半の行程。
移動手段としては列車もあるが、それだと9時間もかかる。
毎回飛行機では味気ないし、バスの旅も風情があっていいでしょうということか。
標高は現時点で3400mだったのがいったん300m下がって、
その後クスコとプーノの県境「ララヤ峠」にて
4315mという今回の旅の最高地点へ。ついに富士山よりも上。
途中シルスタニ遺跡に寄って、プーノ到着は夜。
サンヘロニモの町に差し掛かる。
農業が盛んな、クスコに住む人たちが週末を過ごす静かな町。
馬に乗った男がのんびり道路を歩いている。
グラウンドで子供たちがサッカーをしている。
ガイドのDさんがコカの葉をたくさん持ってきて、バスの中のみんなに配る。
根元を切って口にくわえ、鼻で息をするとよい。
あるいは額に張るのもよい。
「さあ、みんなで額に張りましょう」
何人かの人が額に張った。
最初の休憩ポイント。
無添加の大きなパンを作って売っている。
直系30cmはあるだろうか。「チェタ」という名前。
トイレのある建物の奥の方にパンを焼く窯があった。
この町でたくさんパンを作ってクスコに持っていくのだそうだ。
(今調べたら、町の名前はたぶんオロペサ)
こっそりトイレチップを払わずにいたら、
出発直前にDさんが僕のところに来てチップを払うように求められた。
しっかり見ている。ルールはちゃんとしましょうってことか。
トイレでは丸いトレイをもった女性が立っていて、チップを受け取っていた。
町を過ぎるとそこから先はひたすらとうもろこし畑、牧草地、山。
風景が代わり映えしなくなってくると本を読む。
ところどころ顔を上げて、なんか目につかないかと眺めてみる。
時々なんとなく写真を撮る。
「ラム・パンチ」を読み終えて、次はP・K・ディックの「スキャナー・ダークリー」
新しい訳で10年ぶりに読み返す。
ほんとこれ、素晴らしいね。
SFとしてのベストは60年代の諸作
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」「ユービック」「高い城の男」辺りなんだろうけど、
文学作品としてのベストは絶対これだね。
翻訳を読んでて言うのもなんだけど、これ、文章がとてつもなくいい。
簡潔にして大切なことしか書いていないというか。
麻薬中毒者の壊れた日常生活が果てしなく描かれてるんだけど、
それが終始冷徹な目で淡々となされている。なのに突き放さない。
物事の外側にいて客観的に書いているはずなのに、
物語の内側にもいるような奇妙な熱を帯びている。
この手の文学としてはバロウズの「裸のランチ」に匹敵するね。
道端に十字架が立てられているのを時々見かける。
小さな墓地や、1人埋葬された墓も目にする。
草原に湖が広がる。
水が澄み切っていて、向こうの山が水面に映っている。
山は茶色の地肌が露出していて、
背の低い草やあるいはモコモコとした植物に覆われている。
雲の影が斜面に広がる。
インカ時代の関所。大きな四角い岩を並べて門となっている。
かつてここで旅人に対して入国審査がなされた。
薄茶色の土。家を形作るレンガも薄茶色。壁も屋根も薄茶色。
クスコの土が赤茶けていて、壁が赤茶けていたことを思い出す。
その土地で取れる土で、彼らは家を作る。
料金所を通過するため、バスのスピードが落ちる。
野良犬をよく見かける。
牛や羊が道路にフラフラと出てくるため、
バスはひっきりなしにクラクションを鳴らしている。
やがて道路は川と平行して走るようになる。
ビルカノダ川、とメモにある。
ララヤ峠の方から流れ、大西洋へと注ぎ、全長は7000kmにも及ぶ。
羊飼いがのんびりと歩いている。
「トゥパック・アマル記念運動場」と名づけられた
小さな運動場で子供たちが遊んでいる。
[2350] ツアーでペルー その26(4月24日) 2007-05-18 (Fri)クスコ行きに乗る。
隣には体調を崩したF君が座る。顔が青ざめてほんと具合が悪そうだ。
ガイドのMさんとともに次の駅で降りて、救急車を待たせて病院へと向かうことになった。
次の駅と言っても18時40分到着。まだかなり先。
乗っている間F君は何度も辛そうに寝返りを打つ。見てて気の毒になる。
だけどしてやれることは何もない、思いつかない。
僕らの座った席の周りはフランス人の団体。
ツアーなのかなんなのか老若男女入り乱れた編成で楽しそうにしている。
景色をデジカメやビデオカメラで撮影したり。
あれはいったい何の団体だったのだろう?
大学教授みたいな知的な風貌の人が多い。
いつどこの国に行ってもフランス人の団体ってのはいるもんで、
毎度毎度他の国の人たちとは違う独特な雰囲気を放っている。
車内販売のコーヒーを買って飲んで
「ラム・パンチ」を読んで過ごすのであるが、
空はどんどん暗くなっていって
いつのまにか本を読むことが不可能になっている。
車内が明るくなることはなく、オレンジ色の薄暗い照明が灯るだけ。
かろうじて顔が判別できるだけの明るさ。
帰りは疲れて眠って過ごす人が多いからなのだろう。
列車はひたすら森の中、暗闇の中を駆け抜ける。
空には星が出る。
赤い光と黄色い光が夜空に浮かんでいて、
星でもなく飛行機でもなくあれはいったいなんなのだろう?と気になる。
空が一瞬白く光ったことも。
隣の車両で誰かがフラッシュをたいて写真を撮ったのか。
次の駅オリャンタイタンボに到着する。
F君がMさんに付き添われて下りていく。
ホームをゆっくりゆっくり歩いて、どこかに消えていく。
しばらく停車する。
発車したときに見ると、待合室で点滴を受けていた。
F君の座っていた席が開く。通路を隔てて反対側にはMさんが座っていた。
(Mさんは乗ってる間ずっと眠っていて、
大丈夫だろうか、ちゃんと起きれるだろうか・・・、と不安だった)
Mさんがいなくなって、添乗員のKさんは隣の車両という状態で
次の駅でみな降りなくてはならない。
全員眠り込んでいたら終点まで行ってしまうよなー。
トイレに行くときに車内を見てみたら見事にみんな眠っていた。
誰かが起きてなきゃいけないよなあと勝手に使命感を感じて起きている。
眠くもなかったし。
でもすることが全くない。
夜空の星を眺めながら考え事をするだけ。
自然とこれからの人生のことに思いが向かう。
仕事とプライヴェート、どちらも行き詰まっている。先が無い。明るい材料がない。
これから先どうしたらいいのだろう・・・
その現実逃避のために今回わざわざペルーまで来たんだな、
ということが今ではよくわかる。
純粋にマチュピチュやナスカの地上絵が見たくてツアーを申し込んだのではない。
普段の生活から余りにもかけ離れた壮大な光景を目にしないことには
何かが自分の中で麻痺して壊れてしまいそうだったから。
より正確には、そういうことなのだろう。
いろんなことを言い訳にしてだらだらと働き続けて、
生活していくだけの金にはなるからと「判断」をどんどん先送りしていく。
日々をやり過ごすだけで精一杯になる。
そのうち、やり過ごすことすらままならなくなっていく。
どこかで自分というものを膠着した毎日から切り離して
客観的に眺める時間が自分には必要だった。
僕はこれから先、どうしたいのだろう?
そのために何ができるだろう?
・・・答えは出ない。いつだって答えは出ない。
日本を遠く離れてペルーまで来たところで、
そんな簡単に「答え」が出てきてくれるわけがない。
列車は深い森の中、暗闇の中をひたする走り続ける。
車両の揺れる音、車輪の軋む音だけが聞こえる。
夜空に星が輝いている。
無数の星が瞬いている。
次の駅ポロイ到着は20時。
することがなさ過ぎて、眠ってしまう以外になかった。
ウツラウツラしていたら時間が過ぎていった。
何度目かに目を覚ますと町の明かりが見えるようになった。
車掌が「もうまもなくポロイ到着・・・」と告げながら通路を歩く。
その声でみな起き上がり、降りる支度を始めた。
ポロイのホームに降り立つ。
Mさんがいない中、添乗員のKさんが僕らの乗るバスを探す。
朝見かけたクラブツーリズムの添乗員の方が、
「Mさんのツアーの方、バスはこちらですよ!」と僕らの分も案内してくれる。
バスに乗ってクスコへと向かう。
隣に座った一人参加のおじさんが南十字星が見えたと言う。
夜景がきれいなポイントで僕らはバスを降りて写真を撮る。
そのとき、あれが南十字星とみんなで指差しあう。
本物のちっぽけな南十字星と、ニセモノの大きな南十字星と。
それにしてもデジカメってどうしてきれいに夜景が取れないのだろう?
ホテルに戻って、そのまま1階のレストランで夕食。
ビュッフェではなく、ちゃんとしたディナー。
若い夫婦と一緒の席になる。
アグアス・カリエンテスにてなんかお土産を買ったか聞いたら、
彼らもまた特に何も買わなかったとのこと。
ペルー訪問を記念にスーツケースに貼るステッカーを探しているそうなのだが、
その手のものって全然売ってない。
どこかで見たような気はするが、確かにそういうの普通見かけない。
デザートのケーキを食べる。
ワゴンで運ばれてきて、いくつか種類がある中から選ぶ。
彼らがプリンだと思って取ったのは、
寒天をオレンジ色に着色して固めただけのものだった。
僕らが食事を終えた頃、MさんとF君がホテルに戻ってくる。
治療費は保険が聞くとして、
オリャンタイタンボからクスコまでの交通費ってどうなるのだろう?
なんてことが気になった。
旅行会社が負担するのだろうか。それとも自己負担なのだろうか。
部屋に上がる。
昨晩割ったグラスが片付けられている。
しかし、替わりのグラスがない。
フロントまで行ってそのことを伝えるのだが、うまく伝わらない。
日本語でグラスと呼ばれてるものは英語ではなんと言うのだろう?
困ってとりあえず「カップ」と言ったら「食堂から持ってってくれ」となるが、
カップで酒を飲んだり歯を磨くのはちょっと嫌だ。
そうこうしている間に、なんとか
ベッドメイキングにて問題があったのだということは伝わる。
フロントの男性とは
「ベッドメイキングの担当を部屋によこすということでよいか?」となる。
部屋で待っているとドアをノックされて、
開けるとホテルの制服を着た小柄の男性が。
バスルームに連れてって、
洗面台を指差して「ない」と言うとすぐにも彼は理解した。
グラスを持ってきてくれた。チップを1ドル渡す。
ようやくピスコを飲むことができて、眠りにつく。
昨日ホテルのアメニティのシャンプーを使ったら髪がごわごわになったので
今日はシェラトンから持ってきたシャンプーを使う。
[2349] ツアーでペルー その25(4月24日) 2007-05-17 (Thu)一通り都市を一周して、出口へ。
マチュピチュが世界遺産の「新世界の七不思議」に選ばれるよう投票しよう
というキャンペーンが行われ、投票箱が設置されていた。
行きの電車で一緒だったF君は体調を崩して、
途中でマチュピチュの遺跡から出て、救急施設で応急処置を受けていた。
ここまで来てもったいない・・・
とは思うものの手を引かれて出てきた顔を見ると全然それどころじゃなさそうだった。
バスに乗ってふもとの町アグアス・カリエンテスへ。
隣に現地人ガイドの方が座る。
せっかくの機会だし、と話をするべきかどうか迷う。
山を下りるだけだからな、と話さずじまい。
山道を歩いて下りていく白人の若い男女を見かける。
山を下りきったところの川のほとりに
トレッキングをしている人たちがテントを張っているスペースがあった。
彼ら/彼女たちが町に向かって歩いていくところをバスで追い越した。
アグアス・カリエンテスのレストランで昼食。またしてもビュッフェ。
でもここは珍しくピザを焼く窯があった。
ビールは普通サイズが4ドルといつもの倍の値段。
高地まで運ぶのだから仕方ないか。
大瓶が5ドルだというので、だったらそっちが得だと大瓶に。
日本の大瓶よりも大きくてまるで醤油のボトルのよう。
とはいえ、よく晴れて日差しの強い日に歩き回ったので、こんなときのビールは最高です!
しかもマチュピチュを見てきた後!!
何の苦もなく1人でグイグイ飲み干してしまった。
(もう1人、熟年夫婦の旦那の方がかなりの酒好きでこの人も同じく飲み干していた)
ビュッフェのスープを飲もうとして、手頃なサイズのスープ皿が無くて探す。
コーヒーカップで飲むかとウロウロしていたら店のきれいな女の人が
「コーヒー?」と聞いてくるので断る気になれず、入れてもらう。
この時初めて知ったのだが、
ペルーのレストランでポットに入っているコーヒーは濃縮されていて、お湯で割る。
道理でリマのシェラトンで飲んだコーヒーが異様に苦かったわけだ。
コーヒーのポットの脇にはお湯のポットとミルクのポットとが置かれていて、3つでセット。
濃縮したものをまたお湯で薄めて飲むわけだから
コーヒーとしてはそんなおいしいものではない。
ツアーの間何人かで話して、みな一様にコーヒーはだめだねと言う。
中南米のコーヒーと言えばブラジル、コロンビア、ベネズエラ、コスタリカと有名な国が多いが
ペルーのコーヒーって聞いた覚えがない。
列車の出発は17時。
集合まで1時間ほどあってアグアス・カリエンテスの町で自由散策となる。
土産物屋を覗いて回る。
ここは日本で言ったら田舎の温泉街のようで雰囲気がいい。
坂道と川ってのがポイントだと思う。
ここに泊まって、たくさんあるレストランかバーで
夜飲んで過ごしたら気持ちいいだろうな、と思う。
お土産は特に買わず。
道端で串に刺した肉を売っていて、うまそうだったので買う。2ソル。
何の肉か分からなかったけど、その後当たることはなし。
ゆでたじゃがいもを串の先っぽにサービス。
ペルーで燃えるゴミは「Organico」
燃えないゴミは「Inorganico」
なるほどな。燃えるゴミはオーガニックなわけだ。
食べ終えた串をそちらに捨てる。
昼を食べた店にて集合。
店の前は線路が通っていて、町の奥まった部分に停車していた
クスコ−マチュピチュ間を結ぶ列車の青い車両がゆっくりと通り過ぎる。
発車の時間が近づいて駅へと向かう。
[2348] ツアーでペルー その24(4月24日) 2007-05-16 (Wed)集合して、Mさんの解説を聞く。
僕はマチュピチュの草の上に寝っ転がった。
青い空が視界いっぱいに広がる。
白い雲がゆっくりゆっくりと横切っていく。
僕らが今いる山の名前がそもそも「マチュピチュ」であって、
ケチュア語で「老いた山」を意味する。
それがそのまま遺跡の名前となった。
マチュピチュを写した写真を見るとき、遺跡の背後に写っている細長い山。
これは「ワイナピチュ」同じく、「若い山」を意味する。
「ワイナピチュ」は1日に登ることのできる人数が限られていて、400人まで。
また登ってよい時間も7時から13時まで。パスポートの提出が求められる。
普通の日帰りツアーで列車に乗って来ているならばまず無理で、
前日からふもとの町アグアス・カリエンテスに泊まってる必要がありそうだ。
その後ツアーの誰と話しても「ワイナピチュ登りたい」と口を揃えて言う。
9日間という駆け足のツアーの限界を知る。
JTB で10日間のツアーだと、アグアス・カリエンテスに泊まるんだよなー。
ワイナピチュ登らないとしても、早朝のマチュピチュが見れただろうし。
ここに大きな差が出たね。
なお、昨年ワイナピチュに登っていて足を滑らせて落下して2名死亡。
そのうち1人は日本人。
ワイナピチュの方角に向いて立ったとき、
背後に聳え立つ山のてっぺんに旗が立っている。インカ帝国の旗。
インカ道がもちろん通っていて、山の中腹にインカ橋というのがある。
丸太を3本渡したというただそれだけのものなんだけど、
怪しい人物が通りがかったらその丸太を外せばいいわけで。賢い。
その隣の山に「太陽の門」がある。マチュピチュの入口。
インカ帝国時代は見張り小屋の役割を果たした。
昨年ここの岩が崩れ、スペイン人の男性にぶつかる。
ペルーでは「(征服したスペイン人への)インカの祟り」だと噂されたという。
森の間を上下に、また横にインカ道が通っているのが見える。
マチュピチュを発見したのは1911年7月24日、
アメリカ人の探検家ハイラム・ビンガムということになっている。
19世紀半ばにはフランスとイタリアの探検隊が既に発見していたという説もあるが、
真偽のほどははっきりしない。
Mさんに言わせるとこのハイラム・ビンガムはとんでもない泥棒で、
マチュピチュに埋まっていた黄金を見つけて掘り出すと同行していた学生たちとともに
その黄金をアメリカまで持ち帰っている。
マチュピチュはもともと何もない岩山を切崩して造られた。
人工石と自然石とを組み合わせて階段状の敷地を形作っていく。
土ははるか下界からリャマの背に積んで運ばれてきた。
(「世界ふしぎ発見」の問題にもなったそうだ。
マチュピチュ周辺では手に入らなかったので取り寄せた材料があるがそれは何か?)
土は元々ここにはなくて、ここマチュピチュの地面の下を掘り起こせば
出てくるのは石ころなのだという。
広さとしては東京ドーム2個分。5平方キロ。
向かって右側が工業地域、左側が宗教地域。
第9代皇帝パチャクティ皇帝の時代、1440年に建造が着手され、
1533年スペイン人に征服された際に時の皇帝が逃れるために火を放ったとされる。
結局都市は未完成のままで、石切り場にて切り出された石がそのまま残っている。
都市としてのマチュピチュの世帯数は216であったことが部屋の数から割り出されている。
当時の人口は800〜1000人。
太陽の門の方からワイナピチュを横に見ると、人の顔に見える。皇帝の顔。
また、ワイナピチュの頂上からマチュピチュを眺めると翼を広げたコンドルの形をしている。
ワイナピチュの中腹にはピューマの姿が描かれている。
誰かが質問をして、ガイドのMさんが答えた。
ペルーを訪れる旅行者としては相変わらずアメリカ人が一番多いが、
それでも最近は減って来ている。ヨーロッパからの旅行者も減少傾向にある。
逆に増えているのがロシア、中国、韓国から。
日本はアメリカに次いで多い。
高地の段々畑から、少し下りて見張り小屋へ。
太陽の門が見え、また都市の建物もワイナピチュも全て360度視界に収まる。
ここで撮る写真がマチュピチュの風景としては定番。
生贄の石という祭壇のような形の岩が草地の上に置かれている。
リャマをつなぐための穴が空いている。
マチュピチュでは災害が起きると生贄を捧げた。
1946年、少女のミイラが発見されている。
門をくぐって、都市の中へ。まずは宗教地域。
小道を歩いて部屋に入って、また次の部屋へ。
階段を下りて、歩いて、の繰り返し。
(中を歩いているとき全然メモを取らなかった、取り忘れたので
書くことが少なくてうまくまとめられない・・・)
ハイラム・ビンガムが金の盗掘を行った場所に差し掛かる。
ここにも生贄の石があったように思う。いや、エネルギーの集まる石だったか。
太陽の神殿。冬至6/21、1年のうちこの日だけ日が差し込むようになっている。
日時計の役割をなしていたとされる。
壁は横にアーチを描くような形で丸みを帯びている。
神殿の下部は霊堂となっている。魂がよみがえる場所。
ミイラが安置されていた。
各部屋の中をよく見ると水平線がチョークで引かれ、
アルファベットと数字で識別用の番号が書かれている。修復用のサイン。
マチュピチュは痛みが激しく、常に修復作業が行われている。
この日歩いていても、目立たぬようにそれとなく
現地の人たちが黙々と作業に従事していた。
果樹が集められた一角。
世界3大フルーツの1つ「チリモイヤ」が実をつけている。
(他の2つはマンゴスチン、ドリアン)
また、別な木にはグラナディーヤ(パッションフルーツ)がなっている。
32角の岩。クスコ市街の壁にあった12角の岩を上回る精密さ。
この岩のある部屋は壁に立方体のくぼみがいくつも残されている。
このくぼみの中で声を出すと反響する。
かつては生贄の控え室とされていたが、
近年は楽器の調律のために使用されたという説が有力。
広場を隔てて反対側、技術者の居住区に入る。
科学技術を教える学校としての役割を担った部屋。
水がめのような形の石が2個置かれている。
表面を浅く平たく彫られていてそこに水を満たす。
水鏡として利用され、天体観測(太陽と月の位置)が行われた。
壁には水筒を吊るすための引っ掛ける出っ張りが並んでいる。
ここの部屋では、織物の織り方、石の割り方といった技術も伝授された。
大きな石を組んだ下に這いつくばらないと入れないようなスペースがある。
怠けた人が入れられた牢屋。
拷問に使われたとこれまでされてきたが、
チチャ(紫トウモロコシの酒)を作るための部屋という説が有力。
他に見たもの。(書いていったらキリがない)
・水汲み場
・1950年のチリ地震で石組みが崩れた箇所
・南十字星の形をした石。正確に東西南北を指し示している。
・子供用の滑り台
・コンドルの神殿
・インティワタナ(日時計)
居住区は3段に別れ、一番上が貴族のためのもの。
水もまた上から流れるようになっている。
下に行くに従って、庶民用など、身分が低くなっていく。
インカ帝国の水道技術の高さは特筆すべき。いまだ分からないことが多い。
段々畑はサイフォンの原理で水が引かれていた。
アルパカが遺跡内の小道を歩いていた。
壁の上に珍しく、ピスカチャ(ウサギ)を見かけた。
基本的にここは崖の上。右を見ても左を見ても絶景。
観光用に手すりがあるわけでもなく、
道をわざわざ踏み外すってこともないんだろうけど、
もしそんなことがあったら山のふもとへとまっさかさま。
高所恐怖症の人にはお薦めしない。
歩いているうちに、向こうの山が分厚い灰色の雲で覆われだす。
ガイドのMさんは一時間後には雨じゃないか、と予想する。
見事に外れてアグアス・カリエンテスに戻っても降り出すことなし。ついていた。
[2347] ツアーでペルー その23(4月24日) 2007-05-15 (Tue)バス乗り場へ。目と鼻の先に薬局があって、
「頭痛のする人はここで買うといいですよ」と添乗員のKさんが言う。
ツアーの人たちが押し寄せてごった返す。急に大賑わい。
ここではスナック菓子やミネラルウォーターも売られていた。
バスが2台並んでいる。1台目のバスに白人旅行者たちが乗り込んで、出発する。
別の団体が次のバスに乗り込む。
坂の上の方からバスが下りてくる。
マチュピチュまでのシャトルバスってとこか。
こんなふうになってるとは思いもしなかった。手軽にマチュピチュまで行けてしまう。
だからツアーに組み込んで訪問することも可能なのか・・・
山道を何時間もかけて踏破した末に目の前に広がる、というものではない。
素直な感想として、
「この時代はお金と時間さえあればどこだって行けちゃうんだねえ」
マチュピチュだろうとチチカカ湖だろうとナスカの地上絵だろうと
どこもかしこも完全に観光地化されて、あとはお膳立てされた場所をのん気に回るだけ。
逆に言うならば
「一介のサラリーマンが一週間の休みで行けるところなんて
秘境でもなんでもないんだねえ」というか。
でもまあ、行けるならどこでも嬉しいもんだけど。
バスは24・5人乗ればいっぱいになる。何人か次のバスに回る。
非常にきれいなバス。
僕らがリマやクスコで乗ったのもそうだけど、まるで日本の観光バスのよう。
一般市民の乗る汚れたオンボロのバスとは大違いだ。
山道をうねうねと上っていく。
1つの山を徹底的に攻める。
右に行って左に行って急な上り坂をジグザグになってどんどん上っていく。
この山を登りきったところにマチュピチュがあるんだろうな、と思うとワクワクする。
ガードレールの全くないところを上から降りてきたバスとすれ違う。
道は常に崖っぷち。落ちたら即死。
窓の向こうは急角度の山々ばかり。日本のゆったりした山とは違う。
一言で言うならば山が「突き出て」いる。
巨大な緑色のモコモコした塊がニョキニョキと地面から生えて
ググーンと雲を突き破っているような。
「すげー」と思う。月並みだけどそういう言葉しか思いつかない。
アグアス・カリエンテスの町がはるか下、小さくなって見える。
列車がまるでおもちゃのよう。
いや、日本人の目からするとほんと何もかもが現実感なくて、
スケールが狂っているようで、すごすぎて笑っちゃうような風景ばかり。
見とれていると前方にちらっとマチュピチュのあの段々畑が!
「あっ!あれ!」僕は小さな声で叫んで、隣に座っていた人に指差す。
「見えましたよ!」
バスを降りる。
マチュピチュの入口地点。バス乗り場のすぐ横に
具合の悪くなった人を救護するためのテントがあって、日陰ができている。
僕らのツアーで一緒だった人が、気分が悪くなって脱落。
夫婦で参加だったため、2人で残ることになる。
テントのすぐ上に小奇麗な、こじんまりとしたホテルが建っている。
「Macchu Picchu Sanctuary Lodge」
http://machupicchu.orient-express.com/web/omac/omac_a2a_home.jsp
確かにこりゃ聖域だよなあ。
マチュピチュのすぐ目の前にこんなホテルがあるだなんて予想だにしなかった。
高いんだろうなあ。というか予約でいっぱいなんだろうなあ。
死ぬまでに1度は泊まってみたい。
そしてここでマチュピチュの夜明けを見てみたい・・・
(今見たら一番安いスタンダードの部屋で$715)
まずはトイレに。チップは0.5ソル。
いったんマチュピチュの中に入ってしまうと、トイレはない。
荷物を預けるならば4ソル。
レストラン兼カフェのような店が1つあって、
その店先でアンデスの男性が1人で演奏をしている。
トイレの前に空き地があって僕らはそこに集合ということになっていた。
電線の工事をしているのか、
巨大な糸巻きのようなのに太い電線を巻いたものを
ペルー人の男性がひたすら回転させて送り出している。
「世界人類が平和でありますように」と
今でも日本でもよく見かける標語の書かれた柱が隅の方に立てられている。
(もちろんこれは日本語)
遺跡の中はブヨが多いと注意されていたので、虫除けを全身に降りかける。
肌が露出している部分だけでなく、服の上からも。
みんなして、日本から持ってきたスプレーを一斉に。
どこかで携帯が鳴っているのが聞こえる。
こんな「秘境」とされる山の上でも、携帯は通じるのだ。
いざ、マチュピチュへ。
ここから現地人のガイドの男性も同行する。
入口で入場券を見せて、先に進んでいく。
石を積み重ねて造った小屋が建っている。
まずはここで写真をたくさん撮る。誰もがそうする。
ガイドのMさんが「みなさん、そろそろ上りましょうか。上は全景が見渡せますよ」と促す。
木々の間、急な山道を上っていく。呼吸を重ねると緑の匂いがする。
5分ほど上っただろうか。
道は木々の外に出て、急な日差しに眩しくなる。
・・・目の前には、そう、これまで写真で何度も見てきたマチュピチュの本物が。
立ち尽くす。
切り立った崖の上は緑色の草で一面覆われ、
石造りの建物跡がパックリと断面図のように広がっている。
そしてその周辺部には段々畑がなだらかに伸びている。
さらにその周りを深い森が覆っている。侵食するかのように覆い尽くしている。
僕にはそれが果てしない千年もの眠りの只中にある、巨大な生き物のように見えた。
建物跡の間をポツリポツリと木が植えられている。その枝葉を存分に伸ばしている。
それはそれで別の生命体のように思えた。
段々畑を果ての方まで行って上の段に上ったり、下の段に下りたり。
夢中になって写真を撮る。どんな角度から撮っても様になる。
カップルや夫婦たちはそれまでの観光スポットでしてきたような
大袈裟なポーズを取ることもなく、ただ遺跡を前にして立つだけとなる。
[2346] ツアーでペルー その22(4月24日) 2007-05-14 (Mon)僕の隣、窓際には白人の大柄な女性が1人座って、目を閉じて眠っていた。
他の旅行者とは違って完全に手ぶら。
デジカメで写真を撮ろうとして僕があまりにも頻繁にモソモソ動くので、
「席を替わりましょう」ということになった。
車両付きのボーイみたいな若い男性が、メニューを配る。
車両の中ではサンドイッチやスナック菓子、飲み物を売っている。
僕はコーヒーを注文する。3ソル。
10ソル紙幣で支払ったのにお釣りをくれない。やきもきする。
後で捕まえて7ソルもらった。
呼び止めたら「あ、そうでしたね、すいません」みたいな感じで。
窓の外は草原、牧草地、畑、ところどころに家。
全て束の間のはかない記憶のように流れ去っていく。
駅に到着する。ここはどこだっけ?あとどれぐらいだっけ?
みたいな話をしていると白人の女性が駅名を言う。僕らはサンキューと返す。
それをきっかけにこの女性との話が始まった。
(僕はあんまり話さず、同じく1人で参加していたF君がほとんど話す)
バンクーバー出身で職業はITコンサルタント。
3ヶ月の休みを取ってペルーまで来た。もうじき帰国する。
クスコにアパートを借りて、自炊。
このクスコを基点にリマやナスカを観光、友達の住むエクアドルまで足を伸ばした。
海辺の町で3日間過ごして、泳いだ。
ペルーに来たのは、インカ文明に興味があったから。
来年はインド、中国、日本を訪れてみたいと語る。
ピサックの町のマーケットで買ったテキスタイルの腕輪を見せて
「聖なる谷は見た?いいところよ」とあれこれ薦めてくれるが、
僕らは9日間という短いツアーなのでスケジュールががっちり決まってて
時間がなくて見に行けないと答えざるを得ない。
「どうしてそんなに慌しいの?」と聞かれて
「日本人は長い休みが取れないんですよ」と答えると、
「会社なんて辞めちゃえばいいじゃない」と彼女は笑いながら言う。
「この世界は広いのよ。住む場所はいくらでもあって、職業だっていくらでもある。
私は会社を辞めて、持ち物を売り払って、旅に出たんだから」
そうは言っても、日本人はなかなか会社を辞めないものである。
日本人の「性質」と言ってもいい。
そんなふうなことをたどたどしい英語で伝える。
自炊の話になる。市場があって、そこでなんでも食料品は買える。
じゃがいものだけで40種類は売ってる。
色、形、粘り気、味、様々なじゃがいものがある。
カナダにいる頃と変わりない食生活を送っていて、
時々ペルーらしい新しいメニューを考えて作ってみたりする。
同じ席に座っていた熟年夫婦のうちのおばさんの方が
ヨガのインストラクターだとわかると、ヨガの話で盛り上がった。
「クスコにもヨガの教室があるのよ。こっちに引っ越してきて教えたらいいじゃない」
「でも私、旦那もいるし・・・」
「日本にも旦那がいて、こっちでも別の旦那を見つければいいのよ!」
その次の駅オリャンタイタンボで
全員Cの車両に移れるということになり、慌てて乗り移る。
カナダの女性とはそこでお別れ。
外国人と出会った、触れ合ったという体験は後にも先にもこのときだけ。
ツアーの中にいるとその外側にいる人と接する機会が皆無に近くなってしまう。
ぞろぞろと団体で動物園を見学しているかのようだ。
このオリャンタイタンボもまた遺跡で有名。
クスコのサクサイワマンの要塞のために石を切り出して運んだことが分かっている。
列車でも2・3時間かかる場所に人手で運んだとは・・・
気が遠くなる作業だ。
ハンパじゃない数の人間が大勢集まって
掛け声と共に岩を引っ張っている様を僕は思い浮かべる。
1人参加のおばさんの隣となる。
残り1時間の行程を世間話をしながら過ごす。
ガイドのMさんはあちこちの座席に散らばったツアーのメンバーの間を
目まぐるしく駆け回ってあれこれ解説で忙しい。
雪山を指差して「あれがベロニカ山。
標高5754mで、2005年10月12日に氷河が溶けて・・・」
はるか上の方に雪が見える一方で
目の前の風景はアマゾンっぽくなり、サボテンやリュウゼツランが生えている。
豪快に流れる川と併走する。川は茶色く濁っている。
段々畑をいくつも通り過ぎる。
開拓者の仮の住まいなのだろうか、小さな小屋にキリストの像が奉られている。
祭壇と銀色の十字架。
インカ時代の金の精錬所の遺跡。
川の側にあるということは砂金なのだろうか?
車掌が「今、88km」と各座席の人々に聞こえるよう、大きな声で伝えながら歩く。
クスコのサン・ペドロ駅から何キロメートル地点を通過しているのか、という意味。
Mさんが言うには、3泊4日でインカ・トレッキングのコースがあるとのこと。
彼らがほら、歩いていると吊り橋を指差す。
最高点では標高4200mのインカ道を歩く。
最終目的地はもちろんマチュピチュ。
太陽の門がゴール地点で近くに温泉が湧いていて、そこで長旅の汗を流す。
トレッキングは半日コースもあるようだ。
トイレに入ろうとして待っていると軽食売り場の若い女の子が
「カチャラータ!」と言いながら窓の外を指差す。
いったいなんなのかわからないけど(今検索してみても分からない)、
とりあえず窓の外に顔を向けて、何かが見えたかのように微笑むと、
女の子もニコッと笑った。
アグアス・カリエンテスの駅近くまで来たとき、
Mさんが「あれは水力発電のダムですよ」と。
小さな川に設置されたものなので比較的小規模なダム。
ペルーの電力の実に85%が水力。
後ほどマチュピチュに上ったとき、
より大きな規模の水力発電の施設が山のふもとに見えた。
朝7時に乗り込んで4時間半。
ようやくアグアス・カリエンテス駅に到着。
ホームに降り立つ。
急な山の斜面の向こうに青空。白くて自己主張のはっきりした雲。
深呼吸をする。空気が澄んでいる、ような気がする。
日差しが思いのほか強い。
周りは白人旅行者ばかり。
駅を出て、アグアス・カリエンテスの小さな町を歩く。
お土産屋の屋台が密集する地域を潜り抜ける。
Mさんが「水や帽子を買うなら今のうちですよ」と言う。
町の中心部を川が流れていて、橋を渡る。坂道を下っていく。
[2345] 「スパイダーマン3」と「バベル」 2007-05-13 (Sun)(ペルー旅行メモから1日離れて。
以下、最初は mixi に書いたことを加筆修正)
昨日「スパイダーマン3」と「バベル」を見てきた。
当初は会社の映画部の鑑賞会、のはずが人が集まらず結局一人で見に行く。
六本木の TOHO シネマズ。
TOHO シネマズって最初 virgin TOHO シネマズって名前だったように思うが、
いつのまに virgin が抜けたんだろう?昨日初めて気付いた。
そもそもの初めとして、virgin シネマズだったのが東宝に買収されたのか。
学生時代に新宿や池袋の virgin をよく利用していた僕としてはなんだかとても寂しい。
---
「スパイダーマン3」はシリーズ3作目として手堅い出来。
それ以上でもそれ以下でもない。
普通に面白い。娯楽作品として申し分ない。
1つ言うならば、キルスティン・ダンストは
「マリー・アントワネット」よりもスパイダーマンのシリーズの方がいい。
---
「バベル」はあちこちで酷評されてるし、
僕の周りで見た人みな首を傾げていたけど、
僕としては面白かった。とても面白かった。
夢中になって見た。時間を忘れた。
目新しい何かがあるわけではない。
「この世界はどういう場所なのか?」
「人が生きるというのはどういうことなのか?」
「人は分かり合えるものなのだろうか?」
テーマってこういうことなんだろうけど、
「バベル」は薄っぺらくて
本質まで全然たどりつけてないように思う。
20世紀半ばの名だたる巨匠たちの作品のいくつかは
「バベル」よりももっと単純で素朴だったのに、あっさりと本質をついていた。
フィルムにそれがはっきりと焼きついている。
(例えば僕は今、フェリーニの「道」を思い浮かべている)
「薄っぺらい」と感じるのはなぜか?
例えばそれは出てくる国:日本、メキシコ、モロッコ、そしてアメリカ
の描き方が紋切り型だってことが1つあると思う。
(たまたまどれも僕、訪れたことがあるだけになおさら)
日本は高層ビルに渋谷の若者たち。
メキシコは不法移民と派手な結婚パーティー。
モロッコは日干し煉瓦の家にワラワラと集まる貧しき人々。
アメリカはテロを警戒、メキシコを差別。
わかりやすいイメージ通り。
見てて、その国の「匂い」を感じない。
そのときカメラが切り取った(というか監督が意図した)絵でしかない。
エキゾチックな背景を求めたかっただけ?
日本人ならば「えー?日本ってこんなふうに思われてるの?」
と違和感を感じるのではないか・・・
どこに住んでいて、どんな建物が建っていて、肌の色がどんなで、
どんなものを食べていて、・・・ってことに関係なく、
どこであろうと人間というものはこういうものであって。
というのがもっと表面的なレベルでどこにでもあるのだと僕は思う。
そういうところを映画ではばっさり切り捨てている。
この世界には差異しかないことを前提条件として持ってくるために。
などなど、あるんだけどね。
でも僕はこの作品がとても好き。
いいじゃないか。紋切り型で。
本質をつけなかったからこそ、そのもどかしさゆえに
「バベル」後の世界なんじゃないの?
意外にヒットして多くの人が見に行ったようだけど、
そういう人たちってこの手の単館上映系映画に慣れてないから
「で、結局何が言いたいの?」ってことになるのだと思う。それゆえに不評。
僕はこの手のばかり喜んで見てるから、すっと入り込めた。
そういうのって、あると思う。
---
そんなわけで、「スパイダーマン3」と「バベル」
どっちかを人に勧めるならば
僕の場合「スパイダーマン3」ですね。
---
追記。ラストはブラピのあの場面の方がいいと思う。
あそこで終わってくれたら
僕としては90点以上の高得点をつけたのに。
あのラストシーンは、安易じゃないか・・・?
「人は分かり合えない。しかし、心を開いたとき、分かり合えるかもしれない」
ってのがこの映画の言いたいことなんだろうけど、
だとしたらあのラストに至る過程の描き方は力不足ではないか?
役者のアンサンブルはなかなかよかった。
特にモロッコ。素人ばかりみたいなんだけど。
観光バスを銃で撃ってしまったあの兄弟とその父親。
ブラピと行動を共にするガイド。
メキシコ人のおばさんもよかった。アドリアナ・バラッザ。
この人と菊地凛子がアカデミー助演女優賞をダブル・ノミネートか。
甥役の男性がどっかで見たことあるなあと思っていたら
「モーターサイクル・ダイアリーズ」のガエル・ガルシア・ベルナルなんですね。
エンドクレジット見てたら渋谷のDJ役に「shinichi osawa」の名前が。
Mondo Grosso の大沢伸一。
字幕は日本語。日本人が話していても日本語の字幕あり。
恐らく、英語圏の公開でもブラピのセリフには字幕があるんじゃないか?
これが要するに「バベル」の塔崩壊後の言葉がばらばらになった世界を鑑みて
全てのセリフに字幕をつけているのならば、一本筋が通っていると思う。
[2344] ツアーでペルー その21(4月24日) 2007-05-12 (Sat)5時起き。マチュピチュへと向かう日。
このツアーのハイライト。
先日感じた軽い頭痛と酸欠状態は寝てる間によくなってて今日は感じない。
1階のレストランへ。ビュッフェ。
ソーセージ、ベーコン、ハム、スクランブルエッグ。パンは食べない。
オレンジジュースかと思ったらマンゴージュースだった。
フルーツを多く食べようと思って、みかん、オレンジ、グレープフルーツ、キウイ。
テレビがついていて、音楽番組。ぼけーっと眺めながら食べる。
部屋に戻ってすることもなく、デジカメの写真の整理をする。
5時45分から、6時15分頃まで30分間チンタラと。
その後、今日は暑くなるかもと日焼け止めを塗る。腕、顔、首と満遍なく。
出発は7時のはず。そんで今6時30分ちょうど。
あーまだか、暇だなあと思って
念のため当日のスケジュールをメモったページを見たら
ホテル出発6時半とあった。慌てて部屋を出る。
ロビーには既に誰もいない。
もう行ってしまったのか?置いてかれたのか!?
見るとホテルの外にバスが停まっていて、既にみな乗り込んでいる。
滑り込みセーフ。間に合って出発。
マチュピチュ行けないところだった・・・
この日のスケジュールについて、昨日説明を受けた内容を整理。
鉄道は7時発で11時40分着。
終点のアグアス・カリエンテス駅からバスに乗ってマチュピチュへ。
このバスの定員は30人以下であるため、2台に分かれて乗っていく。
クスコの駅サン・ペドロから次の駅ポロイまでは
箱根の登山鉄道のようにスイッチバック方式。
全部で4回進行方向が入れ替わって、
前になったり後ろになったりを繰り返しながらジグザグに進んでいく。
これが1時間かかる。
帰りもこれだと時間がかかるのでポロイで下りてそこからバスでクスコまで戻る。
それでもホテルの戻りは21時の予定。
マチュピチュ観光は2時間から3時間、
昼食はアグアス・カリエンテスまで下りてからなので15時ごろとなる見込み。
サンペドロ駅に到着する。
マチュピチュ行きの青い車両がホームに入っている。
宿が一緒のクラブツーリズムの元気な添乗員の方が
以前一緒に仕事したのか、「Mさーん!」と声をかける。
やはり日程が一緒。同じ列車に乗ってマチュピチュへと向かうわけだ。
添乗員のKさんから1人ずつキップを受け取る。
事前に車両と座席の番号が決まっている。
僕らツアーはC号車とD号車に分かれて乗車する。
これもリマ行きの搭乗券同様、シャッフルする。
今回は完全にクジ引き。2人組の人たちと1人旅の人たちとで別々に。
僕はD号車となる。もともとD号車で、座席番号もほとんど変わらなかった。
固まって乗り込もうとすると、切符がDの人はDに乗ってくださいと車掌が強く主張する。
僕らは切符はそのままで、座席だけ交換するつもりでいた。
切符はDなのに座席はCとなった人たちがいったんDの元々の席に座る。
後で席を変わればいいでしょうと。
しかしCとDの車両の間のドアが開くことはなく、鍵のかけられたまま。
走り出したら開くと言われるも、
車両間の連結部分はむき出しで壁などあるわけでもなく、
足がふらついたら高速で走っている列車から転落して地面へと激突してしまう。
席を変われないんじゃないか・・・と暗雲立ち込める。
それ以前にCとDに分かれた人たち同士で連絡が取れない。
携帯があるわけでもないし、通じるわけでもない。
とにかく列車が走り出す。
周りは欧米人の観光客ばかり。
クスコの町外れの山の斜面を線路が通っていて、
その上をのんびりと列車が進んでいく。
えらいトロトロとしていて大丈夫か?と不安になる。
走り始めたばかりでエンジンがかかっていないのか、それとも急斜面だからか。
家々のすぐ目の前をかすめていく。
家の壁は赤茶けた色をしていて、屋根もまた、そう。
これは日干し煉瓦の色なんだろうな。赤茶けた土の色そのまま。
しかもその家々が密接したままくっつきあっている。
気の向くままに四角い土の塊が増殖したかのよう。
屋根の上に十字架を立てている家が多い。
十字架の脇に魔よけとして牛の人形を置いている家もあれば、
ごくたまにだけど買うだけのお金がなかったからか、
なんらかのユーモアなのか、ぬいぐるみを置いている家もある。
作りかけや壊れかけの家がけっこうある。
斜面のわずかばかりのスペースにやっとのことで立っているあばら家を見かける。
屋根はクスコ市街とは変わって、瓦ではなくなる。トタンのこともある。
紐が渡されて洗濯物がかけられている。
あちこちにゴミが散らばっている。
貧しき人々が住む地域。
少し進んだらいきなり列車が停止。おや?と思う。不調?
またすぐ走り出す。逆方向。引き返すの?
「あ、これがスイッチバックか」と気がつく。
窓の外を見ると線路が平行して走っている。これまで来た方。
少し進んではまた止まって、逆方向へ。
そんなスイッチバックを何回も繰り返す。全部で4回か。
同じ景色を行ったり来たりする。しかし見るたびに高度が上がっている。
野良犬がこちらを見ている。
近くに住んでいるのだろうか、線路の上を歩く人がいる。
列車に向かって手を振る。
色褪せた看板に大きな文字で「FUJIMORI PRESIDENTE」と書かれている。
日干し煉瓦を作っている親子。
パラボラアンテナがポツリポツリと立っている。
列車に乗って30分、依然としてクスコの家並みが続く。どこまでも続く。
山の斜面にへばりつくようにして暮らしている人たち。
こういう場所でどうやって生活しているのだろうと思う。
田畑は見えないし、工業の気配もない。
やはり観光−物売りに携わっているのだろうか?
自家用車を持ってるわけでなく、バスが走ってるわけでもなく。
クスコ市街や昨日の夕方見たサクサイワマン遺跡まで朝と夜、トボトボと歩いて。
山が深まってゆくと一戸建てが増えてくる。農家なのだろうか。
原っぱを牛や豚がぬーっと突っ立っている風景も増えてくる。
番をする子供が牛の群れの側でボールを蹴っている。
刈り入れが終わったのか、地面から突き出た部分が枯れて萎びたトウモロコシの畑。
それが次から次に現われては消えていく。
大勢の人々が川の中に入ってオレンジ色の作物を洗うか何かしているのが見えた。
[2343] ツアーでペルー その20(4月23日) 2007-05-11 (Fri)クスコの町へと戻る。
途中、「キリスト・ブロンコ」に寄っていく。
丘の上に真っ白なキリスト像が立っている。
日の暮れかけたクスコの街並みを見下ろす。
貧困地区の家々のオレンジ色のつましい灯り。
そのはるか向こうの市街中心部、アルマス広場周辺はそれなりに賑やかに見える。
うとうとしている間にホテルへ。
18時頃か。フォルクローレ・ディナーの出発は19時半。時間ができる。
とは言っても見に行くべき観光スポットもなく、
先ほどのタンボ・マチャイで芯まで冷え込んだせいか体はぐったり疲れている。
部屋で大人しくしてようかなあ、とも一瞬考えるが、
「いかん。なんかせな、もったいない」という気持ちに傾く。
荷物を置いて、上にセーターを羽織って、ホテルの外に出る。
なんとはなしに通りを歩いてみる。
小さなホテル、小さなレストラン、地元の人相手の酒屋兼バー。
土産物屋の集まっている市場のような場所を見つけて中に入る。
どこもセーター、マフラー、ラグ、ニットキャップ、Tシャツ、鞄、民芸品といった品揃え。
売ってるものは代わり映えしない。
セーターはよく見るとどの店もデザインが一緒で色のバリエーションがいくつかあるだけ。
工場で作ってみんなそれを仕入れているようだ。
歩いていると「アミーゴ」と声をかけられる。
これを買わないかと商品を指で示される。
特に欲しいものはなし。
通りを渡ったところにさっきのをさらに大規模にした市場が見つかる。
小さな店が寄り集まっている。
中を入って歩くがどれもこれも同じようで、それがどこまでも続いて、クラクラする。
品揃えのバリエーションは増えたが、それでも食指は動かず。
そもそもここ、外国人旅行者の姿がほとんど見えない。
閉店間際?で時間がよくなかったのだろうか。
売り上げあるのだろうか、儲かっているのだろうか、
大丈夫だろうかと余計な心配をしてしまう。
店によっては家みたいなもんで子供が宿題をしていたり、親子で食事を取っていたり。
お土産屋を生計としているんだろうな・・・
昼間だったらまだ客は入るんだろうか?団体のツアーが訪れたりで。
中は全てお土産屋というわけではなく、地元の人相手の食堂もあった。
通りを渡ってホテルのある方へ。
もう1つお土産屋の寄り合い施設を見つける。
こちらはこれまでと違ってしゃれた店が多い。
地元の画家によるものだろうか?絵が展示されていたり。
売られているアルパカ・セーターも質がよくなってデザインも気がきいている。
ほどよく時間をつぶして、ホテルに戻る。
ペルーではホテルにパスポートを預けることが多いので
パスポートのコピーを持っていたほうがいいよな、とフロントに持っていって頼んでみる。
「コピー」と言っても通じない。
あれこれ問答しているうちに「フォトコピー」と言うのだな、ということがわかる。
A4用紙の2枚の表と裏にコピーしてくれる。
カジノが営業していたので入ってみる。スロットマシンが中心。
よく見るとポーカーかブラックジャックだったか忘れたけどカードゲームができるマシンもあった。
コインを入れればいいみたいなんだけど、ソルなのかドルなのか分からず。やめておく。
観光客の姿はほぼ皆無で、遊んでいるのは地元の人ばかり。
移動待ち。ロビーで隣に座った夫婦の旦那と話す。
テレビを見ていたらちょうど
ヤンキース対レッドソックスで、井川と松坂が投げていたという。
フォルクローレ・ディナーへ。
地球の歩き方にも載っている「ドン・アントニオ」という店。
3部構成となっていて第1部がフォルクローレの演奏、
第2部がペルー各地の民族舞踏、第3部がラテン音楽の演奏。
このうち、第3部まで見てると夜が遅くなるということでこの日は第2部まで鑑賞となる。
この店はビュッフェ方式。
正直、「えーまたか」と思う。僕としては全然嬉しくない。
しかしここのビュッフェはアルパカのカルパッチョや
クイ(山岳地帯のモルモット)の姿焼きがメニューの中にある。
前菜、メイン、デザートにコーナーが分かれている。
ビールはクスケーニャ。1本だけにしておく。3ドル。
食べながら始まるのを待つ。広い店内は団体の観光客ばかり。
日本人のツアーが他に2つ、欧米人のツアーが1つ。
ディナーはツアーの全員が参加したわけではなく、何人か欠けていた。
夫婦共に不参加のところもあれば、どちらかだけ参加のところも。
疲れが出てきて、大事を取ってホテルで休んでいるのだろう。
お土産用に料理をパックにつめて帰る。
テーブルに現地のおばさんが絵葉書の束を手に現われる。添乗員のKさん曰く、
午前中にクスコの空港を出たところでカメラマンが撮ってた写真を
絵葉書にしたものだそうだ。1人1枚1ドル。
1人1人回って絵葉書を置いていく。
僕のはなぜか2枚あった。
なのにどちらもカメラマンを見て警戒しているので苦虫を噛み潰したような顔。
ものすごくいけてないが、せっかくだから買うことにする。2ドル。
遠く異国の地で自分の写真が処分されるってのも嫌だし。
絵葉書にするって言ってもプリントして作るのではなくて、
自分の写真がシールになっていて貼ったりはがしたりできるというもの。
売れなかったらそのシールをはがして
別の団体の別の誰かのを貼って再利用するだけ。
旅行者の写真の周りに太陽の神殿やサクサイワマン遺跡など
クスコの名所をあしらっている。
クイは匂いも味も苦味というかクセが強くて僕は途中で断念。
アルパカはまあまあ。言われなかったら何の肉か分からなかったと思う。
酢漬けの赤唐辛子みたいなのがあって、
まさか唐辛子そのものじゃなくて赤ピーマンだろうと思って食べたら
唐辛子だった・・・
口の中がヒリヒリしてその後食べられず。
第一部のフォルクローレが始まる。
5人グループ。太鼓、ケーナ、笛全般、チャランゴ、ギター。なかなかうまい。
新宿駅南口や上野公園で演奏しているグループとは格が違う。
70年代から演奏しているってことでもう30年以上!
メンバーは2人入れ替わったそうだ。
普通のフォルクローレも演奏するが、
クラシックの曲をアンデス風にアレンジしたものもレパートリーの半分ぐらいあった。
ベートーベンの第9やモーツァルトのトルコ行進曲、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」
定番の「コンドルはとんでいく」は普通に演奏してもつまらんということなのか
コードだけ弾いてあとは分かりやすいメロディー皆無の、
独自の解釈というかアバンギャルドな演奏。
サイモン&ガーファンクルのカバーに代表されるような郷愁、一切なし。
30年もやってたらこういうこともやりたくなるよな・・・
第1部の演奏が終わって彼らの CD を僕は買った。15ドル。
第2部は民族舞踏。
怪物のお面をかぶって出てきて、村娘と踊るもの。
村娘が村の男にさらわれるもの。
村の男同士がおたがいにムチというか紐で打ち合うもの、など。
彼らはアンデス土産の人形をテーブルの上に置いていく。
露店や土産物屋で売っているものより質がいい。
踊りが終わってから5ドルと言われるが、誰も買おうとしない。
彼らはチップ代わりにこの人形を売っているのだろう。
店を出てバスに戻り、ホテルへ帰る。
アルマス広場の通りは22時を過ぎても人通りが多い。
シャワーを浴びる。
昨晩に引き続きピスコを飲もうとする。
洗面所のグラスを使おうとしたら手が滑って落としてしまう。
飲み口の部分が半分割れてしまった。
それでも他にないので、
割れたグラスでピスコを飲んでその後歯を磨いて口をゆすいだ。
[2342] ツアーでペルー その19(4月23日) 2007-05-10 (Thu)バスに乗ってクスコの郊外へ。
この辺りからきれいな街並みではなくなって
普通の人々・貧しき人々の生活も垣間見えるようになる。
斜面にボロ屋が建っている。茶色い屋根、茶色い壁。
テレビのアンテナ。窓辺に色褪せたぬいぐるみ。
崩れて、打ち捨てられた空家。
開け放たれた扉。その向こうには何もない。屋根もない。
山道をしばらく走ってサクサイワマン遺跡へ。インカ帝国の要塞の跡。
クスコはピューマの形を意識した都市であって、ここが頭の位置に当たる。
第9代のパチャクテ皇帝が着手、1日に5万人、50年かけて完成に至る。
広場のような草原があって、その左右に石造りの要塞の跡が残る。
ここで毎年6月24日に太陽の祭り「インティ・ライミ」が今も行われる。
リオのカーニバルと並んで、南米三大祭の一つとされる。
(Mさん曰く、他の2つと比べるとかなり地味だそうだが・・・)
来年のインカ帝国の発展・豊作を祈願して執り行われるもの。
本来ならば生きているリャマをさばいて生贄として捧げる。
クスコとはケチュア語で「へそ」を意味し、4つの国の集合体
(チンチャ・スウユ、コヤ・スウユ、アンティ・スウユ、クンティ・スウユ)
であるインカ帝国の中心地だった。
そしてその更なる中心地がここ、サクサイワマン遺跡というわけだ。
壁の側に寄ってみる。
人の背丈ほどのかなり大きな石が積み重ねられている。
クスコの街並みで見かけるものとスケールが違う。
この近くにあった岩を切り出したのではなく、
遠く何10キロもの向こうから何万人もかけて運んできた。
「十一面の石」という有名なものは総計128トン、
地面から突き出しているのはごく一部で、地中にその大部分が埋まっている。
これらの巨石はエネルギーを持つとされ、触れるとそのエネルギーが得られるという。
城壁を設計したアカワナの名前を付けられた、石造りの門をくぐる。
近くの山は高度3400m以上だというのにもかかわらず、緑の木々で覆われている。
その多くはユーカリの木で、家の柱や薪として利用される。
1本切るごとに3本から5本植えるという決まりをみな守っていて、
今ではかなりの広さの林となった。
植林は近年になって始まり、20年前には全く植えられてなかった。
その後あちこちでユーカリの木が植えられているのを見た。
ペルー全土で奨励されているのかもしれない。
この要塞は年に2回、インティ・ライミの祭りの日と大晦日にライトアップされる。
見ると地面にガラス張りの箱が埋められている。
しかし年に2回しか使われないということで手入れは全然なされてなくて
中は草ぼうぼうとなっている。僕はてっきり何かを栽培している箱かと思った。
夕暮れ時になって、どんどん寒くなってくる。
Tシャツ1枚ではどうにもならなくなってきて、持ってきた長袖のシャツを着る。
要塞から下に下りて、駐車場へ。
リャマを連れて盛装したアンデスの人たちが写真に撮られるのを待っている。
ツアーの人たちが写真に撮る。僕はその様子を写真に撮る。
バスに戻って次はケンコーの遺跡。ピューマの形をしている、とされる。よくわからず。
遺跡まで下りていくことはなく、小高い丘の上から眺める。
地面にたくさん実のようなものが落ちていて、
誰かがこれは何かと尋ねるとMさんからユーカリの実だと答えが帰ってくる。
少女とそのお姉さんがセーターを売りに来る。10ドル。
アルパカのセーターってことなんだろうけど。
熟年夫婦の旦那が購入。少女にとても喜ばれる。
この姉妹の末っ子はまだ小さくて物売りを手伝うことなく、
ユーカリの木の下で遊んでいた。その写真を撮る。
まだ小さいので写真代を求められることはない。
ガイドのMさんがイチイクサと呼んでいた、土色をした固くて細い草が生えている。
インカ時代に屋根を葺く材料として利用された。
バスが走り出す。
ところどころポツリポツリと建っている、農家と思われる粗末な家の屋根に
竿が立てられ、赤いビニール袋がはためいている。
紫トウモロコシで作る酒、チチャがありますよ、という目印。
また、屋根の上に十字架を据えつけた家も目につく。魔よけの目的。
山道を行く。エニシダや日本から送られた松の木が生えている。
野生のリャマを見かける。
その先で牧場なのだろうか、鞍をつけた馬が群れていた。
3番目はプカ・プカラの遺跡。
(メモには残っているが記憶なし。誰かが土笛を買ったとある)
4番目にタンボ・マチャイの遺跡。インカ時代の沐浴場とされる。
入口から泉の湧き出るところまで10分ほど歩く。
ここは標高3750mでついに富士山山頂並み。
入口にてふかしたとうもろこしを売っているアンデスの女性がいた。
トウモロコシと言っても日本の黄色くて粒が小さいのとは違っていて
ここペルーのは白くて粒が大きい。
ちょっとぐらいなら食べてみたかったけど、
これ1本丸ごとはきついなあとやめておく。
ここから完全に日が落ちてとてつもなく寒くなる。
歯がかじかむぐらい。背中を丸めながら歩く。
アンデスの人たちが道端に商品を並べて道行く人に声をかけている。
セーターを売っているのを見て、10ドルかあ買おうかなあと迷う。
しかし、今ここでしか着ないだろうし、
買ったら負けだと心を鬼にしてノーと言う。自分との戦いとなる。
ゆるい上り坂が続く。
野良犬なのか、小さな犬を何度か見かけた。
泉に到着。
湧いてる水はきれいでおいしそうなんだけど、飲んだら腹壊すだろうな・・・
ペルーのおいしいビール「クスケーニャ」に使われているそうで、
だったらやはりおいしいはずなんだけど。
ここの泉は不思議なもので雨季も乾期も水量は一緒。
しかも水源地がどこなのか、どれだけ研究してもいまだ不明のまま。
ここだろうか?という箇所いくつかで試験的に色素を流してみるも当たらず。
ここタンボ・マチャイの遺跡はインカ道が通っている。
全長3万キロの山道。
いい道を作ると敵の襲撃にも利用されると考えたことからとにかく険しい。
ここからマチュピチュまでは100km近く、歩いていくならば10日かかる。
チャスキと呼ばれる飛脚はキープを抱え、2.7kmごとにインカ道を走ったという。
「バスに戻ります」となった途端僕は道を駆け出して、暖房の入ったバスを目指す。
[2341] ツアーでペルー その18(4月23日) 2007-05-09 (Wed)昼食のレストランへ。14時を過ぎていただろうか。
落ち着いた雰囲気の静かな店。
野菜のスープ(ズッキーニ、にんじん、ライスなど)と、
メインディッシュは鶏肉のフライに付け合せはマッシュポテト。
デザートはピンク色のアイス。おいしかった。
ペルーの食事全部のうち、ここの料理が一番おいしかった。
僕は食後にコーヒーを頼んだんだけど、
コカ茶を飲んだ人が多く、コカの葉っぱをもらう。
口に含んでもいいんですよって言われたので
勘違いした僕は葉っぱごと食べてしまった。
苦いだけでどうということもない・・・
幻覚が見えるわけでもない。
笑われてしまう。
コーヒーのカップが素焼きっぽい感触に
アンデス風の模様が描かれていてなかなかよかった。
こういうのいいなあと思ってお土産屋で探しても残念なことに見つからない。
アルマス広場でバスを降りるとき、最初は2・3分のはずだった。そう言われた。
なのに交通規制でバスが停車できなくなり、そのまま観光で歩き続けることになった。
結果、「2・3分と聞いていたから貴重品を置いてきた」という人も出てきて
「いったいどうなってんだ」と。
このレストランに入ってから夫婦が一組貴重品をバスまで取りに戻り、
食後もひとまずはみなバスに戻ることになった。
5分ほどでサント・ドミンゴ教会へ。途中裁判所の前を通った。
入場する。
ここはかつてインカ帝国の太陽の神殿(コリカンチャ)だったのが、
スペイン人による征服時に
神殿を飾っていた黄金が奪いつくされ、神殿も破壊され、
残された土台の上に教会が建てられたというもの。
その後地震が起きて上の教会は倒壊したが、土台はびくともせず。
現在残されている教会は修復による。
教会はスペイン風の建築であるため、中庭と回廊がある。
中心に噴水、四方の壁にキリストを描いた絵画など。
教会関係の展示物は写真を取らないこと、と注意を受ける。
カメラに斜線の入った禁止のマークが壁に貼られている。
ただし、インカ時代のものは撮ってもよし。
部屋は教会関係のとインカ時代の神殿跡に分かれてて、
神殿跡の方のみ見て回ることになる。
神殿跡と言ってもたいしたものが残されてるわけではなく、石造りの壁ぐらい。
しかしこの壁が多くを物語っていて、史跡好きならばたまらないだろう。
やはり精巧にして複雑な石造りとなっている。
部屋は4つ(だったと思う)、
それぞれ「虹の神殿」「雷の神殿」「星の神殿」「月の神殿」と名付けられていて、
その造られた目的はそれぞれ異なる。
最初2つの神殿は黄金で装飾されていたが、後の2つは銀。
銀の部屋はその帯の跡が残っていた。
黄金の部屋はところどころ壁に穴が開いていて、これはスペイン人が盗掘を試みた跡。
「星の神殿」だっただろうか、スペイン人の描いたとされる小さな壁画が残っていた。
各部屋の斜めになった壁の角度は13度を保っている。
物理学的なことはよく分からないけど、
この角度は土台の強度を生み出す上で意味のある数字のようだ。
構造上、エネルギーの集中する小さな石ってのがあって、みんながそれを触ってみる。
これら神殿には4つの部屋にまたがって小さな窓が開いていて、
正確に同じ位置に窓が配置されているため、一直線上に3つ先の部屋が覗ける。
高めの敷石の上に立ってみんなが「へー」と感心しながら写真を撮る。
ガイドのMさんがこんなことを言う。
「まだ発表はされていませんが、
ボリビアにメソポタミアよりも古い文明があるかも、
ということで調査が進められています」
見終わって外に出る。
教会は丘の上にあって、下の方は色とりどりの花が植えられた庭園となっている。
高台からはクスコの街並みが見渡せる。
すがすがしい天気。見るもの全てが壮観。
「これが世界遺産の街並みか・・・」と感心する。
向こうに見える山の中腹は文字が描かれていた。
「VIVA EL PERU」(ペルー万歳)
そのまま外の壁沿いの小道を進んでいく。
サクサイワマン遺跡までの地下通路の入口がある。
迷路になっていて、全長はかなりの距離になる。
かつてペルーの学生が3人この迷路に挑んでみたことがあって、
中は完全に真っ暗、途中川が流れていたり、
という中を手探りで進んで生還できたのは2人。
何年か前にペルーのテレビ局が撮影機材を持ち込んで潜入を試みたが、
1キロ進んだところで断念したという。
エルドラド(黄金郷)はこの通路の果てにあるのではないかとMさんが言うのであるが・・・
教会の外に出る。アンデスの物売りの娘たちが寄ってくる。
子供を2人抱えた人形が5ドル。
目の部分が糸でバッテンにしただけの粗雑なつくり。
観光地だからだろうか、電池やメモリーカードを売っている人もいた。
ホテルの外でバスに乗り込むときに見かけたセーター売りのおじさんが
ここまで歩いてきたのだろう、また見かけて僕らにセーター買わないかと広げて見せる。
外の階段に座っていると隣に座っていた男性が「アミーゴ」と話しかけてくる。
現地のガイドだろうか。物売りではない。
「日本人か?」「どこから来たのか?東京?」などと英語で聞かれる。
アンデスの衣装を着た小さな子供が小さなアルパカを連れて
写真撮影の声がかかるのを待っている。
[2340] ツアーでペルー その17(4月23日) 2007-05-08 (Tue)1階に下りて、集合時間待ち。インターネットのできる PC が3台置いてあって、
1ドルで利用可というのでフロントで払って使わせてもらう。
と言っても何をするわけでもない。
yahoo のアドレスでメールをチェックして、mixiを見るぐらい。
スペイン語のキーボードが打ちにくくててこずる。
「:」と「@」の打ち方が分からず・・・
あれこれ試してようやく見つける。
ブラウザは日本語対応していたが、さすがにキーボードは日本語が打てず。
yahoo のニュースを見ると、エリツィン元大統領が死去、とあった。
リマ、クスコ、プーノとインターネットの看板をあちこちで見かけた。
メキシコやモロッコ、ドバイを訪れたときも、そうだったことを思い出す。
自分で PC を持つことがまだ多くの人にとっての憧れであるような国では
こういう商売が繁盛する。
恐らく、「先進」国から中古で流れ流れてきた PC なのではないかと思われる。
バスに乗って観光開始。
今回クスコでチャーターされたバスはとても小さくて30人でいっぱいいっぱい。
一人旅の人たちも隣り合わせて誰かと座らないといけない。
クスコの街並み。
建物のくすんだ白い壁や茶色いひなびた屋根に
長年の歴史の重みが滲みこんでいるかのよう。
そこはかとない静けさを感じる。
そういうのもあって、治安が良さそうな印象を受けた。
日本人と思われる旅行者が1人か2人で街を散策しているのを何度か見かけた。
中心部に位置するアルマス広場へ。
リマにも同じ名前の広場があって、同じく中心部にあったことを思い出す。
ペルー、もしくは南米の諸都市において
中心部の広場はみな「アルマス広場」なのかもしれない。
なお、アルマスとは「武器」を意味する。
そして広場にはこれまた同じくカテドラル(大聖堂)が面している。
1550年から建築が始まって、完成はその100年後。
南米一大きなカテドラルであるという。
キリスト復活祭のときなど、その鐘はひとたび鳴らせば40km先まで聞こえる。
他に近くの有名な修道院としては
サンタ・カタリナ修道院、メルセー修道院、ラ・カンパーニア修道院がある。
(今回はそこまで行かず)
バスから降りて広場を歩く。
四方をカテドラルと低い家並みに囲まれた長方形の庭園。
クスコの町の人や旅行者がのんびりと歩き回っている。
低い街並み。8階以上高さの建物は建ててはならないことになっている。
また、屋根は瓦であることも義務付けられている。
遠く向こうの山の上のほうは貧民街となっている。
アンテナが林立しているのが見える。
そのまま石畳の狭い道を進んでいく。
高い壁に囲まれてまるで迷路のよう。
壁は様々な形・大きさの灰色の石を隙間なく積み重ねることで構成されている。
石と石の間は剃刀の刃一枚ですら入らないという精度。
開いているドアの向こうはどれも観光客相手の店。
お土産屋だったり、小さな食堂だったり。
店の1つからはヒップホップが流れ、その隣の店からはインド音楽が聞こえてくる。
有名な十二角の石の前まで来る。
ガイドのMさんが「触ってはいけない」と注意する。
十二角の石というのは要するに角が12個ある石のこと。
これが他の周りの石とぴったりくっつきあって
強固な壁となっているのだからたいしたもんである。
この12という数字は
インカ帝国の伝説上も含めて12人の皇帝を表すという説と
1年の各月を表すという説がある。
僕としてはそのとき石切り場にあったのが
ただ単にそういう石だったんじゃないの?としか思えないのだが・・・
石の横にはアンデスの戦士の格好をした男が立っている。
写真を取ろうとしたら1ドルか。
石の壁ばかりが全てではなく、白い泥(いわゆるアドビ)で覆われた壁もある。
基礎の部分が石作りで、上の方がアドビとなっている建物が多い。
もろそうで、手で触れたらボロボロと崩れ落ちそうだ。
そこから少し路地裏を歩く。
ガイドのMさんが立ち止まると、目の前の灰色の石を指差す。
ピューマを表す石の連なり。頭と、胴体と。
インカの人々はこの世界を3つに分けて考えた。
天上と地上と地下。もしくは、未来、現在、過去。
そしてそのそれぞれの象徴がコンドル、ピューマ、蛇となる。
これら3つの生き物たちはインカの人たちにとって聖なるものだったわけである。
この近くにクスケーニャの工場があるとMさんが言う。
観光を主な収入源とするクスコでは唯一と言っていい産業。
2年前、南北アメリカビールコンテストで1位になったそうだ。
また別な建物の前へ。
絡み合う2匹の蛇が魔よけとして描かれているレリーフが
白い家の壁に埋め込まれている。
歩くうちに、同じ石畳であってもおしゃれな雰囲気をまとった店ばかりの一角に出る。
土産物屋ばかりではなくなり、アクセサリーや服も高級になる。
その中の1つで見かけた青いセーターが僕は欲しくなる。
青の濃淡のバリエーションをボーダーでデザインしたもの。
壁にかけられたガラスのケースの中に飾られていた。
店に入りたくなるが、観光でゾロゾロと歩いている途中。
1人だけ消えるわけにもいかない。泣く泣く諦める。
[2339] ツアーでペルー その16(4月23日) 2007-05-07 (Mon)クスコに近づく。
上空から眺めると、黄色い屋根の素朴な家が連なっているのが見えた。
非常に小さな空港。
アンデス音楽を演奏するグループがさっそく熱演して旅行者をお出迎え。
外に出ると抜けるような青空にモクモクと輪郭のはっきりした白い雲。
リマの空とは大違い。昨日は雨が降ったと聞く。
標高は3310m。富士山よりはまだ低い。
頭は痛くないが、息苦しさは感じる。喉が締め付けられるような。酸欠状態。
クスコの空港は午前中のフライトがメイン。
午後は天候が悪くなることが多いため、本数が減る。
操縦士も経験を積んだ人でないと難しいと聞く。
空港を出てバスまで歩いていると
ペルー人のカメラマンが僕らの写真を1人ずつパシャパシャと撮る。
いったいなんなのだろう?と思う。
クスコのガイドのMさんが登場。
クスコに住んで6年半になるという日本人。
高地で過ごすコツとして、以下初心者たちに伝授する。
・水分を多く取ること。
・腹式呼吸をすること。
・病は気から。
その他注意事項。
・日中日が出ているとそれなりに暑いが、日が暮れたとたん一気に寒くなる。
・紙はトイレに流さないとこ。
ある種のウェルカムドリンクってことなのか、
バスの中でプラスチックの容器に入ったコカ茶が配られる。
ちょっとだけだったのですぐ飲み終わる。
味はこれと言って特徴はなし。
もちろんコカ茶を飲んで気持ちよくなったり、その逆にダウナーになったりはしない。
高地地方の人たちが日々普通に飲んでいる。
バスが走り始める。
リマから比べるとクスコの街並みはほんと、慎ましい。日本の田舎町のよう。
一言で言うと、「素朴」
ガイドのMさん曰く、クスコは今それでも建築ラッシュであるとのこと。
ホテルに到着する。
噴水のある小さな広場の向かい。
リマのシェラトンから比べると大きな違い。急にグレードが下がる。
僕はこれまでどちらかというと
このホテルみたいなところに泊まることが多かったのでむしろ親しみが湧いたが、
人によってはがっかりしたかもしれない。
ホテルのレストランの中へ。
僕よりちょっと若いぐらいのカップルの座っていたテーブルに同席する。
ここでもまたコカ茶のサービス。
カップルの女性の方がコカ茶を飲んで言う。
「あまちゃづる茶に味が似ていますよね」
パスポートをいったん預けて、宿泊シートに記入する。
隣のテーブルに座っていたおばさんが
「見て!」と日本から持ってきたせんべいの袋を差し出す。
気圧が下がってパンパンに膨れ上がっている。
見たら僕の鞄の中のウェットティッシュの袋も同じことになっていた。
これを見て初めて、「はーすごいところに来たもんだ」と実感した。
鍵が出てくるのを待つ。
本当ならばもっと早く部屋に入れたはずが、
この日は団体が3つも重なってホテル側がてんてこ舞いとなっている。
添乗員のKさんがガイドのMさんと現地手配のペルー人の男性に
「ちょっと、どうなってんのよ!?」と陰でこっそり詰め寄っている。
ペルー人の男性は「いやあどうにもこうにもうまくいかないもんで」
「ちょっとばかり遅れたって気にしなくてもいいじゃない」と言いたげに笑ってばかり。
良くも悪くもペルーの人たちのおおらかさを目の当たりにする。
3人で端の方のテーブルに座って作戦会議というかこの後のスケジュールの調整をする。
その間僕らが待っていると、レストランの反対側にどやどやと別の日本人団体が。
クラブツーリズム。また会いましたね・・・
元気な添乗員の方が大声でクスコの注意事項とこれからの日程を伝える。
これがまた僕らの日程と似たり寄ったりでぼけーっと聞いてると思わず
「あれ、明日の出発って7時だったっけ?」なんて勘違いしてしまう。
この添乗員の方ははっきりと
「コカ茶は高山病によいとされていますが嘘です!効果はありません!!」と一刀両断。
隣で聞いてた僕ら一行にどよめきが走る。
なんかもっとものの言いようがあるだろうに・・・、と僕は思う。
「アンデスの人たちが健康にいいとよく飲んでいるお茶です」
とかもっと当たり障りのないことでもいいじゃん。
明日24日の予定と、明後日25日の予定が明らかにされる。
朝食はともに4時半から、モーニングコールは5時半。
24日はマチュピチュの日。6時半にホテルを出発して7時には列車が出発。
ホテルに戻ってくるのは21時。
25日はチチカカ湖畔の町プーノへと向かう日。6時50分にホテル出発。
「今日具合がよくない人であっても、頑張ってマチュピチュへは行くようにしてください。
マチュピチュのほうがクスコよりも標高が低いので、楽になります」
え?と思う。
僕は知らなかった。マチュピチュってあの写真のイメージから
とんでもない高所にあるものだとばかり思っていた。天国に近いのかと。
違うんですね。もっとちゃんと「地球の歩き方」を読んでおけばよかった。
僕みたいに思っていた人は他にもいるようで・・・
マチュピチュの標高は2040m。
今の僕らからすれば、「なーんだ、かなり低いな」という高さ。
ようやく鍵を受け取って、部屋へ。
僕は6階。他の人は2階とか3階なのに。
どうも普段使ってない部屋が割り当てられたようだ。
6階は昔バーとして使われていた広いスペースがあって
窓が大きく、以外と見晴らしがいい。
このスペースの反対側は椅子が並べられ、レクチャー用のボードを取り囲んでいた。
なんかのツアーのときに説明用に利用されたのかもしれない。
エレベーターが来るのが遅く、しかもツアー全員が待ちになってしまったから
僕は乗るのを諦め、6階までスーツケースを運んで階段を上った。
激しい運動は禁じられているのに・・・
すぐにも息が上がって、軽く目が回った。
[2338] ツアーでペルー その15(4月23日) 2007-05-06 (Sun)目が覚める。
ものすごく眠ったような気がしたのに、時計を見たら23時半。驚く。
22時半に寝て、1時間しか経っていない。時差ぼけなのか、なんなのか。
また寝て起きたのが3時半。その次が4時45分。布団にもぐって目を閉じる。
5時15分に起きて、諦める。
外は濃霧。寒そうだ。
1階に下りて食事。
時間が早すぎたのかレストランには他の旅行会社の日本人グループばかり。
ポテト、ハム、ソーセージ、ヨーグルト、コーヒー2杯。
炭水化物を食べないダイエットのにわか実践として
ご飯もおかゆもパンも食べない。
部屋に戻ってスーツケースの整理。終わって部屋の外に出す。
アメリカに向けて出発するわけじゃないから、鍵をかけてバンドもしめる。
フロントでチェックアウト。冷蔵庫の中のものを使ったか聞かれてノーと答える。
ツアーのメンバーがラウンジに集まり始める。
椅子に座って待つ。「夜眠れますか?」「起きちゃいますよね」と話をする。
別の人と話す。「チェックアウトしたらお金取られましたか?」
いえ、と僕は答える。
「日本に電話したら35ドルもタックスを取られちゃいましたよ。高すぎませんか?」
そうだ、添乗員さんに相談しようと言い残して彼は消える。
その日の分のミネラルウォーターをもらってバスの中へ。
一昨日の夜もらった分が半分も飲んでなくて、
昨日もらった分の水は全然手付かず。飲んだらトイレに行きそうだと水を控えてる。
なのでもらってももらっても余る一方。
でも捨てるのもなんだなあと昨日の分はスーツケースの中に詰めてきた。
バスは空港へと向かう。
刑務所の前を通りかかる。
定員オーバーとなって久しく、簡単な刑ならば入れてくれないし
入れられてもすぐ出されてしまう。
野良犬に注意してください!とガイドのUさんが言う。
一度咬まれたら出国までに5回、狂犬病の注射を打たなくてはならない。
旧市街の入口に差し掛かる。
円を中心として放射状に通りが広がり、建物の色はどれも青。
この辺りは楽器の店が多く集まっている。
タマネギを山ほど積んだトラックが横を通り過ぎる。
空港近くのなんらかの施設の前に、ヘリコプターがオブジェとして飾られている。
その他、空港までの間にガイドのUさんがペルーについて語ったこと。
最後の方は思いつくままに、という感じだった。
・これから向かうクスコについて。
ケチュア語を話す人が大半。ケチュア語は昔から文字を持たない。
(文字が読めない・書けない人が国内に130万人いるとされる。教育が行き届いていない)
・クスコの人は温かいので、日本語でもいいから話しかけてあげると喜ばれる。
・会社から制服が支給されている場合、会社に着いてから着替えるのではなく、
家から制服を着て会社に出かけるという人が多い。
・アルパカの最高級品種は「ピクーニャ」と呼ばれる。
生まれたときの最初の毛を使って編んだセーターは
アレルギーのある人でも着ることができて、チクチクしない。
・アンデスといえばコンドルというイメージがあるが、クスコにいるわけではない。
いるとしたらペルー第2の都市アレキパの山奥。それでもめったに見られない。
イカの飛行場の動物園に「ぺぺ」という名のコンドルがいる。
・日本語に聞こえるスペイン語として有名なもの。
−ニンニク(アホの意味)
−ウシ(バカの意味)
空港到着。一昨日リマに到着した時の空港と一緒。
「Aeropuerto Internacional Jorge Chavez」
そういえば、今年に入ってから買った CD の中に「Chavez」ってバンドのがあったな。
Chavez って人の名前だったのか。
調べてみる。ホルヘ・チャヴェスはペルー人の両親を持つ20世紀初めの飛行士。
1910年にスイスのブリーグからアルプスを越えて
イタリア、ミラノへの冒険飛行を行うが、墜落してその4日後に死亡。
最期の言葉は「Higher. Always higher」(より高く。常により高く)
リンドバーグがニューヨーク・パリ間を飛んだのが1927年。
当時どれだけの冒険だったことか。
首都の国際空港に付けられるにふさわしい名前だと思う。
ペルーの空港は人の名前が付けられている。
フリアカの空港は「Aeropuerto Internacional Manco Kapac」
初代の、伝説上のインカ皇帝ですね。
クスコの空港は「Aeropuerto Internacional Alejandro Velasco Astete」
Alejandro Velasco Astete は1925年に世界で初めて、アンデスを飛行機で飛んでいる。
空港に限らず、南米ならばいろんな施設に対して人の名前が付けられているはず。
クスコ行きの国内線はいくつかの航空会社から30分に1本の割合で出ている。
僕らは今回「Star Peru」という会社を利用した。
添乗員のKさんが人数分の空港使用料など払っている間、待ち時間ができて店を見て回る。
コーヒー豆のブランド「ブリッツ」(britt)のお土産屋がきれいでしゃれたので入ってみる。
日本でも買えるのかな。
http://www.cafebritt.com/index.cfm
コーヒー豆はインスタントじゃなかったので、ちょっとめんどうだろうとパス。
チョコレートをたくさん買い込む。4コ買ったら1コただ。
CDも売ってて、2枚買ったら1枚ただ。
フォークロアのコンピと「Afro Peruvian Music Classic」と書いてある2枚組コンピと
なんかよくわからないけど「Afro Novalima」というファンキーなジャケットのやつ。
あと、CafeBrittのショッピングバッグがかっこよかったのでそれも買う。
合計73.9ドル。結構な出費となったけど、まあいいか。
ショッピングバッグは「これ絶対東京でも使える」と思って購入。
ことあるごとにツアーの人から「かっこいい」「かわいい」と言われ続けた自慢の逸品。
チョコレートもおいしそう。
リマのガイドのUさんとはここでお別れ。
クスコではまた別のガイドが付くことになる。
搭乗ゲートに行ってみたら搭乗開始は20分遅れ。
さらに他の店も覗いてみる。
ペルーのものとは思えないけど、南米っぽいタバコを見つけて買う。
「Hamilton」というやつ。1カートン11ドルで2つ。
ラッキーストライクは1カートン15ドルだったかな。
つまり、安くてたぶんおいしくない。
クスコまでの飛行機の座席はシャッフルされることになる。
2人で来てる人たちの席をなるべく隣接させようということで。
添乗員のKさんが搭乗券の右側の方にシャッフル後の席番号を記入。
僕が受け取った搭乗券も席が変わっていた。
いざ搭乗となったときに予想外の事態。
この右側の方が切り取られて回収されてしまう。
大混乱発生。席番号を覚えている人、覚えていない人。
まあそれもなんとかなって飛行機は無事離陸。
横6席のうち、僕は左側の通路側となる。
隣には白人旅行者の老夫婦。僕が席に座るとき、たがいにニコッと笑い合う。
リマからクスコまでは1時間ちょっと。
羽田−青森間と同じぐらいか。
そう思うと自分の中で大体の距離感がわかる。
機内食が出てくる。チキンサンドとバームクーヘンみたいな見た目のケーキ。
どちらもパサパサしている。
飲み物はと聞かれて、インカ・コーラ。
遂にこの国民的清涼飲料水にチャレンジ。
甘い。でも、それほどでもない。
子供用のシロップを薄くして炭酸を入れたような感じ。
「ラム・パンチ」を読んで過ごす。
[2337] ツアーでペルー その14(4月22日) 2007-05-05 (Sat)午前中早めに出発したせいか、予定されていた市内観光が早めに終わる。
余った時間は「お土産を買える場所に案内しましょうか」ってことで
ミラフローレスの中心的な通りの1つ、ラルコ通りへと向かう。
「日曜なので閉まってる店が多いですが」
という前提で土産物屋の集まる一角でバスが停まる。
土産物屋が2つと、小さなカフェが開いていた。
その1つでは健康食品や化粧品が充実していて、
(アンデスの塩、マカ、カムカムなど)
女性たちが値段を聞いたり値切ったりで大盛り上がり。
まるでマンガに出てくるバーゲン会場のよう。
レジ前の熱気がものすごかった。
もう1つの店はリマの若いデザイナーの手による服や民芸品がメイン。
額代わりの箱の中にフォークロアな絵が飾られているのが気に入ったんだけど、
それなりに値段が張るし、壊れやすそうで
日本に持って帰るのがめんどうそうだったのでやめておく。
結局どちらの店でも何も買わず。写真を撮って過ごす。
もう一軒行きましょうってことで今度は近くのスーパーマーケット。
こちらは僕も買うものがたくさんある。
会社用のお土産を今のうち買っておかなきゃ、と。
かなり大きなスーパーマーケット。ばかでかいスーパーって万国共通なんですね。
お土産用のチョコならば「テカーナ」と「ブリッツ」がよいですよ、
とガイドのUさんが言ってたので探してみるのだが、どちらも見つからず。
(ちなみに、ペルーはお菓子は期待できませんとガイドのUさんがキッパリ断言)
「インカ・チョコ」という非常にベタなチョコレートを買う。
味の良し悪しなんてどうでもよくて、いかにもペルーな見た目の方がいい。
あと、マンサニージャのTパックの箱をいくつかと、ピスコを一瓶。
250mlのミニボトルがオマケにくっついているものを。
大きな瓶は日本に持って帰って、250mlの方は部屋でチビチビ飲もうかと考える。
お酒売り場をウロウロしていたら売り場の女の子から話しかけられ、
スペイン語だったのでよく分からないでいると
片言の英語に変わって、「ワインを試飲してみませんか?」ということだった。
僕がピスコの瓶を持っていると、じゃあピスコの方でってことになる。
小さなプラスチックのコップにほんの少し注がれたのを飲んでみる。
とても強い。胃の奥がキューッとなる。味は強いて言えばウォッカに似ている。
ありがとうと言って、僕はそのピスコを買うことにする。
買い物に当たっての注意事項:
「おつりのドルは破れたのを渡してくるかもしれないので注意してください。
逆に破れたドルで支払おうとするとレジの人は受け取ってくれないです。
また、ニセ札が多く出回っているため、
紙幣を渡したときはじっくり眺められます。
これは日本人を疑っているのではなくて、あくまで普通のことです。
コロンビアからニセ札が流れ込んできています。
100ドル札ではCBで始まってB2で終わる番号のものは受け取ってもらえません」
ピスコ一瓶、チョコレート4個、マンサニージャのお茶6個で計37ドル。
今日の予定終了。ホテルへと戻る。
ラウンジで明日の予定の説明がある。
5時45分モーニングコール、6時半までに荷出し、
7時出発でそれまでに各自チェックアウト。9時15分のフライトでクスコへ。
夕食はホテルのレストランでビュッフェ、19時から22時までの間で好きなときに。
荷出しとはポーターが運べるようにスーツケースを部屋の外に置いておくこと。
それまで一人旅ばかりでツアー初めての僕からすれば耳慣れない言葉。
ツアーってそんなことをしてくれるのか!?と驚く。
これから先、国内線の空港使用料を支払う局面が何度か出てくる。
これを添乗員のKさんがまとめて支払うため、お金を預かることになる。合計46ドル。
部屋に戻って荷物を置いて、またすぐ1階のレストランに下りていく。
ツアーの人たちが固まって、夕食。
ビュッフェの内容は特に書くまでもなく、朝の内容と特に変わらず。
野菜が増えたぐらいか。
テーブルにはロウソクが灯っている。
昨日のチェックインのときに部屋の鍵と一緒にもらった
ウェルカム・ドリンクのチケットを使う。ピスコ・サワーを頼む。
サワーと言ってもアルコールは強くて、小さなグラス一杯で十分。
材料はピスコ、炭酸、卵白、シナモンなど。
テーブルで隣の席に座ったおばさんと話す。
住んでいる場所や職業から始まって、どのように成田まで来たかといったこと。
直行便がペルーまで無いから大変だということ。
これまでにどんなところを旅したか。
ごく一般的な当たり障りのない内容。
最初のうち、ひどくぎこちない。僕の方が。
ツアーで出会った人と打ち解けて話をするってのはとても難しい。
なんなくできる人も世の中には多いんだろうけど、
人見知りな僕にはまだまだハードルが高い。
部屋に戻って20時過ぎ。
NHK をつけると料理番組。日本の放送が入る。
君島十和子が巻き髪で得意料理を披露する。消す。
することもなく、「ラム・パンチ」を読む。
どことなく疲れている。
浴槽にお湯を張って入る。
この日はシャワーでお湯が溢れることはなく、うまくいく。
ほんとなら、誰かを誘って飲みに行きたいところではあるが
夜の外出はやんわりと禁じられてるし、
それ以前に誘えるほど仲のいい人がいるわけでもない。
たまらなく寂しい気持ちになる。
買ってきたピスコをホテルのグラスに注いで1人で飲む。
寝たのは22時半。
[2336] ツアーでペルー その13(4月22日) 2007-05-04 (Fri)バスによる観光、再開。
旧サンマルコス大学。南米最古の大学。今後博物館となるようだ。
ペルーの国旗の話。
絵柄の入ったものと入ってないものとがある。
祝日に国旗を掲げないと罰金を取られる。
そのためどの家にも国旗があるのだが、
絵柄の入ってない方が安いのでみなそちらを持っている。
絵柄にはリャマ、キナという植物、ヤギの角からお金がこぼれる様子が描かれている。
ペルーとは資源の豊かな国であるという意味。
地の部分、真ん中が白くて両端が赤いのはなぜかというと
(朝、広場で像を見た)サンマルティン将軍が広場の中で昼寝しているときに夢の中で見た
翼が赤く胸の部分が白い鳥、フラミンゴを表す。
ニセモノ市が立つ一角に差し掛かる。
ナイキやアディダスのバッタもんや海賊盤のDVDが売られている。300円で4枚買える。
値段の高さもあって、一般市民が正規盤のDVDを買うことはない。
街を走る中古車のほとんどが日本製。
フジモリ大統領時代に大量に輸入した。
とんでもなく古い車がガタガタ言いながら走っている。
車検制度がなく、排ガス規制もないため、気管支炎で死ぬ子供が多い。
しかし規制されることはない。
地方から出てきてリマに住み着いた人たちは職もなく、
その多くが無許可の白タクで食いつないでいる。
よって下手に規制できない。
規制を行おうものなら大統領が突き上げを食って失職しかねない。
白タクはとにかく危険で、ピストル強盗に会うこともあり。
乗ったら運転手が強盗を働くこともあれば、
乗客が運転手にピストルを向けることもある。
車上泥棒の類は日常茶飯事。
ガラスを割って、パーツを盗む。
もちろん正規のタクシーも街を走っている。
無線タクシー、ラジオタクシーという一段上のタクシーもある。
安全であるが、料金はその分倍となる。
バスはどこまで乗っても1ソル。
停留所じゃなくても、どこでも乗り降り可。
割と自由。その分運転手も気楽なもんで、その日の気分でルートを変えることもあり。
リマは列車も地下鉄も無いから、バスかタクシーが主要な交通手段となる。
相乗りタクシーも盛んに走っている。
「日ピ会館」の前を通り過ぎる。日系人の寄り合い所。
NHK喉自慢の会場となったり、習字や手芸を習うことができる。
サン・イシドロ地区という最高級の区域へ。
オフィス街。高級なブティックが集まる。
高級住宅地でもある。スーパーに新鮮な市場。生活には困らない。
富裕層の家はどこも敷地が広く、
家によっては塀の上が鉄格子で覆われ、高圧電流が流れ、監視カメラが設置されている。
1996年のペルー日本大使公邸占拠事件の舞台となった公邸跡地を見物。
フジモリ大統領とテロリストとの事実上最後の争いの場となる。
今は更地になっていて、「VENDE」の看板を出して買い手を求めているけど、
この物件、ちょっとやそっとのことじゃ買い手は出てこないだろうな。
ペルーではその後テロは発生していない。
「9.11」の後、アメリカ大使館の前で故意と思われる自動車事故があったぐらい。
しかしアマゾンのジャングルではテロリストのグループがまだ潜伏しているらしい。
次に新しい日本大使館へ。
鉄格子は2重に。なんだかものすごくものものしくてよそよそしい。
無言の威圧感を感じる。まるで刑務所のよう。当然のごとく24時間警備。
大使公邸占拠事件のときに隣家から穴を掘って潜入されたことから、
今の大使館は隣の区画まで購入している。
こういう住宅地では家を手放したり、住み替えたりすることも多く、
多くの場合不動産屋は介さず、家の前に「VENDE」と看板を出し、
自ら新聞に広告を出して売ったり貸したりの交渉をする。
バスはしばらく走って、ミラフローレス地区へ。
新市街の中でも最も洗練された区域。
海沿いにおしゃれなマンションが立ち並ぶ。
その向かい側、道路を隔てて公園が続く。
「マリア・ライへ公園」に差し掛かる。
ナスカの地上絵の保存と調査に生涯を捧げた女性の研究家から名前がつけられた。
ハチドリの図柄など地上絵をモチーフにしたデザインで花が植えられている。
続いて向かったのは「恋人たちの公園」
寝そべって抱き合う男女の姿のとても大きな像が中央にででーんと鎮座している。
その名の通り恋人たちが集まって2人だけの甘い時間を過ごしている。
ペルーの習慣として花嫁が思い出の場所で写真を撮るというものがあり、
この「恋人たちの公園」にて衣装を身に纏った花嫁を見かけることが多いようだが、
残念ながら今日は新郎新婦の姿はない。
僕らはバスから降りてここで時間を過ごす。
見上げるとパラグライダーが空に浮かんで、ゆっくりと飛行している。
向こうの丘には飛び立とうとしているのか、それとも着陸した後なのか、
大きく翼を広げたパラグライダーがいくつか地面の上で待機していた。
この海岸はサーフィンもできるとガイドのUさんが言っていた。
練習用にいい波が押し寄せる。
しかし水は決してきれいではない。
下水道が整備されていないので、そのまま海に垂れ流されてしまうのだ。
公園は崖の上にあって、切り立った斜面の真下に太平洋。
海の向こうは日本か・・・
と思いながら眺める。
瀟洒なマンションは1ケ月500から2000ドル。
プチ・リゾートのよう。
こういうところでマンションを1ケ月借りてのんびり暮らしてみたいもんだ。
夢のまた夢。
犬を連れて歩く人も多い。
「ペルー犬がいますよ」とガイドのUさんが指差す。
見ると、毛がなくて黒い犬。体温が高い。
[2335] ツアーでペルー その12(4月22日) 2007-05-03 (Thu)バスに戻って、昼食のレストランへと向かう。
ガイドのUさんのペルー案内が続く。
まずは飲み物の話。
ペルーで有名なビールは3種類。
・クスケーニャ
・クリスタル
・ピルセン
このうち、クスケーニャとピルセンは飲む機会があった。
クスケーニャは飲みやすくておいしく、ツアーの間こればかり飲んでいた。
ピルセンは薄味なのにどことなくクセがあって今ひとつ。
クリスタルは残念ながら飲む機会がなかった。
「ピスコ」ブドウの蒸留酒。アルコールの度数は40度以上と高い。
ワインを飲むことがスペイン人に禁止されて、その代わりに作り始めたのだとか。
砂漠の都市イカでブドウが取れる。
ピスコサワーというカクテルにして飲むのが一般的。
「インカ・コーラ」ペルーを代表する清涼飲料水。黄色いコーラ。
マンサニージャという薬草の成分が入っているため、黄色くなる。
アメリカでも売られていて、日本でも探せばあるかも。
近年、会社をコカ・コーラが買収。
英語のスペルは「Cola」じゃなくて「Kola」だったりする。
このマンサニージャというのはカモミールと同じなのかな。
ハーブとかお茶とか詳しくないのでよくわからないんだけど。
ペルーの人はこのマンサニージャのお茶をよく飲む。
腹の調子の悪いときに効果があるようで、とても甘い。
同じように薬草のお茶としてキャッツ・クローがある。こっちの方が有名?
あと、コカ茶。その名の通り、コカインのお茶。
高地地方にて一般的。高山病に効果ありとされる。
もちろん日本には持って帰れない。例えお茶という形であっても。
このコカ茶はクスコやプーノにいる間に何度も飲んだ。
健康食品として最近人気なのが、キヌアとカムカム。
キヌアって日本でも時々名前を聞くけど、これってアンデス原産なんですね。
カムカムは知らなかった。ペルーのアマゾン地方の果物。
ビタミンCが豊富で、日本の会社がサプリメント化に成功、輸入を行っている。
その他お土産として日本人に人気があるのは
インカ・ローズ(パワー・ストーン)と水晶。
バスはアルマス広場の近くまで戻ってくる。
パレードの先頭が到着して、大統領府の前は通行止め。
ムラヤ公園に到着する。昨年できたばかりの新しい公園。
中のレストランで食事。
スペイン語のポップミュージックが流れる。
外に出ると店は行列ができていた。今、リマで人気の店なんだろうな。
食事そのものはツアーの代金に含まれているが、飲み物は別。(その後ずっとそうだった)
ビールを頼む。クスケーニャ。2ドル。
確かに飲みやすいが、・・・ぬるい。全然冷やしてない。
ペルーにはビールを冷やす習慣ってないのか!?
とんでもない国に来てしまったもんだ・・・
ものすごく驚く。
だけど、その後どこで飲んでもちゃんと冷えていたので、
どうもこの店だけだったということを知る。
クスケーニャは在庫が切れて途中からピルセンだけになったし、
もしかしたら暑い日だったので
その日のあまりのビールの売れ行きにより
仕入れたばかりで冷やしてないのをそのまま出したのかもしれない。
テーブルの上のグラスにはアペタイザーとして
乾燥したトウモロコシとバナナチップ。
チチャモラーダという紫トウモロコシのジュースが出てくる。
ツアー全員で「体験」ってことになっている。
飲んでみる。
甘くてまったりしていて、ほんのりとどこかでとうもろこしの風味。
話の種として、強く記憶に残るものでもないな・・・
この日の料理はセビッチェとペルー風パエリヤ。
セビッチェはペルーを代表する料理。
イカやホタテ、白身の魚(ヒラメ、タイ、スズキ)に軽く塩コショウをして
しぼったレモンをかけたもの。
これがたまらなくうまい。単純なのがいいんだよね。
リマは海辺の町だから魚介類が新鮮。
僕らが食べたのは白身の魚のセビッチェ。
赤ピーマンのような唐辛子とオレンジ色のさつま芋、ふかしたトウモロコシが付け合せ。
あービールがキンキンに冷えていたら・・・
それでもないよりはあったほうがうまい。2本目はピルセン。
パエリヤはイカ、ホタテ、アワビ。こちらもおいしかった。
デザートはプリン、あとコーヒー。
バスに乗るまで時間あり。公園をブラブラする。
日差しがものすごく強く日陰を求めるようにして歩く。
だけど吹き付ける風は冷たい。心地よい。
遠くにサンクリストバルの丘が見える。
公園内はレールが敷設されていて、子供用の列車がゆっくりと通り抜けていった。
[2334] ツアーでペルー その11(4月22日) 2007-05-02 (Wed)黄金博物館へ。
非常に裕福な実業家ミゲル・ムヒカ・ガーヨ氏の
個人的なコレクションがそのまま博物館となっている。
地下がプレ・インカ時代からの、黄金を使った装飾品の展示、
1階が世界各地古今東西の武器の展示。
地下もさることながら1階もまた
銃に鎧に勲章に鞍に刀に砲台のミニチュア、ヘルメットに斧に拍車。
展示物が溢れんばかり。
武器にこれといって興味はないけれど、
僕にとしてはこっちの方により強いインパクトを感じた。
これだけのものを集めることのできた
ミゲル・ムヒカ・ガーヨ氏は何を手がけていたのだろう?
地下の黄金のフロアへ。
紀元前3000年〜2000年の土器からプレインカ時代(5世紀頃のナスカ文明など)、
15・16世紀のインカ時代まで時代に関係なく、
陶器ならば陶器、銀器ならば銀器とカテゴリーごとに展示されている。
なのでスペイン人の十字架のアクセサリーなんての無造作に紛れ込んでいる。
ガイドのUさんは年代ごとの展示の方がいいのにと嘆いていた。
歴史を学ぶには確かにそっちの方がいいだろう。
地下に下りて最初にまず目に止まるのは頭のミイラ。
頭にかぶった王冠には金・銀の飾りはなく、鳥の羽で覆われている。
ナスカ時代のもの。この当時の人々にとって金や銀に対する興味はなく、
鳥の羽の方が神聖とされていたため。
当時、戦いに負けた側は打ち首にされた。
切られた頭は目・鼻・耳・口を塞がれる。死後、神と会話をさせないため。
これらの首は腰にぶら下げられ、戦士の一族にて代々受け継がれていく。
その隣のケースにあったのが頭蓋骨の手術後。
この地域に高度な文明があったことの証拠として有名。
脳外科としての治療ではないようだけど。
頭蓋骨に開けられた穴は身分の高い人は金で塞がれ、
身分の低い人は南瓜の皮が使われたとのこと。
(ここで失笑が巻き起こる)
染物。様々な色が使用されている。
赤は虫をつぶして取られた染料。
銀器や磁器の部屋へ。
インカ文明はなぜか金・銀・銅はあっても鉄はなかった。
そのためこの博物館には鉄器の展示がない。
鉄がないというのは文明として不思議なもんであって、
だからインカには車輪が発明されなかったのだと言う人もいる。
足の形をした銀製のカップが飾られている。
足は豊作祈願を表すのだそうだ。
右から注ぐとゴボゴボと音をたて、
左から注ぐと音がしないという仕掛けを施したカップなんてのもあった。
もちろん展示物なので試すことはできないけど。
動物の形をした磁器がたくさんある。
プレインカ、インカの人たちは文字を持っていなかった。
よって磁器の形を動物の形にするなどして、彼らの生活がどんなものであったのか残した。
リャマやアルパカなど。
例えば豚はスペイン人が持ち込んだものなので、彼らが題材とすることはなかった。
ミイラの部屋へ。
ガラスのケースの中に収められたミイラが何体も飾られている。
みな膝を折り畳んでいる。
これは胎児の姿を意識したもの。
また生まれ変われるように、という願いが込められている。
身分の高い人はきれいな色の布で覆われている。
当時の人が利用したカツラも展示されていた。
ミイラは今でも遺跡の中で見つかることが多く、盗掘されることもしばしば。
道端でミイラの布が売られていたりすることもあって、
レプリカならばよしとされている中で、レプリカなのか本物なのかわからない。
いちいち作るのではなく手っ取り早く盗品を、ということか。
壁一面に広がったケースに、
3m×3mの大きさの黄金の壁掛けのようなものが広げられている。
次の部屋は様々な器具・装飾品のあれこれ。
中心には身分の高い人の座った輿。手の込んだ装飾がなされている。
楽器のコーナー。
先が尖っていて、長いものは2mにもなる。節くれだっている。
杖かと思ったら笛だった。そういうのが何本も。
などなど。後は1階の武器のあれこれを見た。
(ここは写真撮影が厳禁なので記憶を元に書くしかなく、なかなかつらい)
外に出て、いくつかある土産物屋を覗く。
小奇麗なカフェみたいな店もあって、外国人旅行者の団体がくつろいでいた。
絵葉書を14枚買った。
リマやクスコ、マチュピチュ、チチカカ湖の風景、
ナスカの地上絵、コンドルやアルパカの写真。
最初の店では7枚買って2ドル、次の店では7枚買って7ソル。(だいたい1ドル=3ソル)
巨大な一物を誇るインカ時代の陶器の人形の写真をモチーフにした絵葉書がたくさんあった。
ジョークだと思ってみんな買っていくんだろうな。
その後ペルーの各地でこの手の絵葉書を嫌となるほど見かけた。
ミイラの絵葉書なんてのあった。
ツアーで居合わせた人と「これ突然届いたら怖いですね」って話をする。
ペルーのお土産としてはアルパカのセーターやマフラー、
インカ・コーラのTシャツ、ケーナやアンデスチックな皿、タペストリーやポンチョ、
工芸品・アクセサリーの類がポピュラーか。
僕が欲しくなったのは毛糸の帽子。アンデスな模様。
耳当ての部分が長く伸びていて、細くなった先に房がくっついている。
お土産屋ならばどこに行っても売られている。
ペルーにいる間これかぶっていようかなあ、と思うが
さんざん迷った挙句買わないことに。
この後ずっと迷ってやめての繰り返し。
前に書いたカウボーイハットと一緒で、日本でかぶる機会がないってことで。
この帽子、モロッコ旅行に行ったとき、カサブランカのハッサン2世モスクにて
白人の若いバックパッカーがかぶっていて「いいなあ」と思ったので記憶に残っていた。
アンデス地方のものだったのか。
彼は恐らくペルーを訪れたことがあって、その後モロッコまで旅を進めていったのだろう。
添乗員のKさんとガイドのUさんがお土産の話をする。
日本人しか買わないというものも結構あるようで、
ピンクソルトやマカがその代表。
[2333] ツアーでペルー その10(4月22日) 2007-05-01 (Tue)バスは郊外に向かって走る。
左手にサンクリストバルの丘。てっぺんに十字架が建っている。
斜面が無数の家というか家未満の雑多な建築物でびっしりと覆われている。
ペルーの各地から、特にアマゾン地方から
仕事を求めてきた人たちが空いている土地を不法占拠して勝手に家を作る。
最初はワラで、お金が貯まるとレンガで。
やがて家々が寄り集まって集落として形成されていくようになる。
そうすると国に集落の承認を求め、水や電気を引いてもらう。町が出来上がる。
メキシコシティ郊外にもこういう山があったなあ。全く一緒。
すぐ目の前の家をよく見ると屋上から鉄骨がむき出し。屋根はない。
これは家族が増えて増築するときを見越して、そのままとしているもの。
屋上にはアンテナが立てられ、紐が吊るされて洗濯ものが干されている。
これらの「家」は隣家とつながりあっていて、横に長くブロックのように連なっている。
山の中腹に文字が描かれている。
「SORIA」「UNFU」何を意味しているのかよくわからなかったけど、
企業や政治家のCM/PRであるらしい。
フジモリ大統領の話になる。
(日本人観光客相手に日本人ガイドが話しているせいか、非常に好意的な内容となる)
側近の不正により失脚したものの
依然として元大統領を支持する人の数は多く、田舎だと特にそう。
1990年から2000年までの10年間の間の業績として、
・リマ市内からのテロの排除
・田舎に電気をもたらす
・パンアメリカン高速道路の敷設
・小学校を田舎に建設(実に3800校に上る)
2006年の大統領選挙に出馬しようとしたものの、国内に戻れば逮捕される身となる。
現在はチリにて身柄を拘束されている。
テロとの争いにおいて無実とされる人々も多く犠牲となったことが原因となり、
ペルーでは殺人罪に問われている。
現在の大統領はアラン・ガルシア。
フジモリ大統領の前任であるが、インフレを加速させ、
テロリストのグループも活動が活発になったなど当時の評判はよくない。
しかし2006年の選挙で「過ちを繰り返さない」として返り咲く。
そこから話は日系人のことに。
さくら丸に乗った700名が1889年にペルー到着、
契約移民としてサトウキビ農園で働くことになった。
当初契約していたよりも過酷な労働が彼らを待ち受けていたが、
日本人本来の勤勉な性質により耐え忍ぶ。
やがて彼らは独立を果たす。彼らの多くがクリーニング屋を始める。
(「さゆり」「よしえ」といった名前のクリーニング屋が今でもあるとのこと)
その他彼らの始めた商売としては電気屋などがある。
今は彼らの子孫は5世、6世となり、日本語が話せない人も多い。
彼ら/彼女たちは18歳になるとペルーか日本か国籍を選ぶことができるが、
ほとんどが日本国籍を選ぶ。
(広島の小学生の女の子を殺害したヤギ容疑者を僕は思い出す。
でも今調べてみたら彼は「偽装」日系人らしかった。
日本で出稼ぎしやすいように、彼らは偽名を名乗る。
ペルーの日系人7万人のうち、2万人が偽装と推定されるとのこと)
バスは新市街へ。
スラム化する旧市街を逃れて、富裕層が移り住んだ地域。
道路には椰子の木が植えられ、家は一戸建てとなる。
きれいな建物ばかり。
そのうちのいくつかは会員制のクラブ。プールやゴルフが利用できる。
ペルーは10%の富裕層が富のほとんどを握っている。
バスは競馬場の側を通り過ぎる。
国立の小学校ではたいした教育を受けることができない。
授業は10時から12時まで。夏休みは3ヶ月、冬1ケ月。
賃金待遇の余りの劣悪さに教師はよくストライキを行う。
月間の給与が日本円にして1万5000円に過ぎない。最下層の職業のうちの1つ。
(ペルーでの最低所得水準は1ケ月100ドルから200ドル)
その一方で私立の小学校は
最上級のアメリカンスクールともなると1ヵ月の授業料が800ドルとなる。
日本人の多くが新市街に住んでいて、日本人学校では日本と同じ教育を受けることができる。
しかしフジモリ大統領の時代が終わってからはペルーを去った日本企業も多く、
日本人学校の生徒は今、一学年4・5人ということもある。
アメリカ大使館の前を通りかかる。
今手元に写真がないので描写が難しいんだけど、
まあなんというかモダンかつ不思議な建物。
天候の話となる。
リマは年間を通して雨が降らない。
太平洋に近い地域は日が出るのも短く、霧が多い。
ペルーの沖合いで寒流と暖流が混じり合うのであるが
その分上昇気流が発生せず雨を降らす雲が発達しない。
これが車で30分も走ると、日照時間が長くなり、湿気が減る。
それがどの辺りかというと、新市街の方。
なので裕福な人たちは新市街を好んで住むようになる。
「ペルーの沖合いで寒流と暖流が混じり合う」ため、ここは豊かな漁場となる。
今でこそ中国に抜かれたが、ペルーはかつて世界一の漁業国だった。
日本のマグロ漁船がペルー沖合いまで漁に来る。
[2332] ツアーでペルー その9(4月22日) 2007-04-30 (Mon)ホテルに戻ると、バスが既に到着していて「準備のできてる方から乗ってください」と。
50人ぐらい乗れそうな大型のバス。僕は2人掛けの席に1人で座る。
カップル、夫婦、友人同士2人で来てる人たちは隣り合って座る。
観光が始まってガイドのUさんがあれこれマイクで語るのを聞いて何か思うところがあると、
2人で来てる人たちは2人の世界に入って感想を言い合う。
窓の外を指差して覗き込んだり。
1人で座ってるとそれがない。ガイドを聞いて、1人であれこれ考えるだけ。
バスはすこしばかり走ってまずはサン・マルティン広場へ。
馬に乗ったサン・マルティン将軍の像が真ん中に建っている。
メキシコもそうだったけど、
ペルーもまたちょっとした広場や公園には必ず何かを記念する彫像が置かれている。
中南米というかスペイン語圏はたいがいそうなのではないだろうか。
広場の周囲にジャカランダの木が植えられている。
南アフリカで有名であるが、原産はペルーとなる。
ここは車窓観光。
ガイドのUさん曰く。
「この一帯は以前もっと汚れていたのですが、
5・6年前より観光に力を入れるようになったため、とてもきれいになりました」
「リマのこの地域は世界遺産に登録された街並みであるがゆえに
街の景観を損ねることは許されず、
企業が看板を出していてもロゴは黒で統一されています」
広場の周りにはケンタッキー・フライドチキンやピザ・ハット、
「BCP」というペルーでよく見かける銀行の看板などが、よーく見れば見つかる。
でもそれが全部真っ黒。
ケンタッキーの「KFC」の看板が墨で塗りつぶされたかのようになっている。
リマの観光名物の1つ。
ただし「KFC」については昨年、黒地に金で文字を描いてもよいと昇格扱いされた。
だからと言って金ピカになったわけではなく、あくまで光沢のない地味な金色。
次にバスは旧市街中心部のマヨール広場(アルマス広場)へ。
インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロが1535年、
首都を築いた際に中心地として作られた広場。
すぐ目の前にカテドラル(大聖堂)が建っている。
同じく1535年、ピサロ自ら敷石を積み上げたとされる。
実は建てた当時は建物正面だけしかない張りぼてで、後々ちゃんと造られた。
3回の大地震で崩れ今は残念ながら下部しか残っていない。
今あるのは全て修復によるもの。
ピサロの遺体が1970年ここに見つかる。頭と胴体が切り離されて埋められていた。
7年かけて綿密に調査を行い、本人と断定される。
カテドラルのバルコニーはペルー1の美しさと呼ばれる。
クリーム色のカテドラルに対して、バルコニーは黒。
壮麗な面持ち。
カテドラルの反時計回り90度のところにあるのが、大統領府。
フジモリ大統領もかつてここに住んでいた。
銀の間、ピサロの間などがある。
広場の中心にはシンボルとなる噴水。
1560年に作られたオリジナルのまま残っている。
写真を撮るためにしばし自由時間となる。
今日の祭りではパレードの終点がこことなるため、
大統領府の高い柵に面して記念式典用の謁見席が設営されている。
通りを隔てて反対側にはステージ。
係員の人たちが祭りのパンフレットを配っている。
よく晴れて日差しが強く、カテドラル前の階段に一列になって座っている市民たちは
祭りが始まるのを待っているのだろう、
みなこのパンフレットを頭の上に掲げて日陰を作っている。
パンフレットは表側がペルー各地の民族のお祭りを写した写真のコラージュで
裏側は恐らく各地のお祭りの日程をリストにしたもの。
全てスペイン語で書かれているため、なんとなくしかわからないんだけど、
「PASACALLE NACIONAL CELEBRA PERU 22 DE ABRIL 2007」と書いてあるのが名前で、
趣旨としては国のお祭りのためのお祭りってとこか。
普通の警察とは別に、ペルーには観光ポリスという役割の人たちがいる。
観光ポリスであることを示す文字が大きく書かれたライフジャケットを着て、
アルマス広場といった観光名所に配置されて警備に当たる。
ちょっとした観光案内もしてくれるようだ。
観光に特化していて、普通の警察官とは完全に棲み分けがなされている。
住宅地で泥棒!と叫ばれても観光ポリスは我関せずだろうし、
修道院はどこですかと警察官に聞いても答えてはくれない。
カテドラルの中に入る。信者でなくても、観光客であっても入れる。
ちょうど日曜のミサの時間。
聖歌が歌われ、歌い終わると説教が始まった。
広場から5分ほど歩いて鉱山鉄道の駅に到着する。
4800mという世界で最も高いところを走る鉄道のうちの1つ。
ただし、観光用ではないため走るのは月に1度。
この辺りはリマ市外の中心部なのだろう。多くの店が軒を連ねる。
コンクリートの灰色、赤レンガ色、黄色の街並み。
さらに5分歩く。
カテドラルと並んで有名なサン・フランシスコ修道院へ。
南米で最も美しいとされる木彫りのファサード、
15のチャペルやカタコンベ(地下の大きな墓地)で有名。
疫病による遺体を地面に埋めて2ヶ月経過し、骨だけの状態となったものを安置する。
修道院と教会とが並んでいて、どっちがどっちだったのかよく覚えていないんだけど、
教会の方なのかな、現在修復中で利用されていない。
中をちらっと見たら廃墟のようだった。
修復のための資金が思うように集まらないと聞いたように思う。
修道院の方は健在でカテドラル同様、ミサが行われていた。
壁のあちこちにキリストや聖母マリアの像が奉られている。
時間がなくてカタコンベの中に入ることはできず。
無数のハトが頭上を飛んでいて、
何を合図とするのか突然飛び立ったり屋根に止まったり。
小さな広場の片隅では露店が出ていて、
色とりどりのロウソクやキリストの像が売られていた。
靴磨きが客を待っている。
待っていたバスに乗り込む。
道端に座り込んでいた物売りや子供たちがバスの存在に気付いて
手にしていたものを売りつけようとする。
ふと見かけた老婆は立ち上がるだけの力がなく、
その手をただただ弱々しく上に差し上げるだけ。
手の平の上にはトイレットペーパー。
盲目のようで、よく見るとそのまぶたの奥がペタリとへこんでいる。
両目とも眼球を失っていた。
[2331] ツアーでペルー その8(4月22日) 2007-04-29 (Sun)5時に目を覚ます。
ひっきりなしに車の音が聞こえる。
昨日の夜からずっと鳴り止むことはなかったのだろう。
寒いと思って起き上がる。
クローゼットを開けて棚の上の方に毛布を見つけて、ベッドに運ぶ。
羽織ってもう一度眠る。
それからどれぐらい時間が経過しただろうか。
・・・全然経過してなくて6時過ぎ。
もう一度目を覚ます。今度はちゃんと起きようと思う。そんなに眠くない。
窓の外のリマ市街は濃霧に包まれている。どこもかしこも灰色。
1階に下りてレストランで朝食。ビュッフェ形式。
ハムやソーセージのバリエーションとスクランブルエッグ、果物をいくつか。
あと、牛乳。食べたのはそんなところか。
どのメニューも英語、スペイン語、日本語など各国の言葉で書かれている。
時々首をひねりたくなるものもある。
飲むヨーグルトが「食事療法用のヨーグルト」となっていた。
日本人向けに味噌汁とごはん、おかゆが用意されているが、
まだ僕としては日本食は恋しくない。
同じツアーのおばさんと少し話をする。
向こうから話しかけてきてくれた。「あなたどこから来たの?」など。
他のテーブルには他の旅行会社の日本人団体が固まっている。
どうもクラブツーリズムのようだ。
クラブツーリズムの団体とはその後コトあるごとに顔を合わせることになる。
日本に帰ってきて調べたら日程がほぼ同じ内容だった。
同じ現地旅行会社を使ってるのかな。
リマの空港に到着して次の日飛行機でクスコに行って
さらに次の日そこから列車でマチュピチュ往復、
毎回飛行機だと芸がないし次の日はバスでプーノに向かって
一泊してチチカカ湖、飛行機で戻ってきてバスに乗ってイカへ。次の日ナスカの地上絵。
目的地と移動手段を組み合わせると
どこの旅行会社もどうしても似たり寄ったりになってしまうのだろう。
食べているとホテルのおじいさんが片言の日本語で話しかけてくる。
「センセイ」「センセイ」とそれが日本を代表する敬語であるかのように。
あなたたちのグループは9時にモーニングコールということになっているが、
本当によろしいのか?と丁寧に質問がなされた。
僕を含めて何人か6時半という時間に起きて食事を取っているので
スケジュールがどうなっているのか不安に思ったのだろう。
日本語で返答すると、全然伝わらない。
ホテルやレストランでのみ通用する片言の日本語しか解さないのだろう。
英語に切り替えてお互い話始めるが、今度は僕の方が
ホテルやレストランでのみ通用する片言の英語しか話せない。
たぶん伝わっただろうな、とお互い諦めたところでおじいさんは僕のテーブルを去った。
部屋に戻って、することもなく、ヘミングウェイの短編集の続きを読む。
時間を忘れて読むふけるうちに、いつのまにか読み終える。次は何を読むべきか?
エルモア・レナードの「ラム・パンチ」にする。
奇しくもどちらも訳者は高見浩だったりする。
高校生の頃だろうか、この人の訳した
ピート・ハミルの「ニューヨーク・スケッチブック」という本があった。
当時あちこちの書評で好意的に取り上げられていたと思う。
それで僕も興味を持って手に取った。今でもよく覚えている。
8時になるのを待って、地下のアーケードの土産物屋へ。
絵葉書を4枚、イラストによるペルーの地図、「ペルー発見」という日本語の書籍、
この3つとついでに日本までの切手を買って36ドル。切手は2ドル。
買おうとしたら財布の中のお金が足りなくて、いったん部屋に戻る。
もう一度下りて支払いをする。
「ペルー発見」というのは、海外旅行好きの人ならばどこかで見かけたことのある、
たぶんどこの国に行っても見つかる、
カラーの写真入りのその国のガイドブックをいろんな国の言葉で訳したもの。
いつもはこういうの買わないんだけど、なぜか今回欲しくなった。
カラー写真が多いからだと思う。
部屋に戻って母に絵葉書を書く。毎回恒例の行事。
母はお土産は要らないから、絵葉書を送ってほしいと言う。
切手を貼って1階のフロントまで持っていく。
どこにポストがあるか聞こうとしたらすぐ目の前に専用の箱があった。
ようやく9時。さすがに本ばかり読んでるのもなんだな、と思い始める。
「くれぐれも外に出ないように」と釘を刺されているが、
もぞもぞと一人旅好きの血が騒ぐ。外に出てブラブラ歩きたくなる。
地球の歩き方の地図を見たら泊まってるシェラトンのすぐ隣って
イタリアン・アート美術館となっている。いいね。
でも説明を読んだら日曜休館。ちょうど今日。がっくし。
さらにその隣がリマ公園で、中にリマ国立美術館ってのがある。
リマ国立美術館の開館は午前10時で、
ツアーの市内観光の集合が10時半だとするとほとんど何も見ることはできない。
それでもまあ行ってみようかとスニーカーを履く。
(ホテルの前に建つものすごく威厳ある建物が昨晩からとても気になっていて、
このとき合わせて地球の歩き方の地図を参照したら、最高裁判所だということがわかった)
ホテルの外に出て、テクテクと歩き出す。
公園まではわずか1ブロック。これならば危険もあるまい。
信号が赤になったり青になって、立ち止まったり、周りの人と一緒に歩き出したり。
公園は黒い柵が高く張り巡らされていて、入口が分からない。
ところどころ真っ黒なジープが停まっていて、
その周りを警察官たちが何も言わず暇そうに立っていた。
南北に端から端まで歩いてみても入口が見つからず。
なのに中を一般市民が歩いているのが見える。
どこかにあるに違いない。
時計を見てもまだ15分。こりゃかなり時間がある。
引き返して東西の通りを歩いてみることにする。
白いシャツを着て正装姿のブラスバンドのメンバーが集まって
ばらばらに音を出して楽器の練習をしている。
バスを待つ人々。小型のバスが次々に通りがかる。
車掌に当たる立場の人なのだろうか、男女様々だったが、
ドアから半分身を乗り出して大声で行き先か何かを告げている。
やがて入口が見つかる。
誰でも出入り自由らしい。入場無料。僕も中に入っていく。
1人警官か将校らしき雰囲気の人物が立っていて通りがかる市民たちを睨んでいる。
入ってすぐのところにベンチが並んでいて、そのそれぞれに恋人たち。
朝っぱらからヒシと抱き合って愛の言葉を囁いている。
公園の中へ。中心部の噴水目指して歩く。
多くの市民とすれ違う。友人同士のグループ、恋人たち、子供連れの家族。
危険なところは何もない。あからさまな興味と共にこちらを眺めることもない。
のどかな時間が流れている。
噴水の写真を撮ると引き返して公園の外に出た。
公園内のリマ国立美術館は単なる美術館ではなくて
子供向けの絵画教室などアカデミックな催しが多いと
後ほどガイドのUさんの説明にあった。
ホテルに戻ろうとして道路を渡ると、目の前に停まったバスから
揃いの赤や青のアンデスの民族衣装をまとった女性たちが下りてきた。
ホテルと最高裁判所の間の公園には様々な衣装に身を包んだグループが既に集まっている。
アンデスっぽいのもあれば、アフリカっぽいのや、チロルっぽいのもあり。
世界各地のいろんな民族のごった煮のよう。
もしかしてこれ全部ペルーの北から南まで集まった姿だったりするのかもしれない。
これからパレードが始まって、
サン・マルティン広場を抜けて旧市街の中心部であるアルマス広場に結集する。
肩慣らしなのかデモンストレーションなのか、
それぞれのグループがそれぞれの音楽を演奏しながら、輪になって踊りを披露している。
軍隊風の白い制服に身を包んだブラスバンドが太鼓を叩き、チューバやホルンを吹き鳴らす。
ミス・リマ的立場と思われる女性がミニスカート姿でニコニコ笑っている。
広告なのか祭りでアピールしたい物事なのかわからないが、
きれいな横断幕を広げて四方を押さえる人々がいる。
赤に緑に白に黄色。派手な色のリラグロッケンみたいなのを掲げているグループ。
行列の先頭にいたモンゴル風グループの周辺が盛り上がっているので近寄ってみると
肩の上に人が乗ってさらにその肩に人が乗って、
最上段に立った子供が最後に空中を一回転したところだった。
これら各グループの間を歩き回って、観光客たちが写真を撮る。
人によっては彼ら/彼女たちに声をかけ、集合写真を撮ったり、
輪の中に入って一緒に並んで記念写真を撮ってもらったりしている。
端のほうで賑やかな音楽が聞こえてそちらまで歩いていく。
二重三重に人々が織り成す輪の中で、年老いた男女が踊っていた。
男が求愛して、女がうわべだけの拒絶を行う。ストーリーが素人の僕にも分かる。
踊り終わって2人は盛大な拍手を受ける。
[2330] ツアーでペルー その7(4月21日) 2007-04-28 (Sat)バスがシェラトン・ホテルに到着する。
なかなか大きい。さすがAクラスの高級ホテル。
入ってすぐのラウンジにて添乗員のKさんが手続きを行う。
パスポートはホテルに預ける。
手続きの間、時間ができる。
すぐ近くのラウンジでは、周りを白人の旅行者たちに囲まれて、
白い髭を生やした小太りの老人がピアノを弾き始めた。
ストーンズの「She's a rainbow」
美しいメロディを軽やかに弾きこなす。
終わって、拍手が巻き起こる。
さらにもう1曲クラシックの何かを弾いて、退場する。
流しのピアニストだろうか?と思う。
リマ市内で最も大きいとされるカジノは改装中ということで営業していなかった。
ペルーではカジノはごくごく一般的に店を構えている庶民の娯楽なのだという。
1階のバーからは騒々しい音楽が聞こえてきて、
見るとローマ字で「KARAOKE」と書かれている。
広告のカードが差し挟んであったラックには
地下のアーケードにあるアルパカの店の紹介をするカードが何種類かあって、
そのうちの1つが日本語だった。
英語やスペイン語以外の言葉、
ドイツ語やフランス語、中国語や韓国語のがなかったので
日本人は大のお得意様だということなのだろう。
チェックインの手続きが終わって、Kさんがそれぞれ鍵を配る。
配られた宿泊シートに各自サインをする。
次の日の予定が告げられる。
モーニングコールは9時。
朝食は6時から10時半まで1階のレストランで。
翌朝の観光は10時半出発。このラウンジに集合。
(次の日の予定がその日の夜ホテルに着いて発表、というのが儀式のように毎日行われた)
明日22日は急にリマ市街でお祭りが開かれることになって、
メインの通りでパレードが行われ、
ペルーのあちこちから集まった人々が踊りを披露することになっている。
そのため午前中の予定を早めて、
パレードの始まる前から市内観光を始めた方がいいだろうということに決まる。
本来午前中は長旅の疲れもあることだしと、もっと遅めに時間が設定されていた。
解散となる。このツアーでは1日1人1本ペットボトルで
ミネラルウォーターが支給されることになっていて、
この日の分を受け取るとエレベーターに乗ってそれぞれの階へ。
スーツケースはポーターが各階の入口まで運んでくれる。
エレベーターに乗ろうとしたら、白人男性の一団が降りてきて、
遅れて数人、ビデオカメラを回しながら着いてきた。
ペルーでは有名なロックバンド?
黒の革ジャンにTシャツ。ヘビメタっぽい。
胸には「El Tri」と書かれていた。恐らくこれがグループの名前なのだろう。
みな40代か50代超えていて、超ベテランバンドの風格。
先ほど「She's a rainbow」を弾いたおじいさんはこのグループのメンバーらしく、
一緒になって肩を組んで、ラウンジでの写真撮影に臨んでいた。
僕も紛れ込んで写真を撮った。
(日本に帰ってきてから HMV のサイトで検索したら CD が何枚かヒットした。
海外の Wikipedia を参照すると
60年代末結成のメキシコシティ出身のブルース/ハードロックバンドとあった。
メキシコのロックバンドで初めて、80年代にゴールドディスクを獲得)
11階で下りる。20階近くあるホテルの中は完全に吹き抜け。
はるか下の階もはるか上の階も見渡せる。これはすごい、と驚く。不思議な眺め。
スーツケースを自分の部屋まで運ぶ。
中に入って一息つく。
本来はツインの部屋を1人で泊まっているのだろう。
・・・無駄に広い。落ち着かない。
外に出られたので、リマ市外の夜景を写真に撮る。
浴槽にお湯を満たして寝そべって横になる。
その後シャワーを流しっぱなしにして体を洗っていたら
シャワーカーテンがしっかり閉じてなくて
バスルームの床いっぱいにお湯が流れて大変なことになった。
あやうくドアの向こうまで溢れるところだった。
なーんかいつも失敗する。
ベッドに寝そべって外の物音に耳を傾ける。
午前1時を過ぎているというのに、
バイクが派手に走り回る音やパトカーのサイレンの音が聞こえる。
[2329] ツアーでペルー その6(4月21日) 2007-04-27 (Fri)入国審査の記憶なし。
飛行機の中で出入国カードと関税申告書を書いたのは覚えてんだけど。
メモにも何も残っていない。
22時半。
気がつくと薄暗くて素朴な雰囲気の
Baggage Claim にてスーツケースが出てくるのを待っている。
果たして成田で積んだ自分のスーツケースが出てくるのだろうか・・・
いつもこのときは緊張する。
ターンテーブルを回る様々な形・大きさ、様々な色・素材のスーツケース。
あるいはそれに類する用途のために利用された容器、鞄。
強化プラスチックの小型コンテナにキャスターをつけたようなのとか。
日本では絶対お目にかかれない。
世の中にはいろいろなスーツケースがあるものだと感心させられる。
スーツケースが見つかって、ゴロゴロ転がしながら歩く。
税関に行く前に両替。100ドルを交換して312ソルとなる。
(ほんとはこんなに替える必要はなかった。10ドル分もあれば今回の旅は十分だった)
税関へ。メキシコ同様、ボタンを押して信号機で緑が出た人はノーチェック、
赤が出た人は検査へ。
他の人たちはことごとく緑だったのに、案の定、僕は赤が出た。メキシコの時と全く同じ。
X線は通さなかったものの、鞄とスーツケースは開けて中を探られた。
特に目につくものはなしってことですぐにも終わり。
税関のエリアを通過して、到着口へ。
柵の向こうに押し寄せる大勢の人々。メキシコのときと同じ。
出迎えだったり客引きだったり。もしかしたら一晩でも平気でいるのかもしれない。
手に持ってるのはホテルの名前や個人の名前を書いた札。
赤いバラを一輪抱えている人もいた。恋人を待っていたのだろうか。
この辺りから人によってはしっかりと観光モード。
これら大勢のペルー人がいる前で
堂々とポーズを決めて写真を撮り合う夫婦(カップル?)が現われる。
添乗員のKさんが成田−ヒューストン−リマの航空券を回収していたので渡す。
これが全員分揃ったら、成田から全員リマまで来たことの証しとなるのだそうだ。
ここから現地旅行会社の日本人ガイドのUさんが同行。
空港から外に出る。駐車場へ。ポーターが全員分のスーツケースをバスの中に運ぶ。
僕らも乗り込む。23時を過ぎている。
添乗員のKさんが改めて自己紹介、そしてガイドのUさんも
ペルー人と結婚してリマで暮らし始めて10年になると自己紹介をする。
リマやクスコに長年住む日本人の多くがガイドを職業としてるんだろうな。
観光ガイドと移動手段の手配を HIS が全てをまかなうのではなく、
主体となるのはあくまで現地の旅行会社。そういうものなのか・・・
添乗員はあくまで現地までの案内と全体的な行程管理。まさにコンダクター。
そりゃそうだよな。添乗員がガイドも努めて
ホテルやバスの運転手との交渉もその場で全てやってたら体がいくつあっても足りない。
そういう実質的なあれこれ細かいことを現地の旅行会社に任せないことには先に進まない。
だったら、その国に来るまでは僕でもできるから、
着いたらその国の日本系旅行会社の用意しているツアーに参加ってのが
安上がりで効率的ではないか。なーんて僕は考えた。次はそういうのでもいいかも。
2年前メキシコ行ったときがそんな感じあったけど。
窓の外を流れるリマの街並みを眺める。
「旧市街」と称される地区。
四角い箱を縦に横に積み重ねたような家が密集している。
通りはがらんとしているのに、殺気のようなものがうっすらと漂っている。
薄汚れた格好をした若者がブラブラと歩いたり、街角に佇んでいる。
年老いた女性が人目を避けるように小走りに路地裏へと消えていく。
「すさんでいる」という印象を受ける。
箱の1つは中でチカチカと光が瞬いて音楽が大きな音で鳴らされている。
クラブかディスコみたいなものか。
旧市街にはコロニアル様式の教会が30個あったが、
不法移住者が破壊してしまったという。
バスに乗っている間、ガイドのUさんがあれこれ解説を始める。
以下、メモしていたこと。
「リマの町の交通事情はいいかげんです。
道路工事がいきなり始まって迂回しなくてはならなくなったり、
お祭りがいきなり始まって迂回だったり。
交通ルールはあってないようなもの、歩行者優先ではないです。
車が故障したらそれっきり置き去りにされます。
飛行機だって遅れます。1時間2時間の遅れはよくあることで、
私の知っている限り最長9時間の遅れってのがありました」
「生水は飲まないこと。外で売ってるものは食べたり飲んだりしないこと。
10年住んでいる私ですら、今でも時々食べて腹を壊します。
当たったときは日本の薬、正露丸なんかはあまり効かないです。
現地の薬のほうがいいです。
逆に、高山病のときは現地の薬を飲まないほうがいいです。
成分が強すぎるため日本人に合わないからです」
「リマは一般的にドルが通じます。
ですが、クスコ・マチュピチュはドルじゃなくてソルでないと
買い物できないということもあるでしょう。
ソルはSの字に斜めの線、ドルはSの字に縦の線と紛らわしいです。
なのでソルで売ってるように見せかけて、
いざ支払いとなったときにドルで求められるといったようなサギ行為が
観光客相手になされることもあります」
「リマは首都として様々な産業が集中していますが、
クスコは観光だけを収入としている町です。
観光客相手に物を売るときは高くふっかけてくることもあります。
クスコの露店で買い物をするときは、交渉して買うようにしましょう。
まけてもらうとき、スペイン語では”ディスクエント”と言います。
英語の”ディスカウント”のことですね。もっとは”マス”です」
「おみやげとして好まれるのはなんと言ってもアルパカですね。
アルパカのセーターは日本の半分の値段で買えます。
あちこちで売っていて、ホテルや空港で買えるものは本物ですが、
街中で売っているものの中には10%しか入っていないものや
まったく入っていないものもアルパカの名前で売られていることもあります。
あと、シルバーや手工芸の製品も人気です」
「南米で最もおいしいのはペルーだと言われています」
(これって、どの国に行ってもその国のガイドが言うことだと思う)
「リマの町は旧市街と新市街に分かれています。
旧市街は今バスで走っていますが、見ての通り治安がよくないです。
週末ということもあって、この辺りの通りは
ゴミも片付けられることのないままばら撒かれています。
皆さんの泊まるホテルは旧市街の入口にあります。
夜はホテルの外から絶対出ないようにしてください。早朝もよくないでしょう。
貧しい子供たちが現われて、集団で取り囲んで強盗を働くこともあります。
”ピラニア”と呼ばれています。
リマは貧富の差が大変激しいです。日雇い労働者が大勢います。
彼らは、週末、スラム街から繁華街へと繰り出します」
「ペルーの土地の構成は
60% ジャングル
30% 高地
10% 砂漠 となります。リマは砂漠を切り開いてつくった町です。
人口の構成は
45% 混血(スペイン・インカ系)
40% インカ系
10% 白人(富裕層)
1% アジア人
ペルーはブラジルに次いで、日本人の人口が多いです」
「”チーノ”は本来中国人のことですが、アジア人を指して使うことも多いです。
フジモリ大統領は自ら”チーノ”と名乗って人気がありました」
[2328] ツアーでペルー その5(4月21日) 2007-04-26 (Thu)現地時間の14時頃、ヒューストンの空港に到着する。
見回すとコンチネンタルの飛行機ばかり。空港内の掲示も全てコンチネンタルに関して。
国際空港のはずなのに。
Wikipedia で今調べてみたら確かにコンチネンタルのハブ空港であって、
正式名称は「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」
あのジョージ・ブッシュの名前がついている。父親の方です。
僕らの乗り降りしたターミナルの「E」ってのがコンチネンタル専用だった。
入国審査は航空券を見せて「ペルーに乗り継ぎ」と言うとあっさり終わり。
ツアーのメンバーは Baggage Claim にて再集合。
広いフロアにターンテーブルがたくさん並んでいる。
基調となる色は白。壁にはカラフルな現代アートが飾られている。
ターンテーブルの、あれは何て言うのだろうか?ベルトコンベアで囲まれた真ん中の空間。
そこもまた真っ白で、これまた真っ白のスーツケースが
いくつもいくつもオブジェとして規則正しく並べられている。
それが時間と共に黄緑だったりオレンジに発色する。色の組み合わせが妙に apple っぽい。
この空間は apple の製品デザイナーが関わったのではないか?なんて思う。
入国手続きが一通り終わったばかりだというのに、すぐにもまた出国手続きへ。
リマへのフライトは15時50分。2時間もない。
ちょっと前に書いた厳しいセキュリティ・チェックというか
液体チェックをここで受けるわけです。
ベルトを外し、靴も脱ぐ、
身に着けているものに金属が少しでも残っているとアウトというのは相変わらず。
年々厳しくなって言って、来年や再来年はどうなっているものやら。
男女別室になって裸になるんじゃないかと思う。
ケツの穴に指突っ込まれて。刑務所と一緒。
とんでもないところに武器を隠し持ったテロリスト、きっと出てくるよ。
ここを潜り抜けるとあとは出発を待つばかり。
少しばかり時間があって、店を見て回る。
「rent」ってのがあった。全米チェーンなんだろうな。CD / DVD のレンタル。
店のモットーは「rent here, return anywhere」
レンタカーの乗り捨てみたいなものか。同じところに返さなくていい。
空港にあるってことは飛行機に乗る前に借りて、
乗ってる間に聞いて、下りた場所で返すってことが可能。これは便利だ。
日本にもこういうのあるといいのに。TSUTAYA とか。
新宿でマニアックな洋画を借りて、見終わったら住んでる荻窪に返す。
でも、こういうのってマニアックな在庫のためにあるのではなく、
どこの店舗にも普遍的にあるべき新しい商品ばかりとすることでシステムとして成り立つわけで。
空港の中だから店舗のスペースは小さいし、
置いてるのは最近ヒットしてるアーティストの CD ばかりだった。
当然のごとく、テキサス土産の店ってのもある。
入ってみる。いろんな種類のカウボーイハットがあって、欲しくなる。
僕はもう、小さな頃からカウボーイハットに憧れていた。
でも買ったところで日本でかぶれるわけじゃなし、家の中で飾るだけ。
なのでずっと自制していた。
とはいえ、ペルー旅行の間かぶってるのもいいんじゃない?なんて思ったりする。
だけどヒューストン観光をしたわけではないんだし、
こんなことしたらただでさえ浮き気味なのがツアーの間さらに浮いちゃうだろうし、
そもそも帽子だけウェスタンであってもしょうがなくて
全身それなりに合わせないといけない。カーゴパンツにTシャツはさすがに違う。
やはり今回も諦める。
搭乗ゲートへ。
ツアーのメンバーが三々五々集まっている。
誰かが上下左右に何台も並んだモニター上に映し出された
Departure のリストを携帯やカメラで撮り出すと、他の人がそれに続く。みんな撮り始める。
暇そうに辺りを見渡すと、アメリカ人のティーンエイジャーが3人。
お手玉で器用にサッカーを。
リフティングして相手にボールをパス、踝で受け取る、というのを繰り返す。
その場にいた大勢の人が、たいしたもんだと見とれる。
大柄な白人男性が話しかけてパスポートがどうのこうのと言われるがよく分からず。
同じ飛行機で日本を出て、一緒のツアーではないのに
また同じくリマ行きに乗る日本人旅行者の姿をちらほらと見かける。
時間が来て、リマ行きの飛行機の中へ。
搭乗券とパスポートを見せて、
入国審査のときに貼り付けられた I94-W の切れ端を航空会社の職員に渡す。
機内にはマドンナの「Crazy For You」が流れていた。
その次はビーチ・ボーイズの「California Girls」
アメリカ人にとっての懐メロってとこか。
今度のは6人掛け。機体が小さくなり、それと共に座席も狭くなる。
その右端。無駄に窓際。
ヒューストンまで隣り合わせた若い夫婦とここでもまた隣り合わせる。
飛行時間は6時間半。
トイレに行こうとして席を立とうとすると2人に立ってもらわなくてはならず、
こりゃ迷惑だろうなあと我慢する。
機内食はビーフかチキンってことでチキンを。あと、水。
映画は「ナイト・ミュージアム」
これ、日本で予告編を見たときには子供向けでつまらなそうに思えたのに、
ところどころ見てるとなかなか面白そう。
寝て過ごす。たまに起きて本を読む。
ヘミングウェイの文章の素晴らしさにため息が出る。
こんな瑞々しく弾むような文章を書く人だったのか?印象ががらりと変わった。
中学生のとき、新潮文庫夏の百冊とかそんなので
「老人と海」を「薄かったから」というだけの理由で買って、
最初の数ページを読んで退屈だと放り投げた覚えがある。
たかだか14歳でヘミングウェイの味わい深さがわかるわけがない。
今ならはっきりとそう思う。
ストーンズのよさがあの頃全然ピンと来てなかったのと一緒。
着陸の時間が近づく。
突如、右目の痛み。・・・眼圧。
このところ起きてなかったから忘れていた。正に忘れた頃にやってくる。
今回のフライトでは気圧の調整ができてなかった。
飴を舐めるかガムを噛むかすればよかった。
昔は自分の中で飛行機乗るときの「義務」にしてたのに、
いつのまにかやめてしまっていた。
眼球を無数の針で刺すような痛み。堪えながら滑走路に降り立つのを待つ。
一瞬痛みが収まったので、窓のカバーを開けて外を眺める。
海の上を飛んでいる。そしてその向こう、オレンジ色の光が陸地を覆っている。
飛行機が到着して聞こえてきたのは、
ビートルズの「悲しみをぶっ飛ばせ」だった。
[2327] ツアーでペルー その4(4月21日) 2007-04-25 (Wed)機体はボーイング777で中は広い。エコノミー・クラスは横に9人掛け。
僕はこの真ん中、ABCで言ったらEの席となる。最悪。
こういうとき、同じ3人掛けのBよりもがっかりするのはなぜなのだろう。
窓から景色が見れないからか。
左隣に座った今風の若い夫婦はCとDという、通路を挟んでの隣り合わせという微妙な配置。
なお、この夫婦はヒューストン発リマ行きでも僕の隣に。同じツアーでした。
でも、「同じツアーの方ですか?」とお互い声を掛けるでもなく。
今思うと思い切ってそういう話を事前にしとけば
その後のツアーをより楽しく過ごせたと思う。
その後何度も考えたことだけど、
同じツアーに参加した人たちとの距離の取り方というのがなんだかとても難しい。
相手がカップルだったり夫婦(特に新婚)だったりすると特に。
2人の間に割って入っていいのかどうか。
そういうのって邪魔だったり野暮だったりしないか。
満席。びっしりと旅行者で埋まっている。
この中のいったい何人がペルーまで行くのだろうと思う。
スチュワーデスは日本人が少なく、アメリカ人のおばさんばかり。
離陸の前、後ろの方で大声で笑いながら雑談していた。
シートは1つ1つ、前の席の背に小さなモニターがついている。
コントローラで操作できる。プレステみたいなやつ。
これって3年前にモロッコ・ドバイに行ったときにもエミレーツ空港で見かけた。
このプレステ・リモコンは全世界共通なのか?
僕は読書に集中するためにモニターのスイッチを切る。
このスイッチの切り方、リモコンのしまい方がわからなくててこずる。
---
機内食のメニューが配られる。書き写す。
前菜サラダ
旬のミックスグリーンサラダをサウザンアイランドドレッシングと共に
アラスカ産スモークサーモンを添えて
ロールパンとバター
メインコース
Fillet of Beef
牛フィレ肉の海鮮醤ソース
卵炒飯、グリーンピースとにんじんを添えて
Steamed White Fish
白身魚の蒸しもの、照り焼きソースと共に
小海老、チンゲン菜、にんじんと野菜入りご飯を添えて
デザート
クッキー
☆☆☆☆☆
フライトの半ばで
軽いスナックを
☆☆☆☆☆
ご到着の前に
フルーツアペタイザー
ロールパンとバター、イチゴジャム
Beef Lasagne
ビーフラザーニャのトマトソースあえ
カリフラワーとにんじんを添えて
Omelette
プレーンオムレツにチーズを乗せて
ハッシュブラウンポテトとカナディアンベーコンを添えて
マリービスケット
こう書くと大変おいしそうなんだけど、出てくるものは普通に機内食。
もうこの年になると機内食で心ときめくこともなくなった。
行きのは日本から積み込んだからまだましだったけど、
帰りはアメリカで作られたものだったから完全アウト。
帰りの疲れてるときに食べるアメリカの機内食のなんとまずいことか・・・
割高になってもいいから、これからは海外へはJALで行こう、
直行便があったらそっちにしようと固く誓う。
最初にアペタイザーとしてピーナッツをもらう。飲み物は水。
ロアルド・ダールを読み終えて眠って、
起きたら「軽いスナック」の時間となっていて、チーズバーガー。
飲み物は相変わらず水でいいと
アメリカ人のスチュワーデスに向かって「Water」
発音は「ワラ」に近いぐらいで言ってみたら、渡されたのはコーラだった。がっくり。
ヘミングウェイの短編集を読み始める。
その中の1つ、最初の方に出てきた「ある訣別」はどこかで読んだことあるなあと気になるが、
それがいつどこだったのか全然思い出せない。ここ2・3年のはずなんだけど。
アメリカ文学のアンソロジーだったか。
機内の映画では「ハッピー・フィート」と「ホリデイ」をやっていた。
あと、007の最新作と思われるものも。
---
到着の1時間前にアメリカの出入国カード(I94-W)と関税申告書が配られ、記入する。
生年月日や署名する日は「21/04/07」のように2桁で「日/月/年」となる。
アメリカで日付といえばこういう書き方なのか。
ふと思う。コンピューターの世界では「YYYY/MM/DD」が普通。「年/月/日」の順。
年は4桁。(I94-Wの書式を表すと「DD/MM/YY」となる)
コンピューターに関するあらゆる物事の基準を決めたのはアメリカのはず。
なのになぜこのような差異が生まれてしまったのだろうか?
日本人としては別に困らないけど、アメリカ人にとっては不便ではないか?
使い分けが必要だったり。
到着前に機内誌をペラペラとめくっていたら
349ドルで2200枚収納可能なCDラックが売られていて、欲しくなった。
これが6・7台あったら、そしてそれを置く場所があったら、僕の人生は安泰である。
[2326] ツアーでペルー その3(4月21日) 2007-04-24 (Tue)解放された僕は1人、空港をブラブラする。14時半。
コンチネンタル航空 CO006 便の出発は15時55分。
時間があるようなないような。
まずは目についた本屋に入る。
新潮文庫から出ているヘミングウェイの短編集が目に留まって読みたくなる。
何年か前に出た短編の全集。全3冊。第1集と第3集とが棚に並んでて、
どうせならと有名な「キリマンジャロの雪」が入っている
第2集を買いたかったんだけど、間が抜けている。
他に本屋があったはずといったん外に出る。
TSUTAYA を見つける。昨年はあっただろうか?最近オープン?
ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」を探すが、見つからず。
島本理生の「リトル・バイ・リトル」と綿矢りさ「蹴りたい背中」が文庫になって、
目立つところに置かれていた。どちらも読みたいと思ってこれまで読まずにいたもの。
どうしようか迷ってどちらも買わず。
そのうち日本に帰ってから読もうと思う。
先ほどの本屋に戻ってヘミングウェイの第1集を買う。
「われらの時代・男だけの世界」
無性に読みたくなって、ロアルド・ダールの次に、と決める。
ヒューストンまでのフライトは約12時間。
機内食が出るのがいつなのかよくわからなかったので、
腹減るかもなと遅い昼食を取ることにする。
朝何も食べてなかったし。
いくつか店を覗いて、日本人旅行客ではなくスチュワーデスが多く入っていた店にする。
これは絶対当たりだろう。
中華。塩タンタンメンと麻婆丼のセット。
飛行機の中では飲めなくなるしとグラスで生ビールも追加。
(飲もうと思えば飲めたのだが、金まで払って飲めるか!というやさぐれた気分だった)
時間も余りなくなって、最後に昨年のオハイオ旅行の際に見つけた
5階の「バイプレーン」という飛行機グッズ専門店へ。
航空機の模型や航空関係の雑誌、
スチュワーデスになるための専門誌なんてのが売られている。
今回はこれと言って面白そうなものはなし。
去年はエアライン・デザイン・ブックなるものを買った。
あと、空港内にたくさんある、
薬局兼コンビニみたいな店でブラックブラックガムを買った。
以外と恋しくなるのはこれだろうと。
---
セキュリティ・チェック、出国審査。
機内持ち込みについてはペットボトルがNGというアバウトなものではなく、
今回決まりがもっと厳しくなっていたように思う。
100mlを超えるあらゆる液体物の持ち込みが禁止。
100ml以下の液体物についてはそれぞれジッパーのついたプラスチック袋に入れること。
参照。http://www.narita-airport.jp/jp/whats_new/070209.html
目薬や女性だったら化粧品も該当する。リップクリームにジャムも。
やっかいなもんだ。
専用の透明なプラスチックの袋が空港のあちこちで売られていた。
僕が鞄に持ってたものではウェットティッシュぐらいか。
これ、名前が液体物を喚起させるってだけで全然固形じゃん。って思ってもダメなものはダメ。
見つかったら没収でもいいやとカバンの中にそのままにして、結局何も言われることなく済んだ。
これは日本だったから神経質じゃなかっただけであって、
ヒューストンの空港ではもっと厳しいチェックになっていた。
この決まりを生み出す元になった国だから仕方ないか。
係員によっては石鹸ですら取り締まりの対象となると聞いた。
あちこちに係員が立っていてきびきびはっきりと規則を読み上げている。
セキュリティ・チェックへと進む人がプラスチックの袋を持ってなかったら
すぐ呼び止められて、例えば僕の場合
「あなたは本当に持っていないのか?」「アルコールや薬の類は?」と怖い口調で質問された。
---
搭乗ゲートへ。
携帯で母に電話する。今から行って来るよと。
母からは「元気で帰ってきて」ぐらいのことしか言われない。
すぐにも会話が終わってしまう。
何度も海外に出てるとそんなもんである。